インタビュー

第1回「身の周りから外に目を」(松沢哲郎 氏 / 京都大学 霊長類研究所長)

2010.08.13

松沢哲郎 氏 / 京都大学 霊長類研究所長

「多様性が育むもの」

松沢哲郎 氏
松沢哲郎 氏

地球には人間のほかに生物学の分類でいうヒト科に属する生きものがいる。チンパンジー、ゴリラ、オランウータンである。大型類人猿と呼ばれてきたが、サルではないため最近は「類人」と称するそうだ。近年のゲノム解析によると、チンパンジーと人間のDNA塩基配列は約1.23%の違いと分かった。京都大学霊長類研究所では文字や数の学習をするチンパンジーのアイを中心に「アイ・プロジェクト」が行われ、ヒトの進化の解明にも道を拓く。6月には、この10年間の研究成果をまとめた「人間とは何か」(岩波書店)が出版された。同研究所の松沢哲郎所長に取り組みと展望を伺った。

―ここ数年、研究所はいろいろな節目を迎えていますが。

そうですね。2007年が霊長類研究所の創立40周年、2008年は日本の霊長類学誕生(注1)60周年とアイ・プロジェクトの30周年でした。面白いことに、ゼロから始まった霊長類学の後半の歴史はアイ・プロジェクトそのものなんですね。特に2000年にアイがお母さんになったことは大きな節目と言えます。人工授精をして子どもを生んでもらったのですが、チンパンジーの子どもはいつもお母さんのそばにいるので、毎日身近に親子関係を見るようになったわけです。同じ年に研究所で生まれたチンパンジーの子どもたち3人の成長とともに、子育てや母から子どもへの働きかけの様子を知っていき、それまでとは違った発想で新しい研究分野が始まりました。

―ちびっこたちはもう10歳ですね。チンパンジーに対する社会の認識はいかがでしょうか。研究所の規模が拡充され大型プロジェクトも続々ですが、国の支援はどのように。

社会の認識は高まったと思いますよ。僕自身でさえ、チンパンジーは黒くて大きな賢いサルと思っていましたから。確かにそうだけどサルではない。チンパンジーはチンパンジーという認識が徐々に確実に大きな広がりになって、特に感情面が分かってきてかなり変化したのではないでしょうか。

国からの支援は終始一貫してありました。もし国の支援がなかったら、自分たちの今日の研究はないとさえ思います。僕がまだ20代の助手だったときは小さな支援で、自分の研究業績と共に少しずつ増え、さらにその蓄積を正しく評価してくれて着実に支援をいただいています。

学者・研究者と呼ばれる人はみな文部科学省の科学研究費をもらおうとしているのですが、基盤研究A、B、Cとかいろいろな種別があって、最も多額なのが特別推進研究です。「人間とは何か」のはじめに書いたように、いま特別推進研究をいただいており(注2)、4期続けてですから本当に破格の支援だと思います。

―CiNii(国立情報学研究所の論文情報ナビゲータ)で松沢先生の科研費の報告要旨をさかのぼって拝見しました。ご研究にとってITの発達、コンピュータの影響は相当大きいのでしょうか。

いえ、両方やっていますからね。非常にローテクなものにも良さがあります。相手の顔を見ながらの対面検査や身近な品物を使って認知機能を見るというのも素晴らしい方法です。参与観察という、チンパンジーの生活シーンで母親の手を借りて子どもの心の発達を研究する手法もあります。ただ、同じ部屋に入ってテストすることをできるのは、長い間に絆(きずな)を深めたある意味限られた人間です。一方、昨日来た大学院生でも、すぐにコンピュータを使った数字や漢字の記憶実験はできます。ハイテクによる研究も素晴らしい。ローテクの研究もそれなりということだと思います。

―両輪がバランスよく進んでいらっしゃるのは非常に興味深いです

そのハイテク、ローテクの関係は、実験室でする研究とアフリカまで出向いて野外で行う研究でも言えます。研究が実験室だけで成り立つわけではなくて、やはりチンパンジーの暮らしぶりを丸ごと見ながら心の研究をすることも、すごく大事だと思うんですよ。深くは分析できないけれど全体を俯瞰(ふかん)する。両方が必要ですね。

―さまざまな学問領域や研究手法が幾重にも連なっていく図が浮かびます。フィールドワークでは日本人の存在感が薄れてきているそうですが、若者の気質が変わってきているのでしょうか。

