深く掘り下げたい - 科学技術の最新情報サイト「サイエンスポータル」 https://scienceportal.jst.go.jp Thu, 25 Apr 2024 07:33:56 +0000 ja hourly 1 南海トラフなどの巨大地震に備える契機に 震源域の豊後水道で震度6弱など強い揺れ頻発 https://scienceportal.jst.go.jp/explore/review/20240425_e01/ Thu, 25 Apr 2024 07:33:56 +0000 https://scienceportal.jst.go.jp/?post_type=explore&p=50959  4月17日の深夜、愛媛県と高知県で最大震度6弱の大きな地震が起きた。震源の深さは39キロで地震の規模はマグニチュード(M)6.6。津波は発生せず、揺れによる被害も少なかったが、豊後水道の震源地は南海トラフ巨大地震の想定震源域内だったことから多くの住民が巨大地震を想起した。政府が地震直後に危機管理センターに官邸対策室を設置するなど関係者の間でも緊張が走った。

 気象庁は「巨大地震の可能性が高まったとは言えない」との見解を示した。政府の地震調査委員会(平田直委員長)は同様の見方を示しながらも「もともと巨大地震の可能性が高いことは忘れてはならない」と強調する。今年は元日に石川県の能登地方で震度7の大地震が発生して大きな被害を出した。その後も震度5弱以上の地震が全国で頻発し、この国が「地震大国」であることをいやでも印象付けられる。巨大地震に対する「備え」を強化する契機にしたい。

豊後水道を震源とする地震の各地の震度(気象庁/政府の地震調査委員会提供)
豊後水道を震源とする地震の各地の震度(気象庁/政府の地震調査委員会提供)

巨大地震と異なり、プレート内で発生

 気象庁によると、4月17日午後11時14分ごろ、愛媛県愛南町と高知県宿毛市で震度6弱を観測する地震があり、中部地方から九州にかける広い範囲で震度5強から1を観測した。四国で震度6弱を観測したのは現在の震度階級になった1996年10月以降初めて。高知県西部では長周期地震動で物につかまりたいと感じる「階級2」を観測した。

 南海トラフは日本列島が位置する大陸プレートの下に海洋プレートのフィリピン海プレートが南側から年間数センチメートルの割合で沈み込んでいる。トラフは海溝と混同しやすいが、通常水深6000メートル以上を海溝、未満をトラフと呼ぶ。トラフは「溝状の海底地形」だ。

 ここでは常にひずみが蓄積されていて、過去、概ね100~150年の間隔で大地震や津波被害が繰り返し起きている。政府の地震調査研究推進本部は「南海トラフ周辺を震源とする巨大地震の今後30年以内の発生確率は70~80%」としている。

 17日深夜に発生した大きな地震の位置付けについて18日未明に記者会見した気象庁の担当者は「今回の地震は南海トラフ巨大地震とは発生メカニズムが異なり、直接、巨大地震の可能性が高まったとは言えない」などと説明した。「発生メカニズムが異なる」とは、南海トラフ巨大地震がプレートの境界で発生するのに対し、今回はフィリピン海プレートの比較的深い内部で発生したという違いだ。

豊後水道を震源とする地震では階級2の長周期地震動が観測された(気象庁/地震調査委員会提供)
豊後水道を震源とする地震では階級2の長周期地震動が観測された(気象庁/地震調査委員会提供)
豊後水道を震源とする地震の発生メカニズム(気象庁/地震調査委員会提供)

「切迫性の高い状態」

 豊後水道を震源とする最大震度6弱の地震を受けて政府の地震調査委員会は4月18日に臨時会合を開いた。会合では集まったさまざまなデータを分析しこの地震の科学的評価を行った結果、「発生メカニズムは東西方向に引っ張り合う正断層型で、フィリピン海プレート内部で発生した」とした。

 そして巨大地震発生とのつながりが指摘される「低周波地震動」のデータなどには大きな変化が見られなかったことなどから「南海トラフ巨大地震の発生可能性が平常時と比べて相対的に高まったと考えられる特段の変化は観測されていない」(平田委員長)とした。

 地震調査委は慎重な表現を使いながら今回の地震が巨大地震の引き金になるとする見方を否定した。しかし注目すべきはその一方で「昭和東南海地震(1944年)・昭和南海地震(1946年)の発生から約80年が経過していることから切迫性の高い状態である」との見解も示したことだ。調査委も今回の地震が巨大地震と「全く無関係」とは言っていない。「関係ない、とは言わない方がいい」と指摘する専門家もいる。

 分かりにくいが地震調査委も、今回の地震は直ちに巨大地震につながる兆候ではないものの、もともと巨大地震は「30年後に起きないかもしれないが明日起きてもおかしくない」との基本的な見方を改めて明確に示したことになる。

 地震調査委はまた、中国や四国、九州にかけての周辺地域では約60年に1度程度の頻度で今回と同規模の地震が起きていることを指摘。プレート境界で起きる巨大地震だけでなく、巨大地震を誘発することも完全に否定できないプレート内部での地震についても防災・減災対策が必要と強調している。

黄色の星印は4月17日深夜に起きた最大震度6弱の震源。赤い線は南海トラフの最大クラスの地震の震源域(地震調査委員会提供)
黄色の星印は4月17日深夜に起きた最大震度6弱の震源。赤い線は南海トラフの最大クラスの地震の震源域(地震調査委員会提供)
今年3月1日から4月3日まで観測された南海トラフ周辺の地殻活動の図。気象庁や地震調査委員会は巨大地震の可能性が相対的に高まったと考えられる特段の変化とは評価していない(気象庁提供)
今年3月1日から4月3日まで観測された南海トラフ周辺の地殻活動の図。気象庁や地震調査委員会は巨大地震の可能性が相対的に高まったと考えられる特段の変化とは評価していない(気象庁提供)

「地震臨時情報」に至らず

 現在、南海トラフ巨大地震の可能性が高まったと判断された場合、気象庁から事前に「地震臨時情報」が出されることになっている。2019年に運用が始まった。想定震源域で「M6.8」以上の地震が発生した場合や、「ゆっくりすべり」といった通常と異なる地殻変動を観測した場合に出され「調査中」とされる。

 同時に気象庁は有識者による「南海トラフ沿いの地震に関する評価検討会」を臨時開催し、巨大地震との関連を調査、検討し、危険性を判断する。その結果、M8以上の大地震が起き、後発地震の可能性が高まったと判断された場合は危険度がかなり高い「巨大地震警戒」が、またM7以上の地震が起きるなど危険度が一定程度想定されると「巨大地震注意」が出される。

 巨大地震警戒は発生後の避難では間に合わない恐れがある住民を対象に1週間程度の「事前避難」を求める。これまで実際に臨時情報が出た例はない。

 4月17日に起きた豊後水道を震源とする地震のMは6.6で、地震臨時情報発令の条件の一つの「M6.8以上」の基準より0.2少なく、同情報は出されなかった。もし今回震源がもう少し浅くMが6.8に達していたら、初の発令になっただけに自治体や住民らにかなりの混乱が生じた可能性もある。

(上下図とも内閣府提供)
南海トラフ地震臨時情報の内容と発表までの流れ(上下図とも内閣府提供)

被害想定と計画改定を延期

 内閣府は東日本大震災の翌年の2012年に南海トラフ巨大地震の想定震源域の場所や津波が集中するとみられる地域や、季節、時間帯などを組み合わせた複数パターンの被害想定をし、死者は最大32万3000人と発表した。

 このほか、内閣府の公表データから想定される最悪の数字だけを拾うと、全壊、焼失家屋は最大238万6000棟、経済的被害は215兆円近くに及ぶ。社会に大混乱を及ぼし、上水道は最大3440万人が、下水道は3210万人が使用不可能になり、最大2710万世帯が停電し、大部分の携帯電話は使用不能になる。帰宅困難者は京阪都市圏約660万人、中京都市圏約400万人を数える。

 こうした国の根幹を揺るがす甚大な被害想定を受け、政府は2014年に「南海トラフ地震防災対策推進基本計画」を策定。23年度末までに想定死者数を8割減らす目標を掲げた。そして自治体などと連携しながら「事前防災」政策を強化してきた。

 その成果が一定程度出ていることを前提に内閣府の作業部会は、建物の耐震化や避難手段の確保など約10年の対策の進ちょくを反映させた被害想定の見直しを昨年2月から進めてきた。

 この被害想定見直しの最新報告を受け、当初は今春にも防災基本計画も見直される予定だった。しかし、内閣府関係者によると、1月に能登半島地震が発生したことから作業部会内部に「能登半島地震の教訓を南海トラフ巨大地震の被害想定や防災対策に反映させるべき」「想定死者に災害関連死も考えるべき」などとの意見が出された。このため被害想定の見直しや基本計画改定の作業は予定より遅れているという。

 2016年に起きた熊本地震では災害関連死が直接死の約4倍に上ったことが大きな問題になった。能登半島地震での関連死は石川県によると4月23日時点では15人で、熊本地震より大幅に減るとみられている。しかし南海トラフ巨大地震はその規模の大きさから関連死も大幅に増えるとの見方もある。

(内閣府提供)
南海トラフ巨大地震の被害想定(内閣府提供)
上下の画像とも南海トラフ巨大地震の被害想定を紹介する内閣府の「南海トラフ巨大地震編・被害想定の全体像編」から(内閣府提供)
内閣府の「南海トラフ巨大地震編・被害想定の全体像編」動画から(上下とも内閣府提供)

地震頻発で「備え」強化を

 1月1日の能登半島地震以降、日本列島では震度5弱以上の地震が頻発している。同月6日と9日には能登半島や佐渡島付近でそれぞれ震度6弱と5弱の地震が発生。3月にも15日に福島県沖を、21日に茨城県南部をそれぞれ震源とする震度5弱の地震が発生した。

 4月に入ると豊後水道を震源とする地震に先立つ8日には九州の大隅半島東方沖を、2日には岩手県沿岸北部をそれぞれ震源とする震度5弱の地震が発生した。 3日には南海トラフの延長線上にある与那国島に近い台湾でM7級、最大震度6強の地震もあった。

 震度5弱以上の地震は4月25日時点で20回を超えている。気象庁の統計では、2020年は7回、21年は10回、22年は15回、23年は8回だ。近年だけ見ると今年は4月までにいかに地震が頻発しているかが分かるが、多くの地震の専門家は、特段異常な現象ではなく、阪神淡路大震災を起こした1995年の兵庫県南部地震以降、日本列島は地震の「活動期」に入っていると指摘している。

 国の防災・減災に責任を持つ政府や自治体のほか、「共助」を担う地域社会から個人に至るまで、「大地震はいつ起きてもおかしくない」との前提でさまざまな角度から「備え」を点検し、強化したい。

気象庁が発表する「南海トラフ地震に関する情報」について審議する「南海トラフ沿いの地震に関する評価検討会」の様子(撮影日時不明、気象庁提供)
気象庁が発表する「南海トラフ地震に関する情報」について審議する「南海トラフ沿いの地震に関する評価検討会」の様子(撮影日時不明、気象庁提供)
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日本人2人の月面着陸が正式決定、有人探査車提供も 日米政府が合意「なるべく早期に」 https://scienceportal.jst.go.jp/explore/review/20240412_e01/ Fri, 12 Apr 2024 08:49:47 +0000 https://scienceportal.jst.go.jp/?post_type=explore&p=50874  日米両政府は、米国が主導する国際月探査「アルテミス計画」で、日本人2人が月面に着陸することに正式に合意した。日本が有人月面探査車を提供する一方、米国は日本人の着陸を「なるべく早期に」実現するよう考慮する。同計画で米国人以外の月面着陸は、日本人が初めてとなる。日本の科学技術の歴史的到達点となると同時に、将来にわたる月面開発に道を開く探査車の開発と運用を委ねられるなど、重い責務を負うこととなった。

