レポート

量子フェスから始まる「これからの100年」―量子が文化になる日を目指して

2025.09.19

小林良彦 / 大分大学教育学部講師

 ユネスコが2025年を「国際量子科学技術年」と定めているのに合わせて日本物理学会が主催した「量子フェス」が、6月14日(土)・15日(日)の2日間にわたり日本科学未来館(東京・お台場)で開催された。研究者による講演、科学コミュニケーターによる展示解説、量子力学に基づいて作曲された交響曲の演奏会と盛りだくさんの内容を通して、参加者たちは量子の面白さや社会的重要性、そして量子技術がひらく未来に思いを馳せた。

イベントは2日間ともに同じ内容で実施され、合計で500人を超える参加者が集まった
イベントは2日間ともに同じ内容で実施され、合計で500人を超える参加者が集まった

量子技術で何をするべきか、という空気感を

 「量子」とは、肉眼では見えない原子や分子のレベル、あるいはそれよりも小さな極微の世界を形作る物質やエネルギーの基本単位のこと。量子の振る舞いや性質は「量子力学」という名の“ルールブック”にまとめられている。国際量子科学技術年は、ドイツの理論物理学者ヴェルナー・ハイゼンベルクが量子力学の完成に決定的な役割を果たした論文を発表した1925年から100周年を迎えるのを記念して設けられたものだ。

 “ルールブック”を手にした人類は、量子技術の開発を推し進めた。スマートフォンなどに使用されている半導体はその成果の代表格である。つまり、量子は100年のときを経て暮らしを支える存在になり、私たちも日常的に恩恵を受けているのだ。

 一方で、量子技術は原子爆弾の開発にも活用された暗い過去を持つ。量子フェス実行委員長の山本貴博さん(東京理科大学理学部物理学科教授)は「人類は量子力学という“ルールブック”をプラスの方向にもマイナスの方向にも使った。量子を使ってこれからは何をすべきか。これは科学者だけの問題ではない。その空気感をここでつくって、これからの100年に向けた新たなスタートを切りたい」とイベントの意義を語った。

オープニングで挨拶をする司会の五十嵐美樹さん(日本物理学会アンバサダー、左)と山本さん(右)
オープニングで挨拶をする司会の五十嵐美樹さん(日本物理学会アンバサダー、左)と山本さん(右)

量子コンピューターがマストな技術になる

 イベントの第1部では、4人の研究者による講演を通して、多彩な視点から量子の魅力に触れた。一人目の講演者は量子コンピューター開発の第一人者である藤井啓祐さん(大阪大学大学院基礎工学研究科教授)。

量子力学の不思議なルールを説明する藤井さん
量子力学の不思議なルールを説明する藤井さん

 量子力学の不思議さを応用した新しいコンピューターとして近年開発が盛んに進められているのが量子コンピューターだ。現在、私たちが使用しているコンピューターは、「0」と「1」からなる「ビット」を基本単位とし、その組み合わせでさまざまな情報を表現したり、処理したりしている。一方の量子コンピューターは、「0」と「1」が併存する性質(重ね合わせ)を利用した「量子ビット」を基本単位として、並列計算量(一度に計算できる量)を増やしている。また、複数の量子が互いに相関し合う性質(量子もつれ)を用いて効率的に解を導き出し、情報処理量を飛躍的に向上させる仕組みを持つ。

現在のコンピューターで用いられているビットは、0と1を1つずつ組み合わせて計算しているが、量子ビットでは複数の組み合わせを同時につくることができるため、計算量が飛躍的に向上する(藤井さん提供)
現在のコンピューターで用いられているビットは、0と1を1つずつ組み合わせて計算しているが、量子ビットでは複数の組み合わせを同時につくることができるため、計算量が飛躍的に向上する(藤井さん提供)

 藤井さんは、量子コンピューターを「これからの100年にマストな技術」であると強調した。光合成や窒素固定など、自然界ではありふれているにもかかわらず、そのメカニズムに未解明な部分がある現象も、量子コンピューターを用いれば解明できるかもしれないという。「自然界のメカニズムを量子コンピューターを使って理解することで、新しいものづくりに貢献したい」と藤井さんは展望を語った。

光の量子で見る新しい宇宙の姿

 量子技術を応用することによって、人類は宇宙の「見える」範囲を広げてきた。さまざまな天体現象にともなう宇宙線や電磁波、重力波などを観測することで宇宙の謎に迫る「マルチメッセンジャー天文学」に取り組む石原安野さん(千葉大学ハドロン宇宙国際研究センター教授)の講演は、金属などの物質に光を当てると電子が飛び出す現象「光電効果」の説明から始まった。光電効果は光が持つ量子性(光の量子は「光子」と呼ばれる)による現象で、CCDカメラなどに活用されて観測研究を支えている。石原さんは光電効果について「これがなければ現代の宇宙科学は成り立たないと言って良いくらい、本質的に研究の発展を支えてきた」とその価値を表現した。

