「高レベル放射性廃棄物『暫定保管』提言の衝撃」
原発に依存した社会であり続けるか、脱原発化か、で世論は真っ二つの様相をきたしている。しかし、どちらを選択するにしても日本はすでに深刻な問題を抱え込んでいる現実に変わりはない。すでに相当量たまっている使用済み燃料を含む高レベル放射性廃棄物をどこに処分するか、という難題だ。どちらの道を選ぶにしろ、深刻さの度合いの差でしかないように見える。「最終処分する前に数十年から数百年程度の期間、回収可能な状態で安全に保管する」。これまでの原子力政策にはなかった「暫定保管」という新しい選択肢を盛り込んだ提言「『原子力委員会審議依頼に対する回答高レベル放射性廃棄物の処分について』」を9月10日にまとめた「日本学術会議高レベル放射性廃棄物の処分に関する検討委員会」の今田高俊委員長(東京工業大学大学院 社会理工学研究科 教授)に、高レベル放射性廃棄物処分の難しさと今後の見通しを聞いた。
―「原子力発電に対して結局、反対なのかどうか」といった問いかけは、寄せられませんでしたか。
今回の回答をまとめる作業の過程で、よく尋ねられました。「先生は、原発反対派なのですか、賛成派ですか」と。個人的な考えを聞かれたら答えますが、公的に尋ねられたら「この報告書の中身からにじみ出てくるものが答えだ」ということです。「エビデンス(証拠)に基づいて積み上げてきた検討結果がこの報告書で、最大の特徴は、当事者の視点で考えていることです」とも…。
傍観者、観察者の立場で「大丈夫」とか「危険だ」などとも、言っていません。出てくる廃棄物は、われわれが便利な生活をするために出てきたごみ。それをどうするか、という視点で書かれた報告書です。答えは報告書の中身から出てくるのであり、それをどのように解釈するかはその人自身の問題だということです。
エネルギーに占める原子力発電の比率をどうするかが、話題になっていますが、この問いも本末転倒です。最初に、あるべき大局的なエネルギー政策における原発の位置づけ、つまり「高レベル放射性廃棄物の総量管理や暫定保管をどうするか」という方針を固めてから、「原子力発電の比率をどうするか」を論議すべきです。高レベル放射性廃棄物処分の話はとにかく難しいから、総エネルギーに占める原子力発電の比率から議論を始めようというのはおかしいのです。まず「どこまでの量の高レベル放射性廃棄物なら処分可能か」という議論により国民の合意を得、その後に原子力発電の比率の議論をすべきでしょう。
今回の回答はマスコミで随分と話題にされたのですから、政府も全く無視するわけにはいかないのでは、と思います。原発から出てくる核のごみをどうするか、国民的な議論を起こす機会を提供できたのではと考えております。NIMBY(not in my backyard=「よそならよいけれど、近所に廃棄物処理施設などを設置されるのは嫌」)問題がつきまとうなど、ごみ問題の難しさは多くの国民が知っていますし、また、議論することにもある程度慣れています。核のごみも巡りめぐって考えれば、生活廃棄物や産業廃棄物と考えてよいごみです。また、何よりすでに存在しているわけです。「皆で考えて解決しなければ、どうにもならない問題である」という共通認識に至るよう考え方を変えていけば、国民的な議論は可能だと思います。
われわれの回答の成果というか、狙いのひとつは、原発反対派と容認派が議論するテーブルに着いてもらうための案づくりだったことです。これ以外の問題提起で、両者が同じテーブルに着いて真剣に議論し合うことはまずあり得ないでしょう。政府の側も、議論の推移を見ながら、高レベル放射性廃棄物の量をどう抑えるか、考えざるを得なくなるのではないでしょうか。「再稼働するかしないか」という問題設定では、反対派は「絶対駄目だ」というばかりで議論になりません。
―今回の回答は、内容が明快だったことに加え、日本学術会議が出した報告ということに大きな価値があると思います。府省から一本釣りされた研究者から成る審議会だったら、内容の善し悪し以前に、真の第三者機関とはみなされないでしょうから。
日本の審議会方式の大きな問題のひとつは、用意される資料や議論の進め方が官僚主導ということにあります。最初から議論の条件設定がある中では、自由な発想など出てきにくいのです。また、審議会はしばしば、諸々の利害関係団体の利益を調整する場としての機能をも担わされています。このため、報告書が筋の通った明快な内容になりにくいという場合が多々あります。
こうした仕組みは科学者集団の自律性を損なうことになりかねません。科学の認識能力とその限界をきちんと認識しているアカデミーの立ち位置を、日本学術会議がしっかりと示すべきなのです。科学者集団として、いろいろな提言を出すスタイルを確立し、国民から、そういうことがきちんと議論できる機関だと認められないと、存在理由がなくなってしまいます。
学術会議会員は半分名誉職と思っている会員もいると聞き及んでいますが、身分的には非常勤の特別職の国家公務員です。政府に対して腰の据わった提言や勧告を次々と出していくことによって、政治や財界その他の暴走をチェックできます。権力や財力は持たないけれども、知識、知恵など知力によって社会、政治、経済の動きをチェックする“お目付け役の責任”が課されているのです。
上のような仕事は研究者、学者としての確かな業績になります。最近そうした活動の意義が認められるようになりつつありますが、ともすれば雑誌に顔を出したり、評論書みたいな本、あるいは売れる本を書いたりすることが「学者として格好いいのだ」という風潮がまだまだ残っています。それはそう遠からず払拭(ふっしょく)されるのではないかと思いますが…。
ですから、日本学術会議が今回のような問題について、きちんとした回答や提言を出し続けることで、国民の評価を得るとともに、そうした活動の重要性も高まっていくという相互作用が、国民と研究者、学界との間でできるようになっていけば、と願っています。
(続く)
神戸市生まれ、甲陽学院高校卒。1972年東京大学文学部社会学科卒、75年東京大学大学院社会学研究科博士課程中退、東京大学文学部社会学科助手、79年東京工業大学工学部助教授。88年東京工業大学工学部教授を経て96年から現職。日本学術会議会員。研究分野は社会システム論、社会階層研究、社会理論。著書に「自己組織性-社会理論の復活」(創文社)、「意味の文明学序説-その先の近代」(東京大学出版会)など。