福島県の浜通りでは、幽霊のうわさを聞くことがある。海岸に何かの用事で出かけた人が、しばらく誰かが近くにいる気配を感じた。そして後から誰もいないことを確認してゾッとする。そのような話が多い。さらに、ごく少数だが、亡くなった身近な人の霊に会うために、海岸に行こうとする人もいるという。
震災から「もう」1年半がたったと語られることがある。しかし、その場に居合わせた人々の心が起きた事態を受け止め、それを自分なりに整理していかねばならない心の作業の膨大さと困難さとに思いを巡らせた時には、「まだ」1年半しかたっていないという方が適切に感じられる。身近な人が亡くなったこと、移住を余儀なくされたこと、原発事故と放射能汚染の問題に巻き込まれたこと、そういったことのどの一つであっても、心がその変化を受け入れていくためには、大変な時間がかかることが予想される。
それなのに、被災地はこんなに早く復興している。そう考えた方がよいのではないだろうか。多くの人が自分の心のつらさを省みることもせずに、「周りもあれだけ耐えているのだから」と考えて、必死に生活し仕事を行っているように見える。福島県では既に県外に避難した人も少なくない。つまり震災前より減ってしまった人員で日常業務に対応し、それに加えて震災復興のための事業も行われている。
筆者は精神科医で、今年の4月から福島県南相馬市に移住し、市内の精神科専門である雲雀ヶ丘病院で勤務を始めた。院内での外来業務・入院業務に加えて、地域の保健師と連携して院外での訪問活動なども行っている。
今回の記事で書くのは、そのような生活を送っている筆者が、南相馬市を中心とした浜通りの人の心について「空想」した内容である。客観性のある調査にもとづいての記述ではないことを、最初にお断りしておきたい。少し心理の奥を深読みしすぎているかもしれず、そこには私からの投影もあるかもしれない。しかし、元来「心」というのはその実態がつかみにくいものであることを了承していただき、一つの意見として受け止めていただければ幸いである。
心のケアお断り
5月末に、地元の保健師の仲介で、ある仮設住宅で「うつ病」について話をする機会を与えられた。その途中から、説明されるうつ病の症状に自分がいくつか当てはまっていると感じたらしく、ある女性が次第に不機嫌になっていった。病院に来て相談することを勧めたが、反応に乏しい。そこで、「身近な親しい人に、自分の話を聞いてもらうようにすることも良いことです」と伝えたところ、「仮設住宅では、今まで知らなかった人同士が急に寄り合ってお互いに気を使って暮らしているのだから、自分の悩みなんかそんな簡単に言えるわけがない」とイライラとした様子での返答だった。見かねた他の住人が間に入って発言されたのだが、その結論は「先生、お話はありがたいのですが、先生の話を聞いても私たちの問題は解決しないんです」というものになってしまった。私は、「確かに私には皆さんの悩みを解決する力はありません。でも、その苦しさを少しでも減らすことを望んで、今はこういう話をしています」と答えたのが精いっぱいだった。南相馬市に来てから、他にも精神科医の活動について「すぐに仕事を休めとか辞めろという話になってしまうから困るのです」という不満を聞いたことがある。報じられているところによると、去年の段階で、ある被災地の避難所では、押し寄せてくるボランティアなどに対して「心のケアお断り」を宣言したという。
震災と原発事故で失われたもの
昨年の震災と原発事故では、多くのものが失われた。そのように失われたものの一つに、目には見えないけれど大きなこととして、原子力発電所の「安全神話」に代表されるような、「偉い人やみんなが言っていることに従っていれば大丈夫」という信念が挙げられるのではないだろうか。医療における治療法の選択についてのインフォームド・コンセントは近年積極的に行われるようになったが、それでも科学的に複雑な推論を行った上での判断を求められることは、日常生活では決して多くはなかったはずである。