日本人の月面着陸と日本の月面探査車提供に関する取り決めを手にしたネルソンNASA長官(左)と盛山文科相=10日、米ワシントン(NASA、ビル・インガルス氏提供)
日本人の月面着陸と日本の月面探査車提供に関する取り決めを手にしたネルソンNASA長官(左)と盛山文科相=10日、米ワシントン(NASA、ビル・インガルス氏提供)

日米首脳「日本人が月面着陸する初の非米国人に」

 岸田文雄首相とバイデン米大統領は日米首脳会談で、日本人の月面着陸などを盛り込んだ共同声明を取りまとめ、「日本人が月面に着陸する初の非米国人になるとの共通の目標」を発表。合わせて訪米した盛山正仁文部科学相が日本時間10日、米航空宇宙局(NASA)のビル・ネルソン長官と、有人月探査の実施取り決めに関する文書に署名した。

 アルテミス計画は、米国が国際宇宙ステーション(ISS)に続く大規模な国際宇宙探査として主導。1972年のアポロ17号以来となる有人月面着陸を目指す。月上空の基地「ゲートウェー」の建設を進めて実験や観測を行い、将来の火星探査も視野に技術実証を進める。日本は2019年に参加を決定。欧州やカナダも参加する。20年の文科省とNASAの共同宣言、22年の日米首脳会談などを通じ、日本人着陸の機運が高まっていた。

ゲートウェー(右)と、地球との往復に使う有人宇宙船の想像図(NASA、アルベルト・ベルトリン氏提供)
ゲートウェー(右)と、地球との往復に使う有人宇宙船の想像図(NASA、アルベルト・ベルトリン氏提供)

 同計画の有人月面着陸の初回は「アルテミス3」と呼ばれ、NASAは2026年9月の実現を目指している。その後も着陸を繰り返す。これに先立ち、有人月周回飛行「アルテミス2」が来年9月にも行われる。日本人の着陸時期は未定だが1人目が28年、2人目は32年を目指すとされる。

 なお米説明責任局(GAO)は昨年11月「必要な準備期間を考慮すると、アルテミス3は2027年に実施される」との見方を提示。NASAは今年1月、それまで25年末としていた目標を26年9月に延期した。そもそもNASAは28年頃を構想していたが、トランプ政権の強い意向でいったん24年に前倒しされた過去もあり、今後も変更の可能性はあるとみるべきだろう。

 日本が提供する月面探査車は「ルナクルーザー」。月面を走行して探査しながら、内部で飛行士2人が30日ほど生活できる。米アポロ15~17号(1971~72年)で使われた探査車が運転席むき出しの非与圧型だったのに対し、ルナクルーザーは車内でシャツで暮らせる与圧型。トヨタ自動車が本格開発を進め、2031年の打ち上げを目指すとされる。開発には、ISSの日本実験棟「きぼう」開発などの実績を持つ三菱重工業なども連携する。ネルソン長官は「米国はもはや、単独で月面を歩くことはない。われわれは新しい探査車で画期的な発見をし、人類に利益をもたらす」と期待を語った。

ルナクルーザーの模型。「ジャパンモビリティショー」で展示された=昨年11月、東京都江東区
ルナクルーザーの模型。「ジャパンモビリティショー」で展示された=昨年11月、東京都江東区

宇宙技術と信頼、積み重ねた日本

 月面着陸の決定は、日本が宇宙先進国として高い水準に到達していることを象徴するできごとだ。有人技術とそれによる国際的な信頼を40年にわたり、地道に積み重ねた結果といえる。

 日本人初の飛行士は1985年に3人が選ばれ、訓練を開始した。その1人の向井千秋さんを筆者が取材した際、当時の状況を「NASAから見れば『仕方ない、1人連れていくか』というレベル」と回想してくれたのが印象に残っている。92年に毛利衛さんが、機体の運用に直接関わらない科学者の立場で、米スペースシャトルに日本人として初搭乗。日本はシャトル搭乗を通じ、その後も宇宙実験の水準を高めていった。3人に続いて選ばれた若田光一さんが96年、機体を運用する立場での搭乗にこぎ着けた。

 なお日本人初飛行を果たしたのはTBS記者(当時)の秋山豊寛さん。旧ソ連で宇宙飛行士となり1990年、商業飛行の形で実現している。

 日本が技術を飛躍させた舞台はISSだ。宇宙大国の米露に比べ、ノウハウを持たなかった日本が厳しい技術条件を満たして2009年、ISSの実験棟「きぼう」を完成させた。ISSへの物資補給機「こうのとり」を09~20年、全9回にわたり無事に飛行させた。

 きぼうは米国棟などに比べ不具合が少なく、棟内が静謐(せいひつ)で各国飛行士の評価が高い上に、船外実験や衛星放出の機能も備え、ISSに欠かせない構成要素となった。こうのとりはロボットアームで捕捉してISSに結合、分離する新方式を初めて採用。この方式の安全性の高さを実証し、米国の民間補給機2機種がこれに倣った。こうのとりのISS接近時の通信システムも米民間補給機が採用している。

(左)日本実験棟「きぼう」、(右)ISSのロボットアームに捕捉された物資輸送機「こうのとり」初号機=2009年(いずれもJAXA、NASA提供)
(左)日本実験棟「きぼう」、(右)ISSのロボットアームに捕捉された物資輸送機「こうのとり」初号機=2009年(いずれもJAXA、NASA提供)

 ISS船長に、若田さん(2014年)や星出彰彦さん(21年)が就任。日本人飛行士は地上でも活躍し、NASA管制室で飛行士と直接交信するCAPCOM(キャプコム)を務めることが多く見られるようになった。飛行士育成や管制などの運用技術、管理ノウハウを高めてきた宇宙航空研究開発機構(JAXA)のチーム力も大きい。

 こうのとりを打ち上げたH2Bロケットにみられる輸送技術、また月周回機「かぐや」の成功(2007~09年)や、記憶に新しい「スリム」の月面軟着陸(今年1月)といった宇宙科学の技術も世界の評価を高めてきた。

得意技術を磨き「欠かせない国」に

JAXA宇宙飛行士候補として訓練を続ける諏訪理さん(左)と米田あゆさん。月面に立つ飛行士は未定だが、2人は月面活動を視野に選ばれている=昨年7月、東京都千代田区
JAXA宇宙飛行士候補として訓練を続ける諏訪理さん(左)と米田あゆさん。月面に立つ飛行士は未定だが、2人は月面活動を視野に選ばれている=昨年7月、東京都千代田区

 そして日本人が月に立つ。月面に至るまでのロケットや宇宙船は他国に頼るため、アポロのような一国の独力ではない。しかし国際協力が前提の計画であり、日本が不可欠かつ重要な存在と認知されての実現だ。当然、向井さんが回顧したような黎明(れいめい)期の“連れていってもらう”状況とは本質的に異なる。

 決定の背景には、人種や性別など属性の多様性「ダイバーシティー」を重視する気運の世界的な高まりも感じられる。若田さんがISS船長に就任(2014年)した際には、「日本はISSへの貢献度が大きいわりに、欧州(09年)やカナダ(13年)に比べ就任が遅すぎた」とささやかれた。政府関係者のこれまでの外交努力も大きかったに違いない。

 一方、月上空の基地「ゲートウェー」への日本の貢献は(1)居住棟への環境制御・生命維持システム、熱制御機能、カメラの提供、(2)居住棟などへのバッテリーの提供、(3)物資補給機の運用――が求められている。いずれも日本の得意領域といえる。ルナクルーザーの開発も、自動車産業の強い日本が本領を発揮する展開だ。日本が一国で全ての有人技術を網羅することはハードルが高すぎるにせよ、有人宇宙活動に欠かせない複数の得意技術を今後も磨いていけば、不可欠の国として将来にわたり世界に貢献でき、結果的に外交上の地位も高まるだろう。

 到達点が高ければ、課題もまた大きい。巨額を投じ、日本人は何のために月面に行くのか。これまでも期待が高まり、当事者の動きなどが報道されてきたが、話の大きさのわりに国民的な盛り上がりは今一つだ。有人宇宙活動が将来にわたり実を結ぶためにも、科学技術や産業経済、外交、文化といった多彩な側面で、これから議論が深まることが望まれるだろう。

 月の極域の水を採取し、太陽電池で水素と酸素に電気分解すれば燃料として、将来の月面開発や火星飛行に使えるとの期待が高く、月探査の意義の一つとして説明されている。一方、研究者の中には「資源として利用できるほど、水はないのでは」といぶかる声も聞かれる。これまでの月探査の議論はやや“皮算用”の側面があるともみられ、厳しい検証を重ねながら活動を進めるべきだ。

 アルテミス計画の進捗に伴い、有人活動の関心はISSのような地球低軌道から月、火星へと拡大していくだろう。一方、今後はISSの実績を踏まえ、低軌道の宇宙基地は民間主導で発展すると期待される。3月末でJAXAを退職した若田さんは、米宇宙企業「アクシオムスペース」のアジア太平洋地域の飛行士兼最高技術責任者(CTO)に就任した。低軌道の活動の重要性が色あせることはない。

 日本人は古来、文学などを通じて月を見つめ、感性を研ぎ澄ませてきた。月に降り立った際の第一声は果たして、どんなものになるか。今から楽しみでならない。

アルテミス計画で月面で活動する飛行士の想像図(NASA提供)
アルテミス計画で月面で活動する飛行士の想像図(NASA提供)
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知床で人工林の成長が低下、セミの幼虫を食べるヒグマの掘り返しで 動物による環境影響が明らかに https://scienceportal.jst.go.jp/explore/review/20240405_e01/ Fri, 05 Apr 2024 07:41:52 +0000 https://scienceportal.jst.go.jp/?post_type=explore&p=50815  北海道の知床半島でヒグマがカラマツの人工林の地面を掘り返してセミの幼虫を食べており、掘り返しのために樹木の成長が低下していることが、高知大学などの調査で明らかになった。人の手が入った生態系で動物が新しい行動をし、これまでなかった影響を環境にもたらす事例として注目される。

ヒグマは夏に天然林で草本を食べていた(左)が、2000年以降は人工林でセミ幼虫を掘って食べ、樹木の成長に影響をもたらしている(イラスト・イスキュルの小泉絢花氏、高知大学の富田幹次助教提供)
ヒグマは夏に天然林で草本を食べていた(左)が、2000年以降は人工林でセミ幼虫を掘って食べ、樹木の成長に影響をもたらしている(イラスト・イスキュルの小泉絢花氏、高知大学の富田幹次助教提供)

開拓で天然林を伐採した地域で調査

 高知大学農林海洋科学部の富田幹次助教(動物生態学)は北海道大学生だった2019年~20年、ヒグマの行動が樹木へ与える影響を、知床半島でも観光客が多く訪れる幌別‐岩尾別地域で調査した。

