進行した虫歯や歯周病の治療では、被せ物や入れ歯などを入れることが多い。これらやマウスピース類を補綴物(ほてつぶつ)という。補綴物は国家資格を持った歯科技工士が緻密な熟練の手作業で作るが、その技工士の数が今、国内で不足。歯科技工士の養成校がない県や、補綴物を輸入している歯科医院もある。このような現状に、クラウドや人工知能(AI)などの先端技術を用いて、歯科技工の従来の景色を塗り替えようとしているのが、東京科学大学発ベンチャーの「エミウム」(東京都新宿区)だ。同社は、クラウド上で技工サービスを提供することで、歯科技工士や歯科医師らの手間を減らしている。
保険診療から自費診療まで 広がるニーズ
2025年10月、紅葉が美しい北海道大学の構内にエミウム代表取締役の稲田雅彦の姿はあった。学会に集まった歯科医師や歯科メーカーの社員が、稲田が語るこれからの歯科医療に起こる技術革新に耳を傾けていた。「歯科技工士問題は、ただ人の数だけで解決するのではなく、こういったAIで解決することができる。今の戦力で十分戦えるかもしれない」という稲田の言葉に、参加者はうなずきながらメモを取っていた。

口の中は、髪の毛が1本入っただけで感知できるほど繊細な部位で、補綴物もミクロン(1ミクロンは1000分の1ミリ)単位での調整が求められる。予防歯科や口腔ケア意識の高まりから虫歯の患者数は減っているが、近年は、高齢者の入れ歯や矯正歯科のほか、審美を目的としたマウスピースや、スポーツ用のマウスガード、白い歯にするために元々の歯を削って着ける補綴物などもあり、ニーズは年々拡大している。歯科医師も6年間の歯学部教育で補綴物の作り方を習うが、歯科技工士はより「ものづくり」に特化した資格で、適合の良さだけではなく、色味や、患者さんの口の特徴に合わせたものを作ることができる。
歯科医院に患者が来院し、補綴物を作ることになった場合、歯科医師らが患者の歯の型取りや写真撮影などデータの採取を行う。続いて、歯科医師が「歯科技工指示書」という書類に、どのような補綴物を、どのような素材で作るかを記入した上で、歯科技工所に送付する。歯科技工士がこの書類を元に、補綴物を仕上げる。
「平均離職年齢は26歳 20代で8割が離職」
補綴物の価格は、自費診療でなければ診療報酬に基づいている。歯科医院が算定する診療報酬は決まりがあるものの、歯科技工所に渡す額には決まりがないため、不当に安くなってしまうケースもゼロではない。そうして歯科技工に見切りを付けた歯科技工士は、業界を去ってしまう。粉じんが舞う技工所の環境や、長時間労働も歯科技工士を離職する原因と言われている。稲田が調べたところ、歯科技工所あたりの技工士数は3人以下が9割を占める。そして、歯科技工士は20代で8割が離職し、その平均年齢はなんと、26歳だった。

歯科衛生士は増加傾向にあり、歯科医師の数はほぼ横ばいなのに、技工士が減少している現状に危機感を持った稲田は、前職の製造業スタートアップでの経験を生かし、エミウムを創業した。前職では、巨大な3Dプリンターで自動車大手の部品を作る仕事をしていた。これを生かせば、歯科業界に参入し、軌道に乗せられるのではないかと考えた。
Q:製造業は同じ物を大量に作るイメージがあり、歯科は「個別化」が必要だと思いますが、違いをどう受け止めていますか。
A:車の製造は「無機的」です。小ロットで生産することもあれば、大量製造も行います。歯科でのものづくりはヒトが相手なので、全てが一点物です。これを「有機的」だと言っています。最初に歯科業界を調べたとき、よくこの状況で100万個、1000万個と補綴物をマネジメントしているなと思いました。
国産車のようにクオリティも高いのに、クルマほど儲からない。2040年の予測である歯科技工士が今の3分の1の1万人になっても引き続き需要を支えられるように、賃金構造も変えられるシステムが必要だと思いました。製造業の時の生産管理システムを、同様に歯科業界に採り入れられるのではないかと考えました。
稲田がまず教えを請うたのは、金属用の3Dプリンターを持つ歯科技工士だ。老舗の大手歯科技工メーカーに在籍していたその社員から3Dスキャンと3Dプリンターで補綴物を作る手順を教わった。「これをクラウド上で行えないか」と発表したのが、「エミウムクラウド技工」サービスだ。
法律上の文書保存義務 クラウドで紛失防止

