サイエンスポータル SciencePortal

コラム - オピニオン -

科学技術の智プロジェクト

国際基督教大学 教授 北原和夫 氏

掲載日:2008年4月2日

国際基督教大学 教授 北原和夫 氏

北原和夫 氏

 

若者の科学離れが大きな問題となっています。小学校では多くの子どもたちが理科に関心をもっていますが、中学、高校と進学するにつれて、だんだん興味を失い、大学の受験科目から理科や数学の科目が外れると全く勉強しなくなるといわれています。科学技術創造立国を標榜する我が国にとって、多くの若者が理数科目に関心を示さないことは極めて憂慮すべき事態である、というわけです。昨年12月に公表された経済協力開発機構(OECD)生徒の学習到達度調査(PISA)の2006年調査国際結果報告書によりますと、日本の子どもたちは、科学の知識に関してはまずまずとはいえ、科学に対する関心は低く、また自分の将来のキャリアとして科学や技術の道をあまり考えていない、という状況にあることが分かってきました。

一方で、現在私たちのまわりは、科学技術の成果による機器で溢れており、そのおかげによって生活の利便性があるにも関わらず、それらの機器がどのようなメカニズムで動いているのか、その信頼性はどうなのか、等については知る由もないし、関心も薄れている状態です。このような理科離れ現象は、日本の成人全てにわたる現象と考えられ、他の国際比較調査でも指摘されているところです。

しかしながら、近年、地球温暖化、食料問題、エネルギー問題、水の問題など、生活の基盤の問題が切実なものとなってきました。これらに対応するためには、国民全体が科学技術のことについて知識を共有して、ともに課題にチャレンジすることが必要となってきました。そのような現在の状況の中で、科学の教育において何を伝えるべきか、どのような学力が必要なのか、を明らかにすることは大切なことである、と思われます。

日本学術会議では2003年に特別委員会を設置して、この問題を検討してきました。そして、国民が共有すべき科学技術の知識を明示し、広く学校教育、社会教育を包括する科学教育のゴールを設定し、それに基づいて、様々な運動を推進することが必要である、との考えに到達したのです。既に、1989年に、米国では、AAAS(米国科学振興協会=Scienceという雑誌を刊行している学際的な団体)が「全ての米国民のための科学」という書物を刊行し、全ての米国民が身に付けるべき科学リテラシーの内容を提案しました。この書物は「プロジェクト2061」というプロジェクトの出発点となったもので、次にハレー彗星がやってくる2061年までに、全ての米国民の科学的素養の底上げを図ろうとするものです。英国でも、「21世紀科学」という教育プログラムを発足させ、全ての英国民が共有すべき科学リテラシーを明示し、そのための教材開発、教員研修プログラムを実施しています。欧州共同体でも、環境や社会の課題に対して市民と科学者が協同してチャレンジするために、どのような科学教育が望ましいか、という問いに関して検討を推進しており、順次報告書を刊行して、各国政府に勧告を出しています。 

我々も、2005年度の調査研究を経て、2006-2007年度は様々な分野から集まって頂いた約150名のメンバーによって「科学技術の智」プロジェクトを立ち上げました。そこでの基本的な考え方は、(1)現代社会における科学技術の意義を問うこと。(2)人間にとっての意味を考えること。したがって、現代に生きる智として統合されたものを目指す。(3)白紙の状態から考え、先入観を入れないこと。すなわち、既存の学問の枠組みにとらわれない。(4)現在の教育の限界を考えず、理想型を求めること。つまり、ゴールを設定する。(5)本質的な知識と能力の中核部分だけを明示すること。(6)対象としてすべての成人を考えること。(7)日本の科学技術の現状、伝統、感性、文化を踏まえること―です。

「科学技術の智」の定着化のためには、わが国の現在の時代的背景、文化的背景などを踏まえたものとしなければなりません。また、伝統的な文化や宗教、習俗に根ざした自然観、感性の中に智の可能性を探ることも、21世紀の智の構築にとって重要であると考えました。

本プロジェクトを始めるにあたり、最初から智の総体を検討することをしないで、七つの領域に分けて検討することにしました。従来の学問の領域にこだわらず、むしろ我々が直面している世界的な課題にチャレンジするために連携すべき科学技術の領域は何か、という視点から、領域分けをしましたが、これは一応の分け方であり、人類の智としては深くつながっているものです。

