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「人を幸せにするロボット」とは? 第56回SGRAフォーラムレポート

2017.04.04

 あなたは、ロボットが人間に反乱を起こす日が来ると思うだろうか?

 近年、日本のみならず世界中でヒト型ロボットの開発が行われ、また車両の自動運転などロボット技術の社会応用も進んでいる。その一方で人工知能の進化によるシンギュラリティ(技術的特異点)、つまり、人工知能やロボットが人間の能力を超え、人間の仕事を奪うという将来への不安も取り沙汰されている。

 果たしてロボットは人間を幸せにするのか、ロボットが「こころ」を持つ日は来るのか、そもそもロボットとは何なのか。2017年2月11日に東京国際フォーラムを会場に行われた第56回SGRAフォーラムでは、日本のロボット研究の第一人者である稲葉雅幸(いなば まさゆき)東京大学大学院情報理工学系研究科教授をはじめとする工学者と、(ロボットからだいぶ遠いと思われる)古代ギリシャを専門とする哲学者が、「人を幸せにするロボット」について自説を述べ、ディスカッションを行った。

真に人間をサポートするヒト型ロボットの開発を目指して

 稲葉氏は、「夢を目指す若者が集う大学とロボット研究開発の取り組み」と題して、同研究室のヒト型ロボットを中心とした研究について基調講演を行った。

写真1.稲葉 雅幸 氏 提供:SGRA
写真1.稲葉 雅幸 氏 提供:SGRA

 稲葉氏は、1981年に学部生で配属されてから現在まで、一貫して情報システム工学研究室に所属しロボットの研究開発を行ってきた。当初は知能ロボット研究用のロボットアームを用いて探り、動作生成や柔軟物のハンドリングの研究を行っていたが、アームだけではなく脚部や頭部など全身を有するロボットを作り、そこから得られる知見を通じて人間の多彩な全身運動の習得過程を解明することを目的に、1993年に16個のモータを有する小型ヒト型ロボットを開発した。

 2003年には新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)が実施する「人間協調・共存型ロボットシステムプロジェクト」で開発された、人間と同等のサイズのヒト型ロボット研究プラットフォームを大学での教育研究用に導入した。等身大になることによって、人間が使用する道具や設備を扱うことが可能となり、人間と同じ環境下で人間を手助けするロボットの実現へと一歩を踏み出した。しかし開発されたプラットフォームは出力に限界があり、瞬発力と背骨をもち全身にしなやかさのある人間からは大きく劣っていた。研究室では、人間と同等レベルの速度と出力を実現し、真に人間をサポートするロボットを開発するための研究と、人のように背骨を持ち全身のしなやかさを持つ筋骨格型ヒューマノイドの研究が進められた。

 折しも2011年に東日本大震災に伴う福島第一原子力発電所の事故が発生し、人間の作業員が立ち入ることのできない高い放射線量下で、ロボットを使っても、事態の収拾に向けた作業を思うように進めることはできなかった。原子力プラントでの操業を目的としたロボットシステムも過去に研究開発されてはいたが、現場に配備して実際に利用するレベルとは到底言えないものであった。もしも事故発生後24時間以内に何らかの方法で発電所内のバルブの開閉を行うことができていたら、その後の状況は変わっていたとの指摘がなされた。その反省を背景として、米国国防総省による災害救助ロボットのコンテスト「DARPAロボティクスチャレンジ」では、「実環境下で人間と同じツールを用いて作業を遂行するロボット」という世界共通の課題が提示された。

 DARPAロボティクスチャレンジへの挑戦のために、2012年、東大教員の職を辞しベンチャー企業「SCHAFT」を創業したのが、稲葉研究室の卒業生である中西雄飛(なかにし ゆうと)氏と浦田順一(うらた じゅんいち)氏である。SCHAFTはその後Googleに買収され、2013年12月に開催されたトライアルで優勝した後はDARPAロボティクスチャレンジも辞退したが、同社には20名近くの稲葉研究室の卒業生が集まり、ロボット開発を行っているという。

