英国在住30年以上のフリーランス・コンサルタント山田直氏が、新しい大学の生き方を求め、イノべーション創出、技術移転などに積極的に取り組む英国の大学と、大学を取り囲む英国社会の最新の動きをレポートします。(毎月初めに更新)
筆者は今までに、この「英国大学事情」シリーズで、英国の大学の研究者などに多額の研究助成をしている英国の大手チャリティー機関として、ウェルカム財団とキャンサー・リサーチUKを紹介したことがある。今月号では、英国の労働党政権下で科学技術担当大臣を1998年から8年間務めたセインズベリー卿(Lord Sainsbury)が設立したギャツビー慈善財団(Gatsby Charitable Foundation)の概要と研究助成活動を紹介する。同財団はウェルカム財団やキャンサー・リサーチUKに比較すると助成額はそれほど多くはないが、自然科学に限らず、人文・社会科学分野まで幅広く助成しているのが特徴である。
【1. 財団の概要】
- ギャツビー慈善財団は、英国の大手スーパーマーケット・チェーンの創業者で慈善活動に熱心な一族に生まれたDavid Sainsbury氏によって1967年に設立された。同氏は、今までに同財団に総額10億ポンド(1,300億円(*1))を超える寄付をしている。
- セインズベリー氏は、ケンブリッジ大学キングス・カレッジにて歴史と心理学を専攻し、1963年に卒業したのち、家業の大手スーパーマーケット・チェーンに入社した。その後、コロンビア大学ビジネス・スクールにてMBAを取得後、同社の財務担当役員を経て、1992年には会長になった。
- 数々の非常勤の公職を歴任した後、1997年には一代限りの終身貴族であるLordの称号を与えられ、上院議員となった。1998年には同社を退職し、労働党政権の科学・イノベーション担当大臣に任命され、科学技術庁、イノベーション、宇宙開発、バイオサイエンス、化学工業および特許庁の責任者となった。同職を8年間務めた後、2006年には同職を離れて慈善活動を中心とする活動をしていたが、2011年、母校であるケンブリッジ大学の第108代名誉総長(Chancellor)に選任された。
【助成対象分野】
- 2010年4月期の年次報告書によると、ギャツビー慈善財団の純資産は約4億7,000万ポンド(610億円)であり、配当と利息収入が2,300万ポンド(30億円)ある。このほか、2010年4月期にはセインズベリー家からの700万ポンド(9億円)の寄贈を含め、年間4,500万ポンド(59億円)の外部からの寄付があった。
【2. 植物科学研究への助成】
- 植物の生長の基本的プロセスと分子植物病理学(molecular plant pathology)の基礎研究への助成および英国の若手研究者による植物科学研究の奨励を目的とする。
【ケンブリッジ大学・セインズベリー研究所】
2011年にケンブリッジ大学植物園内に建物が新設され、約150名の科学者やテクニシャンが研究に従事している。
【ノリッジ・セインズベリー研究所】
1987年に他の3つの研究助成機関と共に、ノリッジ市にあるバイオテクノロジー・生物科学リサーチ・カウンシル傘下のジョン・イネス・センター内に当研究所を設立して以来、ギャツビー慈善財団が主要助成機関となっている。約80名の研究者や支援スタッフが在籍しており、地元のイースト・アングリア大学とも研究連携をしている。
【セインズベリー・PhDスチューデントシップ】
毎年、3名までの最優秀な植物科学の博士課程学生に、研究諸経費や大学の授業料をカバーする4年間の奨学金を提供している。奨学金を受ける学生は、経験を積むために一定期間、他大学や研究所にて研究活動に従事することが奨励される。最優秀な学生を選択するために、候補者はイースタ-・ホリデー期間中、ケンブリッジ大学にて、講演の仕方、ポスターの作製法、論文の書き方などの訓練を受ける。
【初等・中等学校向け支援】
次世代の植物研究者を育成するために、過去20年間にわたり、初等・中等学校生徒の植物への興味を高める教育を支援している。「Science and Plants for Schools」という支援イニシアティブであり、1990年の設立以来、ギャツビー慈善財団が主要な助成機関となって、教師への支援活動をしている。
【ギャツビー植物科学ネットワーク】
