レポート

英国大学事情—2016年6月号「ラッセル・グループ加盟大学の研究インパクト」 前編 <Russell Group報告書「Engines of Growth :The impact of research at Russell Group universities」より>

2016.06.01

山田直 氏 / 英国在住フリーランス・コンサルタント

 英国在住約40年のフリーランス・コンサルタント山田直氏が、新しい大学の生き方を求め、イノべーション創出、技術移転などに積極的に取り組む英国の大学と、大学を取り囲む英国社会の最新の動きをレポートします。

 2015年11月、英国の有力大学24 校で構成されるRussell Groupによる報告書「Engines of growth: The impact of research at Russell Group universities」が公表された。この報告書はラッセル・グループ加盟大学による経済、社会、健康、文化等、多方面へのインパクトを伝えており、同グループによる社会へのPRの一環とも捉えることができよう。

 例えば、ラッセル・グループ加盟大学による240件の研究プロジェクトから、210億ポンド(3兆3,600億円※1)もの経済効果が上がっており、当初の研究投資額に対して約100倍のリターンとなっている。

※1 1ポンドを160円にて換算

 筆者注:210億ポンド(3兆3,600億円)の経済効果には、公的分野や産業界の生産性へのインパクト、効率向上による経費節減、ビジネス・プロセスや投資の促進等を含む。

 当ラッセル・グループ報告書は60ページにわたり、多数の興味深いデータや事例を掲載しているため、今回は特例として今月号にて前編、来月号には後編と、2カ月にわたり一部を抜粋して紹介する。

1.卓越した研究によるインパクト

* 2014年、6年ぶりに実施された大学の研究への公的評価であるResearch Excellence Framework(REF2014)のために、ラッセル・グループ24校から提出された「研究のインパクト事例」には、多くの優れた事例を見出すことができる。

* 当報告書では、ラッセル・グループ加盟校からREF2014のために提出された全3,256件の研究インパクト事例の中から、代表例として240事例をサンプルとして抽出して分析を行っている。その事例の多くは、経済的インパクトの他に技術的または政策的インパクトを伴っていることが分かった。

2.経済成長の原動力

2-1)研究投資からの大きなリターン

* 240のサンプル・インパクト事例のうち、48件は研究助成投資額を明記しており、その総額は1億9,900万ポンド(318億円)であった。この投資額に対して、間接的経済効果は210億ポンド(3兆3,600億円)と推定され、投資額の100倍以上となった。

【ケンブリッジ大学(University of Cambridge)の事例】

  • ケンブリッジ大学が開発した「Solexa-illuminaゲノム・シーケンシング技術」は、基礎研究への約27万ポンド(約4,300万円)の初期投資が、現在では7億5,000万ポンド(1,200億円)の年商を上げるビジネスに育っている。
  • 1995年にケンブリッジ大学化学科にて開発されたDNAのデコーディング技術は、いくつかの新会社を産み出し、現在では世界のゲノム・シーケンシング市場の66%を占める。
  • Solexa-illuminaゲノム・シーケンシング技術を利用した4,000 件を超える論文は公的政策にも直接的インパクトを与えた。2012 年には、英国政府は同技術がもたらした影響もあり、患者のケアの改善や更なる経済的価値を産み出すために、ゲノムとバイオインフォマティクス技術開発を支援する新たなフレームワークを発表した。

2-2)コンセプトから商業化までの画期的製品の開発

* ラッセル・グループ24校は、数の上では、英国の全大学の15%を占めるに過ぎないが、2013・14年度には以下のような大きな実績を上げている。

  • 英国の大学の知的所有権収入の71%、9,300万ポンド(149億円)を占める。
  • 3年以上存続し、現在活動中の大学発スピン・アウト企業の61%(約500社)がラッセル・グループ校からのものである。またラッセル・グループ大学発の現在活動中のスピン・アウト企業とスタートアップ企業の従業員数は合計約11,000名に上る。

* 240件のサンプル・インパクト事例の10件に1件以上が、スピン・アウト企業などの新規ビジネスの立ち上げに貢献した。そのうち、特に8社の新規企業は、2017年までに合計で39億ポンド(6,240億円)の価値を持つ企業に成長すると期待されている。

【マンチェスター大学(The University of Manchester)の事例】

  • 同大学の研究者を2010年のノーベル物理学賞受賞に導いた、1原子の厚さの炭素原子のシート素材である「グラフェン」の製造方法の発明は、グラフェン製造産業を産み出し、現在、大企業から中小企業まで210社が合計約2億ドル(220億円※2)の研究開発投資を行っている。

※2 1ドルを110円にて換算

  • 2008年以来、55社以上の新規企業がグラフェンの商業化活動に参入している。又、グラフェンを利用した最初の製品も既に製品化され、月1,000万ドル(11億円)以上の売り上げを計上している。
  • グラフェンの商業化のために、世界で少なくとも24億ドル(2,640億円)の公的研究やイノベーション助成がなされている。2011年の調査では、欧州の26カ国による研究助成を始め、米国、韓国、シンガポール、中国もグラフェン研究と商業化に大規模な助成を行っている。

