第2次世界大戦の惨禍への反省から、世界平和の実現の使命を託して献学された国際基督教大学(ICU)の60年余りの歴史において、一つの言い伝えとして伝統になっている言葉がある。それは、毎年の入学試験に際して、初代学長の湯浅八郎博士が教員たちに述べたとされる「受験生は大学のゲストです」というメッセージである。受験生たちは、もし合格しなければ、再びこの大学に来ないかもしれない。だとすれば、この大学の印象は、その入試の日に決まってしまうだろう。その印象がもし悪ければ、生涯にわたってそのことを覚えているに違いない。
特に不合格になった多くの学生は、なおさらであろう。確かに一般論として、受験に成功した学生は、その大学や試験について比較的に好印象を持つだろうし、失敗した学生は試験問題の内容だけでなく、試験を受けた時の状況や、試験担当者の対応についても、否定的な印象を持つかもしれない。
自分の適性問う本来の入試に
しかし、湯浅の伝えた言葉の意味は、そのような大学の単純な印象や評判に関してのものだけではないと思われる。恐らく重要なことは、結果としての合否とは無関係に、受験生のそれぞれが入試の場において個人として尊重され、公平に扱われたという記憶ではなかろうか。入学試験の合否は、個々の受験者の人格とは本来無関係であり、その大学が目指している入学者像、今はやりの言葉で言えば「アドミッション(ズ)・ポリシー」に、たまたま合致しなかったにすぎないのかもしれない。
そして、そのポリシーは、本来、大学ごとに明確であるべきものであり、受験者はそれを理解し、それぞれの大学に対して自分の適性を問うことが、入学者選抜に取り組むことの本来の目的なのである。湯浅のメッセージは、ともすれば、受験生を数の集団としてしか見ずに、その中でも試験に受かる人(いわゆる「勝ち組」)だけを相手にし、何らかの理由で落ちてしまった人(「負け組」)には冷淡であるというような、一面的な尺度の結果でしかない過去の入試の在り方を戒めていたのではなかろうか。言い換えれば、単に合格することだけが目的化し、正当化されることへの悔い改めであったと思うのである。
入学試験とは本来そのようなものではなく、受験生一人一人の思いを受け止めつつも、決しておもねることなく、出来る限りにおいて公正な評価方法を探求しつつ、その結果は、受験者の人格を否定するようなものであってはならないということであろう。その根底には、人が人を判断するということへの怖れと躊躇(ためら)いがなければならないと思うのである。完全ではあり得ない人間が作った方法で、他の人間の能力を確実に判断することなどは本来できないという前提が重要であり、むしろ、完璧な入学者選抜の方法などはあり得ないからこそ、誠心誠意その現実に向かい合う姿勢が必要なのである。
入試実行者は、人(特に希望に燃えた多くの若い人)の一度しかない人生の、かけがえのない瞬間に立ち会うという覚悟が必要なのではないか。単に多くの志願者を集めて、出来の良い学生だけを集めれば済むという発想であってはならないのである。そこでは合否という一面的で敵対的な風土を作るのではなく、むしろ互いに建設的な関係性が築かれるべきであろう。その意味で、ICUの入試問題は、受けにきて良かった、読んで楽しかった、聴いて面白かったと受験生に言わせることに大きな価値を見いだそうとしてきたのである。そこには、単なる合否のためだけでない、あくまでも教育の一環としての入試のあり方を追求してきた伝統があるといえよう。
真摯(しんし)に問いかける設問導入
ICUでは、2015年度の一般入試から、「ATLAS(アトラス)」と名付けた、15分程度の日本語の講義を聴いてから設問に答える方法を試験に導入した。これは決して奇をてらったものではなく、日ごろのICU の教育方針の中から自然に生まれてきた方法である。講義の要点をしっかりと聴き取り、資料を読み、自らの知識を動員して考えをまとめ、最も適当と思われる答えを導く努力をすることが試されるのである。
このやり方については、2014年度よりホームページ(HP)にサンプル問題(ワインの歴史に関するもの)を事前に発表し、2015年度の実際の問題(地球環境に関するもの)もHPに載せてあるので、既にご存知の方もあろうかと思うが、読者の方々にはぜひとも体験していただきき、忌憚(きたん)ないご意見を頂戴したいと考えている。その内容は、社会に対するICUのメッセージであり、ICUを希望する学生たちへの真摯な問いかけなのである。
幸い、この試験方式を経験して今年度入学した複数の新入生からは、面白かった、内容を考えさせられた、質問の意味について受験後も考えることがあったなど、肯定的な感想が寄せられている。まだ1回しか実施していない方式ではあるが、既に手応えを感じており、今後さらに検証を加え、入試を通じての対話を大切にしつつ、より良い内容にしていきたいと考えている。
