インタビュー

第6回「『人々の安寧とよりよき生存』のための科学技術へ」(小泉英明 氏 / 日立製作所 役員待遇フェロー)

2010.07.28

小泉英明 氏 / 日立製作所 役員待遇フェロー

「脳科学で教育を変える」

小泉英明 氏
小泉英明 氏

ゆとり教育からの脱却と評される小学校の新しい教科書が姿を表した。来年度から使われる。中には、これでゆとり教育が完成したのだと主張する人もいるが、ゆとり教育によってもたらされた基礎学力低下にようやく歯止めがかかる、と期待する向きが大方のようだ。なぜ、教育政策が揺れ動いてきたのだろう。脳科学の知見を教育手法に応用する意義をいち早く唱え、実際に意欲的な大規模研究プロジェクトを主導してきた小泉英明・日立製作所役員待遇フェローに意図はどこまで貫かれ、何が依然、未解明なままかを聞いた。

―今までお話をうかがってきました「脳科学と社会」研究開発領域の終了に伴って、外部評価委員会による事後評価 が行われました。領域の運営については高い評価もみられたようですが。

昨年の12月から、約半年間をかけて丁寧な事後評価が実施されました。事後評価委員会は中立性を担保するために、この領域の成立過程に関与せず、さらにそれ以降も関係をもっておられない外部の先生方が委員に選ばれています。専門家による評価委員会(委員長:甘利俊一理研脳科学総合研究センター特別顧問(前所長))とアカウンタビリティの評価委員会(委員長:有信睦弘東京大学監事)によって、学術面と研究費を投下した社会的意義の両面を評価するものです。もちろん本領域の研究者とは学派や立場の異なる委員の方も含まれていますが、大変にお忙しい先生方が、長時間をかけて評価してくださったことに心から感謝しています。私も国立大学附置研究所や省庁研究所の評価を担当したことがありますので、評価の難しさは身に染みて感じています。特に、今回の場合は、科学技術だけでなく、理系と文系にかかわる融合・架橋領域ですから、大変なご苦労があったと拝察します。

―領域運営については、「本領域を推進するにあたって、脳科学と社会および教育にかかわる新しい社会技術の展望を切り開き、文系理系を融合する統合的な研究、アウトリーチ活動、さらに脳科学の倫理、公募型研究開発プログラムを指導することで、領域総括は指導性を発揮した。その中で、脳科学と社会領域架橋型シンポジウムシリーズは、文系理系を含む異なる分野を融合する画期的なもので、多数の熱心な参加者が真摯(しんし)に議論を交わし、大きな反響を呼んだ。また、脳倫理のあり方にいち早く取り組み、この問題の重要性を日本にいち早く定着させた貢献度も大きい」と記載されていますね。

はい。中には厳しいご指摘もありますが、全体として前向きに評価くださったことは、とてもうれしく感じます。外部委員による事後評価報告書とは、私たち研究当事者にとっては裁判の判決文のようなものですが、「研究成果を高齢者や乳幼児、障害のある子どもなど、社会における弱い立場の者たちへ還元する立場をとったことは高く評価できる」との記載をいただいたことも、うれしく感じています。社会的に弱い人々の立場を向いているというふうには、自分では特に意識したことがなかったものですから、このご指摘を受けて、さらに一生懸命にやらなければという思いがわいてきました。

―今回の10年近くにわたる「脳科学と教育」研究の全体を見渡して、何か大きな展望が開けたでしょうか?

はい。人間への深い理解が新たに得られたように感じます。「学習」と「教育」について、全人的かつ進化発達まで含めて研究を進めてきました。論文として出版された個別の学術的成果や、成果の社会へ実際に応用する試み(社会実装)も多いのですが、それ以外にも人間自体をより深く知ることによって、人々の安寧(安心・安全)や私たちがより積極的に生きてゆくためのヒントも見出されたと思います。

一つは、「遺伝と環境の動的相互作用」という視座に関するエビデンスが、大規模な一卵性・二卵性双生児研究やジーンチップによる準リアルタイム遺伝子発現解析から見えてきたことだと思います。最近注目されている分子生物学のエピジェネティクス(Epigenetics)よりもさらに広義の概念で、従来の二分法、すなわち「遺伝因子か環境因子か」という議論ではなく、両者が相互作用しているという事実です。そのような仮説や部分的な反証などは、過去にももちろんありますが、実態が人間で見えてきたことは意義が大きいと思います。