 その一方で稲葉研究室もNEDOとDARPAの共同による災害対応ロボット開発プロジェクトに参画し、電磁モータ駆動によるヒト型ロボット「JAXSON」を開発した。「これまでできなかったことを、これまで誰もやったことのない方式でできるようにする」ことを目指して開発された「JAXSON」は、SCHAFTと同様に人間が蹴っても倒れない高機動性を実現するために、水冷式のモータ冷却技術を採用することで高出力を生み、さらに、全身が筋骨格の新しいヒューマノイド「腱悟郎」において「汗をかかせる」、つまり気化熱を利用して冷却効率を上げるという手法を用いて持続力を生み出す工夫をしている。

写真2・3.「JAXON」(左)と「腱悟郎」(右)  提供:東京大学情報システム工学研究室 稲葉研究室
写真2・3.「JAXON」(左)と「腱悟郎」(右) 提供:東京大学情報システム工学研究室 稲葉研究室

稲葉氏によれば、ロボットとは、「感覚と行動の知的な接続法の研究」であり、「先端技術の総合芸術」であり、「工学分野における複数の技術の融合・統合体」であるという。稲葉研究室では学生めいめいが小型のヒト型ロボットを作り動かすことで、多様な技術を広く体験して研究テーマとなる問題を自分自身で発見し、それを深めていくスキームを経験できる。稲葉氏は、そのようなロボット研究開発について、「“苦労”と感じるかもしれないけれど、同時に“幸せ”なことでもある」という考えを示した。

SF作品が牽引したロボット像構築の明暗

 李 周浩(りー じゅほ)立命館大学情報理工学部教授は「ロボットが描く未来」と題し、SF作品などを通じて描かれるロボットとその未来技術、そして社会におけるロボット技術の在り方について話題提供を行った。

写真4.李 周浩 氏 提供:SGRA(以下、全て)

 李氏は韓国出身で、幼少の頃に観た「マジンガーZ」をはじめとするロボットアニメに魅了され、ロボット科学者の道を志したという。「それらのSF作品が、私の人生を作ったと言っても過言ではない」と語り、SFは「予想できる未来」「なってほしい未来」「なってはいけない未来」のどれかを描く未来の預言であり、ロボットはそれらSFの主役として多くの人に影響を与えていると述べる。また、人びとが抱く「ロボット」の印象は、それらを舞台に展開されるロボットのあるべき姿やロボットの脅威などを通じて構築されていくという。

 SF小説の世界では、1920年に『ロッサム万能ロボット会社(Rossum’s Universal Robots)』の中で「ロボット」という言葉が生み出されて以来、58年に発表された星新一のショートショート『ボッコちゃん』では人間の理想を映すものとしての、69年に連載が開始された藤子・F・不二雄のマンガ『ドラえもん』では友達としてのロボットが描かれた。フィリップ・K・ディックの小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(68年)では、感情や記憶を有し見た目も行動も人間とそっくりな人造人間を「殺して」いいのかどうかという問いが読者に投げかけられ、映画「STAR WARS」では従順な僕としてのロボットが、また最近の映画「ベイマックス」では人間と共存するロボットのあるべき姿が描かれている。

 これらの作品を通じて「ロボット」は、単に人間のために労働力を提供する機械としてだけではなく、人間が全知全能の創造主として自らの夢や希望を投影できる対象であり、人間を理想として発展する唯一の技術として、また、人々に夢を与えるものとして、人びとの中でイメージが構築され、実際のロボット研究開発にも影響を与えてきた。

 一方、現実のロボット技術はどこまで来ているのであろうか。1400年代の活版印刷から1700年代の蒸気機関へと緩やかに進んでいた科学技術の発展は、1950~70年代から急速に加速し、目覚ましい進歩を遂げてきた。IT技術の調査会社である米国のガートナー社が独自のテクノロジ-の評価指標として定期的に発表している「Hype Cycle」では、技術の発展を「黎明期(技術の引き金)」「流行期(過剰期待の頂)」「幻滅期(幻滅のくぼ地)」「回復期(啓蒙の坂)」「安定期(生産性の台地)」の5つの段階に分類しているが、2016年に発表された最新版においてスマート・ロボットは、流行期の前半つまり「期待のピーク」の直前に位置するとしている。その一方で、Martin Fordの著書『Rise of the Robots: Technology and the Threat of a Jobless Future(邦題:ロボットの脅威 ー人の仕事がなくなる日)』などに代表されるように、技術進歩が続くことによって労働者階層・中間層の雇用がロボットや人工知能に代替されることを危ぶむ声も少なからず耳にする。

