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「東京2020」をレガシーに —熱中症の科学、対策にどう生かすか—

2019.08.23

丸山恵 / サイエンスライター

 8月も下旬を迎えたがまだ全国的に暑い日が続いている。「災害級」とまで報道されるようになった日本の夏の暑さ。昔は少なかった「猛暑日」にも驚かなくなってしまった。来年の夏には東京オリンピック・パラリンピックが開かれる。猛暑対策が検討されているようだが、熱中症対策は十分なのか心配だ。熱中症研究の第一人者である平田晃正さん(名古屋工業大学大学院教授)は、人に焦点を当てたコンピューターシミュレーションでこの問題に挑んでいる。平田さんの昨年5月の発表によると、熱中症リスクが特に高いのは、まだ暑さに不慣れな梅雨明け後。(注1)それが今年さっそく立証された。7月下旬の本州の梅雨明け後、全国の熱中症搬送者は前週の約3倍(5664人)にはね上がった。(注2)来年も梅雨明けが遅くなれば、7月24日からのオリンピック大会への影響は避けられそうにない。そんな不安がよぎる中、平田さんらのデータは、日本が熱中症対策の先進国として世界をリードする立場であり、対策に関する技術力が極めて高いことに気づかせてくれる。社会はこれらをどう受け止め、どう生かせるだろうか。

熱中症予防に欠けている「時間」の概念

 最近の夏の天気予報は、「厳重警戒」や「危険」のマークが地図上にずらりと並ぶ。熱中症予測としておなじみだ。「原則運動禁止」という表記もすっかり定着した。では、「駅から20分歩くのは禁止?」と聞かれたら気象予報士さんも困ってしまうのではないだろうか。

 現在の熱中症対策には「時間」の概念が欠けている。「運動」は控えることができても、“駅から職場まで歩く”など生活上避けられない「活動」がある。一方で、その活動を「○分までなら行なっても大丈夫」と教えてくれるツールはない。これに着目した平田さんら名古屋工業大学と海洋研究開発機構(JAMSTEC)、科学技術振興機構(JST)の共同研究グループは、あるシミュレーションを行った。「夏の暑い日、東京の街を20分ほど歩いたら、体温はどのくらい上がるか?」

 舞台は、東京駅が中心の2キロメートル四方のエリア。東京オリンピックのマラソンコース沿いの通りを、大人と子どもが時速4キロで歩くことを想定した。まずは下の動画を見てほしい。サーモグラフィーが見せる人体と街の温度変化に注目だ。(注3)

研究成果のシミュレーション動画(YouTube JAMSTECチャンネル「都市空間での詳細な熱中症リスク評価技術の開発に成功 〜より安心・安全な行動選択に向けて〜」)。2015年8月7日14時頃(晴れ、気温35℃、湿度50%)を想定。平田さんらが開発してきた「人体コンピューターモデル」と海洋研究開発機構(JAMSTEC)のスーパーコンピューター「地球シミュレータ」を組み合わせ、高精度なシミュレーションを実現した(名古屋工業大学、JAMSTEC、JSTの研究グループ提供)

かなりリアル!東京の街の熱中症リスク

注目ポイント1:体温変化

 20分程度歩いただけでこんなに体温が上がるのか!と驚いたのは筆者だけだろうか。

歩行前(上)と後(下)の体温変化と体温分布。日なたを歩いた場合の腕や頭の温度上昇が明確に示されている(名古屋工業大学、JAMSTEC、JSTの研究グループ提供)
歩行前(上)と後(下)の体温変化と体温分布。日なたを歩いた場合の腕や頭の温度上昇が明確に示されている(名古屋工業大学、JAMSTEC、JSTの研究グループ提供)

 特に日なたを歩いた場合は、頭や腕を中心に体温上昇が顕著だ。子どもの体温の上がり幅は、普段子どもと過ごす機会のある方は十分うなずける結果だろう。夏の日中、すぐに熱のかたまりのようになってしまう様子がはっきりと視覚化されている。

 ただし、この程度の体温上昇が危険なレベルかどうかの判断は難しい。少なくとも国内の熱中症ガイドラインでは、体温上昇をもとに熱中症リスクを判定するものはない。海外では、アメリカ政府が「体温上昇を1℃までに抑える」とする労働環境の熱中症対策がある。研究チームはこれを考慮に入れ、シミュレーションの体温上昇は「熱中症のリスクを無視できない」と見ている。

注目ポイント2:街の温度分布

 「気温35℃」といっても、実際にいる場所によってはそれより暑いことを私たちは経験的に知っている。しかし、具体的にどこがどのくらい暑くなるかは、土地を熟知していない限り分からない。このシミュレーションは、それを視覚的に示した点もユニークだ。どの交差点が暑いか、道のどちら側が暑いか、などが明確に分かり、インパクトがある。

