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戸塚洋二 氏の足跡

掲載日:2008年7月25日

ノーベル賞受賞の期待が高まる中、10日にがんのため亡くなった物理学者、戸塚洋二 氏と、日経サイエンス誌、中島林彦・編集長の合作とも言える連載記事「カミオカンデとスーパーカミオカンデ-物理学を変えた四半世紀」の最終回が、同誌9月号に載っている。

この連載は4月号から始まった。中島編集長によると、戸塚 氏は最後の入院となった前日に最終回のゲラに目を通すなど、この連載には病をおして協力したとのこと。各号を読み返しても、 氏の真摯な生き方と熱情が伝わってくる。

戸塚 氏が師であるノーベル物理学賞受賞者、小柴昌俊 氏の愛弟子であり、小柴 氏とともにニュートリノ研究という新しい物理学の分野を切りひらいた先駆者であることはよく知られている。5回にわたる連載記事からよく分かることは、2人とも「人のまねはしない」という研究姿勢を貫いたことだ。

戸塚 氏の署名記事になっている8月号には、氏自身に加え小柴 氏の興味深いエピソードが数多く紹介されている。小柴 氏と戸塚 氏の関係は「ビリの2乗」だったというくだりが興味深い。戸塚 氏は東京大学物理学科3、4年生の時、講義に出ることはほとんどなかったという。「空手部に在籍し、部室にたむろしているかマージャンをやりに出かけていたからだ」。学期末には徹夜マージャンで試験をすっぽかし、1年留年する。この戸塚 氏を大学院の試験で採ったのが、小柴 氏である。

小柴 氏が、東京大学物理学科ではビリの成績だったことは、ご本人が公言している。その小柴 氏に戸塚 氏は「お前はビリだった」とずっと言われていたという。ビリがビリを採ってくれたので「ビリの2乗」というわけだ。

カミオカンデ、スーパーカミオカンデという基礎科学の大プロジェクトを実現するために2人がいかに体を張ったかは、連載記事に譲るとして、戸塚 氏が小柴 氏を評した興味深い言葉がある。「先生の考え方・気質は日本人というより、むしろアメリカ人と考えるべきだろう」。この評価に関連する話として、フルブライト留学生として渡米した小柴 氏が、30代半ばで、プリンシパル・インベスティゲータ(PI)に遇され、気球を用いた宇宙線研究を指揮したことが紹介されている。航空母艦の飛行甲板から大きな気球を打ち上げるという大規模な実験である。

戸塚 氏自身も、小柴 氏の指示でドイツ・ハンブルグのDESY研究所で、計6年半の研究生活を送り、その経験を「その後の研究遂行に決定的な影響を与えた」と振り返っている。

世界のだれも成し遂げていないことをやる。そのためには研究資金をはじめ、必要な支援を得るため率先してかけずり回ることも…。小柴、戸塚両 氏の生き方の根底に幼少時からの科学に対する強い関心があったことは疑いない。同時に、海外での経験が確たる研究姿勢の背後にあるのではないか、ということが連載記事から伺える。

「これからは若い人たちが私たちを引き継いで伝統をつくっていくことになる。そうして歳月が過ぎたとき、未来の日本の若者は、かつて私がハイデルベルクで感じたような、学問とは何であるかということが、肌身でわかってくるのではないかと思う」

戸塚 氏はこのように語っているが、次の世代はどのようにこの期待にこたえるのだろうか。最近は海外に研究の場を求めようとするポスドクが減っていることを心配する声も聞かれるのだが…。

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