「私にとって宇宙はとても楽しい実験場」と宇宙研究の魅力を語る石原さん
「私にとって宇宙はとても楽しい実験場」と宇宙研究の魅力を語る石原さん

 マルチメッセンジャー天文学では、可視光だけではなくガンマ線(高エネルギーの光)やニュートリノ(原子よりも小さな素粒子の一種)などの観測も欠かせない。ここでも量子技術が大きく貢献している。石原さんたちの研究で使われている南極のニュートリノ望遠鏡「アイスキューブ」にも光電効果を用いた検出器が使用されている。講演ではアイスキューブの研究成果の一つとして、宇宙から飛来する約300テラ電子ボルト(TeV、可視光の1000兆倍)という非常に高エネルギーのニュートリノ検出も紹介された。石原さんは講演の最後に「我々は新しい観測技術とともに宇宙を何度も見つめ直して、新しい発見をしている」と量子技術の発展とともに宇宙研究が進展していることを強調した。

ニュートリノ望遠鏡「アイスキューブ」の模式図。南極の氷中1.5~2.5キロの深さにある1立方キロの領域に多数の球体の検出器を設置し、宇宙から飛来するニュートリノを観測している(石原さん提供)
ニュートリノ望遠鏡「アイスキューブ」の模式図。南極の氷中1.5~2.5キロの深さにある1立方キロの領域に多数の球体の検出器を設置し、宇宙から飛来するニュートリノを観測している(石原さん提供)

サイバー攻撃の脅威に対抗する量子暗号の最前線

 サイバーセキュリティの分野で、絶対に盗み読みをされない安全な方法として注目を集める暗号化技術がある。「量子暗号」だ。書籍を通じてその存在を知り、感動したことが研究に関わるきっかけだったと話すのは鯨岡真美子さん(株式会社東芝 総合研究所)。鯨岡さんからは量子暗号研究の最前線について話があった。

量子暗号の重要性について話す鯨岡さん
量子暗号の重要性について話す鯨岡さん

 情報を安全に送受信するために使われている暗号通信では、暗号を解読(復号)するための「鍵」を送受信者間で共有する必要があり、決して第三者に盗まれてはならない。鯨岡さんは「量子コンピューターによって計算量が飛躍的に向上すれば、現在の暗号通信は簡単に解読されてしまうといわれている。サイバー攻撃の進化に対抗できるソリューションが今から必要だ」と強調する。その一つが光の量子である光子を活用する「量子暗号通信」だ。光子は、第三者が情報を盗み読むなど、手を加えようとすると性質が変化する量子的な特徴を持つ。そのため分割やコピーが絶対に不可能で、送受信者が鍵を安全に共有できるというわけだ。

量子暗号通信の中核となるのが量子鍵配送。鍵の情報を光子一つひとつに載せて送信者から受信者に送る。光子は分割やコピーができない性質のため、盗聴を判別することができる(鯨岡さん提供)
量子暗号通信の中核となるのが量子鍵配送。鍵の情報を光子一つひとつに載せて送信者から受信者に送る。光子は分割やコピーができない性質のため、盗聴を判別することができる(鯨岡さん提供)

 量子暗号通信は機密性の高い情報を扱う行政や医療、金融などの分野から活用が期待されている。講演では、東芝で開発された量子暗号通信システムの導入例についても紹介された。鯨岡さんは、量子暗号を「今すぐに使える量子」と表現した。その言葉のとおり、2030年ごろには商業化と社会実装、そして2040年ごろには量子暗号とともに「どこでも、誰でも、安心して通信できる世界」の実現を目指しているそうだ。

最先端エレクトロニクスを支える量子力学

 最後の講演者は、齊藤英治さん(東京大学大学院工学系研究科教授)。スピン(電子などの素粒子の“自転”のような量子的な性質)とエレクトロニクス(電子工学)を融合した「スピントロニクス」分野の研究に取り組んでいる。この分野の成果は、ハードディスクでデータの読み書きをする磁気ヘッドなどに広く活用され、近年は次世代メモリー「MRAM(磁気抵抗メモリー)」の開発も盛んだ。

量子の世界を研究する面白さについて語る齊藤さん
量子の世界を研究する面白さについて語る齊藤さん

 齊藤さんは自身の研究を支える磁石の不思議な性質について「量子力学なしに説明することはできない」と紹介してくれた。磁石はスマートフォンのスピーカーやバイブレーター、あるいは自動車の部品など身近なところで暮らしを支えている。冷蔵庫に貼り付けられた磁石は黒くて硬くて動かないが、実はその内部では電子が絶え間なく“自転”しているという。