七つの領域とは、「数理科学」、「生命科学」、「物質科学」、「情報学」、「宇宙・地球・環境科学」、「人間科学・社会科学」、「技術」であり、それぞれ専門部会を設置しました。特に、人間科学・社会科学をも含めたことに本プロジェクトの特徴があります。近年文理融合の重要性が認識されてきている状況の中で、人間の行動、社会の現象を科学的にとらえることを目指し、科学から見て我々の存在は如何なるものであるか、を問うことが、これからの持続的社会と環境の構築にとって重要と考えました。それぞれの専門部会には、その分野の専門家だけでなく、ひろく教育関係者あるいはメディア関係者なども参加して頂きました。七つの専門部会のそれぞれにおいて、全ての日本人が共有すべき科学技術の基礎的素養を検討して、その概要が出来上がった段階で、部会の間で相互にレポートの閲読を行い、共通認識を図るように努めました。

約一年にわたる検討によってまとめられた専門部会報告書をもとに、それらを総合する「総合報告書」を作成しました。その作成においては、さらに広い分野の方々が関わって全体での議論によって内容を詰めるという作業を繰り返し行いました。すなわち、専門部会報告書ならびに総合報告書をまとめる作業自体が、様々な職種を超えて協働する作業であったのです。

このようにして作成された科学技術の智には、次のような大きな特徴があります。

  1. 人間社会を軸に構成されている。

    科学技術の智は、それぞれの科学技術の学問体系に配慮しつつ、人間や人間社会を軸に科学技術の智が構成されています。

  2. ストーリー性を持って構成されている。

    科学技術の智は、科学技術の知識を個々に集めた百科事典のようではなく、相互に関連を持ったストーリーとして構成されています。

  3. 現在から将来を視野において構成されている。

    科学技術の智は、現時点での科学技術でどこまで分かっているのか、また将来の課題として何があるのかをも視野において構成されています。総合報告書では、現代の科学技術にとって重要な意味を持つ歴史的事実として、人間についての科学的理解、情報処理の革命、分子の操作技術としてのナノテクノロジー、生命の仕組みの解明と操作、宇宙モデルの確定、地球環境についての科学的理解を挙げています。また、科学技術全般にわたる共通の概念として、総合的視点にたつ選択、多様性と一様性、可視化による理解、スケールとサイズ、多量データ高速処理、科学と技術の総合貢献を述べています。

今後は、この定着化に向けて、運動を進めていく必要があると同時に、現在まとめられた「科学技術の智」はさらに改善され深化されていくべきものと考えています。これは、現在の学問の体系をそのまま教育の現場に移すことを目的としているのではなく、むしろこれから生まれ育っていく世代の全てが成人となる2030年の日本のあるべき姿を想定して、全ての人々が様々な職種、年齢等の相違を超えて協同して世界的な課題に取り組み、心豊かで健康的な社会を作っていくために如何なる智慧が共有されていなければならないか、という壮大な問いかけに応えようとするものです。教育に関して様々な議論がなされている中で、様々な分野の方々を結集して具体的なゴールを明示するという試みはあまりなされてこなかったのではないか、と思われます。日本の様々な領域の知性を結集したプロジェクトとして、それ自体にも意味があると考えています。詳細は、http://www.jst.go.jp/csc/archive/s4a.htmlに掲載されます。

 

国際基督教大学 教授 北原和夫 氏
北原和夫 氏
(きたはら かずお)

北原和夫(きたはら かずお)氏のプロフィール
1946年長岡市生まれ、69年東京大学理学部物理学科卒、74年ブリュッセル自由大学で理学博士号取得、米マサチューセッツ工科大学研究員、76年東京大学理学部助手、79年静岡大学教養部助教授、84年東京工業大学助教授、89年同教授、98年から現職。東京工業大学名誉教授。2002~03年に日本物理学会会長、2003~05年に日本学術会議会員、2006年より同連携会員をつとめる。専門は理論物理学(統計力学、熱力学)。著書に「プリゴジンの考えてきたこと」(岩波書店)など。若者の理科離れに対する関心が高く、05年度に科学技術振興調整費による「科学技術リテラシー構築に向けた調査研究」、引き続き06~07年度に「日本人が身に付けるべき科学技術の基礎的素養に関する調査研究」(科学技術の智プロジェクト)の研究代表者、委員長としてこのほど報告書をまとめた。

ページトップへ