今の福島は異なっている。放射線についての長期間の低線量被ばくの影響という、専門家の間でも意見が一致しない事柄について、日常生活のさまざまな場面で「自己責任による判断」を求められてしまう。例えば、南相馬市で子育てを行う人の中には、たとえ除染されて線量が比較的低いことが確認されている公園であっても、子どもを屋外で遊ばせることに躊躇(ちゅうちょ)を覚える人が少なくない。このような場合に私たちは身近な人と相談することを考えるが、仮設住宅や借り上げ住宅などで暮らす場合にはこういったことも簡単には進まない。古くからあった土地でのつながりは、移住によって失われてしまうことが多い。大家族で暮らしていた人々が、若い世代だけを県外に避難させていることもある。
失われたものの再現を求めて
失われたものをそのままに取り戻したいというのは、自然な願望だろう。本当に大切なものを失った時に、私たちは自分の心がバラバラになってしまうような恐怖を感じることがある。価値観が混乱して、何が正しくて何が間違っているのか分からなくなってしまう。まとまりを欠いた自分の言動に、自分が狼狽(ろうばい)する、そんな混乱がある。「亡くなったあの人に会えるはず」という思いだけが、なんとか心を支えてくれることがある。
私たちは強烈な体験を通り抜けてきた人々の、そのような思いを尊重するべきだろう。しかし、それでもその思いがかなわないことに、徐々に気がついてしまう時がくる。その時には、代わって強い怒りが、かろうじて心を一つにまとめる支えとなることがある。
ある高齢者は震災後に仮設住宅に入居し、その後に認知症を悪化させた。夜の徘徊(はいかい)が始まり、以前の住まいに帰ろうとしてしまう。雨の中でも出かけていき、家族の制止にも興奮する、そんな人がいた。強い怒りや拒絶がそこにはあった。
別の入院せざるを得なかった認知症の患者の担当を行った。入院当初から、とにかく食事をとろうとしないことに困らされた。「入院しなければならない」と判断した私のことを分かっていたのだろうか、私がその人に近づこうとすると数メートルも手前からあからさまに顔を横に向けていた。看護師らが必死に食事の介助を続け、家族も懸命に本人の好きな食べ物を運ぶことを続け、数カ月後には普通に食事をするようになった。そのころには私が近付くと「ああ?」くらいの声は出してくれるようになり、声をかけるとしばらくこちらの顔を見て、顔をそむけるのはそれから少し後まで待ってくれるほどに、私のことを受け入れてくれるようになった。
「心のケア」について語られることは多いが、その内容として被災した方々の「怒り」などのネガティブな感情に対応することを想定した議論は少ないように思われる。「怒り」は単純に肯定することも否定することもできない、関わり続けることが難しい問題である。しかし、強い否定的な感情に捉われたまま他人から顧みられないという体験は、人間にとって非常に苦しい出来事の一つである。
現実を垣間見ることの危険
今年の4月に原発から20キロメートル圏内の旧警戒地域の一部が解除され、日中に限り住人が立ち入ることができるようになった。地元ではこれが性急な判断だったとする意見もある。電気は使用できるが、水道などのインフラの整備はまだ行われていない。震災後に壊れたまま放置されている家屋が多く、除染も当然進んでいない。こちらを訪れた住人には、故郷に帰還できるのはまだ先のことであると感じた人が少なくない。
今年の5月28日、そのような地域でスーパーを経営していた60歳代の男性が、一時帰宅中に倉庫で首をつって死んでいるのが発見され、自殺と判断された。普段から地元で商売を続けられなくなってしまったことを嘆いていたという。
この事件を通じてあらためて感じるのは、地震・津波に加えて、原発事故による広範囲の放射能汚染が起きた今回の複合災害に対する、心理的な援助の難しさである。自然災害だけであるのならば、人々が「心の傷」のことをいったんは脇において、ひたすら復旧・復興にまい進することを応援することが可能であろう。しかし今回の災害では、そのような姿勢だけでは対応できない問題が発生している。現実を認識した上で、「帰郷して復旧・復興を目指すのか、それとも故郷をあきらめて移住するのか」という決断を行うことが人々には求められてしまっている。それは「喪失」に向かい合うという心理的に大変困難な課題に人々が取り組むことと、切り離すことができない。そして、無意識的にでも目をそらして見ようとしていなかった喪失に関する現実を、突然突きつけられるような出来事は危険性が高いのである。
