脳の世紀シンポジウム(2008年9月4日、NPO法人脳の世紀推進会議 主催)講演から

科学と仏教がどうつながっているかいつも考えている。ご承知のように仏教は2500年前に釈迦がつくった。しかし、日本の仏教を釈迦の時代の仏教と思ったらとんでもない。釈迦の仏教はそのまま伝わっているのではなく、大きくそれも劇的に変わっている。スリランカ、タイ、ミャンマーなどに残っている仏教、小乗仏教は比較的、釈迦の時代の姿を残しているが、究極のところ世界中どこを探しても釈迦の仏教はない。私は文献を使い、痕跡を追って釈迦の時代の仏教がどういうものだったかを調べる仕事をしている。
釈迦は、われわれを造っている特別の存在はない。助けてくれと声を上げれば救ってくれるような存在などない、というところから出発している。一切は苦。すべては苦。自分たちの精神、心を変えないとそこから抜け出せない。苦をなくすためには自分自身を変えないといけない、ということだ。これは難しく大変で、努力と時間がかかる。自分の精神がどうなっているか、自分の心がどうなっているか、徹底して合理的に考えざるを得ない。だから釈迦の仏教は非常に厳しい修行を課す。自分の精神を見つめ、それを改造するにはどうするか。私(釈迦)がやっても大変だったのだから、君たち(弟子)も、仕事などやめてやりなさい。食事は人からもらいなさい。そのために鉢を持て。服など着るな。ぼろを拾ってきて縫い合わせて着なさい、と教えた。ミャンマーなどのお坊さんが着ている黄色い衣服。あれは「けさ」というが、「けさ」というのは「ぼろ」という意味。汚いという意味の言葉が中国でなまって「けさ」になった。
効率的に修行をする時間を作り出すには、個人より集団が適しているということで、お寺で集団生活をして修行に専念するという形ができた。すべては自分の精神がどうなっているかを見つめるためである。しかし後に入ってきた一神教的な考え方によって、釈迦の教えが崩れ、このユニークな形が全く違う形になってしまった。
禅宗の座禅のやり方も、釈迦の瞑想(めいそう)方法と同じではない。座禅では心を無にせよ、という。しかし釈迦は「心を一点に集中せよ」と言ったのだ。脳科学者が、瞑想状態にある僧の脳の状態を調べてアルファ波が出ているなどということを言っているが、仏教を一元的に考えると、思わぬ落とし穴にはまる危険がある。「仏教はきわめて多様な複合宗教だ」という理解がぜひとも必要である。
最近の脳科学によって、「自己を知る」という深遠なテーマが初めて科学になってきた。一方の仏教は、何十万、何百万という人々が積み上げて世界にも類を見ない高度な知の世界を生み出した宗教である。その成果は、大乗仏教の神秘主義に隠れてしまっているが「自己を理解しよう」という強い合理的精神に満ちている。仏教は科学と同じ基盤に立っている。
脳科学と仏教の間にある共通性に注目することで、科学と仏教がより高い視点で探求の道を進むことが可能になるだろう。

(ささき しずか)
佐々木閑(ささき しずか)氏のプロフィール
1979年京都大学工学部工業化学科卒、82年京都大学文学部哲学科卒、84年京都大学大学院文学研究科修士課程宗教学専攻修了、87年同博士課程単位取得満期退学。88-90年米カリフォルニア大学バークレー校南および東南アジア言語学科Ph.Dコース在籍。90年花園大学文学部専任講師、93年同助教授、2002年から現職。専門は古代インド仏教の法律論、教団史、アビダルマ哲学。科学と仏教の関連性についても考察を続ける。文学博士。著書に「出家とはなにか」「インド仏教変移論」「犀の角たち」(いずれも大蔵出版)。訳書「鈴木大拙著 大乗仏教概論」(岩波書店)。