電子は「スピン」と呼ばれる量子的な性質を持ち、小さな磁石のように振る舞う。たくさんの電子のスピンが同じ方向にそろうと、大きな磁石としての性質が現れる。鉄はスピンが揃いやすいため磁石として用いられている(齊藤さん提供)
電子は「スピン」と呼ばれる量子的な性質を持ち、小さな磁石のように振る舞う。たくさんの電子のスピンが同じ方向にそろうと、大きな磁石としての性質が現れる。鉄はスピンが揃いやすいため磁石として用いられている(齊藤さん提供)

 齊藤さんは、量子力学を「ミクロな世界を支配する基本法則だ」と力説する。いま進められている最先端エレクトロニクスの研究開発も、冷蔵庫に貼られた磁石が持つ性質も、背景には量子力学がある。つまり、何気ない日常の風景も量子の視点で見れば捉え方がまるで変わる。齊藤さんは「これが研究者のものの見方だ」と力強く語っていた。

 ちなみに齊藤さんはかつて、作曲家を目指していたそうだ。楽譜を読むだけで旋律が想起され感動するように、数式を見てもその美しさに感動できるという。これも研究者ならではものの見方なのかもしれない。

科学コミュニケーターによる特別解説、量子×音楽で参加者もてなす

 第2部の前半では、日本科学未来館が4月に公開した新展示「量子コンピュータ・ディスコ」(藤井さんが総合監修)と「未読の宇宙」(石原さんが監修者の1人)の特別解説があった。いずれも量子と関わりのあるもので、日本科学未来館の科学コミュニケーターが設計秘話なども交えながら参加者に展示の魅力を説明した。

「量子コンピュータ・ディスコ」(左)と「未読の宇宙」(右)の特別解説
「量子コンピュータ・ディスコ」(左)と「未読の宇宙」(右)の特別解説

 後半では、量子と芸術を融合させる試みが紹介された。作曲家のヤニック・パジェさんと物理学者の橋本幸士さん(京都大学大学院理学研究科教授)は、創作活動と物理研究の間に共通性を見出し、量子力学の考え方を反映させた交響曲を作曲するという、耳を疑うような共同研究をしている。

共同研究の経緯を語る橋本さん
共同研究の経緯を語る橋本さん

 その成果である「演奏会弦理論交響曲『Consciousness』基本相互作用」が、7時間を超えるイベントの結びに披露された。プロのオーケストラによる演奏はもちろん、映像や音響効果も融合させた新しい世界観とパフォーマンスは観るものを圧倒し、終演後は拍手が鳴り止まなかった。

ヤニック・パジェさん(作曲・指揮・パーカッション・電子楽器)と演奏家グループ「N’SO KYOTO(エンソーキョウト)」の演奏
ヤニック・パジェさん(作曲・指揮・パーカッション・電子楽器)と演奏家グループ「N’SO KYOTO(エンソーキョウト)」の演奏

量子力学のエンタメ化で広がる社会の理解

 難解な量子力学をテーマとした量子フェスであったが、2日間にわたり全国各地から多くの参加者が集まった。量子フェスの意義や今後の展望について、実行委員長の山本貴博さんに聞いた。

インタビューに答える山本さん(量子フェス実行委員長/東京理科大学)
インタビューに答える山本さん(量子フェス実行委員長/東京理科大学)

―たくさんの参加者が集まりました。

 開催に必要な資金を得るためにクラウドファンディングをして、300人以上から応援していただきました。こういった科学のイベントが一般の方からも支援されたことで、1つの「文化」になる瞬間だと感じました。

 原子爆弾をはじめ、20世紀の人類には反省すべき量子技術の使い方もありました。この先、技術がさらに進んだときに、再び使い道を誤るわけにはいきません。一般の方も含め、みんなでどんな使い方をすべきかを話し合う必要があると思っています。難しいからと量子力学にそっぽを向く人が多いと、間違った使い方を止められる人の数が減ってしまいます。

―今回のような機運が続くためには何が必要ですか。

 例えばヒーローのような存在ですね。子どもたちに「科学ってかっこいい」と思わせるような科学界のヒーローが必要だと私は思います。それと、科学をうまくエンタメ化できていないという点も課題です。今日は、みんなが難しいと思っている量子力学をエンタメ化することで専門家と非専門家の間に一体感が生まれました。素晴らしい瞬間だったと思っています。

 山本さんは量子フェスについて、「100年後の人たちが『ここから始まったんだな』と思ってもらえるような日にしたい」とも語っていた。今回は多くの人が量子の魅力に熱狂した。量子と芸術という新しい世界観も提示された。山本さんが目指す、量子力学が文化になり得る可能性を示した一日と言って良いだろう。そして、これからの100年で私たちと量子の関係性はどのように変遷していくだろうか。いずれにせよ、これからの100年を創るのは科学者だけではない。量子フェスは、人々の量子や量子技術に対する関心を高める好機となった。

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