レポート - 英国大学事情 -

2009年12月号「サービス・イノベーションへの科学の貢献 -王立協会報告書より-」

掲載日:2009年12月1日

英国在住30年以上のフリーランス・コンサルタント山田直氏が、新しい大学の生き方を求め、イノべーション創出、技術移転などに積極的に取り組む英国の大学と、大学を取り囲む英国社会の最新の動きをレポートします。(毎月初めに更新)

 

2009年7月、王立協会(The Royal Society)は「隠れている富:サービス分野のイノベーションに対する科学の貢献」と題する調査報告書「Hidden Wealth : the contribution of science to service sector innovation」を発表した。この報告書は、英国の全産業の約4分の3を占めるサービス分野における、科学、技術、工学、数学(Science, Technology, Engineering and Mathematics : STEM)による広範囲な貢献度を強調し、多くの政策提言をしている。また同報告書は、STEM関連の科学は英国のサービス分野の中に深く組み込まれており、表面からは分かりづらいために広くは認識されていないが、実際にはサービス分野のイノベーション・プロセスに大きな影響を与えているとしている。今後、サービス分野は個人的かつ相互に結びついたシステムになると予想され、STEMのサービス分野における役割はますます重要になると指摘している。これには当然のことながら、大学が大きくかかわるため、今月号ではこの王立協会の100ページを超す同報告書のサマリーをさらに要約して紹介する。

 

【1. はじめに 】
  • 英国における過去2年間の金融混乱およびそれに伴う深刻な景気後退は、英国経済と将来の富の創造の仕組みへの新たな議論を早急に必要としている。英国において、農業は就労人口の1.5%、製造業は約10%に対して、サービス分野は80%以上を占めている。そのうち、金融サービス、ビジネス・サポート・サービス、小売、クリエーティブ産業が、近年最も高い成長を遂げている。
  • 従来型のイノベーション・モデルやイノベーション政策は、製造業の研究開発への支援など、主に狭義のイノベーションに焦点を当ててきた傾向にあったため、英国はサービス分野のイノベーションを促進するための構造的な政策アプローチに欠けていたと思われる。近年、サービス分野のイノベーションに関する各種報告書が出ているが、技術の重要性を認識する一方、より広範囲な科学、技術、工学、数学(STEM)の重要性を軽んじる傾向がある。そのため、当報告書はサービス分野のイノベーションにおけるSTEMの役割を検証し、その強化の道を探ることを目的とする。
  • 当報告書が収集したエビデンスによると、以下のように、STEMは英国のサービス分野の中に深く組み込まれており、サービス分野におけるイノベーション・プロセスへの影響度は大きく、かつ広範囲に広まっているが、表面上からは見えにくいために深く認識されていない傾向がある。
    • STEM能力はサービス分野内に人材や内蔵された技術として内在しており、高度のイノベーションを支えている。
    • STEM能力は革新的サービスを支えるコンピューティング、通信、IT、インターネット、大規模データベースなどのインフラに不可欠であり、これらが過去20年間におけるサービス分野の前例のないほどの変革やイノベーションを可能にしてきた。
    • 製造業に比べて、サービス分野では技術の購入や供給業者、ユーザー、コンサルタント、公的研究機関との共同開発などを通じて、STEM能力をより外部に依存してイノベーションを実現してきた傾向がある。
  • しかしながら、サービス分野におけるSTEMの貢献の全容は外部から容易には見えないため、サービス分野、政策立案者、研究コミュニティーによる認識は低いと言えよう。このような盲点は、効果的なイノベーション政策や新たなビジネス・モデルの開発の阻害要因となる可能性がある。実際には、STEMはサービス分野の中に深く根付いており、競争力強化の原動力の多くはサービス・サプライ・チェーンの中から出てくると思われる。

 

【2. 主な提言 】

2-1) 研究テーマの設定と研究コミュニティーの構築

  • サービス・イノベーションに関する国際的研究コミュニティーを構築する。
  • サービス分野に関する国際的研究テーマを共同開発する。
  • サービス分野におけるSTEMの活用機会が適切に認識されるようにする。
  • 研究と市場機会を連携させる。
  • サービス関連の研究とその他の学究的研究の評価を同等に扱うようにする。

