深く掘り下げたい - 科学技術の最新情報サイト「サイエンスポータル」 https://scienceportal.jst.go.jp Wed, 27 Aug 2025 06:18:36 +0000 ja hourly 1 プラごみ防止条約、生産規制で対立解けず合意先送り 各国は早期に交渉再開し成立を https://scienceportal.jst.go.jp/explore/review/20250827_e01/ Wed, 27 Aug 2025 06:13:01 +0000 https://scienceportal.jst.go.jp/?post_type=explore&p=54905  プラスチックごみによる世界的な環境汚染を防ぐ国際条約制定を目指す第6回政府間交渉会合(INC6)が、8月5日から15日まで180カ国以上の政府代表らが参加してスイス・ジュネーブで開かれた。しかし、プラスチックの生産規制などを巡り最後まで賛成・反対両派の対立は解けず、合意に至ることなく今後に先送りされた。

 身近で便利なだけに世界的に生産と消費が増える一方のプラチック。だが、環境中に放出すると分解されにくいことから、使い捨て容器などがごみとなって一部が海洋に流出する。このため、問題は国境を超え、気候変動や生物多様性の損失と並んで「3大地球環境問題」とも言われる。

 プラごみ問題は気候変動枠組条約の下の「パリ協定」のような国際枠組みによる解決が必要とされていた。それだけに韓国での会合に続く今回の合意先送りは極めて残念だ。だが、国際社会が一つになって強力な対策を進める必要がある。各国は早期に交渉を再開して実効性あるプラごみ防止条約内容の合意、条約成立に向けた努力が求められる。

スイス・ジュネーブで開かれたINC6の一幕(UNEP提供)
スイス・ジュネーブで開かれたINC6の一幕(UNEP提供)

欧州+島嶼国VS産油国+米中

 防止条約は、深刻化する一途のプラごみ問題を食い止めるために2022年3月に開かれた国連環境総会で策定が決まった。同年11~12月にウルグアイで開かれたINC1以降、廃棄物管理の在り方や生産量の規制など広範な項目で議論を重ねてきた。国連環境総会では24年末までの条約合意を目指していたが、期限となる韓国でのINC5でも生産規制などを巡って意見の隔たりは大きく、会合は合意を断念。先送りされた今回のINC6での条約成立が期待されていた。

 条約策定の事務局的役割を担う国連環境計画(UNEP)によると、INC6には183カ国から1400人を超える政府代表のほか、400以上の環境保護関連団体など1000人以上のオブザーバーが参加した。開幕日の5日にINC6のルイス・バジャス議長(エクアドル)は「(プラごみ汚染は)人類が起こした危機であり、人類の努力と協力で取り組まなければならない」と述べ、会期内での合意に期待を寄せた。

 しかし、UNEPや会合に参加した関係者によると、今回会合の最大の焦点だった生産段階からの規制の在り方を巡っては、早い段階からINC5を引きずった形で折り合わない議論が続いたという。プラごみ規制に積極的な欧州連合(EU)や海洋に流れ出たごみが標着する島嶼(とうしょ)国は、INC5から一致して生産量と消費量の国際的な削減目標を条文に盛り込むことを要求した。一方、プラスチックの原料となる石油を産出するサウジアラビアやロシアなどの産油国は、「廃棄物管理を優先すべき」との立場を今回の会合でも崩さなかった。そして米国や中国も生産規制には反対の意向を示したという。

 バジャス議長は会合終盤になって生産規制に直接言及する条項を削った条文案を提示した。しかし、規制賛成派の反発は激しく、会期を1日延長した15日になっても合意点は見いだせなかった。結局再び合意はまたも先送りされた。会合参加者は今回の結末について「中国のほか、トランプ政権になった米国が規制反対派に回ったことが大きかった」と述べている。

プラスチックの生産規制を巡って激しい議論が続いたINC6の議長席周辺(UNEP提供)
プラスチックの生産規制を巡って激しい議論が続いたINC6の議長席周辺(UNEP提供)

生産規制以外はかなり固まっていた条文

 このように条文案は生産規制を巡る対立から合意に失敗した。このため、会場ではバジャス議長の議事運営に厳しい声も聞かれたという。だが、条文案はプラスチックの不適切な管理による廃棄物(ごみ)を削減するための条項など、生産規制に関する部分以外はかなり固まっていたことが議長案からも分る。成果は一定程度あったのだ。

 議長が15日に提示した条文案は31条から成る。まず第1条で条約の目的を「海洋環境を含む環境と人間の健康をプラスチック汚染から保護する」と明記。第2条の「原則」では「(条約参加の)国家が自国の管轄権または管理下にある活動が他国の環境または管轄権の限界を超える地域に損害を与えない責任」にも言及している。

 また、第4条「プラスチック製品」では条件付きながら、製品の製造や消費を削減する方向を示している。さらに有害化学物質を含むプラスチックの生産削減の必要性にも触れていることも注目される。このほか、プラごみの原因とされる不適切な管理についても細かく規定している。

会合最終場面で提示されたバジャス議長による条約案の前文(UNEP提供)
会合最終場面で提示されたバジャス議長による条約案の前文(UNEP提供)

 UNEPのインガー・アンダーセン事務局長は会合を終えた後「プラスチック汚染は私たちの地下水、土壌、川、海洋、そして私たちの体の中にも存在している」と述べ、UNEPとして引き続きプラごみという人類共通の危機と闘うことを宣言している。

INC6で演説するアンダーセンUNEP事務局長(UNEP提供)
INC6で演説するアンダーセンUNEP事務局長(UNEP提供)

年間610万トンが海などに流出

 プラスチックは安価で軽く丈夫で加工しやすい。1970年代から生産量は先進国を中心に急拡大した。経済協力開発機構(OECD)の報告書などによると、世界の生産量は1950年から2019年の約70年間で年間200万トンから4億6000万トンへと約230倍にも増えた。今後約30年間に世界中で260億トン以上が生産されるとの推計もある。

 問題は生産、消費された製品の多くが不適切な形で環境中に放出されることで、再利用される割合は世界平均で1割未満とされる。2019年の廃棄量(ごみ)は3億5300万トンで20年間に倍増したという。川や海に流れ込むプラごみ量は年間約800万トンとされてきたが、OECDの最新の推計では19年時点で年間610万トン。推計数字は減ったが、いずれにせよたいへんな量だ。50年までにその量は魚の総重量を超えるとの試算もある。

増加傾向が続く世界のプラスチック消費量を示すグラフ(OECD提供)
増加傾向が続く世界のプラスチック消費量を示すグラフ(OECD提供)

健康リスクを示す研究が相次ぐ

 プラごみは漂流中に砕けて微小になる。直径5ミリ以下は「マイクロプラスチック」(MP)と呼ばれる。これを魚やウミガメ、海鳥などの海洋生物がえさと間違って食べると、こうした生物が死んでしまうだけでなく、食物連鎖を通じて人間の健康に悪影響を与える。このようなリスクを示す研究が相次いでいる。

 例えば、イタリアの研究グループが頸(けい)動脈疾患の患者257人の血管にできたプラーク(塊)を切って分析したところ、患者の6割からMPなどの微小なプラスチックが検出されたという。微小プラと疾患との関係ははっきりしないものの、研究論文は2024年3月の米医学誌に掲載され、世界的に反響を呼んだ。

 日本では東京農工大学の高田秀重名誉教授(環境汚染化学)らのグループが長くプラごみが海洋生態系に与える影響調査を続けている。この中で特に製品に含まれる難燃剤や紫外線吸収剤などに添加される化学物質の有害性について再三警鐘を鳴らしている。

海を汚染するプラごみのイメージ画像(UNEP提供)
海を汚染するプラごみのイメージ画像(UNEP提供)

実効性ある国際条約策定は急務

 INC6にオブザーバー参加した環境シンクタンク関係者によると、トランプ米大統領の地球環境問題での国際協調に後ろ向きの姿勢がそのまま米政府の対応に反映し、会合に影を落としていたという。同大統領はバイデン前政権が進めた紙製ストローへの転換を中止する大統領令を出すなど、「プラスチック回帰」を鮮明にしている。

 米国は1人当たりのプラ容器廃棄量が世界で一番多い。米政府の現在の「自国第1主義」は地球環境問題に不可欠の多国間協調体制と相容れない場面が多い。憂慮される事態だ。この廃棄量が2番目に多いのは日本だ。日本は2019年に大阪で開かれた20カ国・地域(G20)首脳会議で議長国として「50年までの海洋プラごみの新たな汚染をゼロにする」との目標策定を先導した経緯がある。

 現地からの報道は、「日本政府は今回、多くの国が参加できる条約にすべきだと訴え、中立的な立場を取りながら調整役としても奔走した」と伝えた。だが、時間的な制約もあり、残念ながら合意に向けて存在感は十分に示せなかったようだ。

 次回のINCの時期や場所は未定だが、実効性ある国際条約策定は急務だ。交渉が再開されても生産規制を巡る対立解消は容易ではないだろう。具体的な規制策は、気候変動枠組条約の下のパリ協定のような形で条約成立後でも盛り込める。

 各国はまず条約をまとめることに努力すべきだろう。同時に各国内でプラごみの海洋流出防止策や代替品の開発、リサイクル率の向上などできる対策は多いはずだ。

使い捨てにされ、環境中に放置されたプラスチック容器類のイメージ画像(UNEP提供)
使い捨てにされ、環境中に放置されたプラスチック容器類のイメージ画像(UNEP提供)
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日本の小麦をもとにスーダンで品種改良―内戦・コロナ禍を乗り越えて、辻本壽さん https://scienceportal.jst.go.jp/explore/reports/20250825_e01/ Sun, 24 Aug 2025 23:59:48 +0000 https://scienceportal.jst.go.jp/?post_type=explore&p=54877  横浜市で開催されていた第9回アフリカ開発会議(TICAD9)が22日閉幕した。近年のアフリカでは中国など諸外国からの投資が盛んな一方で、日本は相対的な存在感低下が指摘される。政府開発援助(ODA)の全体予算もピーク時の半分まで落ち込んでいるが、TICADの成果文書「横浜宣言」ではAIや医薬品分野などで日本がアフリカの発展へ貢献する意欲が示された。

 そこで今回、これまでにアフリカで大きな貢献を果たしてきた研究事例を取材した。気候変動や紛争などにより世界中で小麦生産が大きな危機に直面する中、スーダンで日本の小麦をもとにした品種改良が進んでいる。食糧危機は政情不安へとつながる恐れもあり、この研究は平和にも貢献するものだ。これまでの歩みを伺うため、プロジェクトを率いた辻本壽さん(鳥取大学乾燥地研究センター特任教授)のもとを訪ねた。

乾燥や暑さに強い小麦の品種改良に向けた実証実験をスーダンで進める辻本さん(中央、ご本人提供)

世界的な功績を学び、45年にわたり研究

 鳥取大学にある乾燥地研究センターは、日本で唯一の乾燥地研究の拠点だ。乾燥地とは、降雨量より蒸発する水の量が多い乾燥した土地のことで、世界の陸地面積の4割を占め、世界人口の35%が暮らす。日本はアフリカを含む世界中の乾燥地から多くの食糧やエネルギーを輸入する。つまり気候変動に伴う乾燥地の砂漠化や干ばつは、日本にも影響が及びかねない。そこで乾燥地研究センターでは、乾燥地の持続可能な開発に向けた研究を行っている。

鳥取大学乾燥地研究センターにあるドーム状のガラス温室「アリドドーム」は、乾燥地の条件を再現したシミュレーション実験の舞台になっている

 ここで小麦の品種改良に取り組むのが辻本さんだ。約45年にわたり小麦の研究に携わっている。小麦は世界の主要穀物の一つであり、乾燥地で栽培される代表的な作物だ。小麦の研究において日本は、著名な遺伝学者だった故木原均博士が祖先種を発見するなど、実は世界的な功績を残してきた。大学で育種学を学んでいた辻本さんは、指導教官から木原博士の教えを学んだことがきっかけで小麦研究の道を選んだ。

2015年に現地で実証実験を開始

 卒業後は横浜市立大学木原生物学研究所で小麦のDNA解析などの研究を進めていたが、2002年に鳥取大学農学部の教授に就任したことがターニングポイントとなった。100年の歴史を持つ同大農学部は、伝統的に麦類の研究が盛んなことで知られている。2011年からは、長年海外の研究施設と連携する乾燥地研究センターへと移り「国際的な観点から小麦研究の重要さを肌で感じた」という。

 ちょうどその頃、米国などの干ばつの影響で小麦価格が高騰し、パンを主食とする北アフリカや中近東の国々では価格の高騰で暴動が起こり、特にチュニジアでは大規模な反政府デモ「アラブの春」にも至った。「自分の研究をもっと役立てたい。もっと行動を起こさなくてはいけない。そう駆り立てられました」と振り返る。

研究センターには、辻本さんが生み出してきた数万にも上る小麦の種が保管されている

 乾燥地研究センターでは、1990年代からスーダン共和国農業研究機構と小麦の品種改良について共同で研究を続けていた。スーダンでは気候変動が進むと同時に、人口増加や都市化の影響で小麦の需要が拡大。より乾燥や暑さに強い小麦の品種改良が喫緊の課題だった。辻本さんらは2015年にスーダンでの実証実験を開始した。

 2019年には国際協力機構(JICA)と科学技術振興機構(JST)が連携し、ODAの一環として実施されている国際共同研究プログラム「地球規模課題対応国際科学技術協力プログラム(SATREPS)」に採択され、研究を加速することができた。

