レポート

研究開発戦略ローンチアウトー第9回「世界一を目指さなくて良いか?」

2010.02.26

南谷 崇 氏 / 科学技術振興機構 研究開発戦略センター 電子情報通信ユニット フェロー

南谷 崇(科学技術振興機構 研究開発戦略センター 電子情報通信ユニット フェロー)

科学技術振興機構 研究開発戦略センター 電子情報通信ユニット フェロー 南谷 崇 氏

 情報技術をITと呼ぶようになったのはいつごろからだろうか? このITに関して、最近、科学技術政策を議論する場で政策担当者や有識者と呼ばれる人々からもときどき耳を疑うような意見が出される。いわく、

 「ITは民間に任せればよい。今さら国が投資する必要はないのではないか」
「ITはもう成熟している。新規の研究課題など無いのではないか」
「ITは便利に使いこなすべきツールにすぎない。研究対象ではない」
「ITを今からやっても米国には勝てない。輸入すればいいではないか」

 など。ITを携帯やパソコンと同義だと誤解しているとしか思えないような発言である。なぜこのようなことがわが国で起きるのか? 米国やヨーロッパではほとんど聞かない。

 原因は情報技術をITと略称したことにあるのではないか。英語国民が英語のフレーズを略称する場合には、思考したり議論する過程でも元の意味、概念を略称と一体化させやすい。しかし非英語国で英語フレーズをITと略称すると、概念は記号化する。元のフレーズが持っていた本来の意味、概念を忘れ、単なる記号だけのやり取りに陥りやすい。記号だけが一人歩きし、そのうちに各自の知識の範囲内で記号の勝手な意味付けや解釈が行われる。その結果、思考停止に陥ったとしか思えないような物言いが横行することになる。新聞紙面や役所の文書にさえ、こうした記載が目につく。昔、IT を「イット」と発音した大物政治家がいたと聞くが笑えない。記号化したのなら、その機能において「イット」でも「アイティー」でも大差はない。

 資源のないわが国は科学技術創造立国しか生き残る道はない。最先端科学技術の創造はわが国の安全保障の基礎であり、世界の平和と繁栄に貢献する唯一の方法でもある。言うまでもなく科学技術政策の要諦(ようてい)は社会の期待を実現することであり、そのための課題を解決することにある。社会の期待とは何か。いくつかの水準と視点があり得るが、その最上位にある期待の一つが「持続可能なシステム」の実現であることには大方の合意があると思われる。ここでシステムとは、自然システム、生命システム、社会システム、経済システム、産業システム、情報システム、人工物システムなど、人類が時間的、空間的にかかわるあらゆる実在である。

 情報は、システムを構成する要素であると同時に、システムの構造と作用を表現する媒体であり、またシステムが提供するサービスでもある。情報技術は、情報を対象とした計算と通信によって創り出されるサービスを表現し、実現し、分析し、評価し、最適化する学問から産み出される果実である。言い換えると、情報は社会の期待と課題を解決するための中心概念であり、情報技術はその概念を駆使して課題解決の方法論を産み出す基盤である。

 課題解決に情報技術がかかわるという文脈には、図に示すように、二つの側面がある。「情報技術による課題解決」と「情報技術の課題解決」である。

 「情報技術による課題解決」を必要とする難問は大きく3つのカテゴリーに分けられるだろう。第一は地球規模の難問であり、大気、気候、海洋、森林、極地などを含む環境変動の予測と制御、それらと密接に関連する物質循環、生物多様性の確保、疫病の世界的流行の予防と対策、温室効果ガスの削減など、国際的に共通に認識されている課題である。

 第二は社会の難問であり、国家安全保障の確立、都市の重要インフラの安全確保と保全、経済・金融市場の安定化、犯罪やテロの撲滅、ネットワーク社会のサービスと情報の信頼性確保など、安心・安全に対する期待の実現である。第三に宇宙、物理、化学、生物などの基礎科学における難問であり、計算物理、計算化学、計算生物学、脳科学などの新興学問分野が形成されてきている。これらの難問解決には、既成の確立した学問分野だけでは解決できず、「情報」と「数学」を中心として既存の分野を融合させる視点とアプローチが必要であり、情報技術はその基盤を提供する。

 これらの難問を情報技術によって解決するためには情報技術そのものが抱える課題の解決が必要である。自然システム、生命システム、人工物システム、社会システム、産業システムなどを構成する基本要素には、物質、生命、エネルギーに加えて、情報がある。またこれらの基本要素の相互作用の表現、解析、設計の媒体となるのもやはり情報である。すなわち、人間、社会、自然の活動は情報とシステムによって表現される。「情報技術の課題解決」とは、このシステムが抱える課題での解決であり、システムの大規模化と複雑化、情報とサービスの多様化、オープン化、VLSIの微細化、人間行動の不確実性、技術と環境の進化・劣化、などへの対応である。永続的に安全と信頼を保障し、エネルギー消費を減らし、変化に適応できる「持続可能なシステム」のアーキテクチャと設計技術の確立である。

 要するに、「情報技術による課題解決」と「情報技術の課題解決」は、これからの科学技術創造立国の中心的な駆動力になるはずである。その象徴的な例が、その時代における最先端の情報技術の具現化であるスーパーコンピュータに見られる。スーパーコンピュータは、科学の難問、地球規模の難問、社会の難問を解決するための情報技術基盤であると同時に、材料技術、デバイス技術、システム技術、ソフトウェア技術、ネットワーク技術、実装技術を含む総合技術の結晶であり、情報技術の課題解決に向けた創造的研究プラットフォームになり得る。

 「スパコンは世界一を目指す必要はない」あるいは「科学研究には外国のスパコンを購入すればよい」とする意見が有識者からも聞かれるが、世界一を目指さなければ2位にも3位にもなれないだろう。国家の安全保障を左右するような最先端の情報技術を外国から購入できると考えるのはナイーブすぎる。何よりも将来の科学技術を担う人材が育たない。世界一を目指さなければならない。

※ここに記したのは筆者の個人的見解である。研究開発戦略センター内での議論を反映したものではない。

社会の期待と課題
図. 社会の期待と課題

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