これらを促進するために、技術戦略委員会(Technology Strategy Board)と研究会議(Research Councils)は、サービス分野に関連した大型の研究公募を実施すべきである。

2-2) 複合的研究能力の強化

  • 2006-07年度において、大学でSTEMを専攻した新卒者の82%がサービス分野に就職している。STEMを専攻した学生は一般的にサービス分野から高い評価を受けているが、質と人数に関するいくつかの不満も出されている。特に、複合的技能の重要性への指摘と英国の大学における縦割り的精神構造(silo mentality)への批判がある。
  • 今後ますます複雑になるサービス・システムから付加価値を創造するためには、特定のSTEMに関する深い知識と共に、経済学、社会科学、経営学、法律のような他の専門領域から学ぶことができる能力を持つ人材チームが必要となり、複雑なシステムに人的側面(human dimensions)を考慮できる能力が重要となろう。また、STEMコースの提供機関は情報通信技術(ICT)や分析技能の訓練を絶えず見直し、事例研究やサービス分野からのゲスト講師の招聘数を増やすなどして、学生が学位取得条件の一部として幅広い科目の講義に出席できるようにすることも肝要であろう。

2-3) 知識交流活動の強化

  • サービスを提供する企業と大学などの公的研究機関の関係は、非公式なサプライ・チェーンを通じた間接的なものであり、一般的にサービス産業の企業は大学などのSTEMコミュニティーとは疎遠である。この原因として、双方の期待のミスマッチ、サービス分野のイノベーション・プロセスに対する大学の理解不足、サービス分野に関連した研究に対する低い評価など、効果的な連携を実施するためのいくつかの障害が考えられる。
  • これらに対処するため、技術戦略委員会(TSB)が現行の知識移転パートナーシップ(KTP)プログラムがサービス分野やSTEMの知識や経験のある者にとってアクセスしやすいプログラムであるかを見直すことを提案する。また、大学や公的助成機関がフェローシップなどを通じて、研究者をサービス分野に派遣したり、サービス関連企業から大学にスタッフを派遣したりするような促進活動も重要である。

2-4) 事例

英国の金融業界と公的分野における経済的重要性およびイノベーションの重要性を踏まえ、これらの分野におけるSTEMの役割を事例によって見てみる。

【金融業界】

  • 英国の金融界は長年にわたり強い競争力を維持し、英国経済に多大な貢献をしてきた。コンピューター科学や数学などのSTEMの経験や知識を持つスタッフによるICTや金融モデルの開発は、イノベーションを急速に発展させてきた。しかしながら、各国間の資本の不均衡、リスクに対する誤った評価、米国のサブプライム・ローン市場の崩壊が2007年の世界的金融危機をもたらし、実体経済の世界的景気後退の引き金となった。その一つの原因を、数学を利用した手法の内容とその結果を良く理解せずに用いたことによるとする人もいるが、金融界における多くの異なる不具合が重なり合って組織的破綻をもたらしたと言えよう。
  • 金融システムの将来的安定のため、STEMの役割を強化する4つの案を挙げる。
    • 金融機関と共同で、金融モデルとリスク評価の世界的研究センターを設立する。
    • 公的研究助成機関の研究会議(Research Councils)、中央銀行のイングランド銀行、金融監督機関の金融サービス庁(Financial Services Authority)は共同で、大学などの研究機関が金融サービスの組織的リスクに効果的なモデルの構築に貢献できるような方策を検討すべきである。
    • 金融サービス庁と金融サービス技能カウンシル(Financial Services Skills Council)は、金融サービス業界の管理職が持つべき数学的モデルと複雑なシステムのリスクに対する理解能力のレベルを設定し、それを義務づけるべきである。
    • 大学への公的助成機関である高等教育助成会議(Higher Education Funding Councils)と金融サービス技能カウンシルは共同で、英国における金融工学および関連する授業コースの内容を見直し、大学と共にリスクに対する配慮、安全性への許容範囲、設定された基準の遵守、経済面への広範囲な理解および倫理的配慮などを含むカリキュラムを検討すべきである。