ギャツビー慈善財団が奨学金などを助成する学生やスーパーバイザーをはじめとして、ポスドク、指導教員、卒業生などをリンクした植物科学者のネットワークを支援している。その活動には、年次総会や週末に開催される学生への訓練活動への支援も含まれる。
【3. 神経科学研究への助成】
【セインズベリー・ウェルカム神経回路・行動研究センター】
ウェルカム財団との共同事業として、2014年の完成を目標にユニバーシティー・カレッジ・ロンドン(UCL)キャンパス内に、最新の研究設備を持つ「Sainsbury-Wellcome Centre for Neural Circuits and Behavior」と名づけた研究センターをオープンする計画である。
【オックスフォード神経回路・行動研究センター】
オックスフォード大学キャンパス内にあるOxford Centre for Neural Circuits and Behaviorは、ウェルカム財団との共同事業として新設され、2011年末にオープンしたばかりである。将来的には、約60名の脳科学研究者の研究拠点となる予定である。当センターは、前述のセインズベリー・ウェルカム研究センターとの補完的な研究活動や共同研究をすることになっている。
【一般市民向け脳科学専門ウェブサイト】
一般市民向けの脳科学研究の進歩に関するオンライン情報が少ないため、英国神経科学学会が「BarinFacts.org」というウェブサイトを立ち上げた際に、カブリ財団(Kavli Foundation)と共に資金助成をした。
【ギャツビー計算脳科学ユニット】
一定規模の数の理論科学者が相互に連携したり、またはユニバーシティー・カレッジ・ロンドン(UCL)内の脳科学関連のワールド・クラスの研究グループとの連携を促進することを目的に、ギャツビー慈善財団は1998年にUCLキャンパス内にGatsby Computational Neuroscience Unitを設立した。
【4. 科学と工学教育への助成】
【科学テクニシャンの登録制度】
科学テクニシャン(science technician)に対する専門的認知を確立するために、英国のScience Councilが開発している科学テクニシャンの登録制度を支援している。今までは、例えばSTEM(科学、技術、工学、数学)分野においては、科学分野における大卒者や大学院卒業者の増強に力が入れられてきたが、最近では科学テクニシャンの役割にも注目が集まりつつある。
2011年にケンブリッジ大学植物園内に建物が新設され、約150名の科学者やテクニシャンが研究に従事している。
【初等・中等学校における実用的な科学教育のレビュー調査】
初等・中等学校における実用科学の教育方法が、目的にかなっているか、生徒にとってより効果的な方法はないか、将来の職場や高等教育に進んだ場合により活用できる方法はないか、など探るため、2011年春から2012年夏にかけてレビュー調査を実施している。
【実習制度の拡大への支援】
現在および将来におけるテクニシャンへの需要増に対処するため、より多くの実習生を受け入れるように雇用者を説得しなければならない。そのため、ギャツビー慈善財団では、産業界のニーズに合う実習制度やSTEM分野の実習生の数を増やすための研究プロジェクトやパイロット・プロジェクトを支援している。
【医療サービス分野におけるテクニシャン】
医療サービスを有効かつ効果的に運営するために、大卒者以外の熟練したテクニシャンの役割は重要である。そのため、医療サービス分野におけるテクニシャンの役割をマッピングする調査を外部機関に委託した。この調査結果は、現在計画されているテクニシャンの登録制度が医療サービス分野にて機能するか、またはSTEM分野のより幅広い業態にもマッチするかを検討する上でも有益と思われる。
【5. アフリカの経済発展への助成】
【タンザニアの綿花と織物産業】
面積当たりの収穫高が世界平均の4分の1であるタンザニアの綿花の産出量を上げ、綿織物産業に貢献するため、同国の研究機関と共に、規制改革、官民パートナーシップ、農業方法の改良、織物産業の育成などに関連する、多岐にわたる研究支援を行っている。
【アフリカの農業へのベンチャー・キャピタル】
東アフリカにて農業を営む中小企業に投資することによって、社会的インパクトと経済的利益を目的とする、2つのプライベート・エクイティー・ファンドを支援した。