 幌別‐岩尾別地域はもともと天然林が広がっていたが、明治時代以降に開拓が進み、森林が伐採された。1970年ごろから森林を取り戻そうという運動があり、地域住民らが植樹した。ただ、植えたのは在来ではないカラマツなど。現在は人工林や耕作放棄地、広葉樹のミズナラやイタヤカエデ、針葉樹のトドマツなどの天然林が混在した地域となっている。

地面を掘り返すヒグマの親子(高知大学の富田幹次助教提供)
地面を掘り返すヒグマの親子(高知大学の富田幹次助教提供)

 ヒグマの掘り返しはカラマツの人工林で多く、セミ幼虫がほとんどいない天然林ではほぼ見られなかった。ヒグマが食べるセミは、7月下旬から8月上旬に地面から出てくるコエゾゼミの羽化直前の終齢幼虫(体長2、3センチ程度)で、5月ごろから羽化が終わるまで掘り返し行動が見られた。この時期に、カラマツ林でエサをとるヒグマのフンを分析すると15%程度セミの幼虫を食べていた。

羽化したてのコエゾゼミ(高知大学の富田幹次助教提供)
羽化したてのコエゾゼミ(高知大学の富田幹次助教提供)

葉の窒素濃度が低く、年輪幅も小さく

 富田助教は、掘り返しの見られるカラマツ人工林と見られない人工林で、土壌やカラマツの葉、年輪を調査。掘り返しがあると葉の窒素濃度が低く、成長を表す年輪の幅(直径成長率)も小さかった。

 葉の窒素は、植物がエネルギーを生み出す光合成に関わっているとされる。掘り返しによって養分を摂取するための細い根の多くに傷がつき、窒素を葉に届けることができなくなって光合成の効率が下がり、成長できなくなるという仕組みが考えられるという。

調査した項目間の関係図。実線は統計的に有意な影響を示す。掘り返しが葉の窒素濃度の減少を介して直径成長率(年輪の幅)に負の影響を与えているとみられる(高知大学の富田幹次助教提供)
調査した項目間の関係図。実線は統計的に有意な影響を示す。掘り返しが葉の窒素濃度の減少を介して直径成長率(年輪の幅)に負の影響を与えているとみられる(高知大学の富田幹次助教提供)

 「以前は知床のヒグマは夏には天然林の林床に生える草本を食べていたが、増加したシカの採食圧で草本植物の量が減った2000年ごろから人工林でセミ幼虫を掘って食べるようになった」と富田助教。ヒグマは川でサケ、山で木の実を食べ、生態系では川と山との物質循環を担う役割があるとされていたが、セミの幼虫掘りという新しい行動は、生態系の中で樹木の成長に負の影響を与えてしまう役割をもつことが分かった。

 研究成果は、米生態学会誌「エコロジー」に3月1日に掲載された。

温暖化で夏が長くなり、エサは多様化

 北海道でヒグマの研究と調査を30年以上続ける酪農学園大学(北海道江別市)の佐藤喜和教授(野生動物生態学)によると、そもそもヒグマは森を生息地にしている。骨の安定同位体を用いた食性解析によって、明治時代以前のアイヌ民族が暮らしていたころは、シカやサケといった動物質を比較的多く食べていたという。

 それが、1980年代、90年代のヒグマの食性調査では動物質のエサは少なく、草や木の実といった植物質のエサの割合が増加。サケやマスの乱獲、シカの狩猟による減少といった歴史的背景が関わっていると見られる。

 しかし、1990年代後半にシカが爆発的に増え始めると、再びクマはシカを食べるように。当時は、狩猟や駆除後に放置された死体や冬を越せず餓死したシカを食べていたが、2010年頃からはシカの出産期にあたる6月に生まれたてのシカを襲って食べていることが分かった。

 現在は江戸時代以前と同じく、「ヒグマがシカを食べるようになってきているが、その状況は昔と違うと考えられる」と佐藤教授は話す。以前は冬眠明けに森の中の下草を食べることはできたが、シカが増えた現在はエサの下草を巡る競争が生じている。

 その上、温暖化が問題になっている昨今では、春の芽吹きが早くなることで、草が枯渇しがちな酷暑となる夏が長くなる。近年では5~7月には、セミ幼虫をはじめ、アリや牧草を食べ、ツキノワグマのように木の皮を剥いで食べるなどし、8月にはトウモロコシ畑に出没して農林被害を出すなど、これまでにないエサの多様化が進んでいる。

セミ幼虫がいるカラマツ林で地面を掘り返すヒグマの親子(高知大学の富田幹次助教提供)
セミ幼虫がいるカラマツ林で地面を掘り返すヒグマの親子(高知大学の富田幹次助教提供)

管理は生態系のつながりを考慮すべき

 市街地で生ゴミなどをあさるアーバンベアや田畑を荒らす害獣のヒグマの管理が近年注目される。ただ、出てきたクマを駆除するだけでは「春から夏にかけては分散する中でどこに行くか迷った若いオスが、夏から秋のエサ不足の中ではオスメス親子の区別無く、別のクマが出てくるだけでしょう」と佐藤教授は話す。

 人工林や田畑、市街地など自然に人の手が加えられていく中、生態系への影響を考慮した管理でなければ、動物の行動変容が生態系に思いがけない帰結をもたらし、期待した効果を得られない恐れがあるだろう。

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紅麹サプリの健康被害拡大 小林製薬と政府、対応に追われる 不安払しょくへ機能性食品を緊急総点検 https://scienceportal.jst.go.jp/explore/review/20240401_e01/ Mon, 01 Apr 2024 08:16:05 +0000 https://scienceportal.jst.go.jp/?post_type=explore&p=50769  小林製薬(大阪市)の「紅麹(こうじ)」成分を含むサプリメント(サプリ)との関係が疑われる健康被害が拡大している。報告される死者や入院患者数は増加傾向にあり、事態の深刻さが増している。問題のサプリ原料から青カビ由来の「プベルル酸」が検出された。だが被害との詳しい因果関係は依然はっきりしない。問題の商品が属する「機能性表示食品」だけでなく、広く健康関連商品に対する不安が広がっている。

 厚生労働省や消費者庁などの政府関係省庁は事態を重視し、約7000件の届け出があった機能性表示食品の緊急点検を始めたほか、関係省庁連絡会議を開くなど対応に追われている。同省と大阪市は3月30日に紅麹原料を製造していた小林製薬大阪工場(同市淀川区)を、31日に和歌山工場(和歌山県紀の川市)を、それぞれ食品衛生法に基づく立入検査を実施した。

 健康への効能を表示できる「保健機能食品」として、「栄養機能食品」「特定保健用食品」に続いて2015年から届出だけで販売できる機能性表示食品が加わった。機能性表示食品に関連した健康被害が出たのは初めてだ。国民の健康志向の高まりを受け、ドラッグストアなどでは同食品であることを表記した健康サプリが並び、売り上げは目立って増加している。

 今回ヒット商品で被害が出た。消費者の不安を払しょくするためにもまず、小林製薬や厚労省は原因物質が「プベルル酸」なのか、第3の物質かなど、早急に、詳しく原因を究明することが求められている。そして全ての機能性表示食品、さらに多種多様なサプリがある健康関連商品の安全性の確認も急がれる。

大阪市から回収命令が出た小林製薬の左から「ナイシヘルプ+コレステロール」「ナットウキナーゼさらさら粒GOLD」「紅麹コレステヘルプ」の3商品(消費者庁リコール情報サイトから、同庁提供)
健康被害が疑われる小林製薬の「紅麹コレステヘルプ」3種商品(小林製薬提供)

摂取後死亡5人、入院110人超える

 厚労省と小林製薬によると、4月1日正午までに小林製薬から同社のサプリ3製品との関連が疑われる5人の死亡例が報告された。このうち判明した属性分は70~90代の男女。摂取後に入院した人は114人に上るという。同社によると、昨年9月以降に製造された「紅麹コレステヘルプ」を摂取した人に腎疾患などの健康被害が偏っている。

 厚労省は「有害物質が含まれている疑いがある」と判断。小林製薬本社がある大阪市に対し、必要な措置を取るよう通知した。同市は3月27日、食品衛生法に基づいて自主回収対象3商品の回収命令を出した。3商品は「紅麹コレステヘルプ」と「ナイシヘルプ+コレステロール」「ナットウキナーゼさらさら粒GOLD」。「紅麹コレステヘルプ」だけでもこれまでに約100万個が販売されているという。

 大阪市によると、問題の3商品の流通量は多く、回収には数カ月程度かかるとみられているが、回収後は改めて廃棄命令を出す方針だ。同市はまた、小林製薬に対し原因究明の調査状況や健康被害情報のほか、紅麹原料の販売状況、製造工程に関する情報などの報告を求めている。

 林芳正官房長官は3月27日の記者会見で「今回の事案は機能性表示食品の安全性に対する疑念を抱かせる深刻なものだ」と述べた。政府は同日午後に政府内の連携を緊密にするため、厚労、農林水産両省と消費者庁などが関係省庁連絡会議を開いた。この場では被害情報などの共有を徹底し、対応を速やかに進めていくことを確認した。今後も消費者庁が事務局を務めて適宜会議を開催し、検討結果を順次公表するという。

 岸田文雄首相も28日開かれた参院予算委員会で「原因を明らかにし、必要ならあらゆる対応を検討しなければならない」と述べた。

厚生労働省が入った中央合同庁舎第5号館(東京都千代田区霞が関)

急がれる機能性表示食品の安全確認

 消費者庁によると、特定保健用食品(トクホ)は健康の維持に役立つことを科学的根拠に基づいて国が認可する。「コレステロールの吸収を抑える」といった明確な効果表示が許可されている。これに対し、機能性表示食品は、企業などが食品の安全性と機能性に関する科学的根拠などを国に届け出れば「お腹の調子を整えます」「脂肪の吸収をおだやかにします」などと企業の責任で機能性を表示できる。「機能性表示食品制度」の下で販売されるが、トクホとは異なり安全性と機能性を巡る国の審査は行われず、必要とされる要件も緩い。

 機能性表示食品制度は当時の安倍晋三政権が「経済成長戦略」の一環として2015年4月に始めた。トクホは許可を得るために製品を人間が摂取した試験が必要だが、同食品はこうした試験は不要だ。大幅に規制が緩和された制度に基づく商品と言える。このため同食品の市場は年々拡大し、消費者庁によると現在届け出件数は約7000件、民間の調査では市場規模は7000億円とも言われる。

 その一方で安全の確認は企業任せで、 市場に不適切な商品が出回っても国の監視は事実上「事後チェック」になる。また商品や広告の表示もトクホとの違いが不明瞭なケースが多い。今回問題になっている小林製薬の商品も「悪玉コレステロールを下げる。L/H比を下げる」と具体的な効能を示す表示が記載されていた。

 自見英子消費者相は3月26日の記者会見で「機能性表示食品に対する疑念を抱かせており深刻だ」と翌日の林官房長官と同じ認識を示した上で「(処方が明確な)医薬品と異なり、過剰摂取の恐れもある。それだけに被害が急速に拡大する」「機能性表示食品制度全体を検討する必要がある」と述べている。

3月26日に記者会見する自見英子消費者相(消費者庁での記者会見動画から、同庁提供)