近年、文部科学省を中心に、中央教育審議会の答申を踏まえて、日本の高等教育を今後どのように展開して行くべきか、そのための入学者選抜の方法、高大の連携協力の重要性などが活発に議論されている。ただ、その経緯の中で危惧されるのは、現場の生身の生徒や教員の立場への十分な配慮の必要であろう。例えば、今後予想される「到達度試験」の導入が、高校の教育現場にどれほどの負担を増し、健全な判断力を持った人を育てるという、本来の教育の目的をむしろ阻害する可能性もあるということを、もっと丁寧に議論し、いかに理解を深めていけるかが重要であろう。頭ごなしの机の上の議論ではなく、対話に基づいた血の通った実践が必要である。
これに類似した事例として、昨今、「ゆとり世代」という否定的な意味合いの言葉がしばしば使われることが挙げられよう。あれほど声高に導入された「ゆとり教育」が、あたかも差別用語になってしまう社会のあり方に疑問を感ずると共に(その失敗の原因は、実は「ゆとり教育」の内容そのものにあると言うよりは、現場の状況を十分に把握しないままに導入したことにあり、現場の対応がうまくできた所では、経済協力開発機構 〈OECD〉の調査によると、むしろ学習能力が伸びていることが判明しているのは皮肉である)、短絡的な試行錯誤の結果として、たまたまその時代に居合わせたがために、何の責任もない生徒たちが傷ついている現実に目を向けるべきである。
自嘲的に「自分はゆとり世代ですから…」という学生たちの姿に、心を痛めない教育者はいないだろう。そうした自己評価の低さ、ある種の諦めは、教育を進める上で障害となる大きな要素である。それを教育自体が作り出してしまっていることの責任は真に重大ではなかろうか。
また、試験における「一点刻み」はいけないという言葉も、最近になって大学関係者、教育関係者の口からよく聞くように思う。正答率だけを前提にした試験であれば確かにそうかも知れない。問題の出題形式が、単純に知っているか、知らないかを試すのであれば、それを「一点刻み」で表現することは、その人の本当の能力の表現にはならない可能性があろう。しかし、それぞれの問題の弁別率をしっかりと確かめて行く作業を積み重ねることで、むしろ「一点刻み」の危険を回避できるのではなかろうか。これまで知識問題を中心に作成してきたことへの反省として、大学の対応が問われていることは確かである。
入試内容も日々改善の努力が
いずれにせよ、入試という、意欲に燃えた若い人々にとっての人生の重要な瞬間に立ち会うことになるわれわれ大学関係者は、それに応えるだけの緊張感を持って望むことが当然であり、試験問題を外注に出す(丸投げにする?)などということは到底(少なくともICUにおいては)考えにくいことである。大学独自のメッセージを届けるという意味でも、各大学の入試の内容や方法は、これからも日々改善に努めていく義務があると確信している。それは、実際のところ、大変手間のかかる作業ではあろうが、人の人生の瞬間を大切にするという意味でも、極めて重要なことである。その意味では、本来当たり前のことを当たり前に実行することが求められているとも言えよう。
全ての受験生は大学にとって大切なゲストであるという心構えは、昔も今も、これからも同じように重要なのである。日本の将来を担う若い人たちの持つ力を育てていくことは、おのずとこの国の将来の姿を築いていくことにつながる。教育は時間のかかる作業であり、その結果が出るまでには何年も、あるいは何十年も待たなければならない。短期的な目標ももちろん必要だが、一定の期間辛抱して待つ必要もあるのではなかろうか。
短絡的な指向が強まる日本の社会において、教育という成果の見えにくいものについてどのように共通理解を作っていけるかが、今極めて重要なことであろう。教育の一環としての良い入試問題を作り、そこで選抜された人をより良く育てるためには手間と時間が必要ではあるが、結局はそれが一番の近道なのである。
以上、私自身は教育学の専門家ではないし、大学入試の研究者でもないが、20年間あまり大学教育の現場で学生たちに向かい合い、彼らの悩み、そして喜びに耳を傾け、何とか少しでも彼らの助けになれないかと考え、苦楽を共にしてきた経験から、今の日本の大学入試、そして教育環境を巡る混迷した状況について述べさせていただいた。
伊東辰彦(いとう たつひこ)氏プロフィール
国際基督教大学教養学部人文科学科(音楽専攻)卒。ニューヨーク州立大学ストーニー・ブルック校音楽学部大学院修士課程修了(M.A.)。デューク大学音楽学部大学院博士課程修了(Ph.D.)。国際基督教大学助教授、準教授、教授(音楽学専攻)、同大学院教授(比較文化)、オーストリア・インスブルック大学音楽学研究所客員教授、立教大学経済学部兼任講師などを歴任。2013年から現職。専門は、18世紀ドイツの音楽文化、明治期日本の洋楽導入、大学におけるリベラル・アーツとしての音楽教育。著書に『天才音楽家たちの友情記念帳』(講談社選書メチエ)、編著書に『アジアにおける異文化交流』(明治書院)など。
関連リンク
中央教育審議会答申「新しい時代にふさわしい高大接続の実現に向けた高等学校教育、大学教育、大学入学者選抜の一体的改革について~すべての若者が夢や目標を芽吹かせ、未来に花開かせるために~」( 2014年12月22日)