「放射能を適切に怖がる」という言葉が語られることがある。これは放射能に関するものを過敏に警戒することと、全く鈍感に危険性のあるものでも食べてしまうような不用意さの、両方を戒めるものである。これは「放射能のことを気にしなくてもよかった安全で快適な生活」を失ったことを受け入れていくことと、分けては考えられないだろう。
復興に向かう格差とうらやましさについて
この地域に暮らす子供を持つ親が不安に感じる悩みの一つに、「塾などが少ないので、受験の準備で他の地域に暮らす子供と比べて不利になってしまうのではないか」というものがある。当り前の普通の内容である。
一つの精神状態を想像してみる。早く復旧・復興を成し遂げることが日本社会に暮らす自分たちに課せられた使命であり、その目標に向かって他の地域と連携しつつも競い合っていると感じる心理である。しかし、当たり前のこととして地域によって抱えている課題は異なり、やはり原発から20キロメートル圏内の旧警戒地域などでは、どのような物事も容易には進行しない。他の地域に比べて遅れが生じることは当然であるが、それを他の被災地と比べた場合の「遅れ」と捉えてしまえば、その「遅れ」の意識が「恥」や「悔しさ」「うらやましさ」の感情につながってしまうことがありうる。
仙台市から海沿いに南下し、相馬市、南相馬市の鹿島区・原町区・小高区と進むと、目に入る風景が異なってくる。震災時の津波の被害が、20キロメートル圏内では、ほとんどそのままのように残っている地域も目にすることができるだろう。
このような人がいた。元来は20キロメートル圏内の住人である。震災後にある都市に避難しており、それから故郷への帰還を目指して南相馬市内にある仮説住宅に入居した。ほどなく精神状態を悪化させ、「焼けつくような居たたまれなさ」を示すようになり、入院した上での最も強力な治療的な介入が必要となった。一番苦しみが深かった時に語った言葉の一つが「周りを見るとうらやましくて仕方がない」である。現在はこの方は回復し、「何であんなにうらやましいと思ったんだろう。よく考えれば周りだってみんな我慢しているのにね」と語っていた。
これは私の空想である。「何で順調に復興して、華やかさを取り戻している場所が私の故郷ではないのだろう、何で私の故郷はまだ荒れ果てたまま、ゆっくりと安全に立ち入ることもできない状態なのだろう」と感じたのではないだろうか。
他と比べるようなことをやめて、自分たちは自分たちのペースで、と外から言うことは簡単である。しかし、自分たちからは奪われてしまったものを、他者が持っていると感じた時に抱く羨望(せんぼう)の思いは、容易には乗り越えることができない。
風評被害と「被災地への援助」を超えて
南相馬市に住んでいて、私が感じる外部からの視線は分裂している。その一つは「福島のことをなかったことにして忘れてしまいたい」という思いである。今年の5月末と6月上旬に、20キロメートル圏内の住人だった2人の方が、それぞれ一時帰宅中に自殺を遂げられた。地域の住民の方々が感じた衝撃は小さくなかった。そのすぐ後の6月16日、政府が大飯原発を再稼働する方針を発表した。この時にこの地域の人々の心は大いに傷ついた。「私たちの苦しみは、国によって全く省みられていないのではないか」と、そのように感じた人が少なくなかった。他にも残念ながら、県外に避難した人がその地で心ない「いじめ」にあったこと、「福島ナンバー」の車に乗っていただけで嫌がらせをされたなどの話を聞くことは少なくない。
その逆もある。現在の南相馬市に暮らしていると、他の状況ではありえないほどの厚い支援を受けられることがある。「賠償金」についても、少なくない額を手にしている人々もいる。(もっとも、その「賠償金」に格差があることで、地域に分断が生じていることを憂える声も少なくはない)