問われる製薬企業の対応

 厚労省や消費者庁によると、小林製薬が自社の紅麹関連商品との関連が疑われる被害事案の発生把握から使用停止呼びかけに2カ月超を要した。同社や厚労省によると、同社が医師からの通報で健康被害の可能性を知ったのは1月15日。2月上旬には腎疾患の症例を複数把握していたという。自見消費者相も会見で「小林製薬は1月に情報を入手しながら(関係省庁への)報告まで2カ月も経過し、同社からの報告は同社の会見の直前だった」と遺憾の意を表明している。

 小林製薬が製造した紅麹原料は自社のサプリ用のほか、食品の着色や風味付け用として企業向けに販売していた。厚労省は情報提供の遅れが被害の拡大を招いた恐れがあり、原料を供給した企業への連絡も後手に回ったとみている。消費が拡大している機能性表示食品に対する信頼も揺らいでいる。同社は当初、海外で被害の報告事例がある有毒物質やアレルギー反応に関する他の原因物質を探っているうちに時間が経過。結局3月22日になって急きょ公表した。

 原因究明ができないまま、使用停止を呼びかけるという最悪の事態になった。紅麹原料を供給していた飲料や食品メーカーなど取引企業への連絡も遅れた。小林製薬の小林章浩社長は3月29日の記者会見の冒頭「今回の件が深刻な社会問題になったことに対し深くおわび申し上げる」と述べ、公表が遅れたことを22日の会見に続いて再び謝罪した。紅麹を食品原料として直接供給を受けたのは50社を超え、この原料を使った製品を扱う企業は170社以上という。

小林製薬の紅麹を原料とする商品の使用中止を呼び掛ける「お願い」(消費者庁/厚生労働省/農林水産庁提供)
3月28日に開かれた薬事・食品衛生審議会調査会と健康被害情報対応作業部会の合同会議で配布された厚生労働省対応の一部を示す図(厚生労働省提供)

情報提供、公開の徹底を

 全国の多くの医療施設には問題の紅麹を使った製品を摂取している人だけでなく、他の健康サプリを広く、多く摂取している人からも問い合わせがあるという。健康被害が強く疑われている腎疾患は症状がかなり進行しないと自覚症状が出ない。「沈黙の臓器」と言われる腎臓に自覚症状が出た時はかなり深刻な状態と言える。

 腎臓の専門医などが加入する日本腎臓学会(南学正臣理事長)は、会員医師に向けて「紅麹成分配合のサプリメントを摂取した人から急性腎障害等の腎障害を含む健康被害が相次いで報告されている」として診療現場で該当する患者が受診する可能性があるとホームページで注意を喚起したほか、会員医師に健康被害が起きた患者の情報提供を求めている。

 蒸した米にカビの仲間の紅麹菌を繁殖させてつくられる紅麹は古くから食品の着色料などに使われてきた。紅麹そのものが「悪さ」をするわけではない。今回、製品管理に厳格なはずの製薬会社が機能性能性表示食品で初めての健康被害を出してしまった。

「プベルル酸」検出も腎臓への影響は不明

 今、最も求められているのは、なぜ死者を含む多数の健康被害を出したのか、についての徹底した原因究明だ。原因物質について小林製薬は3月29日の記者会見で「環状構造の物質が疑われる」などと曖昧な説明をしていた。しかしこの会見途中に厚労省が「健康被害との関連はまだはっきりしないがプベルル酸が検出された」と具体的な物質名を明らかにした。このため会見場では記者の厳しい追及を受ける場面もあった。会見は約4時間半に及び、同社の情報公開の在り方に疑問を抱かせる形になった。

 厚労省は小林製薬の調査データの提供を受けながら国立医薬品食品衛生研究所(国立衛研、川崎市)を中心に原因究明に当たる方針だ。3月29日の記者会見で小林製薬の担当者は「製造工程で何らかの成分が入ったようだ。今後は調査データを国の研究所に提供しながら原因を究明していきたい 」と述べ、原因調査が厚労省や国立衛研主導で行われることを明らかにした。

 国立衛研は1874年に医薬品試験機関として官営の「東京司薬場」として発足した国内で最も長い歴史を持つ国立試験研究機関。医薬品・医療機器や食品、化学物質などの安全性、有効性についての調査・研究や主管官庁の厚労省の薬事行政関連の調査などを行っている。

 同省によると、プベルル酸は天然化合物で、抗生物質としての特性がある一方、強い毒性もある。問題の3商品には本来は含まれていない。腎臓への影響や腎疾患との関連はまだはっきりしないという。現在、他に可能性がある原因物質はないかなど、国立衛研を中心に詳しい検証作業が続いている。

川崎市にある国立医薬品食品衛生研究所(国立医薬品食品衛生研究所提供)

広く健康関連商品の在り方再検討を

 高齢化社会が進み、誰でも長く健康でいたいと願う。若い人や働き盛りの人の間でも健康志向が高まっている。今後も医薬品とは異なる身近な健康関連商品に対するニーズは減らないだろう。消費者庁は「『機能性表示食品』って何?」と題したサイトの中で「たくさん摂取すれば多くの効果が期待できるというものではありません。過剰な摂取が健康に害を及ぼす場合もあります」などと記している。

 「健康食品」という言葉がよく使われる。しかし法律上の定義はない。今回問題になっている機能性表示食品はトクホや栄養機能食品、さらにビタミンやアミノ酸など、多種多様なサプリが市場に出ている「栄養補助食品」「健康補助食品」とも異なる。一口に健康食品、健康サプリと言っても実に多種多様で法規制の有無も異なるが消費者からすると実にまぎらわしい。

 私たち消費者は「健康にいいだろう」と気軽に、安易に摂取しがちだ。自見消費者相は現行機能性表示食品制度の再検討に意欲を示した。政府は機能性表示食品だけでなく、さまざまな健康関連商品の分類や規制の在り方も検証し、必要に応じて見直してほしい。消費者としては今後の小林製薬や政府の対応を見届けながら、広く出回っている健康サプリなどの製品を正しく、効果的に使う方法を考え直す機会にしたい。

機能性表示食品を説明する消費者庁のサイトの1ページ(消費者庁提供)
機能性表示食品などの分類を示す図(機能性表示食品を説明する消費者庁のサイトから、同庁提供)
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《JST共催》水の豊かさを未来へ 「無理せずできること」を各自で考えよう サイエンスアゴラ in 信州 https://scienceportal.jst.go.jp/explore/reports/20240322_e01/ Fri, 22 Mar 2024 05:36:11 +0000 https://scienceportal.jst.go.jp/?post_type=explore&p=50684  3月22日は国連が定めた「世界水の日」。おいしい安全な飲み水をこれからも確保するために、私たちに何ができるのだろうか。日本有数の水都、長野県松本市で9日、信州大学と科学技術振興機構(JST)が共催し『サイエンスアゴラ in 信州「最先端の水研究に触れてみよう!」』と題したイベントを開いた。長野の水源のでき方や、マイボトルを持って出かける取り組み、水を使った酒造りなど、水の保全に関する様々な活動を紹介。子どもたちは水素ロケット作りなどの実験に参加し、水と科学の関わりを体感していた。

利き酒ならぬ「利き水」をする子ども。松本の水や、硬水、水道水など5種類を試した。産地によって味の違いがでていたようだ(筆者撮影、以下同)
利き酒ならぬ「利き水」をする子ども。松本の水や、硬水、水道水など5種類を試した。産地によって味の違いがでていたようだ(筆者撮影、以下同)

 トークセッションのファシリテーターは、信州大学で「信大クリスタル」という水ろ過技術を確立した同大大学院総合理工学研究科の手嶋勝弥教授と、サイエンスアゴラ推進委員で産業創造支援会社、SUNDRED(東京都渋谷区)の上村遥子さんが務めた。手嶋教授はアコーディオンのような形状をした層状複水酸化物で大量に存在すると有害な陰イオンを、三チタン酸ナトリウムで重金属イオンを取り除く技術を持つ。これを利用した水ステーションを松本市や長野市、茅野(ちの)市に設置し、国外では遠く離れたアフリカのタンザニアでも「飲んで安心な水」づくりに励んでいる。

トークセッションに参加した(左上から)手嶋勝弥教授、上村遥子さん、大塚勉名誉教授、(左下から)岡澤有実子さん、関晋司さん、冨成和枝さん
トークセッションに参加した(左上から)手嶋勝弥教授、上村遥子さん、大塚勉名誉教授、(左下から)岡澤有実子さん、関晋司さん、冨成和枝さん

 まず登壇したのは、地質学が専門で、NHKの『ブラタモリ』で案内人を務めたことがある大塚勉・信州大学名誉教授。大塚名誉教授は長野県にはわさび田や松本城のお堀など多くの水が存在していることを紹介した上で「この水はどこから来たのでしょうか」と問いかけた。長野県は面積が1万3560平方キロメートルと全国4位の広さで、盆地と標高の高い山、扇状地でできている。

 大塚名誉教授によると、地下の活断層によって盆地ができ、山から土砂が流入して扇状地ができる。盆地の堆積物は水を多く含むため、活断層の動きによって地下水が押し上げられ、湧き水として市民が利用できているというメカニズムを話した。その上で「水がめの量は有限」と、水を大切にするよう訴えた。

 続いて、国内外の水の流通について研究している三菱総合研究所の岡澤有実子さんがオンラインで「水不足のリスク」について解説した。水は水力発電や、下水をモニタリングすることによって感染症の流行度合いを測れるといったメリットがあるものの、マイクロプラスチックを海に流出させるなどリスクも抱える。日本は一見、水に恵まれているようで、その大半が地形のために貯められずに海に流れ出ている。

 その上、食料の多くを輸入に頼っていることから「もし日本で自国の食料をまかなったとしたら年間640億立方メートルの水が必要となる」という驚異的な数字を挙げた。そして、「20世紀は石油を巡る戦争、21世紀は水を巡る戦争の時代」と語った世界銀行元副総裁のイスマイル・セラゲルディン氏の言葉を引用し、「水をきれいにすることに加え、貴重さを訴えていく必要がある」と警鐘を鳴らした。

 最後に信州の豊かな水を使った製造業から、日本酒を造る丸世酒造店(中野市)の関晋司さんと、ビールを生産するIn a daze Brewing(イナデイズブルーイング 、伊那市)の冨成和枝さんが自社製品と共に登壇。2人とも、おいしくてきれいな水が酒造りには欠かせないことを実感していると述べたうえで、今回のアゴラのような水を大切にしたいと意識できるようなイベントは大切だと話した。

トークセッションでは、水の持つ様々な活用法について意見が交わされた。会場は主に大人が参加していたが、中には小さい子どもの姿もあった
トークセッションでは、水の持つ様々な活用法について意見が交わされた。会場は主に大人が参加していたが、中には小さい子どもの姿もあった

 トークセッション中、話者の机にペットボトルは一切なく、各自マイボトルやコップで水を飲んでいた。手嶋教授は「おいしいから水道水を飲もう」「再利用水への抵抗を減らす」という行動変容ができるといいとした一方で、「水道水がおいしければ(マイボトルを持ち歩くことで)ペットボトルは減らしていける。でも我慢して水道水を飲もうというアクションでは続かない。例えば携帯電話を止めて電気を使わないことは環境に優しいけれど、それは(我慢を強いることになるので)違う」と持論を展開した。