 明暗はあれど、現在ロボットが脚光を浴びていることは事実である。それはロボットにとって得であるのか、それとも毒であるのか。マスコミが主導するロボット知識の普及では、見た目や動作が面白く、見栄えのする、すでに完成されたロボットは表に出やすいが、地味で困難な技術は陰に隠される傾向にある。李氏は、そのような現状を踏まえて、ロボットが描く未来はどうなるのかという問いを後半のフリーディスカッションに投げかけ、講演を締めくくった。

「ロボットの心」は「人間の心」と合わせ鏡

 3人目の講演者である文 景楠(むん きょんなみ)東京大学教養学部助教は、古代ギリシャ・アリストテレスを専門とする哲学者である。本フォーラムでは「ロボットの心、人間の心」と題して、「ロボットは心を持つのか?」という問いにアプローチした。

写真5.文 景楠 氏

 文氏は冒頭で「自信を持って最初にお伝えしておきますが『ロボットは心を持つのか?』という問いに、確たる答えを出すことはできません」と宣言し、この問いに直接Yes/Noで答えるのではなく、この問いに答えるために何が必要か、またこの問いへの答えはなぜ難しいのかを考えることが、今回の講演の目的であるとした。

 人間に似た形状のロボットが人間と同じような動作をしたり、人間と似た音を発したりすると、人間は親しみを覚え、そのロボットが心を持っているかのように感じることがある。しかし「それは錯覚である」と他者から言われると、それも否定できないであろう。ロボットは心を持つのか?という問いに答えるためには、そもそも「心とは何か」、「『心を持つ・持たない』をどうすれば判定できるのか」という2つの問いに先に答える必要がある。

 「心とは何か?」。この問いに対しては、「心とは魂や霊魂である」「脳である」「脳またはそれ以外の物質が実現している機能である」「心というものは存在しない」など、これまでに多くの回答が示されてきた。だが、そのどれもが多くの人々の合意を得るまでには至っていない。例えば「心とは脳である」としても、身体から切り離された状態の脳には、心があるようには思えない。その一方で、脳という器官をもたない生物であっても、痛みや苦しみといった何かを感じているように見える場合もある。そこで、とりあえず、心とは「痛みを感じるような何か」と、曖昧に定義してみる。その定義の上で、「『心を持つ・持たない』をどうすれば判定できるのか」という第二の問いを立て、答え=「人間らしいそぶりを示す」について考察してみる。

 ここで痛みに対する人間らしいそぶりを「痛い表情を見せ、身体にあざができた」とすると、それに相当するような振る舞いをするロボットが開発された場合、われわれはそのロボットに心があると認めざるを得なくなる。しかし、全ての人がそれを納得して受け入れるだろうか? 現実では、それらの振る舞いは見せかけにすぎず、ロボットに心などないと主張する人も現れるであろう。

 このような膠着状態から抜け出して、上で与えた答えを守り抜くために、次のような状況を考察してみよう。もしも、あなたのことを「心を持っていないロボット」と信じ込んでいる人がいた場合、あなたはどうやって自分が心を持っていることを示すだろうか。自身を殴らせて痛みを感じている表情や様子を示しても、それはただの「ふり」であると言われてしまう。殴られた結果生じる身体のあざを示しても、そのような見た目を生じさせる巧妙なつくりのロボットだと言われてしまえば反証はできない。ここで重要となるのは、「人間らしいそぶりを示す」ことを、心を持つことの徴(しるし)として受け入れない場合に生じる帰結の不都合さである。これを受け入れることを拒んでしまうと、われわれは、ロボットはもとより、ほとんど全ての人間に対しても、心を持っていない可能性を考慮しなければならなくなる。だが、身近な人に対して心の存在を疑うことは困難であろう。

