レポート

研究開発戦略ローンチアウトー第50回「財政民主主義と科学技術予算」

2013.10.23

星野悠哉 氏 / 科学技術振興機構 研究開発戦略センター 政策ユニット フェロー

星野 悠哉(科学技術振興機構 研究開発戦略センター 政策ユニット フェロー)

 私は以前、大学および民間シンクタンクで、経済や社会保障、教育などの調査研究、コンサルティングに従事していました。今年からのJSTでの仕事は、「科学技術イノベーション政策のための科学」(以下「政策の科学」)という、2005年からアメリカを中心として起こった一つの社会的潮流・運動を、行政の側に立って遂行することです。よく知られている例をもとに、説明したいと思います。

 民主党政権下での「業務仕分け」において、「2位じゃダメなんですか」という発言が波紋を広げました。税金で推進されてきた科学技術研究を、よく言えば一般納税者の立場から評価し、悪く言えば乱暴な分析・議論の進め方で仕分けが行われたことについて、それまで科学技術を行政の立場で推進していた方々の間には「大変な衝撃が走った」と漏れ聞いています。しかし、この“衝撃”は、裏を返せば、日本の今までの研究開発に対する財政投資、いわゆる税金投入のプロセスが、一般国民に向けての説明よりは、ピア・レヴューによる科学者・専門家のコミュニティにおける同意形成の方に重きが置かれていた、ということではないでしょうか。

 当然ながら、一般国民と、政府・行政の間には考え方の乖離があります。社会が複雑になればなるほど、行政の仕事も細分化・専門化が進み、専門的知識なしには物事を正確に理解することができなくなります。ですが、政府の人間はであっても、専門的知識を積む過程で物の見方も専門家の代弁者にようになってしまい、一般国民の視野に立つことが難しくなります。この矛盾はいかなる社会にとっても宿命ともいうべきもので、政府と国民の単純な“非難合戦”を回避し、どうすればこの意見の食い違いを少なくできるか、許容範囲内にとどめられるかという取り組みが重要となります。リンカーンの言葉に「なぜ政府は国民の自由のためには強すぎ、自身の存続のためには弱すぎるのだろうか」という問いかけがあります。リンカーンほどの政治家が組織する政府ですら、国民も政府の人間も不満だらけだったのですから、現状の国民と政府・行政の乖離については、ある程度は許容しなければならないと思います。

 話が多少ずれてしまいました。話を戻しますと、民主党政権時の業務仕分けを受け、政府の行う科学技術政策を「合理的なものに変えよう」「科学的と呼べるものにしよう」という動きが生まれました。それが「政策の科学」の大まかな説明です。この説明に多くの異論があることは承知していますが、分かりやすさを前面に出すため、多少荒っぽい説明になっているところはご容赦いただきたいと思います。

 しかし、この場合の「合理的」とは、どのような意味なのか、必ずしも明らかではありません。噛み砕いて分かりやすく説明でき、かつ全員が同意できるような明快な“基準”が簡単に思いつかない、と私は個人的に思います。

 現在、国の行う活動を評価する上で、最もよく言及される基準の一つに「納税者への説明責任」というものがあります。国の財政が悪化し「増税不可避」といったことがメディアなどで盛んに言われるようになってから、この言葉が喧しく使われるようになりました。税金が上がるとなれば、国民は自分の収めた税金が正しく使われているかどうか、納得しなければ政府を信任しないわけですから、責任ある説明は当然です。

 このことを財政学の用語で説明すると、「公共サービスは、負担と受益が等しくなければならない」ということになります。つまり、税金を払った分だけ、政府に働いてもらわなければならない、ということです。このような税金の“負担と受益”について、「国民が承認をしないと正当化され得ない」とする主張のことを「財政民主主義」と呼びます。この主張はごくもっともに感じられますが、現実の運用を考えると、なかなか難しい点が多く存在します。

 例えば、最近評判の悪い公共事業です。ある地域に高速道路を作ろうとすると、当然巨額の費用がかかります。場合によりますが、たいていの場合では半分以上の費用を国が負担します。自分の住んでいない地域の高速道路であっても、自分の払った税金で作られるということになります。その地域で居住していたり、事業を営んでいたりすれば大きな利益になりますが、それ以外の人にとっては「なぜ自分の払った税金が、自分には関係ないところの道路に使われなければならないのか」と思うでしょう。つまり“負担と受益”はこの場合、国民・個人レベルでは一致していません。

 この簡単な例から分かるように、公共のサービスの多くは、外交や防衛といった本当に国全体で一つの成果を共有するような分野以外では、“負担と受益”はなかなか一致しないのです。年金や医療についても、「世代間不公平」と呼ばれるような問題があります。ほかに何かご自身で例を考えてみても、あなた個人のレベルでは“負担と受益”が一致しないケースの方が多いのではないでしょうか。「ああ、面倒くさいなあ」と感じられた方は、この「負担と受益の一致」という財政学の基準に照らし合わせて「完全に合理的である」とみなされる例は少ないということだけ、お分かりいただければと思います。