青や緑色がベースのエリア(35℃以下)のあちらこちらに、?〜赤色(35℃以上)が炎のようにゆらゆらと立ち上る(名古屋工業大学、JAMSTEC、JSTの研究グループ提供)
青や緑色がベースのエリア(35℃以下)のあちらこちらに、?〜赤色(35℃以上)が炎のようにゆらゆらと立ち上る(名古屋工業大学、JAMSTEC、JSTの研究グループ提供)

 このようなピンポイント予測を可能にしたのが、桁外れの解像度だ。通常の気象予測は1キロメートル四方を最小単位で捉えるところを、5メートル四方で捉えている。つまり水平解像度は従来の4万倍だ。さらに垂直方向を加味すると、何と8万?80万倍の解像度になるというから、その精度の高さがうかがえる。

「データをどう活用するか」問題

 目の付けどころやビジュアルに訴える見せ方に感心すると平田さんが説明してくれた。

 「使ってもらいたいから見せているんです」

 シミュレーション動画を公開した平田さんの切実な願いだ。東京オリンピック・パラリンピックの熱中症リスクはどんなに低く見積もってもゼロにはならない。だからこそ「こんなに暑いんだ、体温も上がるんだ」とデータで示した。平田さんが思いをめぐらせるのはその先。どうやったら世間の問題意識が高まり、リスクを回避できる正しい行動に結びつくのか—。

 平田さんはこれまでにも熱中症の啓蒙活動に積極的に取り組んできた。個人の熱中症リスクをリアルタイムで判定する「熱中症セルフチェック」(注4)や、地元名古屋のテレビ局でも活用されている「熱中症の搬送者数予測」(注5)はその例だ。今回もおもしろいアイデアを打ち明けてくれた。シミュレーション技術を地図アプリに連動してはどうか、というのだ。

 例えば、スマートフォンの「ルート検索」で、その日の天気や個人の年齢に応じて熱中症リスクも予測し、正しい行動を提案してくれたら…。体温が上がってきたらアラームで休憩を促す機能や、気温の高いスポットを避けるルートをオススメしてくれる機能も入れば、手頃で頼れるツールになりそうだ。暑い日の「活動」を可能にするのは、「こまめな休憩」と強調する平田さんの知見が生きる。

 今回紹介したシミュレーションの技術力の高さを考えれば、このアイデアの実現可能性は高いだろう。しかし、このアイディアに限らず、研究成果がオリンピック・パラリンピックの熱中症対策に実用化されるかは現段階では見通せない。平田さんも言葉を濁す。

 「データを生かして、人々が正しい行動を選べるよう誘導するシステムをつくることは私たちの大きなゴールです。それは、研究者だけががんばってできることではありません。社会全体を動かすような大きなパワーが必要です」

熱中症を「自分ごと化」できる仕組みづくりを

 現在、東京オリンピック・パラリンピックの熱中症対策として実際に取り組まれているのは、ミスト整備、道路やベンチへの遮熱塗装などの設備対策が中心で、人々の行動に直接アプローチするものは少ないように感じる。その理由は対策の難しさか、対策の重要さが認識されていないのか。

 「一番必要なのは、熱中症のリスクを管理してあげること。さらに、とるべき行動を提案できれば究極でしょうね」

 平田さんの指摘のポイントを考えると、選手や大会ボランティアはリスク管理がしやすい。彼らにはサポートする立場の人がついている。このため大会前に暑さに慣れさせることや、大会中に活動時間と休憩時間を徹底的に管理することなどが可能だ。

 一方、一般の観客についてはリスクの徹底管理は難しい。大会を組織・運営する側がいくら呼びかけても、行動は個人の意思に委ねられる。競技中にトイレに行きたくならないように水分を控えてしまう…そんな心境は容易にイメージできてしまう。誤った行動への誘惑を断ち切り、リスク情報を自分ごとと受けとめるアンテナの感度をいかに高めていくか。個人だけの問題でもないし、大会組織や国だけの問題でもない。技術だけの問題でもない。みんなが同じ方向を向いて行くことで社会全体を動かす大きなパワーが生まれるのではないだろうか。

 暑さの中で行われたアトランタ大会では多数の熱中症患者が出たとされる。しかし、それらを教訓として生まれ、伝承される対策はない。そればかりかしっかりとした対策につながるデータも満足に残っていないという。そこで平田さんは、来年の東京大会を「レガシーとして、将来のオリンピックに熱中症対策の教訓を残す」役割もあると位置づける。

 熱中症を防ぐために人々の行動に訴える「スマート」なシステムと、一人ひとりの「スマート」な行動。それらの行動によって「こんなに暑くても熱中症を防げるんだ!」と世界にアピールできるロールモデルになれたら—。熱中症対策としての「東京のレガシー」は、貴重で偉大な対策として後世のオリンピックに伝承されていくだろう。

(サイエンスライター 丸山恵)

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