村に出向いて丁寧に説明、収量は3割増加

 辻本さんが交配を重ねて作り出した約1万種類の小麦の種の中から暑さと乾燥に強い性質を持つ1000種類を選び、スーダンで試験栽培すると、6種類がスーダンの環境に適しているとわかった。その種を用い、乾燥地研究センター内の農地やスーダンの気候を再現したアリドドームなどで交配や分析を繰り返し、暑さや乾燥への耐性などに関する実験を重ねた。

スーダンで行った高温耐性小麦を選抜するための実験(辻本さん提供)

 一方で新しい品種の開発には長い年月がかかるため、並行してスーダンの実用品種の改良や種子の増産にも取り組んだ。内戦の勃発やコロナ禍など困難な状況に直面しながらも、「目に見えて収量が低下する切実な状況をなんとかしなければ」と、村々へ直接出向き、新しい技術を押し売りするのではなく丁寧な説明を重ねた辻本さん。改良した種を用いることで収量は約3割増加した。

収量が増えたことへの謝意としてスーダンの農家から贈られた盾

ゲリラが施設を破壊するも共同研究は続く

 新しい品種を生み出すための材料となる遺伝資源の開発にも成功し、スーダンの実用品種と交配を重ね、次の一歩を踏み出そうとした矢先、スーダンで再び内戦が勃発した。

 「スーダンで新たに小麦の研究施設を設置し、サブ・サハラ地域全体で研究成果を共有できるようにしていきたいと考えていましたが、建設途中の建物や既存の研究所がゲリラによって破壊され、私が長年交配してきたスーダンの小麦の種も失ってしまったのです」

 そう語るのは、SATREPSのプロジェクトでスーダン側の研究代表者を務めた、スーダン共和国農業研究機構教授のイザット・タヘルさんだ。内戦で母国に戻ることができず、現在は鳥取大学で研究を続けている。

ゲリラの襲撃によって破壊されたイザットさんの研究室。保管していた種もばらまかれた(辻本さん提供)

 「もともと私は、パンを求めて長蛇の列に並ぶスーダンの人々の苦しみを目の当たりにし、小麦の研究を始めました。これまでも多くの困難を乗り越えてきました。だから内戦が勃発しても希望を失うことはありません」というイザットさん。幸いにも自ら交配して作り出した種は、鳥取大学で保管されていた。その種を再びスーダンに送り返そうと、現在クラウドファンディングでの協力を呼び掛けている。

 「国際共同研究で最も重要なのは人間関係です。スーダンの小麦をどうにかしたいという情熱を持つイザットさんをはじめ、スーダン側の研究者とは毎週オンラインで協議するなど綿密なコミュニケーションがあったからこそ、成果を上げることができました」と辻本さんは述べる。SATREPSのプロジェクトは今年3月に終了したが、この先も新しい品種の開発に向けた共同研究は続いていく。

鳥取大学の研究施設では、スーダンの気候に適した新品種の開発に向けて交配を重ねている

日本は創意工夫と自立的維持・発展の支援を

 今回の成果は、日本が積み重ねてきた農業技術が基盤にあったからこそ得られたものだ。一方で辻本さんは「世界に誇る技術を海外で生かそうとする動きがあまりなく、もったいない」と指摘する。山積する農業課題の解決に貢献することは、日本の国際的なプレゼンス向上にも役立つ。グローバル化が進んだ今、研究も近視眼的な考えに陥るのではなく「世界とのつながりを意識することが必要だ」と辻本さんは強調する。

スーダンの農家との対話を大切しながら、実証実験を進める辻本さん(右、ご本人提供)

 最後に日本の技術を世界、とりわけアフリカで生かすために必要な考え方を尋ねてみた。

 「日本人の哲学には、『自然を征服する』のではなく『自然の中で生かされている』という謙虚さがあります。自然の恵みに感謝し、自然と競合しないよう創意工夫する精神です。ところが技術を押し売りのような形でアフリカへ持ち込むと、生活の礎である自然に負の影響をもたらしかねません。日本人の哲学に立ち返り、長期目線での継続性と現地の事情にも配慮すべきでしょう。そのためにはニーズをよく聞きながら信頼関係を築き、人材育成や施設整備などを通じて自立的な維持・発展までを支援していくことが重要だと考えます」(辻本さん)

 辻本さんも気候変動に対応した小麦品種の開発に取り組む中で、イザットさんらとともに育種から普及、生産、加工、消費までバリューチェーンをつなぎ、現地の人々が自ら手掛けることのできる仕組みを模索してきた。自然への感謝、相手国の長期的な発展を念頭に置いた支援―日本ならではの哲学を背景にした辻本さんの挑戦には、日本の技術を世界でより輝かせるためのヒントがたくさん詰まっていた。

イザットさん(左)と辻本さん
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蚊の吸血「腹八分目」を発見、生態解明から感染症対策に貢献へ、佐久間知佐子さん https://scienceportal.jst.go.jp/explore/interview/20250820_e01/ Wed, 20 Aug 2025 06:46:28 +0000 https://scienceportal.jst.go.jp/?post_type=explore&p=54848  断りもなく血を吸い、かゆみだけを残して去っていく蚊。迷惑千万な存在である彼女ら(吸血するのはメスのみだ)を愛せる人は、おそらく皆無に近いだろう。かゆみだけでも許しがたいのに、実は最も人類をあやめている生物でもある。世界保健機関(WHO)などが2014年に出した推計によると、マラリアをはじめとする感染症の媒介者として実に年間72万人を死に至らしめている。

 そんな恨めしい蚊の吸血行動について、昨年ユニークな研究成果が出た。「腹八分目」で吸血をやめるというのだ。今日8月20日は、イギリスの細菌学者ロナルド・ロスが蚊の体内からマラリア原虫を発見した日にちなんで制定された「世界蚊の日」。朗らかにインタビューに応えてくれた佐久間知佐子さん(理化学研究所生命機能科学研究センター上級研究員)に免じて、少しだけ広い心で蚊の生態に目を向けてもらいたい。

佐久間知佐子さん
佐久間知佐子さん

リスクある吸血行動に疑問と関心

―はじめにどうしても確認したいのですが…佐久間さんは蚊がお好きなんですか。

 いやいや、皆さんと何も変わりませんよ。見つけたら追い払いますし、寝ているときに耳元で飛ばれるのも許せません。血を吸われるのも、もちろん嫌です。

―安心しました。では、そんな憎き蚊の研究をなぜ始めたのですか。

 もともとはショウジョウバエを対象に、どのように神経が形づくられるかを研究していました。複雑な遺伝学を駆使して脳内の神経細胞を1つだけ変異細胞に変え、形状に異常が起きるメカニズムを解明する研究です。細胞の形が目に見えて変わるので面白い研究ではあったのですが、多くの人が行動研究を始める時期でもありました。

 そんなとき、当時のボスから「吸血生物は面白いよ」と誘いを受けたんです。ちょうど蚊の遺伝子配列が明らかになったばかりで、研究している人も少なかったので興味を持ちました。調べてみると、ますます面白い。「宿主に襲われるリスクがあるのに、なぜわざわざ危険を犯すのだろう」と。そんな疑問と関心から、蚊の研究へと舵を切りました。

研究対象のネッタイシマカ。デング熱などを媒介することで知られ、アフリカを中心に熱帯・亜熱帯に分布している。ヤブカの一種だが日本にはいないとされている
研究対象のネッタイシマカ。デング熱などを媒介することで知られ、アフリカを中心に熱帯・亜熱帯に分布している。ヤブカの一種だが日本にはいないとされている

手当たり次第の実験で突き止めた血液凝固成分

―人間でも難しい「腹八分目」で、なぜ蚊は吸血をやめるのですか。

 おそらく先程触れたリスクへの対応ではないかと。宿主の忌避行動(追い払う、叩くなど)に遭うのを避けるため、満腹(膨満)状態になる前に吸血をやめるというのが私の仮説です。

人工吸血法で色の付いた溶液を吸う蚊。吸血後は約2.5倍もの重さになり、飛ぶためのエネルギーが増えるのでしばらくは必要以上に動かない。元の重さに戻るのは約1日後(サイエンスポータル編集部・腰高直樹撮影)
人工吸血法で色の付いた溶液を吸う蚊。吸血後は約2.5倍もの重さになり、飛ぶためのエネルギーが増えるのでしばらくは必要以上に動かない。元の重さに戻るのは約1日後(サイエンスポータル編集部・腰高直樹撮影)

―今回明らかにした「腹八分目を知る」メカニズムはどのようなものですか。

 宿主の血液に含まれるフィブリノペプチドA(FPA)という成分が関係していることがわかりました。ケガをすると、傷口の血液が固まって出血が止まりますよね。これを血液凝固というのですが、FPAはその初期段階で作られる物質です。血液凝固が進む中でFPAは血液から切り出され、宿主にとっては不要になりますが、蚊は切り出されたFPAに反応して吸血をやめることを突き止めました。

―どのような実験で突き止めたのですか。

 吸血を促進する物質として、やはり血液に含まれるアデノシン三リン酸(ATP)の存在が以前から明らかになっていました。これを溶かしたATP溶液を蚊に吸わせたところ、膨満状態になるまで吸い続けたんです。つまり血液とは違い、腹八分目でやめることをしなかった。

FPAは吸血開始からある程度の時間が経過し血液凝固が始まったタイミングで作られる。それをシグナルに蚊は膨満に至る前の「腹八分目」で吸血をやめる(理化学研究所提供)
FPAは吸血開始からある程度の時間が経過し血液凝固が始まったタイミングで作られる。それをシグナルに蚊は膨満に至る前の「腹八分目」で吸血をやめる(理化学研究所提供)

 そこで今度は、ATP溶液に血清(血液が固まるときに残る上澄み部分の液体)を加えてみました。蚊は血清単独だと吸わないことが以前から知られていましたが、ATP溶液との混合の場合、膨満になるまで吸い続ける蚊が大きく減ったのです。

 つまり血清に含まれる何らかの成分が、吸血を止める効果を持っているのだろう、と。そうは言っても、血清には膨大な成分が含まれていますからね。小学生の科学実験のごとく、手当たり次第に可能性を試しました。血清に熱を加えてみたり、血そのものをカエルやポリプテルス(ハイギョ)のものに変えてみたり。

佐久間さんらの実験プロセス
佐久間さんらの実験プロセス

新しい情報や技術で裏付けに成功も研究は道半ば

―なぜ宿主の血液に秘密があると見込んだのですか。人間でいうところの満腹感のように、蚊の身体に理由があると考えるのが自然のように思います。

 先ほど言った「手当たり次第」の結果論でもあるのですが…。そもそも1960年代の研究で、蚊が物理的に膨満を感知し、吸血を制御する機構の存在が示唆されていました。満腹感を脳に伝達するための神経が腹部にあるようなのです。

 ただ、例えば犬の毛深い部分に上手く針が刺さらず、吸血が順調に進まないときなどは、腹八分目にならなくても途中でやめるんですよ。つまり吸った「量」だけではなく、血液が固まり出す「タイミング」でも制御する仕組みが別にあると考えたのです。忌避行動に遭うリスクを避ける上でも、一定のタイミングで吸血をやめるのは理にかなっていますよね。

時折満面の笑みを浮かべながらインタビューに応じてくれた佐久間さん
時折満面の笑みを浮かべながらインタビューに応じてくれた佐久間さん

―満腹感を感知する神経の存在が示唆されてから50年以上経った今、なぜ新たな発見に至ったのでしょうか。

 「針を何分で抜いたか」といった、吸血行動を現象論として扱った研究は、これまでにも多くありました。しかし、ここ10年ほどで蚊の遺伝子情報の精度が上がり、クリスパー・キャス9(注:現在主流のゲノム編集ツール)などの技術も登場したことで、メカニズムを裏付けることに成功したわけです。

 ただし、宿主のFPAに吸血抑止効果があると今回わかった一方で、やはり蚊の身体側にもセンサー(受容機構)が備わっているはずなんです。その存在はまだ明らかにできていないので、研究はまだまだ道半ばですね。

1匹で感染症を大きく広げる恐ろしさ

―蚊は人間以外の血も吸いますよね。FPAはどんな生き物にも含まれているのですか。

 はい、哺乳類の血液には必ず。「高度な保存」と言って、FPAは種を超えて遺伝子配列に組み込まれていて、血液中に存在します。蚊が吸った血液を調べてみると、吸血を途中でやめるのを繰り返したこともわかりますよ。複数の人の血が含まれていることはもちろん、人・馬・犬といった組み合わせになっていることも。腹八分目になるまでは、基本的に何度も吸血を試みますからね。

―人から人、動物から人、さまざまな形で蚊が感染症を媒介するのも納得です。

 蚊が恐ろしいのは、感染症を大きく広げてしまうところにあります。今触れたように1匹の蚊が複数の人から短時間で血を吸うことも珍しくありませんし、逆に1人が複数の蚊に吸われることもありますよね。日本では2014年に、東京の代々木公園を訪れた人を中心に160人がデング熱に罹患しました。患者の血液を調べると、ほぼ全ての感染者が同じウイルス株だったのです。つまり感染源はたった1人で、蚊の吸血の連鎖によって広がったというわけです。

―普段から知らない間に血を吸われていることを考えると、どう防げば良いのか…。

 代々木公園の一件で見事だったのは、医者がデング熱を疑ったことだと思うんです。デング熱の初期症状は普通の風邪と共通する部分も多いので、診断が難しい。早期にデング熱だと特定できたことで、速やかに公園を封鎖するなどして感染拡大を防ぐことができました。

