レビュー

iPSの安全性指針策定へ 臨床研究が新たな段階で一層の慎重さ求める

2015.11.26

内城喜貴

 「再生医療の切り札」として期待される人工多能性幹細胞(iPS細胞)を使った研究が進んでいる。iPS細胞は、皮膚や血液などの特定の機能を持った細胞に数種類の遺伝子を入れて、さまざまな細胞になる能力を持たせた万能細胞。この細胞を開発した京都大学の山中伸弥(やまなか しんや)教授が3年前にノーベル医学生理学賞を受賞したこともあり広く知られるようになった。昨年9月に理化学研究所などの研究チームが目の病気にiPS細胞から作った網膜細胞を移植する世界初の手術に成功して注目された。その後も先端医療研究機関で研究が進む中で、厚生労働省がこのほど、iPS細胞の安全性を評価する方法や手順などの指針を検討する研究班設置を決めた。また文部科学省の作業部会は、今後約10年程度の研究目標を盛り込んだ新たな工程表をまとめた。臨床研究が確実に新たな段階に進んでいることを示す一方、医療研究機関の一つ一つの研究に一層の慎重さを求めた。

 再生医療の信頼性と研究の透明性などを高めることなどを目的にした「再生医療安全性確保法」が施行されて11月25日でちょうど1年。同法は、再生医療の研究を進めるすべての医療機関に対し、実施計画などを国(厚労省)へ届けることを義務付けた。医療上のリスクに応じて第1種、第2種、第3種に分類しているが、iPS細胞を使った研究は最もリスクが高い第1種に位置付けられている。

 厚労省の今回の措置は、医学、科学データを精査して安全性の基準を明確にするのが目的。その判断の背景には、関連法順守だけでなく、世界初の成果を挙げた理化学研究所自身の安全性最優先の姿勢がある。同研究所のチームは、昨年9月に世界で初めて患者から作ったiPS細胞で網膜再生の手術を実施、成功したが、2例目の患者で細胞に遺伝子変異が見つかり、移植手術を見送った経緯があった。理研の高橋政代(たかはし まさよ)プロジェクトリーダーは文科省の作業部会で「(安全性について)社会的同意が得られていない」と2例目見送りの理由を述べている。厚労省の研究班では安全性を確認するために必要な検査や、臨床応用する病気ごとのリスク評価方法についての指針を策定する。この中でiPS細胞から作った細胞の移植に伴うがん化リスクについても詳しく検討する。

 一方、文科省の作業部会(幹細胞・再生医学戦略作業部会)は、このほど開かれた会合で工程表改定案を大筋で合意した。工程表は2009年に作成され今回初の改定となる。この判断の動きの背景も厚労省と同様だ。理研の臨床研究成果に続く2例目として注目されていた京都大学のパーキンソン病治療は、これまで「1年ほどで開始」とされていたが、今回「1年から2年で臨床研究または治験開始」となった。研究計画では、患者の血液から作ったiPS細胞を神経細胞に成長させて患者の脳に移植する内容で、一時は年内にも実施されるとみられていた。

 患者本人の細胞から作ったiPS細胞を使うと臨床応用まで時間と費用がかかる。このため、将来的には他人の細胞から作って保管する方法が中心になるとみられている。他人の細胞が体内に入ると「異物」として拒絶反応が起きるが、拒絶反応が起きにくい細胞を持つヒトが存在する。このため京都大学の研究チームは、拒絶反応を起こしにくいタイプの他人の細胞から作った細胞を移植する方法も含めて計画そのものを見直すとことにした。結果的に、開始時期が遅れる見通しとなった。研究チームは学内実施申請も急がず来年以降にする方針だ。

 iPS細胞を使った研究は今年に入ってからも着実に成果を挙げてきた。例えば、京都大学iPS細胞研究所の研究チームは、iPS細胞から関節の軟骨細胞を作製することに初めて成功して2月に発表した。研究チームは、マウスやラットへの移植実験で安全性と品質を確認し、4年後をめどに臨床応用を目指している。事故や加齢による関節損傷患者への再生医療につながる、と期待されている。

 最近では熊本大学のチームが成果を挙げた。iPS細胞から作った腎臓の一部をマウスの腎臓に移植して成長させることに成功した(科学技術振興機構「CREST」の一環)。臨床応用の段階に進む時期は不明だが、研究が順調に進めば将来的には患者の多い腎臓病の原因解明や治療への応用が考えられる、という。

 iPS細胞を使った研究は、さまざまな病気を画期的な方法で治療する再生医療の分野だけでなく、新薬の開発研究への応用も期待されている。その一つが薬の副作用研究だ。新薬開発に際して研究者は、薬の候補となる実に多種多様な化学物質を調べる。候補を見つけるとまず基礎研究をし、動物実験に移り、安全性を確認したら臨床研究に移る。しかし、同じ化学成分でも動物とヒトとでは反応が異なるケースがある。製薬会社が膨大な資金と時間をかけて新薬候補を作り動物実験で副作用が判明しなかったのに、臨床研究で副作用リスクの可能性が浮上することがある。また動物実験で問題が生じて開発中止された新薬候補でも、人間に対しては安全な場合もあり得る、という。しかし、当然のことながら副作用リスクが少しでも考えられる新薬候補を臨床段階に進めることはできない。こうした問題に対し、ヒトiPS細胞から作った組織細胞を利用すると新薬候補の化学物質の人体への影響を調べることもできる、という。

 また新薬の効果を客観的に評価する方法への応用も検討されている。多数のヒトから作ったiPS細胞で新薬の効果を試すことができ、薬が効く患者、あまり効かない患者の選別を判定することも可能、という。将来的には無駄な長期間投与を避けることができると期待されている。

 このように、iPS細胞を利用した再生医療や医薬分野での研究をみると、医療現場での革新的な進歩への期待は広がるばかりだが、山中教授や高橋リーダーら、再生医療の世界的な第一人者自身は、安全性の確認や社会の合意の大切さを、さまざまな場で強調している。再生医療は、進歩が速く、期待も大きいだけに、一般には「難病があすにも治る」と誤解される面があるが、これから5年先10年先を見通しながら慎重に進めるべき分野でもある。

 安全性だけでなく倫理面での検証も必要だ。iPS細胞から精子や卵子もできる。倫理面での議論や検証、検討は、生殖医療の分野でこれまで長い時間かけて行われてきた。日本の先端医療はこうした経験もある。課題に違いはあるものの、再生医療の研究者自身が説く、安全性の確認や社会の合意の大切さ、という点ではまったく同じだ。再生医療の急速な進歩は、研究者の並々ならぬ努力もあったが、政府の支援もあった。「成長戦略」の中に位置付けられて研究予算は重点配分された。一部に「早急に成果を求めることにならないか」との指摘もあったが、今回政府関係の審議機関が指針や改定工程表をつくる動きを見せたことは、再生医療の進歩を急がず慎重に見守る姿勢の表れといえるだろう。

関連記事

ページトップへ