日本学術会議哲学委員会主催の公開シンポジウム「原発災害をめぐる科学者の社会的責任-科学と科学を超えるもの-」 が18日、都内で開かれた。パネリストに原子力工学者の姿はない。原子力発電に批判的な発言が目立った。
開会のあいさつをした日本学術会議哲学委員会委員長の野家啓一・東北大学理事は、この日は特に原子力発電の是非に関する意見は述べなかったが、6月8日付の日本学術会議第1部ニューズレター巻頭言 で次のように書いている。
「そもそも原子力発電は、放射性廃棄物の処理方法さえ確立されていない不完全な技術である。しかも、いったん事故が起これば、今回のように大気、土壌、水、食料など人間の生存を支える基盤が汚染され、回復不可能な打撃を受ける。放射性物質は生態系の循環システムの外部にある異質の要素であり、自然界の同化吸収能力の範囲外にある。そう考えれば、人類は核エネルギーの技術とは共存できないのではないかとの思いを禁じえない。また、ウランの確認埋蔵量が約80年と見積もられており、放射性廃棄物の処理や廃炉に莫大(ばくだい)なコストがかかるのであれば、次世代に大きな負債を残す原発依存のエネルギー政策からの脱却は中長期的に見て必須であると思われる」
島薗進・東京大学大学院人文社会系研究科教授(日本学術会議会員)をはじめ複数のパネリストは、政府が、避難区域設定や食品中に含まれる放射性物質の暫定基準設定のよりどころとした国際放射線防護委員会(ICRP)の基準自体に疑問を持っているようだ。政府の食品安全委員会委員でもある唐木英明・元東京大学アイソトープ総合センター長(日本学術会議副会長)が「食品に含まれる放射性物質の暫定基準は国際的に合意されているICRPの基準に基づきさらに安全度を見込んで決めている」という説明に納得していなかった。確かに平常時と緊急時は違うといっても、年間の被ばく線量として1ミリシーベルト、20ミリシーベルト、100ミリシーベルトなどさまざまな数字が出てくるのは、一般の人間にとってはなおさら理解しにくいところだろう。
島薗 氏は、6月17日に金澤一郎日本学術会議会長談話として公表された「放射線防護の対策を正しく理解するために」という文書についても、6月22日付の自身のブログ「日本学術会議会長は放射線防護について何を説明したのか?」で批判している。政府が避難など放射線防護対策をとる際、ICRPの示した放射線被ばく線量に関する勧告を根拠としたことについて、日本学術会議会長が妥当だとしたことを問題視した。「科学者・学者による情報提供への国民の期待をひどく裏切るものである。日本学術会議の会員としてたいへん残念である。また、このような『談話』をとどめえなかったことに対して申し訳ない思いである。日本学術会議の歴史に残る恥ずかしい文書との思いを否定できない」。批判の言葉は厳しく、双方の考え方の違いは相当に大きい。
科学技術政策研究所が7月に実施した個別面接調査の結果、福島第一原子力発電所事故について科学者・学会などによる意見表明を聞いてみたいと考えている人は64.5%に上った。同時に科学者・学会などが意見表明を「行っていないと思う」ないし「どちらかというと行っていないと思う」と答えた人が合わせて48.7%に上ることも明らかになっている(2011年9月21日ニュース「原発事故で科学者の意見表明評価2割のみ」参照)。
吉川弘之・元日本学術会議会長(現・科学技術振興機構 研究開発戦略センター長)は、福島第一原発事故が起きた1月半後の4月28日、「福島原子力発電所事故の対応における科学者の役割」という声明を出した。この中で 氏は「科学者コミュニテイが科学者の能力を結集して、『合意した声』(unique voice)である助言を提出する」ことの重要性を指摘するとともに「その可能性を持つのが日本学術会議である」ことを強調している。
許容できる被ばく線量や原子力発電そのものの安全性など基本的な問いに対して、多くの人が期待し、かつ納得できる「合意した声」が日本学術会議から発信されるのはいつか。この日のシンポジウムの議論を聞いて、簡単ではなさそうだ、と感じた人も多いのではないだろうか。