2014年に代々木公園周辺で罹患した都内のデング熱患者の推移(発症日不明者除く)。速やかな対応が感染拡大を防いだことがわかる(東京都感染症情報センター資料をもとに編集部作成)
2014年に代々木公園周辺で罹患した都内のデング熱患者の推移(発症日不明者除く)。速やかな対応が感染拡大を防いだことがわかる(東京都感染症情報センター資料をもとに編集部作成)

 この事例からもわかるように、蚊が媒介する感染症を防ぐのは容易でなく、さまざまな立場の人による統合的な対応が必要なのです。私が所属する動物衛生学会にも、公衆衛生の専門家、医者、自治体・行政関係者などが参加しています。

代謝阻害や産卵モード誘導…吸血減らしにさまざまな努力

―佐久間さんをはじめとする研究者にできることは。

 これも単一的な手段で対応できるものではありません。私は蚊を殺さずに、人に対する興味を失わせることができないかと考えていて、最近は「代謝」に注目しています。蚊の代謝メカニズムって、実は人とほぼ同じなんですよ。例えば抗がん剤などの代謝阻害薬を飲んでいる人の血を飲んだ蚊は、同じように代謝が阻害されます。

 そこで蚊の代謝を人為的に促進することで、腹八分目に近い状態に誘導できないかと考えているところです。それができれば、人の健康のためにも技術を生かせると思っています。

幼虫(ボウフラ)時は水中で生活し、成虫になってからは飛び回るため、蚊の飼育はなかなか大変だという
幼虫(ボウフラ)時は水中で生活し、成虫になってからは飛び回るため、蚊の飼育はなかなか大変だという

 また、吸血後3日間、蚊は宿主に近寄りません。栄養を卵へ集中的に送り込むためです。そうした産卵モードへ人為的に誘導できれば、吸血を減らせるかもしれません。

 ほかにも、蚊は花蜜も吸うのでベイト(エサ)に毒を混ぜる研究をしている人や、飛ぶための筋力を弱める研究をしている人など、さまざまな努力が重ねられています。ただ、遺伝子改変した蚊を自然界に放つことの是非や、生態系への影響など、クリアすべき課題も多いのが実情ですね。

温暖化で高まるリスク、研究者の輪を広げたい

―今すぐに蚊から逃れることは難しそうですね。

 残念ながら、しばらくは今までと同じような対策が必要ですね。ボウフラが好む水場を作らない、茂みに入るときは長袖を着る、虫除けを適切に使う―これらを怠らないことが、不快な生活だけでなく感染症を防ぐ第一歩でもあります。

 ただし、地球温暖化に伴って憂慮すべき変化も起きています。昨年話題にもなりましたが、猛暑によって真夏の時期には蚊が活動せず、かわりに年末頃まで蚊が当たり前のように活動するような事態も起きました。また、関東が北限と言われていたヒトスジシマカの生息域は徐々に北へと広がり、数年前には青森県で越冬した事例も確認されています。

「ヤブカ」と呼ばれ東北以南でよく目にするヒトスジシマカ(腰高直樹撮影)
「ヤブカ」と呼ばれ東北以南でよく目にするヒトスジシマカ(腰高直樹撮影)

 私の研究対象であるネッタイシマカも、今は日本に定着していませんが、再び必ず入ってくると予測する研究者もいます。媒介者としての能力が非常に高いため、感染症のリスクが高まることにもなりますよね。ちなみに、蚊媒介感染症による死者の半数以上を占めるマラリアを媒介するハマダラカは日本国内にも生息していますが、今のところ温暖化によるリスク増加は指摘されていません。

―今後の意欲をお聞かせください。

 蚊は私たちが日常的に出会う生物なので、簡単にできる対策が求められます。そのために、同じ方向を向いて一緒に取り組める研究者の輪を広げたいですね。

 また、日本の蚊は系統分類学的にユニークだと言われています。日本だからこそできることがあるはず。いつ何時、何が起きても良いように、研究者として貢献したいと思っています。

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くいだおれの街で食の未来を考えよう 万博会場で培養肉など工夫凝らした食品展示 https://scienceportal.jst.go.jp/explore/reports/20250812_e01/ Tue, 12 Aug 2025 04:18:06 +0000 https://scienceportal.jst.go.jp/?post_type=explore&p=54765  大阪市の人工島・夢洲で開催されている大阪・関西万博では、未来の食事について考えるコーナーやパビリオンがたくさんある。「くいだおれの街・大阪」にぴったりの出展だ。一方で、人口増加、気温や気候変動、食習慣の変化、宗教観、アレルギー対応など、食が抱える様々な課題をテクノロジーが解決していく必要もある。今回、未来のおかず・主食・デザートに沿って、培養肉・小麦を使わない麺・植物性のアイスクリームを紹介する。

鶏肉にサケも 諸外国で広がる培養肉

 7月8日午後、照りつける太陽と大粒の雨が交互に訪れる天候の中、大阪ヘルスケアパビリオンの前で「CULTIVATED MEAT JOURNEY 2025」というイベントが開催され、大勢の人が集まった。cultivatedとは「栽培された」という意味。この日は培養肉研究で知られる大阪大学大学院工学研究科の松崎典弥(まつさき・みちや)教授らが登壇し、培養肉の意義や、普及のための方策を高校生らと考え、一般の万博来場者も培養肉の香りをかいだ。

用意されたテント内で、培養肉を焼いた後の香りをかぐ万博来場者(7月8日、大阪ヘルスケアパビリオン前)
用意されたテント内で、培養肉を焼いた後の香りをかぐ万博来場者(7月8日、大阪ヘルスケアパビリオン前)

 培養肉は、国連の持続可能な開発目標(SDGs)に対応するために森林伐採や畜産業を拡大することが難しいこと、人口増加に伴い動物性タンパク質が不足することなどから解決策として誕生した肉だ。いくつか種類があり、植物性タンパク質を使う例えば大豆ミートのような代替肉も、大きなカテゴリでは培養肉の一種とされる。2000年代に入り、諸外国では培養肉のチキンナゲットや培養サーモンが誕生している。

 他方で、一部の国では既存畜産業の保護や、宗教観から生産が禁じられている。食品安全の観点から全面的に禁じている国はまれだ。

 この日会場に登場した培養肉は、鹿児島県のと畜場で検査を終えた牛の肉の細胞を使用した。牛の肉から脂肪細胞と筋繊維を培養し、脂肪分が3~4割になるように形を整え、1辺約4センチメートル、もう1辺が約3センチメートルに加工した「構造化培養肉」と呼ばれるもの。天然の牛肉に比べ、繊維の筋がはっきり見えており、ややピンク色が強い。ただし、細かく見比べないと分からないほどの差異だ。

生の培養肉と、それを焼いたもの。焦げ目もしっかり付き、香ばしい香りがしていた(7月8日、大阪ヘルスケアパビリオン前)
生の培養肉と、それを焼いたもの。焦げ目もしっかり付き、香ばしい香りがしていた(7月8日、大阪ヘルスケアパビリオン前)

 会場にフライパンとカセットコンロが準備され、培養肉を焼いた。「香りをかいでみたい方」と司会が尋ねると、多くの手が挙がった。指名された男女が壇上で「スモーキーな香り。ビーフジャーキーみたい」「焼き肉屋の前で流れてくる香り」「白ご飯が食べたい」と口々に語った。

 培養肉をはじめとした「細胞農業」にはまだ直接適用される法律がなく、現行法の食品衛生法などの規制を受けることになる。今回食することはできなかったが、遠くない将来、培養肉の試食が始まるだろう。白いご飯に合うという感想を聞いた松崎教授は「感覚に訴えるものでないと長続きしない」と喜び、現在は企業や研究機関での官能評価にとどまっている培養肉について「一般の人が来て香りをかぐのは初。人の五感は高いセンサーを持っている。記憶に残ればと思い、ポジティブに受け止めた」とイベント後に話した。

イベントの手応えについて報道陣に感想を語る松崎典弥教授(7月8日、大阪ヘルスケアパビリオン前)
イベントの手応えについて報道陣に感想を語る松崎典弥教授(7月8日、大阪ヘルスケアパビリオン前)

ビーフンの製造技術生かし 米粉のラーメン

 次は主食の未来だ。アレルギー対応食も様々な分野で進化を遂げている。ラーメンは小麦アレルギーの人にとっては「大敵」だが、神戸市の食品メーカー「ケンミン食品」は、主力のビーフンの製造技術を生かし、小麦を使わないラーメンを開発した。

 ラーメンは麺とスープがうまく絡み合う、コシがある麺だ。他方で、米から作られているビーフンの麺はつるつるしており、中華麺・ラーメンに特有のコシや食感、風味がそのままでは足りないという課題があった。そこで、同社はラーメン職人らと検討を重ね、中華麺によく使われている「かんすい」というアルカリ塩水溶液を加えることでこれらの課題が解決できるのではという結論に達した。

米粉にかんすいを加え、中華風の麺にしたしょうゆラーメン(2025年4月、『EARTH TABLE~未来食堂~』内)
米粉にかんすいを加え、中華風の麺にしたしょうゆラーメン(2025年4月、『EARTH TABLE~未来食堂~』内)

 1950年の創業以来、初めてかんすいを米粉に加えて製麺したところ、本格的な中華麺に似た食感とのどごしが再現できた。大屋根リング内、静けさの森ゾーンに面する『EARTH TABLE~未来食堂~』で、小麦を使わないグルテンフリー(GF)の「GFしょうゆラーメン」として1杯1600円で販売している。

 同社のネーミングは「健康を民(みなさま)にお届けする」ことに由来する。小麦が体質で食べられなかったり、アレルギーなどで避けなければならなかったりといった多様な食の課題解決に向け、「全ての方が安心しておいしくラーメンを食べていただきたい」と話している。

牛乳を使わない「アイスクリーム」 環境負荷低く

 食後にはデザートが食べたくなる。先ほどのGFしょうゆラーメンの店舗のそばで、別腹を満たす、乳製品が入っていないアイスクリームが販売されている。アイスクリームは乳製品の代表格だが、米国発のスタートアップの日本法人「エクリプス・フーズ・ジャパン」のプラントベース(植物由来)の代替乳製品を使用している。

 このアイスクリームを出したのは、佐賀県に本社を置く「竹下製菓」。九州のご当地アイスクリームとして名高い『ブラックモンブラン』(310円)を、米粉を使ったチュロスと共に売っている。

乳製品が入っていない(チョコレートのコーティング部分を除く)ブラックモンブランのアイスと、米粉でできた文字の形のチュロス(2025年4月、『EARTH TABLE~未来食堂~』内)
乳製品が入っていない(チョコレートのコーティング部分を除く)ブラックモンブランのアイスと、米粉でできた文字の形のチュロス(2025年4月、『EARTH TABLE~未来食堂~』内)

 このブラックモンブランは、乳成分の代替品として、ジャガイモ、トウモロコシ、キャッサバといった干ばつに強い植物を用いた。これらの植物をベースに、牛乳の脂肪分やタンパク質に近づける配合を行い、クリーミーな口溶けを再現している。チョコレートのコーティング部分以外は植物由来で乳製品フリーとなっている。同社の担当者は「プラントベースの原料を使用することで、牛を育てる必要がない。そのため水の使用料を減らし、温室効果ガスの排出が大幅に少なくなり、SDGsに貢献できる」としている。

クボタパビリオンで展示されている汎用プラットフォームロボット。急斜面や狭い場所などでの農作業を無人で行う(2025年7月、未来の都市パビリオン内)
クボタパビリオンで展示されている汎用プラットフォームロボット。急斜面や狭い場所などでの農作業を無人で行う(2025年7月、未来の都市パビリオン内)

 万博はパビリオンといったハコモノの美しさやきらびやかさだけではなく、ソフト面の科学技術の進歩も楽しめる。食は私たちの生活になくてはならないもの。他にも未来の農作業の様子を、ポイントをためるゲーム感覚で楽しめる「クボタ」のフューチャーライフ万博・未来の都市パビリオン、一生で私たちがどれだけの食物を摂っているかや、世界の食卓を可視化する小山薫堂プロデュース・EARTH MARTパビリオンなど、食について学び、考え、課題を自分事にする場が設けられている。会場で食べ歩きながら、見識を深めるのも良いだろう。

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地学は大災害から生き延びるための学問 メディアで「伝道師」として活動する、鎌田浩毅さん https://scienceportal.jst.go.jp/explore/interview/20250805_e01/ Tue, 05 Aug 2025 05:39:29 +0000 https://scienceportal.jst.go.jp/?post_type=explore&p=54745  地学を履修している生徒が減っている。理系進学では物理や化学が重視され、文系では大学入試との兼ね合いでそもそも理系科目を選択しない生徒もいる。しかし、地震や噴火のたびに右往左往し、天体ショーには多くの人が集まり、珍しい化石が見つかれば博物館に来館する。人々の地学への関心は十分に高いのだ。メディアを通して地学の意義を説く火山学者で京都大学名誉教授の鎌田浩毅さんに、災害対策としての学問の重要性を聞いた(取材は7月18日)。

宮城・山形県境にある蔵王の御釜火口でポーズをとる鎌田さん。自らの感覚全てを使ったフィールドワークが魅力的だという(ご本人提供)
宮城・山形県境にある蔵王の御釜火口でポーズをとる鎌田さん。自らの感覚全てを使ったフィールドワークが魅力的だという(ご本人提供)

地学の専任教員、在籍は全高校の1割以下

―地学は選ばれない科目になりました。なぜでしょうか。

 結論から言うと、大学受験では物理・化学・生物を科目として指定していることがほとんどだからです。そのため、高校で地学を開講しない学校が増えました。高校で開講しないと地学教員も減り、地学離れが加速します。今では1割以下の高校にしか地学の専任教員はいません。