 さて、科学技術の話に戻ります。科学技術の公共予算は年間3兆6000億円程度あり、巨額の公費が使われています。この場合も、財政学的に合理的というためには、“負担と受益”が一致していなければならず、納税者としては、3兆6000億円払った分だけ利益を享受できなければおかしい、ということになります。では、科学技術への国の出費に応じた納税者の利益とは一体何でしょうか。

 科学技術の発展がさまざまな製品やサービスの源泉になっていることは、だれにも感覚的には明らかです。日本発の技術でいえば、青色発光ダイオードや超音波検査、さらには実現が期待されるiPS細胞による再生医療などは、ほとんどの人がその恩恵を感じるものだと思います。しかし同時に、何千億円もかかるコンピューターが「なぜ必要なのか」「なぜそれが税金で賄われなければならないのか」とも感じられるのではないかと思います。

 先ほどの公共事業の例でいえば、高速道路から恩恵を得る人や、その時の金銭的なメリットというのは、限定的ではありますが数値化できるものです。しかし、上述の例のような画期的な科学技術の成果であっても、一般国民に「どのように、どれだけ還元されるのか」は非常に不明瞭です。例えば、再生医療に関する技術投資は、だれがその恩恵を受けるのでしょう。病気になる確率は誰にもありますから、国による投資によって新しい治療法が生まれれば、その受益者となる可能性は誰もがあります。しかし、この受益者には、日本以外の人も含まれるでしょう。医薬品や医療機器などは、日本の中だけで消費されるわけではありません。当然、世界中その対価を支払うことのできる人であれば、誰しもその利益を享受することができます。

 もし日本の製薬企業なり医療機器メーカーがこれを実用化し、世界中で売るようになれば、それは税収や雇用創出といった形で、日本国民の利益として還元されると考えられます。しかし、そのような場合でさえ、現実的にはなかなか複雑です。医療関係の企業の業績は、新しい医薬品の良し悪しや特許の有無だけでは決まりません。医薬品などは特許を持っているかどうかは、経営上大きな要素ですが、実は研究開発費よりも広告宣伝費に製薬会社は金をかけているなど、それほど単純なものではありません。また、日本で生まれた特許にライセンス料を払った外国メーカーが販売競争に勝てば、国内の雇用などはごくわずかしか生まれないでしょう。このように、技術開発から生まれる利益については、科学技術以外にいくつもの要素が絡んでいます。

 「グローバリズム」という言葉が盛んに言われるようになって10年以上がたち、すでに概念の陳腐化の様相を呈していますが、こと「科学技術投資での政府の役割」に関しては、「グローバリズムの進展によって、まだまだ大きな考え方の変化が必要になるのではないか」というのが私の漠然とした印象です。従来、日本の大学で行われた研究は、応用研究に近いものであれば「その成果は日本企業に還元されるものだ」と無意識に考えられていたように思われます。“日本発の技術”というようなことが言われるとき、その製品やサービスの研究・製造・販売は「独占的に日本人によって行われる」と考えられていた節があります。このことが良いのか悪いのかは議論がありますが、医薬品・医療機器では大きな問題となります。しかし、それは技術開発以外のさまざまな要素が絡むため、ここでは詳述を避けます。

 「グローバル」と呼ばれる時代になる前から、研究開発の成果が“無償”で、他国に伝播する事態は発生していました。日本で生まれた画期的な発明であっても、外国特許などで保護されていない場合、それを日本以外の第三者が無償で利用することは何ら問題がありません。この点に関しては、日本はむしろアメリカが投資した技術から恩恵を受けている面の方が強いのではないでしょうか。つまり、我々はアメリカ国民の税金の成果を“無償”で(正確には違いますが、話を単純化するためにこう書きます)、享受していることになります。近年は企業活動とともに研究活動の国際化、ボーダーレス化はいっそう進み、研究開発をする人間、その成果を利用する人間もますます、国境をまたいでその範囲を広げていくことが予想されます。そのため、技術開発の“受益者”とは「誰なのか」を確定することは、さらに難しくなっています。日本企業が技術を独占的に利用するのであれば、間接的には日本国民に利益が分配されると考えられますが、全ての発明を特許で確実に囲い込めるのかどうかはよく分からないし、今後ますます不透明になると考えられます。

