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数学は「忘れられた科学」を脱したか

2015.07.21

 欧米先進国に比べ、数学で博士号を取得する人間が少ない。長期的に見て日本の数学研究力は低下している、と海外のトップクラスの数学研究者からも心配されている−。科学技術政策研究所(現 科学技術・学術政策研究所)の報告書「忘れられた科学−数学」が、科学技術・学術関係者に少なからぬ反響を呼んで10年になる。報告書の本来の狙いは、産業界でも数学研究者が活躍している米国の例などを挙げ、数学への公的支援や数学と産業、数学と他分野との共同研究を促すことにあったのだが、その後、数学を取り巻く状況に変化はあったのだろうか。

 15日に科学技術・学術政策研究所が公表した講演録「数学は世界を変えられるか?〜『忘れられた科学−数学』から10年 数学イノベーションの現状と未来」に、他分野との共同研究で成果を挙げている数学者たちの興味深い言葉や指摘がある。

 「数学は『数を扱っていない』ことが多い」。「『具体化する』(物事を詳細に見る)戦略と、抽象化する(本質は何か、を探す)戦略は、常に発展の両輪である。数学が得意とするのは後者」。こうした数学者側からの指摘については、数学者と共同研究をしてみて初めて気づいた、という他分野の技術者や研究者もいるのではないだろうか。

 数値解析や数値シミュレーションを専門とする水藤寛(すいとう ひろし) 岡山大学大学院環境生命科学研究科教授の講演内容が、講演録「数学は世界を変えられるか?〜『忘れられた科学−数学』から10年 数学イノベーションの現状と未来」に収録されている。氏は科学技術振興機構(JST)の戦略的創造研究推進事業ネットワーク型研究(個人型)「さきがけ」の研究領域「数学と諸分野の協働によるブレークスルーの探索」の研究者として、臨床医学者との協働研究を推進した。この「さきがけ」研究は、報告書「忘れられた科学−数学」が出た翌年の2007年に実施された。

 水藤氏はさらに、2010年からは同じJST戦略的創造研究推進事業のチーム型研究「CREST」の研究チームの一つ「放射線医学と数理科学の協働による高度臨床診断の実現」で、研究代表者も務めている。個人差が大きい大動脈の形状から専門医が大動脈りゅうと診断するに当たって、どのような違いに注目したらいいのか。コンピューター断層撮影(CT)画像や核磁気共鳴画像法(MRI)画像の新しい見方を医師に提供することをはじめとする共同研究を続けている。幾何学的概念を導入した数学者ならではの、より客観的な診断法だ。

 こうした他分野との共同研究の実績、経験に基づく水藤氏の講演の中に、次のような興味深い指摘がある。

 「医師の側にも数学に対してはいろいろな誤解がある。数学というのは数字を扱って非常に細かいことをやっている、と思っている医師たちもいる。先日、医学関係の研究会で講演をしたら、そのように紹介されたので『いやいや、そうでもない』と話した。一人が両方を理解するのは難しいが、適切な通訳がいれば大丈夫。私も一応、純粋数学の人と医師たちの通訳が最近できるようになってきたのではないか、と思っている…」

 講演録には、水藤氏のほかにも大学や企業の研究者、技術者から、数学と他分野・産業との協働による研究の実例が紹介されている。「医師の直感を数理科学的な枠組みを構築することで新しい技法がどんどん適用可能になる」、「計測情報だけでは観察できない高炉内部のレンガに対する熱衝撃を『逆問題』という応用数学の手法で初めて知ることができた」など、数学が現場を動かし、変えた実例を知ることができる。

 文部科学省の取り組みはどうか。4年前に研究振興局基礎研究振興課に数学イノベーションユニットが新設された。昨年8月には科学技術・学術審議会先端研究基盤部会が「数学イノベーション戦略」をまとめ、公表している。数学イノベーションの必要を述べた最初に出てくる記述は「ビッグデータの意味を理解することの重要性の増大、複雑な現象や問題の増加など、 さまざまな社会的・技術的要因から数学を必要とする機会が飛躍的に増加している」というものだ。

 「具体的実体を抽象化してその本質を抽出し、一般化・普遍化する数学の力を十分に活用して、さまざまな科学的 発見や技術的発明を発展させ、新たな社会的価値や経済的価値を創出する革新を生み出していく『数学イノベーション』が不可欠だ」ということも。

 10年前に出た科学技術・学術政策研究所の報告書「忘れられた科学−数学」の影響が、具体的な動きにまでなっていることがうかがえる。では、肝心の数学界の現状はどうか。講演録「数学は世界を変えられるか?〜『忘れられた科学−数学』から10年 数学イノベーションの現状と未来」の中に、気になる記述もある。

 「世界全体で応用数学の論文数は、ここ 10 年で倍ぐらいに伸びている。日本も絶対数では伸びているが、世界全体におけるシェアは2000年の7位からじりじり落ちている」。文部科学省融合領域研究推進官・数学イノベーションユニット次長の報告だ。基になっているのは、国際情報サービス企業トムソン・ロイターのデータ。2011年にはトップの中国が30%を超え、2位の米国も25%近いシェアであるのに対し、日本(9位)は約4%、という大きな差がついている。

 収入などによって米国人の職種をランク付けした米紙ウォールストリート・ジャーナルに載った表を引用し、数学イノベーションユニット次長は次のようにも述べている。

 「トップが数学者で、統計学者(3位)や保険数理士(4位)といった数理系の職業が上位10位内に入っている。これは単純に給料がいいからというだけではなくて、給料以外にも、充実感、 達成感があるとか、ストレスが大きすぎなくて職場環境がいいとか、あるいは安定性があるとか、そういったものを総合して判定されているそうだ…」

 ウォールストリート・ジャーナル紙の該当記事を見てみると、2位はテニュア(終身雇用資格を持つ)大学教授となっている。目を引くのが1位と2位の年収の違いだ。数学者の年収(Midlevel Income)101,360ドル(約1,250万円)に対し、テニュア大学教授は68,970ドル(約850万円)。相当な差といえる。

 こうした海外の状況を見ても、日本で数学者、特に応用数学者が活躍する領域はまだまだ広い、ということだろうか。

(小岩井忠道)

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