 地学を学ぶことができる学部は理学部や工学部や農学部なのですが、学科として「地学」を標榜しているところはほとんどありません。地球や惑星や環境と絡めた名称になっていることがほとんどです。地学の中でも、宇宙や天文になると天文学科や宇宙物理学科が学べる場所になります。これらの大学も受験科目は物理であることが多いです。

 しかし、地学は「科目横断型」の科目です。地球を構成する要素は互いに結びついて地球全体の関係性に影響を及ぼし、安定を図っています。プレートも、火山も、大気も、単独で動いてはいません。これを「地球惑星システム」と言います。それぞれの高度な専門性がその研究を脱して、文理融合のように相互に関係していく――今でこそ他分野にも見られますが、地球科学の分野はその先端を行くものでした。

ハワイ島で溶岩を観察する鎌田さん。地球が足元でダイナミックに動いていることを実感できる(ご本人提供)
ハワイ島で溶岩を観察する鎌田さん。地球が足元でダイナミックに動いていることを実感できる(ご本人提供)

 地学は大きく、固体地球、岩石・鉱物、地質・歴史、大気・海洋、宇宙の5分野に分けられます。地学は化学・物理学や生物学、そして数学と様々な分野の上に成り立っています。だからこそ地学を生かすことができる仕事も実は多いのです。地球環境、エネルギー資源、大気、海洋、宇宙開発、防災……。就職を考えると非常に多彩な分野につながります。

津波ではサーフィンできない

―地学を学ぶことが、どう生活に役立つのでしょうか。

 まず人の命を守ります。2004年のスマトラ島沖地震の後、「津波が来たらどうするか」と海辺のサーファーにインタビューしているテレビ番組がありました。「サーフィンには自信があるので、津波に乗りたい」と答えていました。

 津波の最高速度が時速100キロメートルを超え、高さ30メートル以上になることを知らないのでしょう。ウケ狙いかもしれませんが、自然の怖さを知らないと命が助かりません。これは東日本大震災の後も、状況はあまり変わっていません。世の中には知らなくても良いことがありますが、知っておかないと命に直結することがあるのも事実です。

―大学を「卒業」して、メディアなどに出演されるのは、そのような「無知な」人々の命を守るためなのですね。

 学問は人に幸せをもたらすから、学ぶのだと私は言っています。しかし、大学の中の人だけを幸せにしてはいけません。研究費を国からもらっていましたからね。約500人の全世界の火山学者に向けて論文を書くことも大切ですが、それよりも一般の方への啓発活動が非常に重要です。2021年3月に最終講義を行いましたが、その後は全国を回って講演しています。さらにネットメディアに出演したり、地学にとどまらない勉強法などの本を出版したりしています。

 2000年に北海道の有珠山が噴火したとき、解説のためにテレビに生出演しました。しかしその放送後、学生らに「難しかった」と言われました。視聴者に安心してもらおうと出演したのに、緊張のせいか恐い表情で不安をあおっていた。感想を聞くと真逆の受け止めをされていました。いい研究をしても、一般の人に伝わらなければ意味がない。正しい知識であっても、伝えるだけでは人は動きません。「頑張れ」と言う精神論も解決にはつながりません。

2000年に噴火した有珠山の様子を捉えた写真。民家に噴煙が迫っていることが分かる(北海道提供)
2000年に噴火した有珠山の様子を捉えた写真。民家に噴煙が迫っていることが分かる(北海道提供)

 そのためには、人間が非常時にどのような行動をとるか、を知らなければなりません。南海トラフなど、近い将来、大きな地震は確実に来ます。例えば今から約10年後だとして、それを想像してもらうために、学生たちに「今の年齢に10年足してごらん。大災害で職はなくなるし家族も大変だ。それを守るのは地学、生き延びるための学問だよ」と言うと、やっと「自分事」として受け止めてもらえるようになりました。

 私は「科学の伝道師」になりたいとずっと思ってきました。防災に敏感になってほしいし、意識改革をしてほしい。幸い大学に職を得ましたが、専門の火山学を追求するだけでは不十分だと思ったのです。何とか自分の学問を社会へ還元したい、と。

実はよく知られていなかった地学の全貌

―学生が「自分事」にすることで、学びが深まると。

新書を手に授業をする鎌田さん。地学は可逆的ではなく、時間と共に変化するために予知が難しいと説く(ご本人提供)
新書を手に授業をする鎌田さん。地学は可逆的ではなく、時間と共に変化するために予知が難しいと説く(ご本人提供)

 私が大学で教え始めた頃、学生からの授業の評価は散々なものでした。英語をバンバン使う、板書の文字がヘタで読めない、専門用語が説明なしで出てくる……。その後、あまりにも不評だったので、録画して自分の話し方を振り返ると、多くの気付きがありました。

 理系の授業では数式のたくさん入った専門書を使うことが多いのですが、私は縦書きで分かりやすく説明する新書を作りました。初学者にも理解できることにこだわったのですが、おかげで講義内容が整理されるメリットも生まれました。なお、私は「先生の本を読んだが分からなかった」という学生には、「難しい本を書いた著者が悪い、ごめんなさい」と言っています(笑)。

 新書を教科書にすることで、担当していた「地球科学入門」の講義は立ち見が出るほどの盛況になりました。多くの学生とのやり取りの中で、地学がどういう学問か、その全貌が実は良く知られていないことに気付きました。確かに、高校ではまったく学ぶ機会がなかったのです。

 学びを深めようにも、ベーシックな入門書がない。では自分で書こうと思い、できるだけ日常の言葉で、地層や化石からマントル、地震・火山まで解説する本を出しました。最近出版した『大人のための地学の教室』(ダイヤモンド社)は、4万部が売れ、45パーセントは女性読者だそうです。

2025年2月に出版した新刊「『地震』と『火山』の国に暮らすあなたに贈る 大人のための地学の教室」の表紙(ダイヤモンド社提供)
2025年2月に出版した新刊「『地震』と『火山』の国に暮らすあなたに贈る 大人のための地学の教室」の表紙(ダイヤモンド社提供)

 地学はミクロからマクロまで幅広いのですが、分野ごとのつながりが結構分かりにくい。よって、最初は宇宙・岩石・気象と個々の分野ごとに勉強して、最後に全体を統合して見直してほしい。また、日常のニュースで天気予報や、宇宙や地球関連のテレビ番組を見たり、自然現象を紹介する雑誌を手に取ったりなど、様々なアプローチが有効な科目です。自分が興味のあるテーマから始めて、地球全体、宇宙全体へ理解を広めていったら良いと思います。

人口の半分超に被災の恐れ、巨大地震は「来る」

―近い将来に必ず地震が来ると様々なメディアで発言されています。

 起こりますよ。東日本大震災が起こったことで、日本列島は1000年ぶりの「大地変動の時代」に突入してしまいました。マグニチュード(M)9の巨大地震によって地盤は東西に5メートルほど引き延ばされました。伸びた地盤は元に戻ろうとするので、その過程で地震や噴火が起こります。もし「首都直下地震」が起こったら、約100兆円の経済被害が出ると予測されています。なんと1年の国家予算に匹敵する額です。首都圏でM7クラスの地震は、今後30年以内に7割の確率で起こると考えられています。

 そして、東日本大震災とは独立して起きる南海トラフ巨大地震は、2030年代に発生が予測されています。すなわち、今から5年後の30年から警戒時期が始まり、15年後の40年までの間のどこかで確実に起きるという話です。ちなみに、地震を起こしてきたプレート運動は何千万年も休んでいませんから、地震学者たちは皆、「確実に起きる、パスはない」と警告しています。

南海トラフ地震が発生した場合、地震災害が生ずるリスクがあると気象庁が公表した地域(黄色)と想定震源域(赤色枠内)。このような情報を目にしておくことが防災につながる(気象庁HPより引用)
南海トラフ地震が発生した場合、地震災害が生ずるリスクがあると気象庁が公表した地域(黄色)と想定震源域(赤色枠内)。このような情報を目にしておくことが防災につながる(気象庁HPより引用)

 そして南海トラフ巨大地震の経済被害は290兆円で、東日本大震災の15倍です。犠牲者の予測は30万人で、東日本大震災で亡くなった約2万人の15倍です。つまり、東日本大震災15個分の災害がこれから日本列島を襲い、被災者の数は6800万人に及ぶのです。これは日本の総人口の半数以上なので、みんなが自分事として対処しなければなりません。

 こう聞くと非常に怖い感じがしますが、今から準備すれば犠牲者の8割、経済被害の6割を減らせるという国の試算もあります。だからこそ、この話を知った人は直ちに防災準備を始めてほしいのです。日本は地下の動きを観測する技術が発達しており、それを基に避難する計画も着々と準備が進んでいます。災害が多いがゆえに、未然の防止や大幅な減災も可能なのです。

SNS情報に一喜一憂せず、防災対策を着実に

―地震だけでなく噴火も起こりますか。

 身近に考えられるのは富士山でしょうか。富士山が噴火すれば、火山灰は山梨、静岡だけでなく神奈川、千葉、茨城の遠方まで降り注ぎます。火山灰には鋭いガラスが含まれます。スキーのゴーグルのようなものがなければ目を痛めるでしょう。富士山はいつ噴火してもおかしくない状態ですが、気象庁をはじめとした各研究機関の地震計や傾斜計が多く設置されているので、もし異常を感知すれば広くメディアなどで報じられるでしょう。

 ライフラインや交通機関にも大きな影響が出ます。登山中に噴石が当たれば命の危機です。活火山では不意打ちを食らったときに被害が大きくなるのが自然災害ですから、真っ先に逃げることが大切ですね。火山の地下で起きている地震や地殻変動の状況を、ネットなどで知っておく。そしてハザードマップ(火山災害予測図)をダウンロードして、どこが危険かを確かめておく。そういうことを知っておけば、「備え」につながります。

―トカラ列島の悪石島でも地震が続き、九州での噴火も起こっていますが、どのように受け止めていますか。

 トカラ列島近海で頻発している地震に加え、桜島や、鹿児島や宮崎にまたがる霧島火山・新燃岳も噴火を繰り返しています。トカラ列島で起きている群発地震との関連や、巨大地震を疑う声は一般の方のSNSにもあふれていますが、九州とトカラ列島は200キロメートル以上離れています。一般に、30キロメートル以上離れた活火山のマグマだまりは独立に活動するので、いずれも九州の噴火とトカラ列島の地震とは関連ないと考えられます。しかし、先ほど述べたように、巨大地震に備えることは今日とても大切なことです。

 災害のときは「助け合おう」という思いやりが湧いてくるものです。もし島外に避難したいという方がいたら受け入れる心のゆとりがあるといいですね。ニュースなどで知ったことを自覚し、行動に移すことにつながるのは、科学が持つ力です。とりわけ過去の大きな地震を経験した人は、自分事として感じるのではないでしょうか。

 SNSの情報に飛びついて一喜一憂するのではなく、いつ地震や噴火が起きてもおかしくないと情報を得ながら、防災対策を着実に行うことが大切です。「これから地震が来るから勉強してみよう」という考えも良いと思います。このサイエンスポータルに載っているような若い研究者の成果を分野横断的に眺めたり、YouTubeで科学者の解説を聞いたりして、様々なメディアへのリテラシーを高めることも、立派な地学の勉強ですよ。

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京大iPS研15年の歩み【後編】「技術革新を続け、標準治療化の先頭に立つ」~髙橋淳所長に聞く https://scienceportal.jst.go.jp/explore/interview/20250728_e01/ Mon, 28 Jul 2025 07:51:59 +0000 https://scienceportal.jst.go.jp/?post_type=explore&p=54683  京都大学医学部附属病院が今年4月、同大iPS細胞研究所(CiRA)と連携して実施したパーキンソン病治療の医師主導治験の結果を発表した。iPS細胞から作った細胞の移植による症状改善が認められたことは、画期的な事例として受け止められた。同時に、iPS細胞治療の普及への期待がますます高まりつつある。

 研究チームを率いるのは、CiRA所長・教授を務める髙橋淳さんだ。もともと脳外科の医師でありながら「異常な部位を取るのではなく、正常なものを作ることをやりたかった」と語る髙橋さんに、今回のパーキンソン病治療の治験にかかわるエピソードと、今後のiPS細胞治療の未来を伺った。

髙橋淳CiRA所長・教授(CiRA提供)
髙橋淳CiRA所長・教授(CiRA提供)

前例のない取り組み、動物が死ぬまで観察

今回の医師主導治験の開始に至る過程で経験された課題、ハードルを教えてください。

 なにしろ前例のない取り組みだったこともあり、基礎研究から臨床研究、治験という流れのそれぞれで課題がありました。安全性の証明にしても、例えば造腫瘍性試験(筆者注:細胞から作られる再生医療など製品の開発の際に、原材料や製品のがん化リスクを測るために実施する試験)をどう行うのか? ということすらわかっていなかったわけです。

 結局、実験動物の移植部位に最大投与量のiPS細胞由来ドーパミン神経前駆細胞を入れて、その動物が死ぬまで観察を続けました。50週近く経過したところで動物が死んだので、その時点で観察期間を決めたわけです。現在の観察期間のスタンダードは39週となっていますが、振り返ってみると過剰なほどに確認を行ったんですね。全ゲノム解析やエクソソーム解析、エピジェネティクスについても検討しましたから。

 ただ、当時それをやったからこそ、ある種のコンセンサスができているのだとも思います。後に続く研究者が、そこまでやらなくてよくなったという側面があるのではないでしょうか。