【ロンドン大学(UCL/University College London)の事例】

  • 現在、多くの人が3Gモバイル・フォーン・ネットワークを利用して、会話をしたり、メッセージを送ったり、ビデオ・コンファレンス等をしているが、これらはUCLにおけるパイオニア的研究成果によるものである。
  • 1990年代、UCLのコンピューター科学科の研究者たちは、インターネットをベースにしたネットワークを利用して、複数の人の間の会話を実現すると共に、その回線の質を向上させるためのプロトコルとプロトタイプを開発した。
  • 彼らの研究は、UCLにて開発された二つのインターネット・スタンダードであるSession Initiation Protocol(SIP)とSession Description Protocol(SDP)を利用した通信技術につながった。現在では、SIPやSDP技術は多くの大手企業のPCやスマートフォンに利用されている。

【サザンプトン大学(University of Southampton)の事例】

  • サザンプトン大学のパイオニア的研究による、光ファイバーとレーザーの結合技術は、ファイバー・レーザー技術を利用した新たなビジネス分野を創生すると共に、広範囲の産業における製造、生産性および製造工程の改善にもつながった。
  • 工業プロセッシングにおける世界のレーザー市場は、2020年までに170億ドル(1兆8,700億円)に拡大すると推測される。
  • 今日、レーザーを利用した切削や溶接プロセスは、より強靭で安全な車や、より軽量で速く飛べる航空機を産み出している。また、ファイバー・レーザー技術は、インターネット・キャパシティーの増大、再生可能エネルギー源の創生、ヘルス・ケアの診断・治療等にも応用できると期待されている。
  • サザンプトン大学のファイバー・レーザー技術の開発は、同大学のスピン・アウト企業であるSPI Laser Ltd.を産み出した。現在、同社の年商は4,000万ポンド(64億円)に育っている。

2-3)広範囲な経済的利益

* ラッセル・グループ大学の研究成果は、公的分野や産業界に経費削減をもたらすと共に、生産性の向上にも貢献しており、広範囲にわたりポジティブなインパクトを与えている。

【エクセター大学(University of Exeter)の事例】

  • エクセター大学の研究成果によって、世界で3億5,000万人ともいわれるうつ病患者に対する、低費用でエビデンス・ベースの心理学を応用した心理療法がもたらされた。
  • イングランド地方のうつ病患者は、治療の第1段階として、エクセター大学が開発したこの心理治療を受けることができる。この心理療法は国民健康保険(NHS)に適用され、最初の3年間で100万名を超える患者がこの治療を受け、65%の患者の症状が著しく改善し、その回復率は45%を超えている。
  • このような効果によって、NHSは7億ポンド(1,120億円)の予算にて、心理療法を積極的に取り入れる治療プロジェクト「Improving Access to Psychological Therapies」を発足させた。

2-4)政策への影響

* 2014年に実施された研究への公的評価(REF2014)のために、ラッセル・グループ大学から提出されたインパクト事例の55%が、政府等の公的機関や民間企業の政策に影響を与えたと報告している。大学の研究は政策に影響を与えることによって、公的分野の効率や公的支出の改善と共に、産業界にも生産性の向上をもたらしている。

【インペリアル・カレッジ・ロンドン(Imperial College London)の事例】

  • インペリアル・カレッジ・ロンドンの研究者による、ファイバースコープS状結腸内視鏡検査(flexible sigmoidoscopy)を用いた大腸がんの新たな検査方法の開発を受け、政府は今後4年間で6,000万ポンド(96億円)の予算にて、この新検査方法を全国的に普及させる計画である。
  • これまでのところ、この新検査法によって大腸がんの発症率が3分の1に減ると共に、致死率も43%減少し、NHSに大きな経費削減をもたらしている。
  • 英国のウェルカム財団に次ぐ規模を持つ、英国の医学系研究チャリティー機関であるCancer Research UKのチーフ・エグゼキュティブは、「我々の機関では、ブレーク・スルーという言葉はあまり使わないが、このインペリアル・カレッジの大腸がん検査方法は、非常にまれなブレーク・スルーの研究成果である」とコメントした。

3. 健康と生活の質の改善

* ラッセル・グループ大学の研究インパクト事例のうち、約3分の1が健康へのポジティブなインパクトを示している。

【ニューキャッスル大学(Newcastle University)の事例】

  • ニューキャッスル大学の研究によって、もともとはアルツハイマー病のために認可された薬(CHEIs)を認知症とパーキンソン病の患者にも適用できるようになった。同大学の研究者はCHEIsの投与によって、大きな副作用もなく、患者の症状が大きく改善したことを確認した。
  • 今まで、これらの病気に対する効果的な薬がなかったため、CHEIsは国内外における治療のガイダンスに推奨された。

4. 社会への利益と文化的生活の向上

* ラッセル・グループ大学によるインパクト事例の47%が社会にインパクトを与えているとしており、そのうち35%が社会科学分野の研究によるものである。また、文化的インパクトの59%がアーツ・人文科学研究の成果による。

