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リスク評価のずさんさ 福島原発事故最大の教訓か

2016.01.28

小岩井忠道

 福島第一原発事故から丸5年になろうとしている。事故の後、国会、政府、民間それぞれの事故調査委員会ができ、詳細な報告書をまとめ、公表した。指摘された問題点は多岐にわたるが、最も大きな教訓は何だったのだろうか。さらに事故後にできた新しい規制基準でも、まだ不十分な課題は何か。21日、都内で開かれた「防災までを共に考える原子力安全」と題する報告会から、原子力安全に関しては、依然、大きな課題が残されていることがうかがえた。

 「福島第一原発で大量の放射性物質を放出する事故がなぜ起きたか、どうしたら防げたかについて三つの事故調査委員会報告はあまり詳しく書いていない。その一つの理由は委員会に原子力の専門家をあまり入れられなかったからではないかと思われる」

 主催者である「原子力発電所過酷事故防止検討会」の呼びかけ人、阿部博之(あべ ひろゆき)氏(機械工学者、元総合科学技術会議議員、元東北大学総長)が、開会あいさつの冒頭で語った言葉だ。一般の人々にとっては意外と感じられるかもしれない。これは2012年秋につくられたボランティア組織である同検討会の目的を説明した言葉のようにも思える。「事故に責任を感じている専門家により、原発賛成、反対の視点ではなく、防災(減災)の視点から『安全』を議論する」(阿部氏)のが、検討会発足の目的とされているからだ。

阿部博之 氏
写真.阿部博之 氏

 阿部氏は、福島原発事故を経験した後でも十分理解されていない原子力安全の基本課題として「リスクマネジメント」を挙げた。報告会では、リスクマネジメントの重要性を強調する講演と議論が続き、検討会の主査を務める宮野廣(みやの ひろし)氏は、次のように語っている。

 「福島原発事故を起こした主要な要因は、自然災害、とりわけ津波の想定が不十分だったことと、事故への展開を止めるアクシデントマネジメント策が不十分だったことだ。福島原発以前の事故を見ても、必ず設計上の問題が現われており、それは避けられない。人間のミスなど人に関わる事故要因や不具合要因も多く、欧米では、こうした想定外事象に対する安全性の確保に生かすため、リスク評価に取り組んでいる。(福島原発事故後にできた)新規制基準の多くは、設計要因への対応、設備の対策であって、ソフト面での対応では十分な対策となっていない」

 この指摘は、最近の原発再稼動に絡んで交わされた議論と関わるところが大きい。原子力規制委員会の審査を通れば、安全確認のお墨付きが得られた、としたい政府と、規制基準に適合したから安全が確保されたというわけではないとする田中俊一(たなか しゅんいち)原子力規制委員長の発言との違いが、関心を呼んでいる。

 「規制基準に適合したということと安全が確保されたということとは同一ではなく、田中委員長の言うことが正しい」と阿部氏はあいさつで指摘した。一方、「福島原発事故前のように『原発は絶対安全』とは言わなくなったが、別の安全神話の台頭が見え隠れする」とも。

 では、これまでおざなりになっていた原子力の安全におけるリスク評価の重要性は、果たして日本で理解され、実際に利活用されるのだろうか。宮野氏は「リスク評価は想定外を少なくすることに役立つ。設計から運用、防災までリスク評価をすることで、適切な安全確保策の策定が可能になる。特に、防災にリスク評価を取り込むことで、社会との会話を可能とし、判断の位置づけが原子力分野の専門家と社会とで共有される」と、リスク評価の重要性を訴えていたのだが。

宮野 廣 氏
写真.宮野 廣 氏

 リスク分析の専門家である村松健(むらまつ けん)東京都市大学工学部客員教授も、リスク評価の方法を詳しく説明した上で、防災面で重要な役割を果たし得ることを強調した。「不確実さを考慮しつつ、日常的にさまざまな机上の訓練を重ねるためのツールとなる」、「防災計画を充実させるための多くの有益な情報が得られる」、「関係者の相互理解のための共通の土台にもなりうる」など、と。