多分2つの背景があるんじゃないですか。1つには人間の心の働きをより大きな場面で、より大きな暮らしの中でとらえることになかなか目が行かないのでは。例えば人間というものがあって、心があって、それを担う器官は脳であることは自明ですよね。で心の働きを知ろうと思うと脳の研究です。すると脳の部位に目がいくようになって、前頭葉から前頭前野、さらにはその中の神経細胞とか、そして神経伝達物質、DNAとより細かなものに入っていくわけです。それがある種因果を解きほぐす道だと信じているのですね。でもエンドルフィン(脳内モルヒネ)のアミノ酸配列が分かって、それで心が分かるということにはならないわけでしょう。あるいはどうして時計がこんな風に動くんだろうと、どんどん分解して金属片になって、それで時計が分かったことにならないですから。

分析的な手法は物事を理解する一つの方法だけど、それで全部というわけにはいかない。人間だったら、2人いて初めて生まれる心もありますよね。一人の人間だけでは決して起こらない共感や助け合い、あるいは怒りや嫉妬(しっと)。こういう情動は2人以上の心の働きを調べないと研究できないわけです。でも脳科学や分子生物学はしないわけですね。

2つ目は、日々の暮らしが自然の営みからどんどんかけ離れてきたという問題です。僕らの子どものころに比べて、いまははだしで大地を踏み締める、小川でザリガニを採ることもないでしょう。

―バーチャルリアリティの技術が進み、コンピュータで匂(にお)いまで体験させようという時代ですね。

もう少し現実に即して考えると、留学の機会はますます増えているのに希望者は減っているんです。外国に行きやすくなっているにもかかわらず、外国に目が行かないんですね。それは1つの事実、少なくとも大学生レベルでは顕著です。

―なぜでしょうか。

単に学問上の理由でいうと、日本は着々と歩み欧米と大差がなくなってきたことです。われわれのチンパンジー研究が良い例で、うちの研究所より適した環境はなく、欧米の人が来ることはあってもこちらから行く理由はないのですね。

そして現状へのある種の満足感が高いんじゃないですか。子どものころから生きている世界が狭くて身の周りで大体済ましている。幼いころからさまざまな人や自然、さまざまなものに触れる経験があればもっと違うはずです。小さくまとまった、ある社会的な空間の中で人生を送ってきたので、20歳前後の多感なときでも今さらそんなに行きたくないんですよ。

―自分の身近なことで精いっぱいなんでしょうか。

就職が良い例ですね。一年生は何もよく分からず、2年生になってようやく物事が見えてきて海外に行くのは中々いいかもしれないと思うようになる。3年生だともう就職活動とバッティングしてしまい、という社会の仕組みの方にも問題があります。

(SciencePortal特派員 成田 優美)

  • (注1) 京都大学の今西錦司講師(当時)が幸島の野生サルの研究を始めた。
  • (注2) ならびに日本学術振興会科学研究費補助金(研究成果公開促進費)出版助成を受けた。

(続く)

松沢哲郎 氏
(まつざわ てつろう)

松沢哲郎(まつざわ てつろう) 氏のプロフィール
東京都立両国高校卒、1976年京都大学大学院文学研究科博士課程を中退、同年同大学霊長類研究所心理研究部門助手、93年同研究所教授(行動神経研究部門思考言語分野)、2006年から現職。理学博士。1978年創設された「アイ・プロジェクト」でチンパンジーの知性を研究、85年世界で初めてチンパンジーがアラビア数字による数の概念を表現できることを明らかにした。86年からギニア共和国のボッソウ村付近で野生チンパンジーの生態を継続的に調査、2000年からチンパンジーの世代間の文化伝達を研究、新しい研究領域である「比較認知科学」を開拓、07年チンパンジーの直観像の記憶能力を解明。日本学術会議会員、日本霊長類学会理事、日本動物心理学会理事、日本赤ちゃん学会副理事長、日本モンキーセンター理事ほか。1991年秩父宮記念学術賞、2001年ジェーン・グドール賞、04年紫綬褒章、中日文化賞、日本神経科学会時実利彦記念賞など受賞。著書は「おかあさんになったアイ・チンパンジーの親子と文化」(講談社)、「チンパンジーから見た世界」(東京大学出版会)、「人間とは何か:チンパンジー研究から見えてきたこと」(岩波書店)など多数。

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