トークセッションの内容は、グラフィックレコーダーの中嶋伸恵さんのイラストで分かりやすくまとめられた。できあがったポスターを写真に収める参加者が多数いた
トークセッションの内容は、グラフィックレコーダーの中嶋伸恵さんのイラストで分かりやすくまとめられた。できあがったポスターを写真に収める参加者が多数いた

 手嶋教授は日頃、マイボトルを持って出掛け、おいしい水を楽しむことができる場所を増やすことをモットーにしているため「僕はもうペットボトルは買えない」と会場の笑いを誘い、「お茶やコーヒーはおいしさの追求だからペットボトルでも良いが、水は水道水を飲めると良い」と締めくくった。

 熱心に聞き入っていた松本市の男性会社員(61)は「水力発電はカーボンオフセットの面からも大切だと分かった。大学は学ぶだけの場所だと思っていたが、研究を事業として収益化を図るチャレンジもしていて、時代が変わったなと感じた」と感心していた。

水素を充填してロケットとして飛ばす実験に参加した子どもたち。ゾウの的に向かって発射ボタンを押すと、勢いよくロケットが発射した
水素を充填してロケットとして飛ばす実験に参加した子どもたち。ゾウの的に向かって発射ボタンを押すと、勢いよくロケットが発射した

 会場ではトークセッションのほか、水素ロケットを自ら作って飛ばす子ども向けの実験イベントや、松本市の水や信大クリスタルでろ過した水、フランスの硬水を飲み比べる「利き水選手権 自分にとってのおいしい水を調べてみよう」という体験型イベントが開催された。信州大学の水に関する研究成果のブースも出され、多くの人が興味を持って見ていた。

 長野県歌「信濃の国」には「流れ淀まずゆく水は 北に犀川(さいがわ)千曲川 南に木曽川天竜川 これまた国の固めなり」という一節がある。日本を様々な角度から支える水を守るために、マイボトルで出かけるなど、小さな心がけを日々続けたい。

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房総半島沖でスロースリップ現象を確認 今後千葉県沖で震度5弱程度の地震に警戒を https://scienceportal.jst.go.jp/explore/review/20240312_e01/ Tue, 12 Mar 2024 06:38:00 +0000 https://scienceportal.jst.go.jp/?post_type=explore&p=50618  千葉県付近で2月下旬から地震が相次いでいる。政府の地震調査委員会や気象庁は「今後も震度5弱程度の強い揺れが観測される可能性がある」と警戒を呼びかけている。注目されているのは主にプレート境界付近の断層がゆっくり動く「スロースリップ」の現象だ。国土地理院は3月1日に房総半島沖で検出したと発表。「相次いでいる地震はこの現象が誘発しているとみられる」との見解を示した。

 地震の専門家はスロースリップ現象による地震の頻発が首都直下地震などの大地震の引き金になるとは見ていない。だが首都圏に近いところで観測された地殻変動はやはり不気味だ。首都直下地震などの大地震に限らず、活断層型の地震はいつ、どこで起きても不思議ではない。今後も発生が予想される千葉県付近の地震に注意しつつ、自分たちでもできる身近な「備え」を徹底したい。

房総半島沖で推定されるスロースリップの分布図(国土地理院提供)
房総半島沖で推定されるスロースリップの分布図(国土地理院提供)

プレート境界面で地殻変動続く

 国土地理院の1日の発表によると、房総半島の電子基準点の観測データに2月26日ごろから「非定常地殻変動」と呼ばれる、通常とは異なる地殻変動が検出された。この変動は房総半島が載る陸側のプレートと、その下に沈み込んでいるフィリピン海プレートの境界面で発生している。

 2月28日までのデータの解析から房総半島沖のプレート境界面上で推定最大約2センチメートル南東方向に動いたとした。相次ぐ地震はスロースリップ現象によるものと考えられるという。

 国土地理院が解析に用いたのは「GNSS測量」と呼ばれる2つ以上の測定機材で同時測定する方法だ。人工衛星から送られる電波信号が測定機材に到達する時間の差を測って2点間の位置関係を求める。同院では全国約1300カ所に電子基準点を設置。茨城県つくば市にある「GNSS連続観測システム中央局」と連携して地殻変動を常に監視している。

 千葉県付近では今回以前に1996年、2002年、2007年、2011年、2014年、2018年の計6回、同じような場所でこの現象による地震が頻発し、いずれも1週間から数カ月地震活動が継続している。つまり地震頻発を誘発するスロースリップ現象は今回が初めてではない。今回を含め6回を数える発生間隔は、それぞれ77カ月、58カ月、50カ月、27カ月、53カ月で今回は68カ月。つまり3年近くから6年半程度の頻度で発生しているわけだ。

 過去6回のスロースリップ現象では房総半島を中心とした領域で非定常地殻変動がそれぞれ約10日間観測されている。国土地理院は非定常地殻変動は現在も継続していると指摘。引き続き、この地殻変動を注意深く監視するとしている。

房総半島の地殻変動(暫定)(国土地理院提供)
房総半島の地殻変動(暫定)(国土地理院提供)
過去のスロースリップ現象による主な地震と震央を示す図(政府地震調査研究推進本部提供)
過去のスロースリップ現象による主な地震と震央を示す図(政府地震調査研究推進本部提供)

巨大地震との関係はまだよく分かっていない

 政府の地震調査研究推進本部などによると、通常の地震はプレート運動などによって地下のプレートに蓄積された「ひずみエネルギー」が断層運動によって解放される現象だ。断層が高速でずれ動くと蓄積されたひずみエネルギーが解放され、地震波を放射する。

 一方、スロースリップ現象による地震はプレート境界の断層がゆっくり動く。多くの場合は揺れを感じないが、わずかな地殻変動や通常より周期が長い地震波を放出する低周波微動がとらえられることがある。また房総半島沖の一連の現象のように有感地震を伴うケースもある。この現象による地震(スロー地震)は房総半島沖のほか、四国沖、九州の日向灘などで観測されている。このタイプの地震で大きな被害が出るケースはなかったが、2007年には震度5弱の地震を観測しており、今回も同程度の揺れに注意が必要だ。

 この現象には短期的スロースリップと長期的スロースリップがあり、短期的なケースは数日間かけて、長期的ケースは数か月から数年かけてプレート境界がゆっくりすべり、東海地方や四国地方で過去に繰り返し発生していたと考えられている。

 ここで気になるのは南海トラフ巨大地震など甚大な被害を出す巨大地震との関係だ。スロースリップ現象は巨大地震の発生メカニズム解明のための研究対象として注目されているが、最も気になる巨大地震との関係は現在の知見では未解明だ。つまりこの現象による地震の頻発が巨大地震の引き金になるのか、逆にたまったひずみが穏やかに解消されて巨大地震の危機は遠のくのかは、残念ながらよく分かっていない。

 ただ、2011年3月11日に東日本大震災をもたらした東北地方太平洋沖地震ではマグニチュード(M)9.0の本震の2日前に前震(M7.3)が発生し、この後にスロースリップ現象が起きて、それが本震の破壊開始点に向かって移動。これが断層破壊を促進させた可能性があることがこれまでの研究で示されている。

スロースリップ現象による地震(スロー地震、一番下の図)を大地震(普通の地震、真ん中の図)や通常の状態(一番上の図)と比べた概念図(政府地震調査研究推進本部提供)
スロースリップ現象による地震(スロー地震、一番下の図)を大地震(普通の地震、真ん中の図)や通常の状態(一番上の図)と比べた概念図(政府地震調査研究推進本部提供)

解明に向けさまざまな研究で挑戦続く

 スロースリップ現象に対する研究は1990年代から始まったが、盛んになったのは観測技術が進歩した2000年代に入ってからだ。日本だけでなく世界中のプレート境界でこの現象の検出報告が相次いだ。東日本大震災の前にこの現象が起きていたことが分かり、さまざまな研究機関による調査研究に拍車がかかった。

 海洋研究開発機構(JAMSTEC)は国際深海科学掘削計画(IODP)の一環として地球深部探査船「ちきゅう」を運用して2007年から19年まで長期にわたり紀伊半島沖や高知県室戸岬沖で掘削調査を続けた。一連の調査には東京大学や産業技術総合研究所、筑波大学なども参加している。07~08年に実施された研究航海では海底下400メートルを超える南海トラフの沈み込み付近でプレート境界断層の「コア試料」を採掘。試料の解析から津波を生じさせる高速すべりの痕跡を確認した。

 「ちきゅう」は2016年に室戸岬沖の南海トラフで海底下700メートル超のプレート境界断層をも貫通する掘削作業を実施した。地下深部で流体が噴出する様子を撮影することに成功し、プレート境界に厚さ数十メートル、水平方向数百メートルの広がりを持つ高圧の“水たまり”があることを突き止めている。JAMSTECは一連の調査研究から研究対象の海底では高速のすべり現象の後に低速のすべり、つまりスロースリップ現象があったとの見解を示した。

 このほかにも京都大学や神戸大学、九州大学などがこの現象の解明に向けてさまざまな調査研究を行い、新たな成果を発表している。京都大学防災研究所などの共同研究グループは「日本海溝海底地震津波観測網(S-net)」など多くの地震観測データを活用して、日本海溝付近のスロースリップ現象が東北地方太平洋沖地震の拡大を阻止したとの興味深い研究成果を2019年8月に発表した。この現象がなかったら地震規模はさらに大きかったとの見方だ。

 神戸大学はまた、豊後水道や房総半島沖などで発生したこの現象に関するデータを解析し、発生前後のプレート境界付近のゆがみの蓄積と解放とに関する貴重なデータを2023年2月に発表している。

地球深部探査船「ちきゅう」(JAMSTEC提供)
地球深部探査船「ちきゅう」(JAMSTEC提供)
スロースリップ現象発生帯付近の掘削調査の概念図(JAMSTEC提供)
スロースリップ現象発生帯付近の掘削調査の概念図(JAMSTEC提供)

今後の経過は不明だが注意は必要

 政府の地震調査委員会は1日に臨時会合を開き「今後も(千葉県東方沖を震源とする)震度5弱程度の強い揺れが観測される可能性がある」との評価をまとめた。この根拠は2007年のスロースリップ現象による地震では最大震度5弱を観測しているからだ。

 これまでの房総半島沖、千葉県付近を震源とするスロースリップ現象による地震の最大エネルギーはM5程度だ。ただ、今回一連の地震が発生しているエリアは南側からフィリピン海プレートの下に東側の日本海溝から太平洋プレートが沈み込んでいる。このエリアは地震調査研究推進本部による「相模トラフ沿いの地震活動の長期評価」の対象で、M7程度の大きな地震の「30年以内の発生確率は70%」だ。

 多くの専門家はスロースリップ現象では、すべった部分のひずみは解消しているがその周辺のひずみによるストレスまでは解消されずに溜まっているとみている。地震調査委員会の平田直委員長(東京大学名誉教授)は会合終了後の取材に「地震活動が今後どのような経過をたどるかどうか分からない」としている。

 現在頻発している千葉県付近の地震。専門家は巨大地震が切迫しているとは言っていないが、いずれ来る大地震、巨大地震と無関係と断定もしていない。現在の地震学ではまだ未解明なことが多い。過去の大地震では「想定外」のことが度々起きている。一連の頻発地震を可能な限り地震被害を低減するための警告と受け止めたい。