もう一つは、生物の長い進化の中で、「快・不快」と「学習」のかかわりが生存の原動力で、それは人間の発展についても言えそうだということです。計画型研究の定藤規弘ニューロイメージング・グループリーダー(自然科学研究機構生理学研究所教授)らは、良い社会的評価を得てうれしく感じる際に報酬/報酬予測系の一部である線条体(被殻・尾状核)が賦活(ふかつ=活性化)することを、2008年に発見しました。同年に、公募型研究の「学習意欲」に関する研究グループ(代表研究者:渡辺恭良・理化学研究所分子イメージング科学研究センター長)も、課題を達成した喜びを感じた際に同じように線条体が賦活することを発見しました。

これらは学習に強くかかわります。線条体は、例えば、おサルさんを餌で調教する際に、うまくできたらご褒美のジュースやバナナを与えることによって賦活する脳部位です。今回、精神的な快感・満足感についても、古典的な報酬系関係が働くということが発見されたのは重要な意味を持つと考えています。人間は、たとえ自分の利益にならなくても、他の人が喜ぶのを見るだけで、お金や食べ物などの物質を得たときと同じか、それ以上の喜びを感じることができる可能性があるからです。古代インド哲学から仏教に取り入れられた「慈悲喜捨」(「四無量心」:量ることのできない心)にも関係してきます。幸福感や満足感も、幼少期を通じて育まれてきた価値観次第といえるかもしれません。

―すると、所得が増えれば幸福につながるという従来の経済学の考え方も、見直しが必要と考えられるのですか?

はい。事実、東大東洋文化研究所が関係したアジア諸国の幸福感調査の結果でも、所得が低い国の方がむしろ幸福感が大きいという思いがけない事実が見出されています。一般には、衣食住が満たされるまでの所得水準では、所得は幸福度とおよそ比例するというデータがありますが、それ以上の所得の段階では、個人差が大きいことが見出されています。日本国憲法13条の基本的人権に含まれる「幸福追求権」についても、これからの時代は脳科学からのアプローチが必要になるかもしれません。

―脳を知るということは、まさに人間を知ることになるのですね。

そのように感じます。そして「人々の安寧とよりよき生存ための科学技術」(Science & Technology for Human Security and Well-being)というのが自分の目標です。

―現在の混迷を深めるわが国の現状を鑑みて、この研究はどのように位置づけたらよいでしょうか?

この研究をさらに発展させることが、焦眉(しょうび)の急であると思います。日本は典型的な資源小国です。エネルギーの自給率はわずかに4 %、食糧の自給率も40 %以下です。その意味で、唯一のわが国最大の資源は「人材」です。この人材を生かす道は、ひとえに「人材教育」にかかってくると考えられます。「人材教育」こそ、傾き始めているこれからの日本の将来を担うことになるという信念で、この約10年にわたる「脳科学と教育」プログラムを進めてきました。実は、広範な教育の範疇(はんちゅう)の中には義務教育というものもあるので、「守り」のように感じられる場合もあるのですが、本質的には典型的な「攻め」の施策です。

私自身、最初に「水俣病」の原因解明に役立たせるために、水銀の分析計から研究に入り、原子分光分析から分子分析へと入って、当時の公害問題から現在の地球環境問題へと進んできました。その一方で、MRIやMRA,そしてfMRIの開発、あるいは近赤外を黎明(れいめい)期から実用化まで手がけて来ましたので、医療分野にも深く関係してきました。その意味で「環境」分野にも「医療」分野にも思い入れはあるのですが、いつも悩んでいることがあります。「環境」も「医療」も、その本質は「守り」であることです。例えば、オゾン層がフロンで破壊されて紫外線が降ってくるというのは、家庭で言えば、屋根が壊れて雨漏りがすることに相当します。雨漏りしないように修理せねばならないのです。