【リバプール大学の事例】

  • リバプール大学における犯罪心理学(Investigative Psychology)の研究によって、テロ攻撃、テロリストの告訴、幼児への性的虐待等のリスク管理に、犯罪現場の行動とその背景の特性を結び付ける、新たなエビデンス・ベースのアプローチが開発された。
  • この研究成果は上級捜査関係者への訓練にも利用され、現在では6カ国における訓練に活用されている。英国の国内治安を担当する保安局(MI5)は、同大学の研究成果を基に、2001年から12年までに合計312名を有罪に導いた。

【オックスフォード大学の事例】

  • オックスフォード大学の歴史学、政治科学および社会学にまたがる学際的研究プロジェクトは、中国における消費者主義(consumerism)の発展の歴史に焦点を当てた。その研究成果は、西洋諸国の政策立案者や産業界の指導者たちが中国の消費者主義とその結果をより理解するのに貢献した。
  • これにより、英国の大手石油企業や保険会社などは、中国における変化しつつある個人消費者の期待感に対応するための体制を整えることができた。

5. 共同研究と学際的研究の重要性

* 英国内または海外の研究機関との共同研究は、卓越した研究成果を産み出すために重要である。ラッセル・グループの240件のサンプル事例のうち、69%が共同研究パートナーとの共同研究成果である。また、学際的研究も画期的アプローチを導き、知識の発展のみならず経済、環境、社会等の多方面への利益をもたらす場合が多い。

5-1)学際的研究がもたらす、より大きなインパクトの可能性

* REF2014のために提出されたラッセル・グループの研究インパクト事例のうち、240件のサンプル事例では 59%に当たる141事例が2分野以上の学問にまたがる研究であった。3分野以上にまたがる学際的研究も11%、25事例に上った。

* 以下のように、2つの学問分野の学際的研究成果よりも、3つ以上の学問分野の学際的研究成果の方が、より大きい経済的、技術的インパクトを与える結果となった。

【クィーン・メアリー・ロンドン大学(Queen Mary University of London)の事例】

  • クィーン・メアリー・ロンドン大学の工学・材料学科の研究者は、同大学の化学研究者や外科医と共同で、膝や股の関節置換手術等に利用できる合成骨移植(synthetic bone grafts)用材料の開発に成功し、この医療材料は2012年には世界市場の約10%、5億1,000万ドル(561億円)の売上げを占めるまでになっている。この材料は、今までに世界30カ国の37万名以上の患者に用いられた実績を持つ。
  • 同大学は、この新材料を商業化するためにApaTech社というスピン・アウト企業を設立し、9年後の2010年には、米国の多国籍医療技術企業に2億2,000万ポンド(352億円)にて売却された。

5-2)共同研究とクリティカル・マスによる成長

* ラッセル・グループ大学は高額な設備を有効に活用することに力を入れており、アクセスの向上や重複を減らすために、大学間又は企業との間で研究施設や機器の共同利用を行っている。

  • 240のサンプル事例では、317の主要な共同研究パートナーが見出された。また、最も多い共同研究パートナーは国内外の大学であり、37%を占めた。次いで、公的機関が22%、民間企業が20%であった。

【ヨーク大学(York University)の事例】

  • ヨーク大学の構造生物学研究所(Structural Biology Laboratory)における研究から生み出された、糖尿病患者向けの即効性注射型インシュリンによって、患者は毎日1回の注射にて血糖値を管理することが可能になった。
  • 同大学はデンマークの多国籍製薬企業との共同研究開発を行い、その研究成果は1999年に製品化された。現在では世界の3,500万人のタイプ1型の糖尿病患者に利用され、2012年には約60億ドル(6,600億円)を売り上げている。

* 2013・14年度には、ラッセル・グループ大学は民間企業から9億300万ポンド(1,445億円)の契約研究を受託した。この額は、英国の全大学が企業から受けた契約研究の76%を占める。

5-3)公的サービスの向上のための共同研究

* ラッセル・グループ大学は、公的投資のインパクトを最大化するために、地方および国レベルの公的サービス・パートナーとの共同活動を通じて、英国の公的サービスや大規模な公的プロジェクトの効率化にも重要な役割を担っている。

【ケンブリッジ大学の事例】

  • ケンブリッジ大学の、イノベーションに関する賞を受賞したゼロ・カーボン・デザインのプロジェクト「Design and Delivery of Robust Hospital Environments in a Changing Climate (DeDeRHECC)」は、熱波による患者の死亡防止や空気感染する細菌等への病院の対策をサポートするために利用されている。
  • 同大学の研究成果は、国民健康保険(NHS)がすでに所有している高価な機材の在庫を無駄にすることなく、病院の建物に新鮮な空気と安定した温度を供給するシステムを可能にした。これによって、多くの病院は比較的安価で容易に気候変動への対応ができると期待されている。

当レポートの後編は「英国大学事情2016年第7号」に続く。

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