日本列島周辺のプレート(政府地震調査研究推進本部提供)
日本列島周辺のプレート(政府地震調査研究推進本部提供)
(政府地震調査研究推進本部提供)
(政府地震調査研究推進本部提供)
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最先端の統計手法を駆使し、データに基づいて感染症を制する 塩田佳代子さん https://scienceportal.jst.go.jp/explore/interview/20240308_e01/ Fri, 08 Mar 2024 06:40:25 +0000 https://scienceportal.jst.go.jp/?post_type=explore&p=50594  近年、情報化が進む中で公衆衛生などの医療分野でもデータに基づく意思決定がますます重要になっている。最先端のベイズ統計の手法を駆使した研究で感染症対策に貢献し、人々の健康を守っている米ボストン大学公衆衛生大学院アシスタントプロフェッサーの塩田佳代子さんに、データに基づく感染症対策について話を聞いた。

2023年9月米国会議事堂にて、理工系分野で活躍する女性(Women in STEM)の代表としてSTEM分野に進む女性を増やしサポートするにはどうすれば良いか日米の国会議員たちと議論した(塩田さん提供)
2023年9月米国会議事堂にて、理工系分野で活躍する女性(Women in STEM)の代表としてSTEM分野に進む女性を増やしサポートするにはどうすれば良いか日米の国会議員たちと議論した(塩田さん提供)

コロナ禍の中でいち早く信頼できるデータを示す

―感染症といえば「新型コロナ」が記憶に新しいです。流行・対策の状況などのデータを示すのにも統計的な処理が必要と思いますが、塩田さんはコロナ禍に対してどのような研究をされたのでしょうか。

 まだワクチンが開発される前、2020年夏頃に累計感染者数を推計するプロジェクトに取り組みました。感染者を見積もるのによく使われる手法は抗体価の調査です。当時、私たちのチームは米国立衛生研究所(NIH)の助成金を得て全米50州の抗体価調査を行い、その中でコロナウイルスの抗体は時間と共に減少していくことを見いだしました。たとえば、ある時点で全体の30%の人が抗体を持っていたとしても、実際に感染した人はそれ以上いると分かってきたのです。

 感染した直後の抗体価の増加データはありましたが、長期的な減衰については調査研究が進められているところで、データがそろうまで何カ月もかかる状況でした。パンデミックの中では、いかに早く信頼できる科学的エビデンスを示せるかが非常に重要です。コロナの死亡率を推定するにしても母数が分からなければならず、「何人が感染したのか」をいち早く知る必要がありました。そこで、米疾病予防管理センター(CDC)の2週間ごとの抗体調査データを用いて、集団レベルでどのくらい早く抗体価が減衰するのかを推定しました。

―その推定にベイズ統計を用いられたのですね。

 はい。抗体価と死亡者数の時系列データをもとに、感染した人がどのくらいの期間抗体陽性になるのかを推定しました。抗体価が減衰する平均期間を90日、100日などと仮定してシミュレーションし、実際のCDC調査のデータに合致する日数を探し出しました。日数の大きい/小さい順に調べるのではなく、2日や1000日、30.0197日など1日刻みより細かい値も含めて検証し、より実際のデータに近づく値を探していく方法をとります。何百万回も試行して一番データに近づく収束値、つまり集団レベルで抗体値が減衰する期間を見つけました。そして、この値を使って抗体調査のデータを補正することで、これまでに感染した累積の人数を推定することができました。

実際の抗体調査データから見積もった感染率(青線)に対して、抗体の減少を加味して見積もった累積の感染率(赤線)を見ると日を追うごとに感染した人の数が増えていたことが分かる(塩田さん提供資料から作成)

 このときの研究では、集団を構成する人々の中でどのくらい早く抗体がなくなるかというデータの分布を予測する必要がありました。そういうことができるのがベイズ統計の特徴です。ベイズ統計自体は昔からありましたが、コンピューターの性能が圧倒的に足りていなかったために広くは用いられていませんでした。コンピューターの処理速度が上がったことで、普通のラップトップでベイズ統計を扱えるようになりました。公衆衛生も含め多くの分野でベイズ統計が用いられている現状には、IT技術の進歩が大きく寄与していると思います。

「もしも」の世界と現実を比較する

 もう一つ、イェール大学での博士課程の頃の研究についてお話ししましょう。この研究では子どもの命に関わる感染症の一つである小児肺炎球菌を対象とし、ワクチンの効果を評価するために「ある国で小児肺炎球菌ワクチンを導入しなかった場合、肺炎球菌感染症に何人がかかったか」を推定するベイズ統計モデルを開発しました。この「実際には起こらなかった出来事」は「反事実」といい、「事実」と比較することで因果関係を推理するのです。

「もしも」の世界と現実の比較(出典:Science Window 2024年冬号 24頁「ミニ知識 ワクチンは何人を救ったか?」)
「もしも」の世界と現実の比較(出典:Science Window 2024年冬号 24頁「ミニ知識 ワクチンは何人を救ったか?」)

―「もしも」の世界と現実を照らし合わせてみるということでしょうか。

 そうです。単純にワクチン導入前後の平均感染者数や死亡者数を比較するだけでは、たとえばたまたま感染症が流行していない時期だったのか、ワクチンの効果が出ているのかの区別はできません。また、特に低・中所得国では上下水道の整備で公衆衛生状況が日々改善されるなど、ワクチン以外の要因でも多くの感染症が減ってきています。逆に新しい病院が建設され医療へのアクセスが改善することで、結果的に観測される症例数が増えるということもあるのです。

 ただ、こういった社会的な要因はさまざまな疾患におしなべて影響を与えるので、肺炎球菌感染症以外のがんや心臓病といった病気などを比較対照として、その減少(増加)傾向から反事実を推定することができます。世界保健機関(WHO)が定めている国際疾病分類(ICD-10)で管理されている医療機関の診療データを分析するのですが、比較対照の候補はけがや交通事故、がんや心臓病、皮膚病、神経系疾患など何百種類もあり、どれが主要なものかを客観的に判断することは難しい課題でした。

 そこで、経済学の分野で使われていた合成コントロール法(Synthetic control method)という主要な変数(比較対照とする病気など)を見極めて重み付けする統計モデルを使ったり、それをさらに応用させたベイズ統計モデルを開発したりしました。これらのモデルを使ってワクチンを導入していなかった場合に肺炎球菌感染症にかかった子どもの数を推定し、実際の患者数と比較して「ワクチンを導入して約4500人の子どもの命が救われた」というように評価することができるようになりました。

―ワクチンを導入する前の臨床試験でも効果を確認しているはずですが、なぜ導入後の評価が必要なのか教えてください。

 様々な理由があります。ワクチン導入前の臨床試験の多くは、高所得国で限られた集団に対して短期間で行われます。高所得国で得られたデータに基づいて、同じワクチンを低・中所得国に導入することがよくあるのですが、そのときに低・中所得国では効きにくくなることがあります。たとえば日本やアメリカでは85%の症例が減ったのに、同じワクチンをアフリカ諸国に導入したら10~40%しか減らなかった、ということもあります。

 低・中所得国では低栄養状態の子どもが多かったり衛生状況が良くなかったりするために、生まれてから非常に多くのウイルスや細菌にさらされ続けているということも原因と考えられます。防弾チョッキを着ていれば1、2発の銃弾は防げますが、仮に100発打たれたら防ぎきれないようなものです。

 また、同じワクチンを使っていると耐性を持つ変異株が出てくることもあります。本当に効き続けているのか、モニタリングすることも重要です。このとき開発した統計モデルを用いて、WHOと共同で中南米の20以上の国や地域でワクチンの評価をし、各国のワクチン政策につなげてきました。

責務を全うしながら、自分のやりたいことを追求する

―塩田さんの今後の抱負や研究への想いを教えてください。

 直近の目標は、CDCが組織する数理モデルの研究機関・研究者の全米ネットワーク「インサイトネット」の一員としての責務を全うすることです。前回のコロナ禍に際しては国レベルの統制が十分ではなかったという反省に基づいて、将来のパンデミックに備えて、よりクリアにより早く、より協力して対応できるようにという取り組みです。非常時における政策決定や適切な情報発信に、数理モデルが適切に貢献できるようにしていきたいと思います。

 一方で、トップダウンの取り組みに携わるだけでなく、大学という環境で研究を進められることもありがたいと感じています。研究費を獲得してくる必要はありますが、自分が意味を見いだしてやりたいと思うことを誰にも止められずにできるのが、アカデミアの良いところです。これまで中南米やアフリカなどの30カ国以上の国や地域で研究を行ってきましたが、それらは今も継続しています。誰かに言われるのではなく、自分が必要だと考える研究を進められるのはすごく楽しいことですよ。

2024年2月に全米ネットワーク「インサイトネット」の会合がボストンで開催された、左から3番目が塩田さん(塩田さん提供)
2024年2月に全米ネットワーク「インサイトネット」の会合がボストンで開催された、左から3番目が塩田さん(塩田さん提供)
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能登半島地震教訓に地震の長期評価を前倒し公表へ 政府の地震本部、防災対策への活用期待 https://scienceportal.jst.go.jp/explore/review/20240229_e01/ Thu, 29 Feb 2024 08:18:09 +0000 https://scienceportal.jst.go.jp/?post_type=explore&p=50525  政府の地震調査研究推進本部(地震本部)が全国で進めている活断層型地震の長期評価の作業を急ぎ、予定より早めて公表することを決めた。大震災になった能登半島地震を受けた措置で、これまでより簡易的な方法による評価結果でも、2024年度から順次、地域のリスクとして公表する。同本部の関係者は地元の地震被害想定策定や防災計画・対策に役立ててもらいたいとしている。

 地震を引き起こしたとされる能登半島沖の活断層はその存在が指摘されていた。しかし、詳しい地震の規模や発生確率などの評価が遅れていたため、この評価を待っていた石川県の地震被害想定も更新されていなかった。地震本部はこうした経緯を重視し、今回の甚大被害を教訓に防災対策強化の観点から評価方法を改める判断をしたという。

国土地理院が大きな被害を出した石川県珠洲市上空から1月2日に撮影した画像(国土地理院提供)
国土地理院が大きな被害を出した石川県珠洲市上空から1月2日に撮影した画像(国土地理院提供)

間に合わなかった地震被害想定の更新

 1月1日に石川県能登半島地方の深さ15キロを震源とするマグニチュード(M)7.6、最大震度7を観測する大地震が発生。石川県によると、29日現在で死者は241人、けがをした人は約1200人、住宅被害7万5000棟以上もの被害を出した。震度4以上の余震は65回を数え、依然1万1500人近くが避難所暮らしをしている。断水が続いている被災住宅も1万8000戸を超えている。連日懸命の復旧作業が続いているものの、地震発生から2カ月を迎える被災地の状況は依然厳しい。

 石川県は能登半島地震が想定されるとして、地域防災計画を策定していた。津波対策を重視し、最大規模の津波を起こす地震の震源として能登半島北方沖の海底活断層を想定。2011年の東日本大震災の後、津波被害想定を見直し、この海底活断層による地震を警戒していた。

 しかし、「セット」であるはずの地震想定は、1997年にまとめた能登半島北方沖の別の活断層を想定したままで改定していなかった。この想定では甚大被害は予測されず、死者7人、避難者2781人、建物被害はわずか120棟とされていた。これらの数字は今回の大地震の被害規模と比べ、各段に少ない。地震被害想定の改定が遅れていたために結果として広範な分野にまたがる地域防災計画に反映されなかったことになる。