CiRA研究棟内のオープンラボ(CiRA提供)
CiRA研究棟内のオープンラボ(CiRA提供)

既存の薬物が効きやすくなると想定

パーキンソン病について、iPS細胞由来の細胞の治療法が特に有効な患者さんの属性などについて、なにか知見は得られていますでしょうか。

 4月17日に発表した論文では「症状がそれほど重くなく、より若年の患者が適している」と書きました。ただ、パーキンソン病の患者さんだと、発症時点でドーパミン産生量は正常な方の半分くらいに減っている。ですので、非常に病状が軽い時点で介入して、症状を重くならない方向にもっていくことを最終目標として考えています。これは神経内科の先生とも合意しているところで、リソースを有効活用するうえでも望ましいのではないでしょうか。

 今回の治験で良かったのは、安全性に加えて、iPS細胞由来の神経細胞の生着とドーパミン産生が確認されたことです。ただ、ドーパミンの産生量に注目すると、まだ正常には程遠い。ですから、症状が重い患者さんを回復させるのは難しいのが現状です。今のところ移植した細胞の量は動物実験のときと同じですので、規制当局とも折衝したうえで、より多くの細胞を入れて検証することが次のステップと考えています。

―そうすると、実際の治療時には、薬物療法との組み合わせも想定されます。レボドパ製剤などの既存のパーキンソン病治療薬との相性や留意点について、現段階でわかっていることはあるのでしょうか。

 レボドパ製剤に関しては、より効きやすくなると考えています。そもそもレボドパ製剤は、神経細胞に取り込まれて、ドーパミンを作る材料になるものです。パーキンソン病ではこの神経細胞が失われていくので、iPS細胞治療で神経細胞を回復させると、ドーパミンをまた作ることができるようになる。製剤の効き目もより良くなるわけです。

 いずれにせよ、今後は症例を重ねながらデータをとる過程に入っていきます。つまり、患者さんなしでは進まないフェーズになってきているわけです。

iPS細胞由来の細胞を脳内に移植して24カ月間観察したところ、ドーパミン神経の活動が増加していた(矢印が示す赤い部分、CiRA提供)
iPS細胞由来の細胞を脳内に移植して24カ月間観察したところ、ドーパミン神経の活動が増加していた(矢印が示す赤い部分、CiRA提供)

「疾患群」としてまとめるとスケールメリットも

―医療技術全般に言えることですが、より多くの患者さんに届けるための低コスト化や産業としての収益化が今後期待されます。これらについて、どのような見通しを立てられているでしょうか。

 やはり、ある程度患者さんの数がおられる疾患に絞って導入することが第1の方針になると思います。日本では薬価の問題もあるので、現状ではほとんど利益は出ないかもしれません。規模を確保するという意味では、海外に進出することも必要でしょう。

 実際、米国では治験がすでに始まっているので、海外に出て行く準備段階にあるといえます。それ自体は日本の技術で外貨を稼ぐことにもなるので、国益にもかなうものだと思っています。ただ問題は、患者さんがあまりおられない希少疾患をどうするかということです。

 1つの戦略は、同じ方法で治せる病気を「疾患群」としてまとめることです。仮に、遺伝子編集による治療薬が1個できたとしたら、遺伝子配列を少し変えるだけで他の疾患にも対応できる可能性がある。そうすると、iPS細胞治療の対象疾患が広がることが十分考えられますし、スケールメリットが生じる可能性もあると考えています。

CiRA研究棟の外観(CiRA提供)
CiRA研究棟の外観(CiRA提供)

ロボットやAIで量産体制が間に合うか

―海外の研究機関との関係では、どうしても「競争」の側面が出てくるように思います。国際開発競争が厳しいなかで、iPS細胞の量産体制の確立やコスト削減策などをどのように進めていく予定でしょうか。

 少なくともパーキンソン病に関しては患者さんがたくさんおられるので、1つの機関や組織が利益を独占するようなことはないものと予想しています。むしろ問題は量産体制が間に合うかどうかでしょう。これについては、海外用も含めた生産拠点を早い段階で作り、稼働させている企業もあります。

―最近では、iPS細胞の培養用のロボットや、培養条件を最適化するためのAIも登場してきています。こうした自動化が、iPS細胞研究にもたらすインパクトについてお考えをお聞かせください。

 自動化は積極的に利用していく必要があるでしょう。もちろん細胞は生き物ですが、製造工程の画一化は、恩恵が非常に大きいとみています。まず培養条件の最適化や、培養装置の開発によるコスト削減が考えられます。

 それから、手作業でばらつく部分の規格統一もあり得る。例えば今、培養施設では手書きのSOP(標準作業手順書)を保管していますが、これをすべて機械化していけば、システムのDX(デジタルトランスフォーメーション)化ができると思う。おそらく、5年後とか10年後には驚くような進展があるのではないでしょうか。

線維芽細胞から樹立したヒトiPS細胞のコロニー(山中伸弥教授提供)
線維芽細胞から樹立したヒトiPS細胞のコロニー(山中伸弥教授提供)

iPS細胞、遺伝子編集、デリバリーの融合で新時代を

―CiRAの設立から15年が経過し、基礎と応用双方で非常に多くの研究成果が蓄積されてきている印象を受けます。今後の展望や、この分野のさらなる発展に必要なことについて、お考えをお聞かせください。

 ここまで引っ張ってきた僕らはもう去っていくので、これからは若い人の時代でしょう(笑)。真面目にお話すると、まずは技術革新を続けないといけない。iPS細胞自体の改良もそうですし、いろんな知見を取り入れて、さらに技術を高めなければいけません。横展開としては、臨床試験まで進んだ技術をちゃんと標準治療にすることが必要です。要するに皆が受けられる治療にするということですが、CiRAはその先頭に立たないといけないと考えています。

 少し古い話になりますが、iPhoneが初めて発売されたときに、スティーブ・ジョブズが『我々の新製品は3つある。1つ目はワイドスクリーンのiPod、2つ目は画期的な携帯電話、3つ目が革新的な通信機器だ』とプレゼンしていましたよね。そのうえで『これは実際のところ、1つのデバイス、iPhoneだ』と言ったんです。私は、今のiPS細胞研究も同じ状況にあると考えています。

 つまりiPS細胞があって、遺伝子編集があって、遺伝子を目的の部位に運ぶデリバリー技術がある。いずれもノーベル賞の対象になった技術ですが、これからの時代は、この3つが合わさって新しいものが生み出されていくのではないでしょうか。

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京大iPS研15年の歩み【前編】「シャーレの先」に見えるのはどんな景色?~公開シンポから https://scienceportal.jst.go.jp/explore/reports/20250722_e01/ Tue, 22 Jul 2025 07:50:22 +0000 https://scienceportal.jst.go.jp/?post_type=explore&p=54638  皮膚や血液の細胞に特定の因子を導入して作製するiPS細胞(人工多能性幹細胞)。その発見からおよそ20年が経過するなかで、医療応用に向けた研究が本格化している。現在、日本国内ではパーキンソン病やI型糖尿病など、14の疾患についてiPS細胞を用いた臨床試験が実施中であり、一部では国による承認申請に向けた準備も進む。

 iPS細胞の基礎・応用研究をリードする国内の主要組織の1つが、京都大学iPS細胞研究所(CiRA)だ。設立から今年で15年を迎えるCiRAでは、アウトリーチの一環として一般市民を対象とした公開シンポジウムを継続的に実施している。今回は、5月10日に名古屋市で行った「iPS細胞と挑戦者、シャーレの先にみる景色」より、iPS細胞の研究と医療応用の現在地、そしてその将来を展望した。

公開シンポジウムの会場となった中日ホール(左)。ホールの外では、CiRAの研究者が自身の研究について紹介するコーナー(右)なども設置され、終日盛況だった(5月10日、中日ホール)
公開シンポジウムの会場となった中日ホール(左)。ホールの外では、CiRAの研究者が自身の研究について紹介するコーナー(右)なども設置され、終日盛況だった(5月10日、中日ホール)

パーキンソン病の症状を改善

 シンポジウム冒頭では、CiRA所長を務める髙橋淳(たかはし・じゅん)さんが、「iPS細胞研究の現在地と次なる一歩」と題して、CiRAの歩みと自身の研究内容を紹介した。髙橋さんはまず、iPS細胞の医療応用について、iPS細胞から作製したさまざまな細胞を移植する「再生医療」と、それらを用いての「薬の開発」の2つの方向性があることを説明。前者の例として、今年4月17日に治験結果を発表した、パーキンソン病の治療を示した。

 そもそもパーキンソン病とは、脳内で情報伝達に関与する神経細胞が死んでしまい、神経伝達物質であるドーパミンが減少する疾患。これによって神経細胞の情報伝達に支障をきたし、全身の運動機能が低下してしまう。したがって、iPS細胞から作った神経細胞を移植し、ドーパミンの量を回復することが、有効な治療戦略となり得る。

 治験では、参加した患者7人全員で重い副作用は観察されなかった。また、そのうち2年間の経過観察を行った6人ではiPS細胞由来の神経細胞が生着し、ドーパミンを産生していることを確認できた。さらに、6人中4人でパーキンソン病の症状改善がみられたという。この結果を受け、「より多くの医療機関において、より多くの患者を対象とした臨床試験を来年中に実施し、治療の有効性を詳細に調査したい」(髙橋さん)としている。

 さらに、髙橋さんは今後の治療戦略として、(1)樹立しやすく分化能力が高い次世代幹細胞の開発、(2)生着率の向上などの移植細胞の機能強化、(3)免疫反応(拒絶反応)が少なく移植効率が高まるような移植環境の整備――の3点を列挙。そのうえで「遺伝子治療や薬物治療、リハビリなどの既存の医療技術とも組み合わせ、より安全で効果的な次世代医療を実現したい」と語った。

講演する髙橋淳CiRA所長・教授(5月10日、中日ホール)
講演する髙橋淳CiRA所長・教授(5月10日、中日ホール)

わずかな血液で個別化医療が可能に

 続いてCiRA助教の北川瑶子(きたがわ・ようこ)さんが「iPS細胞で病気や体質の違いを理解する」と題して講演した。北川さんはiPS細胞を用いて、人間の難治性疾患、特に遺伝子多型を原因とする多因子疾患の研究を行っている。遺伝子多型とは、個人間でのDNA配列の違いのこと。一般的にその違いはごくわずかだが、最近になって疾患の発症リスクや進行度合い、薬の効き方などに関係することが明らかになってきている。

 北川さんによれば「どんな人間からでも、1ミリリットルほどの血液さえあれば作製できる」iPS細胞は、遺伝子多型の機能検証に非常に適しているという。患者から直接採取する臨床検体では、食生活や加齢、基礎疾患などの影響を排除できない。一方で、患者由来のiPS細胞から作った細胞を使えば、純粋な遺伝子変異の影響だけを調べることが可能だ。この特徴を生かして、疾患のメカニズムの特定や、治療薬の候補の絞り込みなどが進められている。

 一例として北川さんは、COVID-19の重症化リスクに関する研究を挙げた。パンデミックに伴う大規模なPCR検査に伴い、免疫や肺の機能に影響を与える遺伝子多型が多く見つかった。そのなかには、体内に侵入してきた病原体から私たちを守るマクロファージの機能にかかわるものもある。北川さんは、iPS細胞由来のマクロファージを用いて、COVID-19の重症化に関与する遺伝子多型がマクロファージにどう影響するかを調査。その結果、リスク多型をもつマクロファージでは、多型をもたないものと比べ、ウイルスを除去する働きが不十分であることがわかったという。

 「遺伝子の小さな違いに伴うリスクを理解できれば、副作用や医療にかかる負担を軽減できる可能性が広がる」と北川さん。今後は、より多くの人々にかかわり、社会的要請も大きい多因子疾患に関する研究を進めたいという。そして「個人の体質や疾患のリスクに合わせた、新しい個別化医療を実現したい」と目標を語った。

講演する北川瑶子CiRA助教(5月10日、中日ホール)
講演する北川瑶子CiRA助教(5月10日、中日ホール)

「分子のハサミ」と「ウイルス」で難病に挑む

 「DNAエンジニアリングで難病に挑む」と題し、遺伝子変異を原因とする難病の治療法について講演したのは、CiRA准教授の堀田秋津(ほった・あきつ)さん。堀田さんは、身体を動かす骨格筋が徐々に痩せ細り、呼吸機能の低下や嚥下障害などを呈する筋ジストロフィーという疾患の研究に携わっている。この疾患は、筋肉を動かすのに必要なジストロフィンというタンパク質を作る遺伝子が先天的に変異し、機能を失うことで起こる。堀田さんは、根治療法が見つかっていないこの疾患に、遺伝子編集という技術で挑んでいる。

 遺伝子編集で鍵となるのは、1個のヒト細胞あたり2メートルもの長さのDNAの任意の箇所を切断する酵素だ。堀田さんの研究グループでは、この「分子のハサミ」を使い、筋ジストロフィー患者から作製したiPS細胞由来の筋肉細胞の変異部位を削除。その結果、この筋肉細胞でも正常細胞と同様に、ジストロフィンが作られるようになった。また、複数箇所を同時に改変できる特徴を活かし、移植時の拒絶反応にかかわる遺伝子部位を削除したiPS細胞の作製にも成功しているという。

 ただ、「分子のハサミ」を全身の筋肉の細胞にどう届けるかは大きな課題として残っている。解決方法として、堀田さんが注目するのがウイルス。ヒトなどの宿主の細胞に取りこまれて数を増やすウイルスに、酵素を運んでもらおうというわけだ。堀田さんらはウイルス本来のDNAをほぼすべて遺伝子編集用の酵素に置き換えた「ウイルス様ナノ粒子」を開発。これにより、筋肉へ注射するだけで細胞の遺伝子変異を直接治療することが可能という。現在は、既存のワクチンなどを参考にしてより副作用の少ない方法の検討が進んでいる。

 現状、根治が困難な難病の半数以上は遺伝子異常が原因とされる。これを踏まえて堀田さんは「遺伝子変異の修復は、難病に打ち勝つために必要な技術」と強調する。一方で、過去の研究からは、誰もがゲノムDNAに疾患に関連した遺伝子変異を1カ所以上もっていることが明らかになっている。堀田さんは「遺伝子変異とは人間の多様性と適応性の源ともいえる。誰もが変異をもつ以上、ある疾患の患者であることは偶然の産物。むしろ私たち全員が当事者とも考えられるのではないか」と述べて、講演を締めくくった。

講演する堀田秋津CiRA准教授(5月10日、中日ホール)
講演する堀田秋津CiRA准教授(5月10日、中日ホール)

技術革新でコストは抑えられるか?