【公的分野】

  • 近年、英国政府内におけるイノベーションの重要性の認識が高まりつつあり、現にいくつかの公的エージェンシーは、質の高い公共サービスを提供するためのSTEMの役割を認識し、イノベーション・プロセスにSTEMサプライ・チェーンを導入している。しかしながら、これらは例外的であり、政府内のイノベーション促進イニシアティブの多くはSTEMを無視している傾向がある。
  • 国家の繁栄のために公的分野が重要であることを鑑み、内閣府とビジネス・イノベーション・技能省(BIS)は中央政府、地方自治体、大学などの研究機関のスタッフから成るチームを編成し、公的分野におけるイノベーションを育成するために、どのようにSTEMを活用していくかを詳細に検討することを提言する。また、研究会議は英国産業連盟(CBI)などとともに、大学や公的研究機関に開放できる商業データの範囲を検討すべきである。

2-5) 結論

  • 従来、政府のイノベーション政策は製造業の研究開発への支援に重点が置かれる傾向にあり、近年ではサービス分野のイノベーションを支援するためには異なるアプローチが必要であると認識されている。
  • 製造業とサービス分野の境界はますます不明瞭になってきており、特に、高付加価値製造業と製品のサービス産業化(servicisation)において、イノベーション・モデルの一層の収斂(れん)が進むと予測される。従来型の製造業向けイノベーションと研究開発政策の形態は急速に時代遅れになる可能性がある。
  • 英国政府のイノベーション戦略の成否は、その視点を広げることにかかっている。政府は、知識の創造とその経済的効果の関係を調査するために、より洗練された手法を開発すると共に、サービス分野や公的分野など、今までイノベーションに関してあまり注意が払われてこなかった経済分野をもカバーしていく必要がある。

 

【3. 大学のSTEM研究のサービス・イノベーションへの貢献事例 】

3-1) 環境分野

【マンチェスター大学とEA Technology社】

  • EA Technology社は、マンチェスター大学博士課程学生と共同開発した、低電圧の電線の欠陥によって発生するガスを探知することによって、地中に埋設された電線の欠陥個所を探し出す技術を開発した。これにより、従来は欠陥を見つけ出すために、1件当たり約650ポンド(約10万円)の費用をかけて大きな穴を掘らなければならなかったが、新技術の開発により、直径8mmの穴をいくつか掘るだけで電線の欠陥を見つけることができるようになった。

【エセックス大学とBMT Group社】

  • BMT社は、従業員約1,000人の科学技術関連のコンサルタント企業である。同社はエセックス大学と共同で、水中の汚染を検知する「ロボット魚」を開発した。「ロボット魚」には、船舶やパイプラインなどから漏れる水中の有害化学物質を検知する各種センサーが取り付けられている。この「ロボット魚」には人工知能ソフトが組み込まれているため、独自に水中を動き回わり定期的にモニター・センターに情報を発信し、仕事が完了すると自動的に発進基地に戻ることができる。このようにして収集されたデータは、リアル・タイムの3次元水質汚染マップの作成などに利用されている。

3-2) 保険分野

過去20年間、保険業界によるSTEM学科出身者の採用数は大幅に増加している。例えば、ロイズのような大手保険団体では、STEM技能を持つ分析専門家を採用し、メンバー企業にリスクの可能性とその影響度に関する情報を提供している。

【ベンフィールド・UCL災害研究センター】

  • The Benfield UCL Hazard Research Centreは、1997年に世界的な再保険会社のベンフィールド社がスポンサーとなってロンドン大学ユニバーシティー・コレッジ(UCL)内に設立され、同大学の地球科学科および宇宙・気候物理学科の50人以上のスタッフと研究学生が研究活動に従事している。研究成果がサービス・イノベーションに直接結びついたものとして、熱帯性暴風雨の研究がある。米国のハリケーンの予測に画期的な手法を見出し、「ネーチャー」誌にも掲載された「熱帯暴風雨トラッカー」がある。