個人的には、そのどちらにも違和感を持つ。福島第一原発の廃炉の作業も、そこから近い地域の人々の帰還の問題に結論が出ることも、短期間で決着がつかないだろうことは明らかになってきている。帰還を諦めて他の地域への移住を選ぶ人は、この先にも現れるだろう。その人々はどこにどのように受け入れられるのだろうか。「福島」のことを避けることも、過剰に持ち上げることも、もはや不適切である。そして、日本社会が長期間関わらねばならない課題として、「福島」の人々と日本の他の地域の人々が、極端ではない現実的で妥当な関係を構築していくことが望まれているのだろう。「性急な問題の処理」がなされるべきではない。
中途半端に金銭だけを与えられて、将来の見通しについては不透明な状況では、ある種のモラルの低下が起きるのは避けがたい。未来に向けての現実的な見通しが欠けていることが、非常に厳しく感じられる。
やはり、福島を支え続けてほしい
福島県の方が、県外の人に対してさまざまな不満を語ると、激しく否定されて逆に攻撃されることがあるのだという。例えば、「原子力発電所の補助金で良い思いをしていたのだから、今さら文句を言うな」と、このように言われることもあるようだ。
しかし、こちらの土地に来て実感したことだが、福島の人々は我慢強い。この人たちが文句を言うのは余程の事態である。今でも市内には、「自衛隊のみなさん、警察のみなさん、ボランティアのみなさん、ありがとうございました」といった看板が出ていることを目にすることがある。私は近所の理容室の店主から、次のような話を聞いた。その店主は震災後のしばらくの期間を県外の避難所で過ごした。その避難所で供された食事は必ずしも十分なものではなかった。それについて強く抗議する避難者がいて、その後に食事の内容が少し改善された。その抗議した人のことを、その理容室の店主は「みっともない、恥ずかしい」と強調して語っていた。精神科医として関わってみると、こちらの人々は必ずしも「助けてほしい」と援助を求めることが上手ではない。その人々がやっとの思いで語った愚痴や不満の内容は、全否定することなくいったんは受け止めて欲しいと思う。
福島県内で臨床をしている精神科医には、それほどPTSD(心的外傷後ストレス障害)の患者は多くないと感じている人が少なくないようだ。しかし逆に、東京や仙台の精神科医から「福島から避難している人で、典型的なPTSDの症状がそろっている患者を診ている」と伝えられることがある。地元では周囲の目を気にして受診を控えてしまう、というのが理由の一つだろう。この件についてもう一つ考えられるのは、現地にいると「のんびりと病気になっている余裕を持てない」というものである。他の地域に移って安心した後で、ようやく「患者になれる」のかもしれない。
今年の8月末にフィリピン沖で地震があり、こちらの地域にも津波が来るかもしれないというニュースが伝わった。その場面で、私の南相馬市の友人たちが示した動揺は小さくなかった。普段は話さない3・11後の出来事を一気に語り始めて、聞いていた私の方が驚いてしまった。やがて津波は来ないという知らせが届き、皆が安堵(あんど)した。普段は多くの住人が軽微な抑うつやトラウマ反応の症状を飲み込んで頑張っているのだな、と感じた瞬間だった。私の友人の一人は、「当たり前の日常が欲しい」と語っていた。
福島の人々が、日本の課題を先端的に担っている
冷静になって考えてみると、突然に自殺をしてしまう、仕事がうまくいっていない中高年男性は、福島県だけではなく日本全体で問題となっている。それから、「原発事故」を通じて、社会的な権威や「みんなが賛成していること」への信頼感が失われ、責任を伴う自己判断を求められる機会が増えて戸惑っている事態も、多くの日本国民に当てはまるのではないだろうか。
余裕のある状況ならば先送りにすることも可能な、日本社会全体が乗り越えていかねばならない心理的な課題を、福島県にいる人々は先端的に担わざるをえない状況に置かれてしまった。そこには多くの苦しみがある。しかし、そこには否定的なものばかりでなく、必死に努力する一人一人の積み重ねの中に、将来への希望もあるのだろう。そして、多くの人に福島の課題を自分たちの未来につながる出来事であると感じ、関わってほしいと考えている。