 講演の終了後には、登壇した3人の研究者によるトークセッション「3人の研究者と考える、iPS細胞研究の未来」が行われた。セッションはCiRA国際広報室の和田濵裕之(わだはま・ひろゆき)さんの司会進行のもと、事前に参加者から募集された質問に回答していく形式で実施された。

 特に高い関心が寄せられたのは、iPS細胞を用いた治療のコストについて。「iPS細胞治療の費用はどのくらいでしょうか? 安価で治療を受けられる時代が来ますか」という質問に髙橋さんは、まだ現状でははっきりとはしないことを前置きしたうえで、ざっと見積もっても千万から億円単位になる可能性を指摘。そのうえで「細胞移植自体にお金はかかるかもしれないが、治療後の薬や介護にかかる負担を減らせる可能性がある。加えて、今後の技術革新によってどんどんコストが抑えられていくのではないか」と指摘した。

 ここで堀田さんが、実際の費用に関するケーススタディとして、別の遺伝子治療であるCAR-T細胞療法の例を提示した。CAR-T細胞療法とは、患者からがんを攻撃するT細胞を採取し、機能を高める遺伝子変異を施してもとの患者に戻す、というもの。現在の薬価は3600万円ととても安価とはいえないが「日本では患者さんの3割負担になっているのに加え、高額医療補助制度が使用できるので、実費はさらに少額に抑えられる」(堀田さん)。iPS細胞治療も同様に、仮に高額なものになったとしても、お金がないから受けられないというケースはそれほどないのではないか、と予測した。

 北川さんは、iPS細胞を使って新しい薬を探す「iPS創薬」は、従来に比べて新薬開発にかかるコストを節約できるのではないかと指摘。「患者さんの細胞を使うので、効果がありそうな化合物をある程度予想できる。ある疾患の治療に使われてきた薬を、別の疾患にも適応するドラッグリポジショニングとも組み合わせると、非常に効率よく治療法を開発できる」と、期待を込めた。

 また、「iPS細胞を活用した治療が普及するためにはどんな課題があるのですか?」との質問には、希少疾患を対象にした研究を進めている堀田さんがまず応答。自身の研究が基礎段階であることを前提に「大学の研究者だけでは、実際に投与する薬は作れない。また、患者さんが100~1000人単位の疾患の場合、利益を追求する企業としては、実際に治験をスタートするまでに至らないケースもある」と説明した。

 これを受けて髙橋さんも、広く一般に治療が届くようにするには、企業の力が必須であることを指摘。そのうえで「企業がある程度リスクなりコストをかけるのかどうかは、国全体の力が試される。どんな病気であっても税金を使って直そうとするのか、あるいはひとまず利益が出る分野に集中するのかは、国民の選択によるだろう」と述べた。

シンポジウム後半のトークセッションでは、既存の治療法との兼ね合いやコスト面に関する質問が寄せられた(5月10日、中日ホール)
シンポジウム後半のトークセッションでは、既存の治療法との兼ね合いやコスト面に関する質問が寄せられた(5月10日、中日ホール)

国民のコンセンサス形成も重要

 思い起こせば、筆者がiPS細胞作製成功のニュースを聞いたのは、中学生の時だった。理論上あらゆる細胞に分化できる「万能細胞」によって、どんな疾患も治せる未来の到来を本気で夢見た記憶がある。以降、さまざまな媒体を通じ研究の進展を見聞きしてきた者として、実際の医療応用への道筋がはっきり見えてきたことに、改めて深い感慨を覚えた。

 ただ、現段階ではまだまだ高額で、治療法としては手が届きにくいものであることは否めない。研究の進展によるコストの低減ももちろん期待されるが、技術としての普及については、国民のコンセンサス形成も重要になってくるだろう。iPS細胞やその応用技術を「自分ごと」として受け止められる人がどれだけ増えるか。そしてその機運を醸成できるかによって、シャーレの先に見える景色も変わってくるに違いない。

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【特集:スタートアップの軌跡】第2回 核融合エネルギー開発、ものづくり力で国際競争に挑む 京都フュージョニアリング https://scienceportal.jst.go.jp/explore/reports/20250714_e01/ Mon, 14 Jul 2025 05:36:54 +0000 https://scienceportal.jst.go.jp/?post_type=explore&p=54570  地上に太陽をつくる――。脱炭素の切り札とされる核融合発電の実用化へ向け、気候変動問題への意識の高まりからリスクマネーが流入している。欧米で2000年以降、スタートアップが台頭している中、日本でも2019年、京都フュージョニアリング(東京都大田区)が創業した。日本のものづくり力を結集し、核融合反応を起こすプラズマとその周辺装置の開発やプラントエンジニアリングを手がけることで、プラズマから発生するフュージョンエネルギー開発の国際競争に割って入る。

京都フュージョニアリングの研究開発拠点。同じフロアにオフィスを隣接できる上に、海外からのアクセスが良い場所を選んだ(東京都大田区)
京都フュージョニアリングの研究開発拠点。同じフロアにオフィスを隣接できる上に、海外からのアクセスが良い場所を選んだ(東京都大田区)

「あと30年」の技術を実用化するため起業家へと転身

 核融合発電は水素の仲間「重水素」と「三重水素」が融合して生じるヘリウムと中性子が持つエネルギーを用いて行う。超絶な重力と高温環境にある太陽では常に起きる現象だ。太陽をはじめとする宇宙の星々が生み出すエネルギーの源である核融合を地上で制御するのは難しく、発電の実用化は「あと30年」と言われ続けた。

 京都大学でエネルギー理工学研究所の教授を務めていた小西哲之は、「核融合発電が技術的には可能なところまできているのに、なぜ実用化ができていないのか」との思いを抱え、京都フュージョニアリングを創業した。

Q:研究を続けずに起業することにした理由は何ですか。
A:大学や研究所で行うのは、必要な装置の原理を実証し、プロトタイプを作るところまで。実用化を目指す段階に移行するには、フュージョン装置を作って供給する企業が必要と思いました。公的機関は、予算や定員、組織体制の大枠を大きくは変えられない。税金で賄う国家予算であるかぎり、執行までの手続きには時間がかかる。株券発行で受けた投資を元手に商品やサービスを販売していく株式会社のようなスピード感は得られないことを実感。フュージョンの実用化に向けて、「テクニカルな装置はあっても、社会的装置がない」という思いが強くなり、起業へと動きました。

重水素と三重水素を高圧高温下でプラズマにして核融合をおこし、ヘリウムとともに生じる中性子のエネルギーとして取り出す(京都フュージョニアリング提供)
重水素と三重水素を高圧高温下でプラズマにして核融合をおこし、ヘリウムとともに生じる中性子のエネルギーとして取り出す(京都フュージョニアリング提供)

 最近、超伝導技術やシミュレーションに用いるスーパーコンピューター性能の向上、人工知能(AI)の普及といった技術革新がブレークスルーとなり、研究が加速している。人類初の核融合実験炉を実現しようと日本や欧米、インドなどが参加する超大型国際プロジェクト「ITER(イーター/国際熱核融合実験炉)」ではフランスに実験炉が建設中だ。小西は、ITERに当初から研究者として参加している。

Q:起業せずともITERなど、国際プロジェクトの一員として研究に没頭する道もあったはずです。ITERについては、計画の遅れが指摘されてはいますが。
A:ITERは、今後も核融合研究における中核的な役割を担い続けます。国際プロジェクトで各国が国の威信をかけて参加していますが、「絶対に失敗できない」という前提があり、リスクを取ることが難しい。イノベーションを目指すようなものではなく、確かな技術の上に科学的知見を積み上げていく。2025年運転開始予定だったITER実験炉の設計は2002年か03年頃のもの。しかし、フュージョンの実用化にはまだまだイノベーションは必要です。ベンチャー企業を「儲かる」と見込んだ投資家が支援し、最新の技術で商業化に挑戦するようなスピード感は望めないし、目的とするところが違う。しかし、ITERは必ず必要なものでもある。スタートアップが実証炉を作り上げたとしても、その性能や信頼性をあげるためには、やはりITERのような研究装置で理解を深める必要があります。

ITERのトカマク式融合炉の模型が大阪・関西万博(2025年日本国際博覧会)で展示されている(大阪市此花区)
ITERのトカマク式融合炉の模型が大阪・関西万博(2025年日本国際博覧会)で展示されている(大阪市此花区)

研究者と経営者のマッチングを経て創業

 創業は2019年10月だった。小西は同年に京都大学のベンチャーキャピタル「京都iCAP」が開催した研究者と経営者をマッチングするプログラムで、当時ベンチャー企業に所属していた京大OBの長尾昂と出会った。

 現役の研究者でITERではブランケット(エネルギー変換・燃料製造機器)研究で国際代表を務めていた小西は、先端の科学技術は知っている。だが、いつリソースを投入して、いつお金を回収するのかといった経営的視点はないという自覚があった。ビジネスや資金調達、法規手続き、人事やマネジメントの制度を設計して起業の形を整えることなど、企業をゼロから生み出し、成長段階までもっていく「起業のプロ」と長尾を見込んで経営を任せた。

創業初期に撮った社員の集合写真。創業者の小西哲之(前列右)や長尾昂(前列左)らが写っている(京都フュージョニアリング提供)
創業初期に撮った社員の集合写真。創業者の小西哲之(前列右)や長尾昂(前列左)らが写っている(京都フュージョニアリング提供)

採用は友人や知人の伝手によるリファラル中心

 創業時は、小西と長尾に加え、小西の教え子で核融合発電におけるビジネスやマーケットに関する研究を論文発表していた武田秀太郎(現チーフストラテジスト)とリチャード・ピアソン(現チーフイノベーター)も加えた4人が共同創業者として名を連ねている。核融合の研究を45年ほど続けている小西は、当時も最古参の研究者だった。だからこそ大学や研究機関でのトッププレーヤー、リーダーはみんな知り合いだった。「再雇用のタイミングで転職して一緒に仕事しないか」と声をかけた。

 創業4年目となる2023年3月時点で約50人、現在は150人以上にまで社員が増えた。半分ほどが技術者で、20代から60代、70代のシニアまで幅広い。ほとんどが従業員が友人や知人の伝手をたどるリファラル採用で集まったメンバーとなった。小西のもくろみでは、最終的にはチームを組んでコアメンバー300人、全体では2000人ぐらいで事業を展開する。理系人材だけではなく、ファイナンス(財務)、ビジネス(営業)、リーガル(法務)、アカウンティング(会計)、ヒューマンリソース(人事)での人材も集めている。

Q:人事など経営戦略はすべて長尾さんに頼まれたのでしょうか。
A:核融合業界の特性や市場環境は私からインプットし、経営的な判断は一緒に決めてきました。例えば、人事では、シニアと若くてやる気のある技術者両方を積極的に採用する方針をとることは最初から決めていました。実用化すると思いながら何十年と研究してきた研究者が、このまま技術の継承なく引退してしまう懸念がある。だから「技術継承をしながらチームをつくる」という方針は貫きました。集めた投資で人材育成もしています。

日本で開催した社内イベントでの集合写真2024年10月(京都フュージョニアリング提供)
日本で開催した社内イベントでの集合写真2024年10月(京都フュージョニアリング提供)

はじまりはガレージ

 創業時の本社は、京都府宇治市にある自宅のガレージ。営利活動になるため大学内に設けることができなかったからだ。創業間もなくコロナ禍となったが、技術メンバーも顧客も世界中に分散していた。創業当初のメンバーはオンライン会議を中心にコミュニケーションを取った。研究開発は京大の研究所で、同大との共同研究として始めた。設計やコンサルで売り上げをあげる一方、出資してもらったお金を使って、実用化に向けて装置を大きくしていく技術開発を進め、実際に装置をスケールアップする過程を繰り返した。装置などが大学内に収まらない規模になると工業団地へ出ていき、規模拡大を行った。

 2021年7月に東京オフィスを三菱地所のインスパイアードラボに設けた。23年には登記上の本店を東京都大手町に移した。京都から東京へ移ったのは、投資家や関係企業が東京に多いのが大きな理由だ。海外企業とのやりとりが多くなると、交通の便からやはり羽田近くとなる。本社と工場を一体化したいというのもあり、25年に東京都大田区の東京流通センターへ移転した。