 「ロボットが、“ほとんど人間と同じような仕方で痛みを訴え物質的な印(しるし)を見せている”場合、それは心を有していると考えるべきです」と文氏は述べる。「しかし“人間と同じように”というのが一体何を指すのかの基準が明確にならなければ、この議論はほとんど無意味となります。痛みを例にとれば、胎児はどの段階から標準的な人間と同じように痛がるのか、逆に死にゆく人はいつ痛みを感じなくなるのかなど、“人間らしさ”の基準の曖昧さは、ロボットに限った話ではありません。このような曖昧さを考慮すれば、結局、“ロボットが心を持つことはありえない”と断定すべき根拠はないのであって、どういうロボットが心を持つロボットなのかについては、(どういう状態の人間が痛みを感じるのかと同じく)さらなる議論が必要となります」(文氏)

 幸い人間に限りなく近い振る舞いをするロボットはまだ現れていない。そのため、「ロボットが心を持つか」という問いは、「心を持つとはどういうことか」という問いを経由して、「われわれ人間が人間(の心)をどう理解しているか」「われわれは心を持っているのか」という問いの鏡として表れる。「ロボットは心を持つか」の問いを考えることは、われわれ人間の自己理解を問い直すものとして重要であるとの考えを示し、文氏は講演を締めくくった。

ロボット技術の本質を伝え、「人を幸せにするロボット」を考えていくために

 最後の講演では、物書きエンジニアを名乗る瀬戸文美(筆者)が、「(絵でわかる)ロボットのしくみ」と題して、ロボットや科学技術を一般に広め身近なものとするにはどうしたらよいかの方法論について、自身の著書である『絵でわかるロボットのしくみ』を例に語った。

写真6.筆者

 こと人型ロボットにおいては、見た目や構造が人間と似ているため、技術的に困難である・なしにかかわらず、人間が行っていることは当然ロボットにもできるはずというバイアスが見る側にかかってくる。例えば、ロボットにとっては非常に困難な「二足歩行」でも、見る側の人間には「走る『だけ』で何がすごいのか」という感想を抱かせてしまう。そうした誤った見方を正し、ロボット技術を発展させるためには、姿形や派手な動きといったロボットの表面的なことだけではなく、その裏に存在する技術や、技術者・研究者について伝えることが重要であるという考えを述べた。また、従来のロボット書籍は、写真を並べたカタログ的な紹介冊子と、専門的な教科書に二極化しているという問題意識のもと、それらとは異なるアプローチの一例として、数式や専門用語を用いずに分野全体の俯瞰を行いロボット工学へのはじめの一歩を踏み出すことを目的とした拙著の編集方針を紹介した。

 講演後のフリーディスカッションでは、「人間と同様のロボットが誕生した場合にどんな法的整備が必要になるのか」「心の一つの要素として、ロボットは自由意志を持てるのか」といった会場からの問いに、4名の講演者がそれぞれの見解を述べ、活発な議論が行われた。

写真7.フリーディスカッション風景

 SF作品などを通じて構築された「ロボット」のイメージは、ロボットの存在を身近で親しみのあるものとして感じさせ、研究開発への理解や分野全体の発展を支えてきた。その一方で、ロボットの反乱や暴走といった、人びとの不安をあおるようなネガティブなイメージも存在する。特にヒト型ロボットは姿形が人間に似ているがゆえに人びとの耳目を集めやすく、その結果明暗双方の影響を受けやすいといえる。

 本来ロボットを含めた全ての工学技術は、人びとの生活を豊かにし、人びとを幸せするために研究開発が行われている。姿形といった表面的な事象や現実の技術から乖離したロボットのイメージに、研究者はもちろんのこと技術の恩恵を受ける社会全体も振り回されることなく、正しい姿を見極めることが、ロボットと人間との幸せな未来の構築につながるのではないだろうか。

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