 石川県の馳浩知事は地震後の記者会見で「地震被害想定見直しには国の(長期評価の)調査が必要で、調査を待っていた。今後の早期の調査を国に求める」などと述べている。

石川県の地域防災計画の地震被害想定の図(一部)(石川県提供)
石川県の地域防災計画の地震被害想定の図(一部)(石川県提供)
産業技術総合研究所の調査研究による能登半島周辺の活断層(産業技術総合研究所提供)
産業技術総合研究所の調査研究による能登半島周辺の活断層(産業技術総合研究所提供)

海底活断層評価も公表迅速化

 政府の地震本部は地震に関する調査・研究を統括する組織で、防災・減災対策に役立てるために1995年の阪神大震災後に設置された。日本周辺の海溝型、活断層型それぞれについて一定期間内の地震発生確率や規模を予測する「長期評価」を公表している。地震や津波、防災工学などの専門家らが委員を務める。

 同本部内では地震調査委員会が地震の発生確率を示す「長期評価」をし、評価に基づく「全国地震動予測地図」を公表する。ほかに広報や調査計画の作成などを担当する政策委員会がある。両委員会はさらにいくつかの専門部会で構成される。

 政策委員会の調査観測計画部会(部会長・日野亮太東北大学教授)は2月19日に部会を開催し、活断層型地震の長期評価作業を加速させることを決めた。同部会の発表によると、全国の主な内陸の活断層をエリアごとに長期評価する「地域評価」については、評価が未発表の地域でもできる限り速やかに情報提供を行うとした。具体的には、活断層調査と地震活動データ解析の2つの作業を行っていた従来の方法を見直し、時間がかかる活断層調査が終わらなくても地震活動データだけでも公表する。

 海底活断層を対象にした「海域長期評価」は海底での活断層調査は直接観察が難しい。このため、まず日本海側の海底活断層の位置や形状、地震規模を表すマグニチュード(M)を先行して公表し、地震発生確率は算出でき次第公表する。作業に時間がかかる海域長期評価は九州、中国エリアの日本海側の長期評価が公表済みだったが、能登半島沖を含む近畿・北陸エリアは評価作業中だった。

 調査観測計画部会の日野部会長は19日の部会終了後の取材に「地震が起こりやすい場所を見込むことができる研究を踏まえ、防災に役立つ情報を出していきたい」と話している。

政府の地震調査研究本部(地震本部)の構成図(政府の地震調査研究推進本部提供)
政府の地震調査研究推進本部(地震本部)の構成図(政府の地震調査研究推進本部提供)
海洋研究開発機構(JAMSTEC)による日本海側の海底活断層地図(JAMSTEC提供)
海洋研究開発機構(JAMSTEC)による日本海側の海底活断層地図(JAMSTEC提供)
政府地震本部が地震を起こす可能性があると想定している日本海側の海底活断層(政府の地震調査研究推進本部/国土交通省/内閣府/文部科学省提供)
政府地震本部が地震を起こす可能性があると想定している日本海側の海底活断層(政府の地震調査研究推進本部/国土交通省/内閣府/文部科学省提供)

長期評価は海溝型、活断層型ごとに

 政府の地震本部が行っている地震の長期評価は「地震は海溝や活断層で一定期間を置いて繰り返し起きる」との考え方に基づいている。この評価は、地域ごとに予想される地震の規模や切迫度を出す。海溝型では千島海溝、日本海溝、相模トラフ、南海トラフ、南西諸島海溝などについて地震規模と発生確率が公表されている。確率は「10年以内」「30年以内」「50年以内」などとして数値を出している。

 日本には陸域だけでも約2000の活断層があるとされる。地震調査委員会は主要活断層として114の活断層を選定し、海溝型同様に地震規模と発生確率を公表している。こうした長期評価は2011年の東日本大震災となった東北地方太平洋沖地震では「想定外」の地震規模や被害を生んだ教訓から、作業は最新の知見に基づいて見直されている。

 能登半島地震では石川県輪島市で最大約4メートルの隆起が見つかった。また、輪島市から珠洲市にかけての海岸で約300年前の地震で隆起した痕跡がこれまでの研究で確認されている。内陸型地震が起きる周期は海溝型よりもはるかに長く千年~数万年とされる。現地を調査した専門家は300年前と今回で仮に同じ断層が破壊されたとすれば活断層型地震周期としてはあまりに短いと指摘している。

 輪島市での4メートルもの隆起の規模からすると今回の地震は数千年に1回程度起きる大きな地震だったとの見方もある。地震を起こした活断層の場所や長さはある程度推定されてはいるが詳細は分かっていない。地震の長期評価の分野では未解明なことはまだまだたくさんある。

長期評価対象114の活断層の中でもさらに主要な活断層の評価結果(政府の地震調査研究推進本部提供)
長期評価対象114の活断層の中でもさらに主要な活断層の評価結果(政府の地震調査研究推進本部提供)

地震発生確率は一つの目安

 国が推進する地震の長期評価は、最新の科学的知見や技術により、作業の精度の向上が期待されているものの、基本的には「地震繰り返し論」に基づく。地震は同じ場所でほぼ定期的に繰り返し、過去に起きた地震はいずれ繰り返し起きるという考え方に基づいている。長期評価に際して「前回いつ地震があったか」を明らかにすることが極めて重要だが、その根拠、痕跡を見つけることは容易ではない。限界があることを忘れてはならない。

 陸側、海側のプレートがせめぎ合う南海トラフでは過去大地震が繰り返し発生してきた。江戸時代の1707年には宝永地震が起き、さまざまな歴史資料からMは8.6の大地震だったと推定されている。日本海溝が震源と推定される大地震としては平安時代前期の869年に貞観地震が起き、東北沿岸が大津波に襲われた記録がある。

 東日本大震災前の長期評価では宝永地震より前の大地震は想定していなかった。大震災前は貞観地震に関する評価が確定していなかった。このため、大震災直後から大津波で起きた東京電力福島第1原子力発電所事故など、さまざまな甚大被害について「想定外だった」との弁解を許した経緯と反省がある。

 和歌山県串本町の橋杭岩近くの巨石から見つかり、約2千年前に巨大津波を伴う巨大地震の痕跡の可能性があるとする研究がある。古文書の記録や、津波が陸地に運んできた砂や石などの堆積物から過去の発生を解き明かすさまざまな研究が続けられている。このような地道な研究が国の長期評価の作業を支えている。

 地域防災計画の基礎になる長期評価は重要だ。だが、あくまで大地震に対する「備え」の意味では「一つの目安」と捉える必要がある。M8~9級の南海トラフ巨大地震は「30年以内に70~80%の確率」とされているが、70や80を30で割って「1年以内に起きる確率」を考えるのは間違いで、30年後にも起きないかもしれないし、今日、明日起きるかもしれない。

主な海溝型地震の長期評価結果(政府の地震調査研究推進本部提供)
主な海溝型地震の長期評価結果(政府の地震調査研究推進本部提供)

「日本全国どこも危ない」と強調

 地震本部も長期評価について次のような注意点を挙げている。

 「過去の地震活動の時期や発生間隔は幅を持って推定せざるを得ない場合が多いため、地震発生確率値は不確定さを含んでいる」「地震発生確率値が小さいように見えても地震が発生しないことを意味していない。特に活断層で起きる地震は、発生間隔が数千年程度と長いため、30年程度の間の地震発生確率値は大きな値とはならない」

 実際、1995年の阪神淡路大震災(兵庫県南部地震)の発生直前の発生確率は0.02%~8%、2016年の熊本地震はほぼ0%~0.9%だった。

 地震調査委員会委員長も務める平田直東京大学名誉教授は能登半島地震後の関連学会で、能登半島沖海底活断層の長期評価を急ぐ考えを明らかにした上で、「日本全国どこも危ないと思ってもらいたい」と強調している。

 地震発生確率は社会・経済的影響がとてつもなく大きい巨大地震に高い関心が集まっている。少しでも被害を低減する減災対策を進めなければならない。しかし同時に「いつでも、どこでも起きる」活断層型地震も忘れてはならない。今回の能登半島地震のように突然、高齢化と人口減少が進む過疎地を襲う。長期評価を一つに目安にしながら、その数値だけにとらわれることなく、国の、自治体の、そして身の回りの「備え」を徹底したい。

「全国地震動予測地図」(2020年版)では今回の能登半島の大地震の発生確率は高くなかった(政府の地震調査研究推進本部提供)
「全国地震動予測地図」(2020年版)では今回の能登半島の大地震の発生確率は高くなかった(政府の地震調査研究推進本部提供)
平田直東京大学名誉教授(日本記者クラブ提供)
平田直東京大学名誉教授(日本記者クラブ提供)
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再挑戦実る H3ロケット2号機打ち上げ成功、宇宙開発利用の新エースに https://scienceportal.jst.go.jp/explore/review/20240219_e01/ Mon, 19 Feb 2024 07:40:37 +0000 https://scienceportal.jst.go.jp/?post_type=explore&p=50418  新世代大型ロケット「H3」2号機が17日午前9時22分55秒、鹿児島県の種子島宇宙センターから打ち上げられた。小型衛星2基を所定の軌道に投入、さらに大型衛星に見立てた重りを予定通りに分離し、打ち上げは成功した。2001年から運用中の「H2A」の後継機だが、昨年3月の1号機失敗を受け、対策を講じて臨んだ。地球観測や安全保障、測位、通信など官民の衛星利用は、H2Aが誕生した今世紀初頭から大きく進展している。新エンジンを搭載し、コスト低減を進めたH3が、日本の宇宙開発利用の新たな主軸となる。

打ち上げられるH3ロケット2号機=17日、鹿児島県南種子町の種子島宇宙センター(JAXA提供)

「ようやく産声」「満点」笑顔の開発責任者

 H3は同センターの吉信第2射点から打ち上げられた。約5分後に1段、2段機体を分離した。初号機が実行できなかった2段エンジンの燃焼を11分7秒にわたり正常に行った後、キヤノン電子の衛星「CE-SAT-IE(シーイーサットワンイー)」と、宇宙システム開発利用推進機構などの「TIRSAT(ティーアイアールサット)」を相次ぎ軌道投入。さらに1時間20分あまり慣性飛行した後、2段エンジンに再着火し27秒間燃焼した。打ち上げの1時間48分14秒後、重りを分離した。

 会見した宇宙航空研究開発機構(JAXA)の山川宏理事長は「こんなにうれしい日はなく、ホッとした日もない。日本の宇宙活動の自律性、国際競争力の確保に向けて大きく前進した。非常に大きな一歩となった」と述べた。

 JAXAのH3開発責任者、岡田匡史プロジェクトマネージャは「ようやくH3がオギャーと産声を上げることができた。今日だけの話だが、重い肩の荷が下りた。これからが勝負で、宇宙の軌道から事業の軌道に乗るようしっかり育てていきたい」と笑顔を見せた。点数を問われると「満点です」と胸を張った。

 2号機についてJAXAは事前に、H3開発の検証を目的とし、打ち上げ成功または失敗と明示する発表はしない方針を示していた。結果的に順調に飛行し、ペイロード(衛星などの積み荷)を全て計画通りに運んだことから、会見で成否について念を押された岡田氏は「成功しました」と応じた。