Q:スタートアップらしくガレージからのスタートです。
A:アップルなど名だたるスタートアップがガレージから始まっているのにあやかっている部分もあるけれど、実際普通のガレージですよ。普通の住宅で使う郵便受けを置いていました。すると、ある日、見知らぬ人が首をかしげながらポストに書類をねじ込んだ。書類はCV(履歴書)。素粒子か何かで博士号をとって京都に住んでいたドイツ国籍の研究者がインターネットで会社のサイトを見つけてやってきた。この研究者、今も幹部社員として働いています。
 今は東京に拠点を置いているが、関西財界や京都大学同窓やゆかりの企業など本当にサポートしてもらっている。そもそも、「京都発」「関西発」というのが、「何かやらかす感」があって良いなと思っています。

京都フュージョニアリングの最初の本店に置いたポスト。小西の自宅のポストと兼用だった(京都フュージョニアリング)
京都フュージョニアリングの最初の本店に置いたポスト。小西の自宅のポストと兼用だった(京都フュージョニアリング)

投資家の厳しい審査にこたえるコンテンツを用意

 出資を募る際には、エネルギー業界の市場規模は日本だけで年間20兆、30兆円に上るとされることや、二酸化炭素を排出しない再生可能エルギーへの移行が世界的課題になっていることを投資家に説明する。

 だが、「最後は『人』を見られる。やってやるぞと言う決意をみせないと出資してはくれない」と小西は言う。投資家は説明のために技術の価値や事業のリスクを徹底的に調査してくるが、同社ではコンサル出身者や投資の専門家も採用しており、投資家の厳しい審査(デューデリジェンス)にこたえられるコンテンツを事前にきちんと用意している。

 小西をはじめ共同創業者の武田とリチャードもマーケット分析の論文を書いて国際発表をしてきた実績があり、地域によってどれくらいの発電需要が見込まれるかといった分析を数字で提示できる強みがある。事業化について意見を持ち、フュージョンの開発戦略を理解して「生涯をかけていい」と参加しているだけに、「技術、分析、説明、熱量どれをとっても負けません」と小西は胸を張る。

京都フュージョニアリングの資金調達状況(公開資料をもとに作成)
京都フュージョニアリングの資金調達状況(公開資料をもとに作成)

Q:しかし経営はずっと赤字ですよね。
A:赤字は良くないことだが、リスクをとるのをやめて黒字をめざすなら、アマゾンやグーグルレベルにはなれないでしょう。お金があったらもうちょっと挑戦したいことに投資し、大器晩成を目指したい。機器の受注が実際にあるので、市場競争はすでに始まっている。発電が実用化されたときには、シェアの勝負はもう終わっているという市場だからこそ、黒字化やIPOが最終目標ではなく、技術開発競争は絶え間なく続く。今は「売り上げは上げるけど、それ以上に技術を高め、バリューを上げる」時だと意識しています。

核融合炉周辺を含んだプラント全体をつくるエンジニアリング

 事業は「フュージョンプラントのエンジニアリング」。核融合炉だけでなく周辺機器も合わせてプラント全体をつくりあげる。具体的には、1億度以上の高温で重水素と三重水素をプラズマ状態にしてさらに核融合が起きるまで加熱する「プラズマ加熱システム(ジャイロトロンシステム)」、核融合反応により発生する熱を発電などに利活用するための「フュージョン熱サイクルシステム」、絶えず燃料を供給するために燃料を排気・分離・回収する「フュージョン燃料サイクルシステム」の3つが主要なものだ。

 ジャイロトロンシステムは、英国原子力公社やトカマクエナジー、米国のジェネラルアトミクスなどの受注実績がある。個々の機器やプラントの設計などのコンサル業務も実績を積み重ねる。

京都フュージョニアリングでは、左のプラズマ加熱(ジャイロトロン)、右上のフュージョン熱サイクル、右下のフュージョン燃料サイクルといったプラズマ周辺の3つのシステムを主に手がける(京都フュージョニアリング提供)
京都フュージョニアリングでは、左のプラズマ加熱(ジャイロトロン)、右上のフュージョン熱サイクル、右下のフュージョン燃料サイクルといったプラズマ周辺の3つのシステムを主に手がける(京都フュージョニアリング提供)

Q:核融合炉そのものの開発というよりも、炉の型式に関わらず発電時に必ず必要となる周辺機器に注力したビジネスモデルなのですか。
A:ビジネスモデルとしてあるのは、あくまで「ファブレス」ということ。部品や装置を一から作る訳ではない。大学で研究をしていたときから、東大阪の町工場など、性能が十分な装置を組み立てることができる中小企業があることを知っていました。柔らかすぎたり硬すぎたりして削ることができなかった金属に対応できる製作所とか。数十万円といった限りある研究費に合わせて実験装置を作ってもらっていた経験が研究者時代から生きた点。ただ、検査成績書づくりや品質管理、品質保証の事務手続きなどはとても煩雑で、海外向け書類となればなおさらです。そこはマーケット分析にたけ、顧客のニーズを捉えて商機を見いだす能力の高い商社出身の人材をこちら(京都フュージョニアリング)で集めました。

「一見すると無骨に見えるかもしれませんが、十分な性能を持つ装置を組み立てられる技術をもつ企業が日本にはあるんですよ」と、真空ポンプを小西は愛おしそうに眺めながら語った(東京都大田区)
「一見すると無骨に見えるかもしれませんが、十分な性能を持つ装置を組み立てられる技術をもつ企業が日本にはあるんですよ」と、真空ポンプを小西は愛おしそうに眺めながら語った(東京都大田区)

 日本経済新聞社の調査によると京都フュージョニアリングの推計企業価値は721億円(2024年9月末時点)で、ユニコーン(企業価値10億ドル以上の未上場企業)予備軍と認知されるまでになった。一方、国内では強力な磁場で融合炉にプラズマを閉じ込める方式のうち、ITERが採用する「トカマク型」と異なる「ヘリカル型」を用いて商用融合炉の開発を行っているヘリカルフュージョン(東京都中央区)や、高出力のレーザー照射で瞬間的な核融合を起こす「レーザー型」での核融合エネルギーをめざす大阪大学発のエクスフュージョン(大阪府吹田市)などのスタートアップ各社が台頭している。

Q:ライバルの同業他社とどのように競争をしますか。
A:みんな知り合いだし、数社が競争して顧客が選べるからこそ魅力的な業界になるので、自分の会社を含めて生き残って成長して行きたい。チームひとつじゃ「核融合発電」というリーグを作れない。京都フュージョニアリングは、世界的にも独特のポジションを持つ会社で、どことも競合しない。取り扱う燃料システムや熱交換システムは共通にプラントを構成する装置。ヘリカル型であれ、レーザー型であれ、発電をする時には必ず技術か製品を買ってもらうことになるから、ポテンシャルカスタマーだとも思っています。

 熱サイクルシステムの開発・実証においては、UNITY-1プロジェクトで2023年に京都府久御山町で、実際に核融合エネルギーを取り出した後に使うと想定した発電試験プラントを設置し、熱を取り出す核融合炉周辺の工学技術の成熟度向上を目指している。同年に、燃料サイクルシステムを開発するUNITY-2を立ち上げ、カナダ原子力研究所とともにジョイントベンチャーを設立し、実際の核融合炉における特殊環境に近い状況で核融合炉内への安定かつ安全な燃料供給を実証していく。

2023年に京都府久御山町に設置した、UNITY-1プロジェクトの発電試験プラント(京都フュージョニアリング提供)
2023年に京都府久御山町に設置した、UNITY-1プロジェクトの発電試験プラント(京都フュージョニアリング提供)

 さらに、フュージョンプラントシステム全体をつくるFASTプロジェクトを2024年に始動している。FASTは、燃焼プラズマからフュージョンエネルギーを取り出し、そのプラズマ維持を実証し工学的な課題を洗い出すプロジェクトだ。

国内の産官学を束ね、国際競争を勝ちに行く

 2050年カーボンニュートラルの実現を視野に核融合エネルギーの産業化と世界のサプライチェーン競争に時宜を逸せず日本も参入するため内閣府は2023年「フュージョンエネルギー・イノベーション戦略」を策定した。フュージョンエネルギー産業の創出に向け、有志企業や大学、研究機関、公的機関などが参集する一般社団法人フュージョンエネルギー産業協議会が2024年3月に立ち上がった。今年6月には国の統合イノベーション戦略2025で世界に先駆け2030年代の発電実証を目指す考えが示された。

Q:協議会はそうそうたる企業のメンバーです。今後どのように機能するのでしょう。
A:海外の業界団体は、投資家と核融合関連企業を中心として構成されるが、協議会は投資家だけでなく、銀行や保険会社といった金融機関も多彩だし、関連企業も素材メーカーからゼネコンや不動産会社、石油関連企業まであります。これは核融合発電が実用化されてからのインフラ整備まで見通してのことで、日本でフュージョンエネルギーのサプライチェーンを構築していくために必要なこと。核融合産業は裾野が幅広いため、サプライチェーンの構築は限られた産業だけでかなうものではない。日本は幅広い産業基盤を有している様々な業種が集まり、手を携えて新たな産業分野を構築することができる。これが国際競争の中での勝ち筋だと思います。

(敬称略)

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絶望の向こうに希望はあるか~VUCAの時代に未来予測する意味は?(中間真一/ヒューマンルネッサンス研究所エグゼクティブ・フェロー) https://scienceportal.jst.go.jp/explore/opinion/20250709_e01/ Wed, 09 Jul 2025 06:53:55 +0000 https://scienceportal.jst.go.jp/?post_type=explore&p=54520  人類は、経済的な豊かさを科学技術の成果で獲得し続けてきた。しかし今、先行きが見通しにくく、想定外のアクシデントが頻発する、変化の激しい時代を生きている。こんな時代を示す言葉として、「VUCA(※)」という言葉が流布している。どこに向かえばよいのか分からなくなる時代だ。こうしたVUCAの時代にあって、私たちは「未来」を予測する意味はあるのだろうか?

※Volatility(変動性)、Uncertainty(不確実性)、Complexity(複雑性)、Ambiguity(曖昧性)の頭文字を取った言葉。2016年の世界経済フォーラムを機に広く認知されるようになった。

中間真一氏
中間真一氏

役割を終えたグローバリズムの反動

 20世紀を通じて、世界は経済効率の最大化に向けて、人、モノ、カネ、情報のネットワークで地球上を覆い、一体化したネットワークを機能させることに成功した。しかしその結果、環境問題や格差、地政学的な分断も深まり、その反動が世界各地で顕在化しつつある。

 グローバリズムは、その役割を果たし終えたと言っても良いだろう。そして新たなパラダイムの地平が開かれようとしている。だからこそ新旧価値観の葛藤や混乱が、世界中で生じている。世界のカオスは、未来に向けて起こるべくして起きているのだ。VUCAは古い枠組みが限界に達したサインと言えるだろう。

未来を見通す座標軸“SINIC理論”

 こうした時代の中で、未来を見通す座標軸の一つとして注目を集めているのが、オムロン創業者・立石一真らが提唱した未来予測理論「SINIC理論(Seed-Innovation and Need-Impetus Cyclic Evolution Theory)」だ。これは半世紀以上前、前回の大阪万博が開催された1970年に発表されたもので、人類の誕生以来、科学・技術・社会の円環的な相互作用によって発展してきた進化のメカニズムを、サイバネティクス(※)や東洋思想を基盤として理論化し、未来を予測するユニークな理論である。

※生体や機械の通信・制御を統一的に扱おうとする考え方。

SINIC理論のダイアグラム
SINIC理論のダイアグラム

 この理論に基づく未来ダイアグラムでは、「情報化社会」を経て2005年から「最適化社会」、さらに2025年から「自律社会」が始まる。2030年代には価値観循環の1周期を完了し、経済的規模を尺度とした社会発展が定常化を迎え、「自然社会」という新たな価値基準に基づいた未来を予測している。この予測が、ここ30年間の世界の変化に見事に符合するため、オムロンだけでなく多くの企業や政府までもが注目している。

SINIC理論の最も重要な特徴はこの3つ。1970年発表時のオリジナルから一部修正を加えたもの。より詳しく知りたい場合は、ぜひ拙著にも目を通してほしい
SINIC理論の最も重要な特徴はこの3つ。1970年発表時のオリジナルから一部修正を加えたもの。より詳しく知りたい場合は、ぜひ拙著にも目を通してほしい

単なる予測ツールではない実践的コンパス

 実際にオムロンは、半世紀以上この未来予測理論を自社の経営に取り入れてきた。理論の発表に先立つ1960年代後半には、情報化社会における「キャッシュレス社会」を未来像に設定。そこに向けての近未来事業デザインとして、銀行のキャッシュディスペンサー開発を先駆けて実現した。

 そして「最適化社会」では、データソリューションと生体制御技術を生かし、介護に頼り過ぎずに自立生活を延伸できる超高齢社会の自立支援システムや健康経営の取り組みを進めている。

 このようにSINIC理論は、シンボルや単なる予測ツールではなく、「未来からのバックキャストによって現在の事業戦略を導く」実践的コンパスなのだ。

卓球ロボットFORPHEUSは、人と機械の融和によって人間の能力を高めるための研究開発成果だ(オムロン提供)
卓球ロボットFORPHEUSは、人と機械の融和によって人間の能力を高めるための研究開発成果だ(オムロン提供)

鳥の眼でみると価値観移行の前兆

 SINIC理論の予測は楽観的に過ぎるという批判もある。収束の目途が立たない世界各地の紛争や、トランプ米大統領の仕掛ける世界貿易戦争など、足下の実情は自律社会などほど遠いように映る。

 しかし未来を見通すには、もっと長い時間スパンから眺めてほしい。SINIC理論の価値観循環の歴史モデルでは、14世紀から17世紀の世界が現在の対極に位置づけられる。「こころ」から「モノ」の価値観に移行する時代である。そこでは、感染症のペストが拡大し、教会の権威失墜から宗教改革、ルネッサンスが開花して、近代科学が勃興している。その渦中は、かなり激しいカオスである。しかしそこから産業革命、工業社会が始まっている。