【タンザニアの茶産業】
英国のチャリティー機関であるWood Family Trust、政府機関および民間企業と共に、タンザニアの主要輸出商品である茶産業を育成する支援事業を展開している。
【6. 公的政策研究と助言への助成】
【政府研究所】
2008年、ギャツビー慈善財団はより効果的な政府を目指すため、政治的に中立的視点に立つ「政府研究所:The Institute of Government」を設立し、年間維持費も助成している。同研究所は、英国の主要政党や上級官僚とも連携した研究活動と共に、世界中の政府のベスト・プラクティスや国内外の官僚の経験をもとに、中立的でエビデンスに基づく助言を行っている。
【都市政策研究センター】
都市経済の改善を支援する独立研究機関であるCentre for Citiesの基幹的助成団体である。同センターは市長、行政担当者や企業への実用的研究や政策提言を行っている。
【7. 芸術への助成】
【セインズベリー芸術研究所】
ギャツビー慈善財団創立者のDavid Sainsbury氏の両親がイースト・アングリア大学キャンパス内に設立した美術館であるSainsbury Centre for Visual ArtsとSainsbury Institute for the Study of Japanese Artsおよび研究機関であるSainsbury Research Unitへの助成支援を行っている。
【欧州室内オーケストラ】
欧州の楽団員60名で構成されるChamber Orchestra of Europeの助成も行っている。
【コロンビア大学アーツ・イニシアティブ】
David Sainsbury氏がMBAを取得したという縁があるコロンビア大学におけるアーツ・イニシアティブへの助成支援をしている。
【ヘンリー・ムーア作品展示室】
David Sainsbury氏の父親が著名な彫刻家のHenry Moore氏の支援者であったこともあり、ロンドンのテート美術館内にHenry Mooreの彫刻の永久展示スペースを作るプロジェクトの助成をしている。
【8. 筆者コメント】
- David Sainsbury卿は英国では著名な慈善事業家であり、上記のギャツビー慈善財団の活動以外にも多くの寄付活動をしており、1985年には、英国を代表する美術館であるNational Galleryに兄弟と共に約5,000万ポンドという、当時では巨額の寄付をして、同美術館のSainsbury Wingと名付けられた別館を建設している。このSainsbury Wingには日本の美術品も多数展示されている。
- ギャツビー慈善財団は、研究規模と効率のインパクトを高めるために、ウェルカム財団と共同でUCLやオックスフォード大学キャンパス内に神経回路・行動研究センターを設立するという柔軟な対応をしており、このようなチャリティー機関の間の連携活動も注目すべきであろう。
- 英国のCharities Aid Foundationは、英国の富豪ランキングを毎年発行しているSunday Times紙の協力のもとに、英国の富豪の寄付活動に関する、以下のような興味深いアンケート調査結果を紹介している。【寄付への態度】
- 約90%が、自分の寄付によるインパクトに自信を持っている。
- 81%は、寄付は戦略的に重要と考えている。
- 88%が、寄付のインパクトを明確に示すチャリティー団体に寄付すると答えた。
- 寄付をする前に綿密な事前調査を行っているが、45%のみが寄付に関する適切な助言が得られていると回答した。
【寄付の動機】
- 98%が、寄付の動機は個人的な価値観(personal value)と答えた。
- 64%は、寄付によって得られる喜び(enjoyment)としている。
- 寄付の決定には、仲間や知り合いなどが寄付をしているからとか、社会的なプレッシャーがほとんど影響しないことが分かった。
- Charities Aid Foundationが発行する「World Giving Index 2012」PDF には、同財団が開発した指標に基づく、寄付活動の盛んな国トップ20国がランキングされている。
【World Giving Index 2012・トップ20国】
注釈)
*1. 1ポンドを130円にて換算