先ほどの「型取り」の手順を、光学スキャナーで行い、通信技術を用いて歯科技工指示書を技工所に送る。クラウド技工を操作する歯科技工士が、3Dプリンターで補綴物を完成させる。補綴物を作る際には、「ワックスアップ」というかみ合わせをろうそくのロウで再現する工程があるが、人の手で15分かかる作業も、デジタルで行えば2分で済む。この手法で、少ない技工士でも多くの補綴物が作れるよう、生産管理を整えた。加えて、法律で歯科技工指示書は2年間の保存義務が課せられているが、クラウド上で保管すれば紛失リスクが低下するというメリットもある。
エミウムが今、取り組んでいるのがAIを用いた補綴物の削り出し部分の検出だ。歯ぐきと補綴物の境目は、短すぎると補綴物を口の中にセットした後に虫歯になりやすくなり、長すぎると歯ぐきを傷つけたり、合わなかったりする。この削る部分を決めるのは特に技術が必要とされる部分だが、大量の補綴物の完成画像を機械学習させることで、自動化を進めた。
Q:歯科業界では人の手を介することが是とされている側面もあります。デジタルを入れることに抵抗感があるとされたことはありませんか。
A:AIは万能のように言われますが、蓄積されたデータが無いと動けないという最大の欠点もあります。今までの歯科医療で培った様々なデータをAIに学習させないといけないという点では人間の手仕事は必須です。AIはまだ臨床の中心ではないので、ふわっと受け止められがちですが、これからは中心になっていくと思います。
AIの技術開発そのものでは日本は後れを取っていますが、実は規制緩和の最先端をいっています。歯科技工用の設計や製図を行うコンピューターのCADは、医薬品の承認審査が必要ないため、デジタルの参入がしやすい分野です。
クラウン(歯を全て覆う被せもの)を作る場合、全てを手作業で行うと約190分かかりますが、パソコン上で行うと30分ほど短縮できます。手書きの技工指示書は「読めない」こともありますが、クラウドではそれがない。これを歯科医師の方々に伝えると、納得してくださることが多いですね。歯科技工士制度がある国は多くないため、日本のクオリティを持って世界に打って出れば、サプライチェーンまるごと整備できるチャンスなのです。

AIを使ったベンチャーは世の中にたくさんあるが、医療分野でみると、歯科では医院の多さゆえに独自の商習慣があることや、医科と違い、自費診療と保険診療を両方行う診療所が多いこと、同じ治療でも歯科医師の好みによって材料や手技の方法が異なるという点で医療の中でも特異的である。
それでもAIに委ねやすいのが歯科技工の部分であり、「AI社会の到来でも、AIの使い方は人間が考えなければならない」というのを具現化しているといえそうだ。エミウムは2023年11月に東京科学大学発ベンチャーの認定を受け、25年3月には6億円の資金調達に成功した。歯科メーカーは新規参入の壁が高いとされる。売上高、営業利益等は非開示だが24年度の1年間で、技工物受発注の取引数量は26倍、ユーザー数は32倍にまで増えたという。他方で歯科業界ならではの商習慣も多いため、「周囲の意見を聞きながら」と、稲田は今後の展開に慎重な姿勢も見せる。
従来のサービスでは、事前に登録しなければ使えない項目が多いという課題があった。興味を持った歯科技工士らから「お試しで使ってみたい」という声があったことから、アカウント登録したあと、すぐに試せるように2026年1月にリニューアルした。
Q:歯科医師のみならず、歯科衛生士の業務も効率化できそうに思えます。
A:そうですね。型取りなどがデジタルですので、後処理が必要なくなります。
今、政府は国民総歯科検診の実施を検討していますが、アナログですと、これに対応できないでしょう。今後、歯科業界は変わらざるを得ないというのが正直なところでして、入れ歯を作るのに1カ月待ち、といった現状も解消されるはずです。
AIは2029年には130兆円の市場規模にまで大きくなると言われています。デジタルが理解できる歯科技工士を養成し、AIをうまく使っていけば、労働問題も解決できると思っています。歯科技工士の労働環境を良くしていき、歯科医院の業務も効率化され、患者さんも満足度が上がるという「三方良し」が理想です。
歯科の展示会でも近年はデジタルやAIを使った業務支援システムが展示されるようになってきた。筆者が歯科業界に携わり始めた10年前にはあまり見られなかった光景だ。エミウムのサービスが市中の歯科医院でも通常の風景として見られるようになれば、歯科技工士が抱える問題は大部分が解決できるように思う。そして同時に、歯科技工士の職務内容が時代と共に変化し、志願する人が増えれば良いなと感じた。稲田が描く「歯科医療の地域格差をなくしたい」という夢にもそぐうことになるだろう。
(敬称略)
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