【ウィリス・リサーチ・ネットワーク】

  • Willis Re社は世界で2万人のスタッフを雇用する保険会社Willis Groupの企業であり、1,500人のスタッフを雇用している。その仕事は大きく分けて、大災害リスク・モデリング、地理情報システム、金融リスク管理であり、同社のイノベーションの75%以上はSTEM関連によって創出されている。同社は英国の8大学およびオーストラリア、イタリア、日本、シンガポール、米国の大学の研究者に研究資金を助成し、世界的なリスク研究のネットワークを構築している。このネットワークの特徴は、新たなリスク・モデルやその応用の開発と共に、オープン・リサーチと成果の公表を支援していることにある。

3-3) 金融サービス分野

【オックスフォード・マン計量ファイナンス研究所】

  • 2007年、オックスフォード大学の学際研究センターの一つとして、同大学と英国の大手金融サービス企業のThe Man Groupは共同で、計量ファイナンスの研究を中心とする「Oxford-Man Institute of Quantitative Finance」を設置した。同研究所の設置にあたり、マン・グループは約1,400万ポンド(約21億円)を助成した。同研究所スタッフの70%はオックスフォード大学の数学、物理および生命科学学科の研究者や研究学生であり、研究形態は研究者の自由な発想による研究(curiosity-driven research)が主体となっている。

3-4) 公共サービス分野

【スコットランドの大学と警察の連携】

  • スコットランド警察活動研究所(The Scottish Institute for Policing Research : SIPP)は、ダンディー大学を中心とした12のスコットランド地方の大学とスコットランド警察本部長協会との戦略的連携の一環であり、警察による諸活動が抱える課題をイノベーションによって解決するために、警察機構を支援することを主目的とする。その研究活動は「警察とコミュニティーとの関係」、「証拠と捜査」、「警察機構組織」の3分野に分かれる。当研究所には科学捜査、心理学、コンピューター、国際関係、犯罪学、人文地理学など、15以上の専門分野の大学の研究者が関与している。

【ポーツマス大学と救助活動組織】

  • ポーツマス大学の人間生理学科チームは、高温や低温などの極限状況下における人体の反応の分析に多くの成果を挙げており、英国海軍、王立救命艇協会、北海の洋上原油掘削プラットフォームを持つ民間企業などと契約を結び、低温の海中に転落した遭難者のための救命器具や救命胴衣の改良を行っている。また、消防機関とも連携して、高温から消防士を守るための消防用衣服の研究も実施している。

3-5) その他

【マンチェスター大学サービス研究センター】

  • マンチェスター大学は「サービス研究センター」を設置し、サービス分野のイノベーションを支援するために、知識集約型サービス活動に関する英国の経済データを構築する計画である。また、同大学はサービス分野のニーズに対応するためにカリキュラムの再編の必要性を認識し、学生に革新的なサービスの設計、実施および評価のための科学的、工学的、経営的手法を教えるために「サービス・デザイン、経営、イノベーション」コースの修士課程を新設した。

 

【4. 筆者コメント 】

英国における公的サービス部門を含むサービス分野は雇用人口の約80%を占めているため、英国政府は最近特にこの分野のイノベーションの促進に力を入れている。研究会議の来年度の重点研究助成テーマも、グリーン・エコノミー、生命科学、高付加価値の製造システムと並んでデジタル・エコノミー、カルチャー・クリエーティブ分野などのサービス分野が挙げられている。

王立協会報告書にある「今後ますます複雑になるサービス・システムから付加価値を創造するためには、特定のSTEMに関する深い知識と共に、経済学、社会科学、経営学、法律のような他の専門領域から学ぶことができる能力を持つ人材のチームが必要となる」との報告書コメントは、日本にも当てはまるかもしれない。しかしながら、英国の大学でもそうであるように、これらの複合的技能を持った人材を学士課程にて育成するには時間的な制約もあるために、大学院課程を含めたカリキュラムが必要となるであろう。

 

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