 こうしてビッグヒストリーを鳥の眼でみると、新型コロナ感染の世界的拡大も含め、かつてのパラダイム・シフトと現在は重なりも見えてくる。グローバリズムの終焉と次の時代の胎動、「モノ」から「こころ」への価値観移行だ。地球の有限性を前提に、生命や自然の循環を尊重するプラネタリー(惑星的)な視座を基盤とする時代へ。少なくない痛みは伴うが、民主主義も資本主義も、世界のOS(基本システム)がアップデートする前兆として受け止めればよいのだ。

ウェルビーイング最大化のために

 VUCA時代の混沌の出口はディストピアではなく、新しい価値基準に基づく豊かな社会としてビジョンを持とうではないか。その実現には、歴史が示すとおり科学技術が果たすべき役割は極めて大きい。利便性や効率追求を唯一の価値基準とする時代を超えて、人類は次の豊かさのパラダイムへの移行を遂げる踊り場にある。絶望の向こう側には常に希望があるはずだ。

 こうした未来に向けて、今後の日本の科学技術は単に技術の高度化を競うのではなく、「人間と社会のウェルビーイングの最大化」を目標に据えるべきだ。

人間と社会のウェルビーイングの最大化」に重要となる方向性(中間氏作成の資料より)
人間と社会のウェルビーイングの最大化」に重要となる方向性(中間氏作成の資料より)

 これらを進めるうえでは、従来の慣習にとらわれない若手研究者の柔軟な発想と、VUCA時代を超えて生き抜くレジリエンス(回復力)が大いに期待される。

若手はプロデューサー兼アクターだ

 パソコンを生んだ父と言われるアラン・ケイは「未来を予測する最良の方法は、それを発明してしまうことだ」と言った。彼は続けて「未来は、あらかじめ引かれた線路の延長上にあるのではない。それは、我々自身が決定できるようなものであり、宇宙の法則に逸脱しない範囲で、我々が望むような方向に作り上げることもできる」と説いた。

 未来予測が、VUCAの時代にこそ価値がある理由は、まさにここにある。未来は誰かが用意するものではない。だからこそ、とりわけ未来への時間を豊かに持っている若い科学技術の研究者や開発者の皆さんには、「あなた自身が、未来劇場のプロデューサーであり、同時にアクターだ」ということを伝えたい。その舞台の結末は、決して絶望の未来ではない。

「問いの広場」としての万博に求めるもの

 「いのち輝く未来社会のデザイン」をテーマとした大阪・関西万博(EXPO2025)は、まさに、こうした未来ビジョンを社会と共有する絶好の機会だ。

 約半世紀前の1970年万博がSINIC理論誕生の契機となったように、EXPO2025は、次の未来社会の羅針盤を描き直す「トリガー」となり得る。未来を拓く課題を自国の研究開発に落とし込み、脱炭素、超高齢化、孤立化といった地球的課題への“科学と技術による挑戦”を国際社会に発信する好機である。新たな技術の展示だけでなく、次代の思想や価値観、未来社会像を提示する「問いの広場」としての万博に、日本の若い科学者、技術者たちの感性力、創造力、駆動力が求められている。

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万博で交わったキュリー夫人の足跡と日本の女性研究者~ポーランド館のイベントより https://scienceportal.jst.go.jp/explore/reports/20250702_e01/ Wed, 02 Jul 2025 07:23:54 +0000 https://scienceportal.jst.go.jp/?post_type=explore&p=54449  開幕間もない大阪・関西万博のポーランド館で「Women in Science : In the footsteps of Marie Sklodowska Curie(科学の世界の女性たち:マリア・スクウォドフスカ=キュリーの足跡をたどって)」と題したパネルディスカッションが開催された。科学の世界でジェンダーの壁を乗り越え、女性が輝くためのヒントは何か。目覚ましい活躍を見せる日本の若手女性研究者たちが、「キュリー夫人」を生み出したポーランドの女性研究者らと熱く語り合った。

第1部のパネルディスカッション参加者。左から、オディル・アインシュタインさん、木邑真理子さん、森脇可奈さん、太田圭さん、マルタ・ミャチンスカさん(ポーランド大使館提供)
第1部のパネルディスカッション参加者。左から、オディル・アインシュタインさん、木邑真理子さん、森脇可奈さん、太田圭さん、マルタ・ミャチンスカさん(ポーランド大使館提供)

女性初のノーベル賞、名を冠した賞が日本の若手に

 キュリー博士は31歳でポロニウムを、32歳でラジウムをそれぞれ発見し、その功績が認められ女性初のノーベル賞受賞者となった。さらに男女を通じてただ一人、物理学賞(夫のピエール・キュリー氏らと1903年)と化学賞(1911年)の2分野でノーベル賞を受賞している。

 偉大な女性研究者であるキュリー博士の名を冠した「羽ばたく女性研究者賞(マリア・スクウォドフスカ=キュリー賞)」は、日本の若手女性研究者の活躍を推進するため、科学技術振興機構(JST)と駐日ポーランド共和国大使館が創設したもの。4月26日に行われたパネルディスカッションの第1部「科学におけるジェンダーの壁をどう乗り越えるか」に登壇した日本人女性3人は、いずれも同賞の受賞者だ。

 第1回奨励賞の木邑真理子さん(金沢大学理工学域先端宇宙理工学研究センター准教授)と第3回最優秀賞の森脇可奈さん(東京大学大学院理学系研究科付属ビックバン宇宙国際研究センター助教)は宇宙物理学、第3回奨励賞の太田圭さん(埼玉大学大学院理工学研究科助教)は有機典型元素化学を研究している。

ポーランド館の外観(ポーランド大使館提供)
ポーランド館の外観(ポーランド大使館提供)

偏見と戦った博士、女性研究者育成は今も課題

 キュリー博士は輝かしい功績の裏側で「常に『科学は男性のもの』という偏見と闘っていた」と指摘するのは、パネリストのオディル・アインシュタインさん(フランス科学アカデミー会員)だ。当時の科学界は男性優位の風潮が現在よりもさらに強かったとされる。しかし本来、女性は男性と対等な社会の一員であり、ジェンダーに関わらずオープンにコミュニケーションすることが重要とアインシュタインさんは強調した。

 ディスカッションでモデレーターを務めたのは、マルタ・ミャチンスカさん(ワルシャワ国際分子細胞生物学研究所所長)。さまざまなプログラムで女性研究者をサポートするメンターを務めている。日本は研究者数に占める女性の割合が経済協力機構(OECD)加盟国で最低と課題になっているが、ミャチンスカさんによるとパーセンテージが2倍近いポーランドでも女性研究者の育成は課題だという。

各国の女性研究者の比率(科学技術・学術政策研究所(NISTEP)「科学技術指標2024」及び内閣府「男女共同参画白書 令和4年版」をもとにJST作成)
各国の女性研究者の比率(科学技術・学術政策研究所(NISTEP)「科学技術指標2024」及び内閣府「男女共同参画白書 令和4年版」をもとにJST作成)

 そうした背景のもと、ミャチンスカさんと3人の日本人女性研究者らは、科学の世界で女性がキャリアを築いていくためには何が必要なのかを互いに共有した。ロールモデルや、ミャチンスカさんのようなメンターの重要性について森脇さんは「高校のとき、数学の女性教師に進学先など将来に関してのアドバスをもらい、進む道を後押ししてもらった」と振り返り、研究者となった現在も同じ女性からのサポートは心強く、自分もそのような存在になりたいと話した。

科学は魅力的な仕事、「男性だけ」に惑わされずチャレンジを

 「リーダーシップにジェンダーは関係ない」と断言するのは太田さんだ。女性であることが障壁になったことはないとしながらも、キュリー博士の時代から続く偏見がいまだ解消に至っていないことを踏まえ、楽しく研究する姿を伝えていくことが大事だと語った。

 さらに現在、2人の娘を育てながら研究を続けている木邑さんは「育児休暇や在宅勤務といった研究を続けやすい環境が整備されることも大事」とし、すべての女性研究者がキャリアを継続できるような支援を受けられるようになればと期待を示した。

 3人はこれからを担う若い世代の女性に向け、まずはオープンマインドでいろいろなことに取り組むことが大事だと口をそろえる。科学は未知の世界を見ることができるとても魅力的な仕事であり、「男性だけの仕事」という言葉に惑わされないで、ぜひチャレンジしてほしいと声を上げた。

3人にとって受賞は研究者としてのポスト獲得につながり、さらに共同研究の道が開かれるなど、キャリア形成に大きな影響をもたらしたという(ポーランド大使館提供)
3人にとって受賞は研究者としてのポスト獲得につながり、さらに共同研究の道が開かれるなど、キャリア形成に大きな影響をもたらしたという(ポーランド大使館提供)

アインシュタイン博士との交流、政治など多岐に

 キュリー博士とアルベルト・アインシュタイン博士。この偉大な2人の研究者が、約20年間にわたり書簡を交わしていたことを知っているだろうか。2人のこれまであまり知られていなかったやりとりが今年、書簡集「Maria Skłodowska-Curie Albert Einstein The Letters/1911–1932/」としてポーランドで出版された。

 同書からは、2人が個人的な内容にとどまらず、科学に対するお互いの姿勢や、第一次世界大戦期における激動の政治情勢への意見など、多岐にわたる交流をしていたことがわかる。両博士は第一次大戦後、国際関係の改善に向け研究者らが協議する国際連盟の専門機関の一つ「国際知的協力委員会(ユネスコの前身)」に参加していた。科学が国家間の理解を深めるために果たし得る役割についても意見を交わし、交流を深めていったとされる。

 第2部のパネルディスカッションでは、この書簡が持つ意味について4人のパネラーが語った。その中で「2人は科学と人間の関わりについて深い懸念を共有していた」と語るのは、パネラーの一人、ハノク・グットフロイントさん(エルサレム・ヘブライ大学名誉教授/アインシュタインセンター所長)だ。

 現在、気候変動に批判的な大統領の存在が科学に対する信頼を欠如させていることを危惧しながら、アインシュタイン氏が核戦争の廃絶を訴えていたことを例に、研究者が社会に対し声を上げていくことの重要性を指摘。「書簡は、科学と社会が密接につながり、分離されるものではないと教えてくれる」と述べ、この学びを若い人にぜひ伝えていきたいと強調した。

 パネラーの川合眞紀さん(自然科学研究機構長)は幼少期を振り返り「物理学者だった母はとても忙しく、私は仕事のことをよく知りませんでした。そんなある日、キュリー博士の伝記を読んで母の仕事を理解することができ、それ以来、親近感を抱くようになりました」と、自身とポーランドとの関係を語った。同時に「日本は科学分野への女性進出をさらに進める必要があります。活躍できる場があるので、もっとこの世界に入ってきてほしい」と次世代に呼び掛けた。

第2部に登壇した川合眞紀さん(右から2番目)とハノク・グットフロイントさん(左から2番目)(ポーランド大使館提供)
第2部に登壇した川合眞紀さん(右から2番目)とハノク・グットフロイントさん(左から2番目)(ポーランド大使館提供)

幼少期の体験が科学と社会をつなぐ

 2つのパネルディスカッションについて3人の日本人女性研究者は「アインシュタイン博士が政治などの話をしていたように、研究者として社会との接点を大事にしたい」「異分野との対話は新しい研究の種にもなる」など、万博を機に設けられたポーランドの女性研究者との交流を振り返りながら、自身の今後のあり方にも意欲を見せた。

 パネルディスカッションの企画を担当したアンナ・プラテル・ジベルグさん(ポーランド科学アカデミー国際協力部長)は、「これまで家事や育児、介護などを中心的に担ってきた女性は、社会に対する意識が強い。だからこそ、科学と社会をつなぐ上で女性が果たす役割は大きい」と、女性研究者らにエールを送った。

 同時に、科学と社会をつなぐための好事例として、ポーランドでは幼い頃に科学系の博物館を訪れる公的プログラムが設けられていることを紹介。仕組みとして科学とのつながりを知る機会を作ることが大切との見方を示した。

パネルディスカッションの会場風景(ポーランド大使館提供)
パネルディスカッションの会場風景(ポーランド大使館提供)

先達からのメッセージ、高校生に勇気を

 今回のパネルディスカッションには、ポーランドに姉妹校を持つ姫路女学院(兵庫県)の高校生が招かれた。日本やポーランドの女性研究者らと直接語り合う貴重な機会を得た生徒からは、次のような感想が寄せられている。

 「キュリー博士の困難に立ち向かう勇気と、自分の道を信じて進む意思を持ち続けたいと思います。また、私が博士に影響されたように、将来誰かに影響を与えられるような女性になりたいです」

 「ロールモデルがおらず、大学で理工学を専攻するか決めかねていました。しかし、女性差別と闘いながら研究を続け、ノーベル賞を2度受賞した博士の力強い生き方を知ることで、『周りがどうあれ、自分の軸を持って理工学を専攻してもいいんだ』と肯定されたように感じました」

 万博だからこそ交わった、キュリー博士の足跡と日本の女性研究者のリアルな姿。科学の道を目指す若い女性たちは、両国の先達たちから心強いメッセージを確かに受け取っていた。

ポーランド館で、キュリー博士が発見したポロニウムの原子モデルの模型を作る姫路女学院の高校生ら(ポーランド大使館提供)
ポーランド館で、キュリー博士が発見したポロニウムの原子モデルの模型を作る姫路女学院の高校生ら(ポーランド大使館提供)
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