 福島第一原発事故が起きた後で、大半の人々は、東日本を襲ったのと同規模の巨大地震である「貞観地震」(869年、マグニチュード8.3以上)が、過去に岩手、宮城、福島県に及ぶ太平洋岸沿いの広い区域を震源域として起きていたことを知ったと思われる。しかし、一部の地質学者たちは、陸上の堆積物調査などから、貞観地震のもたらした津波の巨大さや、貞観地震のような巨大地震が500?1,000年の間隔で東日本の太平洋岸で繰り返し発生していたことを論文や報告書で公表していた。福島第一原発の過酷事故をもたらした2011年3月11日の巨大地震が発生したのは、これらの報告に基づき政府の地震調査研究推進本部が三陸沖から房総沖にかけての地震活動の長期評価として発表を予定していた直前だった。(2011年3月20日緊急寄稿・産業技術総合研究所 活断層・地震研究センター 海溝型地震履歴研究チーム長 宍倉正展 氏「地層が訴えていた巨大津波の切迫性」参照)

 原子力工学者と地質学者の間には「判断の位置づけの共有」も、「相互理解のための共通の土台」も十分でなかったか、存在していなかった、ということだろう。

 この日の報告会を傍聴したのは、人一倍、原子力の安全問題に関心が高い人たちが大半と思われる。しかし、リスク評価が実際の安全対策にきちんと利活用されるかについて確信が持てないと思われる質問が会場から出た。これに対し村松健氏は次のように答えていたが、質問者と会場の傍聴者たちはどの程度、納得しただろうか。

 「原子力安全に関する想定外には2種類ある。全く想定していないものと、問題があるのは分かっているが設計上、あるいは安全対策上は想定しないものの二つだ。問題があるのは分かっているものの安全対策上は想定しないという判断が適切かどうか検討する手段に、リスク評価はなり得る。福島第一原発事故については、津波について議論をしていた人はいた。オープンなところでリスクの議論がなされるべきだった。さらに、全く想定していないものに対しても、事業者はある程度は自分の対策に幅を持たせ、事業者だけでなくわれわれも、設計だけでなくアクシデントマネジメントを考え、防災も考える中で国民を守るという観点が必要となる。リスク評価で十分低い結果になったからといって防災が必要でなくなるということではない」

パネルディスカッション(右から3人目、村松健氏。4人目、土屋智子氏)
写真.パネルディスカッション(右から3人目、村松健氏。4人目、土屋智子氏)

 結局、この日の議論を通じて浮き彫りになったのは、リスク評価の重要性と共に、科学者をはじめとする専門家の責任の大きさだったようにみえる。市民の立場から講演した土屋智子(つちや ともこ) NPO法人HSRリスク・シーキューブ理事・事務局長は、次のように科学者たち専門家の問題点を指摘していた。

 「一般的に、科学者・技術者・事業者などの専門家は、『分かっていること』『できていること』だけを説明しがち。『よく分からないこと』『できているとは限らないこと』『状況によって変化すること』などは説明しない。大規模災害の後は決まって『実はこういうことが知られていた』『実はこういう可能性を主張する学者がいた』等々の話が出てくる。これでは、原子力施設の安全対策が十分なのか、疑問に思う人がいても不思議はない」

 阿部氏の科学者に対する注文は、次のようにさらに厳しい。科学者たちは、果たしてこうした期待に応えられるだろうか。

 「科学者は、政府、事業者などに助言することが期待されているが、科学の原理にもとる妥協は正しくない。また、科学者が地域共同体や市民などの目線、意向を尊重するのは当然であるが、科学的事象は非情であり、科学者はそこから逃げてはいけない」

 この言葉の意味するところは次のようなものだ、と宮野氏は解説している。「ものの破壊は原理に基づき結構正しいものである。それを科学者は、世の中に流されることなく主張すべき時は主張することが必要だ。一方、間違っていると、壊れるときは非情で躊躇(ちゅうちょ)なく壊れる。それも甘んじて受けなければならない。そういう覚悟が必要だ」

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