 さらに、研究開発というのは「いくら投資したから、いくらだけの見返りがある」という、数量的な関係を捉えることが非常に難しい分野です。企業の研究開発にせよ、投資額とそれが生み出す利益の額を関連付けることは難しいでしょう。青色発光ダイオードの時も問題になりましたが、発明をした研究者個人の貢献度と、商品化やセールスなどを行った会社の貢献度で、明確に線引きが出来るようなものではありません。確かに、税金で行われた研究の成果が国に還元されるべきであるとはだれもが思いますが、それを製品化し、さらに商業的に可能なものにするのは企業、それも研究開発とは関係ない人々の力が欠かせません。間接的には、そのような人々の利益に税金が使われていると、考えられなくもありませんが、製品化し収入をあげた企業からどけだけ国庫に還元すべきかは、非常に緻密な議論が必要です(ここでは避けます。)

 最終的に技術が新しい産業を作り、雇用を生み出し、納税額を上げれば、国としては「投資に見合うだけの成果が上がった」と言えますが、「最終的な成果だ」とみんなが同意する結果につながるまでには、非常に長く、検証の難しいプロセスがあります。公共事業であれば、ある程度は検証可能ですが、科学技術はあまりにも不確実性が多すぎる上に、他の要素に依存する部分が大きく、さらにその受益者が一国に限定されないため、この関係を検証することは非常に難しく感じられます。

 ところが、先ほど説明した「負担と受益の一致、及びそれへの同意」という原則を前提とする財政民主主義では、このような研究開発投資についての“負担と受益”の明確な関係を、日本国内だけで説明することが要求されます。先ほどの例で挙げたような高速道路や年金であれば、「だれがどの程度払ったか」「どの程度の利益を得たか」を説明することは、厳しい条件付きではありますが、専門家が「議論に足る」と認定するレベルで可能です。しかし大学などが行う研究開発は、長い期間を経て、さらに企業を経由しなければ、その成果を一般国民が享受することができません。さらに、日本人の払った税金による研究開発は、他国の人間も自由に利用できるとなるとますます、「いくら払ったから、いくらもらえる」式の財政民主主義の考え方では、この支出を正当化することは難しくなります。

 私は財政民主主義の考え方が間違っているとも思いませんし、「明確に関係が説明できないのだから、技術開発への国家投資はやめるべきだ」というような、どちらか片方に極端に傾斜した考え方には抵抗感があります。しかし、両者をつなぎ合わすことの難しさゆえに、納税者からすれば非常に歯切れの悪い説明を聞かされ、公共投資による技術開発に対する不信感を抱いてしまうのではないでしょうか。そのような関係について、できる限り明確な根拠を提示することが、私の仕事の目指していることなのです。

 さて、今までは一般の読者への内容でしたが、最後に少し専門家向けの話をして、この稿を終えたいと思います。

 科学技術に関する政府全体の方針は「科学技術基本計画」として5年に一度策定し、この中で予算の大枠や大目標を決めています。研究開発の予算は文部科学省をはじめ、さまざまな政府の機関に分散しているので、それぞれの機関の提案・計画を内閣府が取りまとめています。

 現在は平成23年度からの「第4期」基本計画の最中ですが、3年後に始まる「第5期」基本計画に向けた検討が始まっています。第4期基本計画からは「科学技術イノベーション政策」として、科学技術が生み出す成果までを含めた科学技術予算が検討されるようになりました。その中では「持続的な成長と社会の発展」として、科学技術それ自体ではなく、社会全体の目標の実現のために予算配分されるべきだという方針が掲げられました。

 この方針に沿って、政府として研究開発を計画する上で、社会的影響を可視化、定量化するという要請が生じます。「政策の科学」の目標にはこの定量化が含まれますが、今年度に限っては試行段階の検討になるため、研究開発戦略センターが暫定的に文部科学省と科学技術・学術政策研究所と共同して、この研究開発の「社会的・経済的インパクトの定量化」の作業を行っています。初年度から科学技術予算すべての定量的評価はできないので、今年度は初めての試みとして「ライフサイエンス」を分野に、「糖尿病の予知・予防」というテーマでこの事業を進めています。これまで述べてきたように、因果関係を定量化するのは大変難しい作業なのですが、いくつもの問題点をクリアすべく現在検討を重ね、試行錯誤を繰り返している段階です。この定量化の作業の成果としては、研究開発がもたらす寿命や、医療費の変化などが含まれます。このように、社会のすべての人にとっても重要である事項まで関連づけようとする試みは、欧米でも行われていますが、私たちは独自の方法論で行っています。

 今後は第5期基本計画の策定に向けて、「政策の科学」の定量化を試み、貢献することが求められています。このため、現在行っているライフサイエンス分野の範囲を広げて精緻(せいち)化し、その他の分野にもこの事業を広げて、科学技術の主要な分野における社会的・経済的なインパクトの測定を行っていきます。それによって科学技術予算や期待される成果を多くの人に理解してもらい、そうした結果を第5期基本計画の策定に生かしてもらうつもりです。こうした試みが今後どのように展開するにせよ、納税者の負託にうまく応えられるよう、取り組んでいきたいと思っています。

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