レビュー

ねつ造番組における視聴者の役割

2007.02.22

 テレビ番組のねつ造の遠因には、視聴者の無関心も。

 日経新聞の21日夕刊文化面で、吉田直哉氏が語っている(記者の聞き書き)。「NHKのディレクターとして、『日本の素顔』『未来への遺産』など、放送史に残るドキュメンタリーを手がけてきた」人だ。

 「ドキュメンタリーはすべてやらせである、というのが僕の持論」。現場でこの世界を切り開いてきた人の言葉だけに、説得力がある。「作為の一切ない、ありのままの映像を撮りたいなら、盗撮をするしかない。やらせは取材対象が撮影を了解した時点で成立するんです」

 過去、テレビ局のやらせ映像に対して、最も厳しい批判を加えてきたのは新聞だろう。しかし、その新聞でも例えば、紙面をしばしば飾る将棋のタイトル戦の写真はどうか。最初の手を指す対局者は、何度も同じ仕草を繰り返す、という。無論、よい写真を撮りたい写真記者たちの求めに応じてである。

 氏によると、「やらせ」と「ねつ造」は分けて考えるべきだというわけだ。

 「視聴者だって、うさんくさい情報は『うそだろう』と思いながら見ているんです。でも、今回のように捏造が明らかになり、腹を立てようとしても、ワイドショーでコメンテーターが代わりに怒ってくれるから、腹を立てる暇もなくなってしまう。そのうち、こんなもんだろう、と無関心になってしまう」

 「本当は昔のように、いかがわしい番組には視聴者自らがきちんと怒るべきです。そして視聴を拒否すればいい」

 放送界の人々に聞くと、若い人たちのテレビ離れが起きている、という。携帯という新しい情報ツールの影響が大きいと思われるが、テレビ番組の視聴拒否というのがすでにこういう形で進んでいるとすれば、そちらの方も、放送界にとっては深刻な問題だろう。(日経新聞の引用は東京版から)

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