二酸化炭素(CO2)による地球温暖化も、換気の悪い部屋で火をたいているようなものです。また、一家の働き手が病気で倒れて入院したならば、できるだけ良い医療で早い復帰を期待することになるわけです。このように「環境」と「医療」は、生活にとってみれば「出費」であって、その費用を賄うには何らかの「収入」を別に得ねばならないのです。ですから、国のレベルで環境と医療に力を入れるに際しては、どのような分野と関連付けて国家の「収入」を確保するかを明確にする必要があります。例えば「環境立国」を標榜するためには、「環境」を、実収入に結びつけるような産業振興に結びつける道を論理的・定量的に示さねばなりません。環境に優しくてもコストがかかるような代替エネルギーの開発には、そのコストを保障する実収入を得る道筋を定量的に示すことが大切です。

一方、「教育」は、どのような分野で行うにしても、生産性の向上や、問題を低減する基本的な力を与えるものです。したがって、強力な「攻め」の施策です。今回の「脳科学と社会」あるいは「脳科学と教育」は、まさにこの「攻め」にも寄与する可能性が高いのです。欧米の先進国を技術水準で凌駕(りょうが)し、また、躍進するアジアベルト地帯の国々の活力をも凌駕しなければ、人材以外の天然資源や国土に乏しい日本は、実収入を得て行く道がありません。言い換えれば「人材教育」しか残された道はないのです。さもなくば、ひっそりと片隅で生活する国に転げ落ちて行く可能性が高いのです。

この教育の原点になる学習のメカニズムや、精神の働きが随分と見えてきました。「脳科学と教育」プログラムは、この教育の原点を固めるための研究であったともいえるのです。卑近な例をとってみても、グローバル化戦略のなかでの「人材教育」で、韓国は英語力強化の教育方針を徹底しています。国際企業で比較すると、日本は大きく水をあけられています。「脳科学と教育(タイプII)」の中でも、非母語の獲得のコホート研究に力を入れましたので、斬新な成果が生まれています(代表研究者:萩原裕子首都大学東京教授)。この言語研究はOECDからも注目され、グローバル化における移民や格差の問題にもかかわろうとしています。

今後とも「人々の安寧とよりよき生存」のための科学技術をめざして、渾(こん)身の努力を続けたいと思います。

―最後に振り返って、何か一言。

今回の研究開発プログラムを通して、多くの魅力的な人々に出会えたのがほんとうに良かったと思います。自分の利益だけを考える人には、コホート研究はできません。Give, then, take! が大切だと思います。けれども、与えてばかりいただいてしまった方も中にはいらっしゃいますね。どこかで何とかお返しをしないと…。例えば、歌人の俵万智さん。「すくすくコホート」で、協力してくれた赤ちゃんのお母様や養育者の方々と、観察サイドの医師や心理士が取り交わした交換日記のような小冊子があります。バインダーでとじるカラフルでかわいい小冊子です。この中に、俵さんが、子育ての歌をプレゼントしてくださいました。送ってくださった素敵な歌は全部で101首(注)。心から感謝しています。

  • (注) 俵万智歌集『プーさんの鼻』として出版された(若山牧水賞受賞)。

(完)

小泉英明 氏
(こいずみ ひであき)

小泉英明(こいずみ ひであき) 氏のプロフィール
東京都立日比谷高校卒、1971年東京大学教養学部基礎科学科卆、日立製作所入社。計測器事業部統括主任技師、中央研究所主管研究員、基礎研究所所長、研究開発本部技師長などを経て、2004年から現職。理学博士。専門は分析科学、脳科学、環境科学。生体や環境中に含まれる微量金属を高精度で分析できる「偏光ゼーマン原子吸光法」の原理を創出(1975年)したほか、国産初の超電導MRI(磁気共鳴描画)装置(1985年)、MRA(磁気共鳴血管撮像)法(1985年)、fMRI(機能的磁気共鳴描画)装置(1992年)、近赤外光トポグラフィ法(1995年)など脳科学の急速な発展を可能にする技術開発や製品化に多くの業績を持つ。2001年度から文部科学省・科学技術振興事業団(現・科学技術振興機構)「脳科学と教育」研究総括、2004年度から研究開発領域「脳科学と社会」領域総括。02年度から経済協力開発機構(OECD)「学習科学と脳研究」 国際諮問委員。国際心・脳・教育学会(IMBES)創立理事、MBE誌創刊副編集長。著書に「脳は出会いで育つ:『脳科学と教育』入門」(青灯社)、「脳図鑑21:育つ・学ぶ・癒す」(編著、工作舎)、『脳科学と学習・教育』(編著、明石書店)など。

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