会見で笑顔を見せる三菱重工業の新津真行H3プロジェクトマネージャー(左)と、JAXAの岡田匡史プロジェクトマネージャ=17日、種子島宇宙センター(オンライン取材画面から)

1号機失敗、3つの原因シナリオ全てに対策

 1号機は昨年3月7日に打ち上げられたものの、2段エンジンに着火できず失敗。搭載した地球観測衛星「だいち3号」を喪失した。原因は2段エンジンの電気系統の異常。22年ぶりの新大型ロケットはデビューからつまずき、日本の宇宙開発利用に深刻な打撃となった。

H3ロケット1号機の飛翔。1段エンジンは正常だったが…=昨年3月7日(サイエンスポータル編集部 腰高直樹撮影)

 JAXAや三菱重工業などが原因の究明を進め、異常の発生シナリオを(1)エンジンの着火装置でショートが発生した、(2)着火装置への通電で過電流が発生した、(3)計算機からの指示を受けてエンジン周りのさまざまな制御をする装置の2系統のうち一方で過電流が起き、トラブルに備えたもう一方にまで波及した――の3通りにまで絞り込んだ。昨年10月、文部科学省の宇宙開発利用部会がこうした内容の報告書を決定した。報告書は失敗の背景に、長年使ってきた装置の実績を重視したことや、対策や確認の不足があったとも指摘している。

 政府やJAXAは原因を1つにまで絞り込むのを待たず、H3の早期運用を優先すべきだと判断。2号機では3つのシナリオ全てに再発防止を施した。具体的には(1)着火装置の部品の絶縁や検査の強化、(2)トランジスタに加わる電圧が定格内となるよう部品を選ぶ、(3)原因の可能性がある部品「定電圧ダイオード」はなくても問題ないため、回路から削除する――ことを反映している。

 なお、原因となった疑いがあり共通する要素について、H2Aにも同じ対策を施しており、昨年9月と先月12日に打ち上げが連続成功している。

性能向上と低コスト化の両立目指す

 H3はH2Aと、2020年に運用を終了した強化型「H2B」の後継機。2段式の液体燃料ロケットで、1、2号機の全長は57メートル、衛星を除く重さ422トン。H3の最大能力はH2Bの6トンを上回る、6.5トン以上(静止遷移軌道、赤道での打ち上げに換算)。JAXAと三菱重工業が共同開発し、これまでの開発費は2197億円だ。

 1段エンジンを新開発したほか、宇宙専用部品ではなく自動車などに使われる民生品を多用するといった工夫で、効率化を進めた。H2Aの基本型で約100億円とされる、打ち上げ費用の半減を目指した。性能向上と低コスト化を両立し、政府の衛星のほか近年、大型化が進んだ商業衛星の搭載を可能とした。科学目的の探査機、国際宇宙ステーション(ISS)や建設予定の月周回基地へ向かう物資補給機にも対応する。

CE-SAT-IEの分離を確認し、沸く管制室=17日、種子島宇宙センター(JAXA提供)

 H3はH2A、小型の固体燃料ロケット「イプシロン」とともに、政府の基幹ロケットを構成する。1、2号機は試験機としてJAXAが打ち上げたが、将来的にはH2Aと同様に三菱重工業に移管し、商業打ち上げ市場に投入する。

 政府の宇宙基本計画工程表によると、H3は来年度に地球観測衛星「だいち4号」、防衛通信衛星、準天頂衛星の3回の打ち上げを計画。H2Aは来年度に情報収集衛星、温室効果ガス・水循環観測技術衛星をそれぞれ打ち上げ、退役する。

開発の目玉、1段エンジンは1号機から“成功”

 1号機の失敗後、原因となった2段の電気系統に注目が集まってきたが、H3の開発をおさらいすると、最大の目玉は設計思想を転換した1段エンジン「LE9」だった。このLE9自体は、1号機でも正常に機能し“成功”している。2段エンジンに用いてきた日本独自の燃焼方式「エキスパンダーブリード」を1段に初採用したものだ。H2Aの1段エンジンの「2段燃焼」に比べ、燃費をわずかに犠牲にする代わりに、仕組みを簡素化した。

 どちらの方式も、燃料の液体水素と液体酸素をポンプで加圧して燃焼室に送り、発生したガスをノズルから出すという基本は同じ。2段燃焼では水素をまず副燃焼室で燃やし、そのガスでポンプを動かした後、燃焼室に送り、つまり2段階で燃やす。燃料を無駄なく使い燃費は良いが、制御は極めて複雑だ。

 一方、エキスパンダーブリードではまず、水素を燃焼室の熱で膨張(エキスパンド)させてポンプを動かす。副燃焼室がないので部品数が2割以上減り、コスト削減と信頼性向上が図れる。しかもトラブル時に爆発する心配が、極めて少ないという。ただ、ポンプを動かした水素は燃焼室に送らず、ノズルから出して(ブリード)捨ててしまう。こうして燃費を3%だけ犠牲にするのと引き換えに、制御は容易になる。

LE9エンジン(三菱重工業提供)と、エキスパンダーブリードのおよその仕組み(JAXA、三菱重工業の資料や取材を基に作成)

 H3の開発は2014年にスタート。当初は20年度の打ち上げを目指したが、大詰めに近づいたと思われた20年5月の燃焼試験でLE9の燃焼室に多数の小さな穴が生じるなどし、また22年1月にはタービンに異常な振動が見つかったと発表し、延期を繰り返した。1段エンジンは地上の重力に打ち勝って機体を上昇させるため、2段とは桁違いの能力が必要だ。1号機は打ち上げとしては失敗したものの、LE9が見事に仕事をやり切ったことは本来、特筆に値することだった。

 1号機の打ち上げを現地で取材した筆者は、打ち上げ失敗自体より、1段ではなく、開発要素が少ないはずの2段でつまずいたことが意外で、“狐につままれた”ような心境に陥ったのを覚えている。

失敗受け、大型衛星搭載は見送り

 1号機の失敗を受け、政府やJAXAは2号機の計画を大幅に見直した。

 H3の機体構成には、1段エンジン(LE9)や固体補助ロケットブースターの基数などによるバリエーションがある。変更前の2号機は、1段エンジン3基、ブースターなしという最小構成とし、地球観測衛星「だいち4号」を搭載する計画だった。これを改め、1号機と全く同じ1段エンジン2基、ブースター2基とした。1号機の飛行データを最大限に活用でき、またこの構成が幅広い衛星に対応できるためだ。

 仮に打ち上げに失敗しても大型衛星を再び失わないよう、だいち4号の搭載は見送り、代わりに金属製のダミーの重りにした。一方で、H3の飛行実証という2号機の目的に影響しない範囲で利用の機会を設けることとし、小型衛星2基を“失敗時の補償なし”の条件で無償で相乗りさせた。小型衛星2基とそれらをロケットに載せるための構造物、重り(約2.6トン)を足した重さは、だいち3号(約3トン)とほぼ同じにした。

2段機体の上部に取り付けられた重り(中央の柱状のもの)。左下に小型衛星のCE-SAT-IE、右下にTIRSATも取り付けられている=今月5日、種子島宇宙センター(JAXA提供)

 基幹ロケットでは、イプシロンの最終6号機も2022年10月、打ち上げに失敗。さらに昨年7月には、開発中の改良型「イプシロンS」2段機体の燃焼試験中に爆発が発生している。今回、H3がようやく成功したことで、基幹ロケット開発が立ち直りの端緒をつかんだものと信じたい。

ロケット開発の苦闘、欧米でも

アリアン6の想像図(アリアンスペース社提供)

 大型ロケット開発に苦しむのは、日本だけではない。欧州では、世界の商業打ち上げ市場を牽引(けんいん)してきた「アリアン5」が昨年7月に運用を終了。だが、2020年の初打ち上げを予定していた後継機「アリアン6」が延期を繰り返し、今夏へとずれ込んだという。設計変更やコロナ禍が影響し、エンジンの燃焼試験にも時間がかかるなどしたためだ。

 米国でも「アトラス5」などを運用するユナイテッド・ローンチ・アライアンス社の「バルカン」が、先月8日にようやく初打ち上げを果たした。アトラス5のエンジンはロシア製だが依存脱却を図り、バルカンでは米ブルーオリジン社製を採用したものの、開発に時間がかかった。

 こうしたロケット開発の困難について、岡田氏は「大規模システムを作る作業であり、スケジュールを立てるのが難しい。(H3初打ち上げ)延期の原因となったLE9の開発では、初期の研究段階をもっとしっかりした方がよかったと思う。ただ最初にクリアできず、後から課題が見えてくることもある」と胸の内を明かす。

ロケット不足の世界市場、H3開発は日本の責務

 市場では近年、低コスト化を徹底した米スペースX社の「ファルコン9」が台頭し、2017年には1段機体の再利用も実現。今や圧倒的シェアを占め“商業ロケットの王者”となった。一方、H3をはじめとする日本の基幹ロケットは、ファルコン9とは立ち位置がやや異なることに留意したい。

 安全保障や防災に役立つ衛星を含め、政府の衛星や探査機、宇宙船を、外国に頼らず自国の力で打ち上げることが、基幹ロケットの最重要の役割だ。ただ、その存続のためには、ロケットを高頻度に打ち上げて関連産業を維持する必要があり、官需だけでは足りない。市場=ビジネスに参入し、商業衛星や外国の衛星の打ち上げを積極的に受注することが不可欠だ。コストを低減したH3開発の重要な狙いの一つが、ここにある。

 日本の大型ロケットの打ち上げ成功率は、H2AとH2Bを合わせ約98%と世界トップ級。悪天候以外の理由による延期が少ないことも、有力なアピール材料となってきた。H2Aはこれまでに韓国やカナダ、アラブ首長国連邦(UAE)、英国の衛星や探査機を打ち上げ、世界に信頼を広げつつある。H3はこうした実績を引き継ぎ、地道に成功を重ねていくことが重要だ。

 多数の衛星を連携させる「コンステレーション」をはじめ近年、衛星の利用が飛躍的に進んでいる。にもかかわらず、2022年2月のウクライナ侵攻以降、それまでメジャーな存在だった「ソユーズ」「プロトン」といったロシアの機体が利用できなくなり、世界市場のロケット不足が深刻さを増している。安定して利用できるロケットが切実に求められる中、H3が技術を磨きつつ世界の需要に応えていくことは、科学技術立国・日本の責務である。

H3ロケット2号機の機体上部にはReturn To Flight(リターン・トゥ・フライト、再開飛行)の頭文字「RTF」が貼り付けられた。文字は、一般から寄せられた応援メッセージで埋め尽くされた=先月16日、種子島宇宙センター(JAXA提供)
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【文理融合】「榎本石鹸」〜明治初期の記録を読み解き、当時の製造法で復刻 沼田ゆかりさん https://scienceportal.jst.go.jp/explore/interview/20240209_e01/ Fri, 09 Feb 2024 08:34:50 +0000 https://scienceportal.jst.go.jp/?post_type=explore&p=50330  【文理融合】の第3回は「榎本石鹸(えのもとせっけん)」。これは、明治初期の箱館戦争で旧幕府軍を率いた榎本武揚(えのもと・たけあき)が記録した製造法をもとに、石鹸を復刻する試みである。小樽商科大学の文理融合研究「榎本石鹸プロジェクト」から生まれ、テスト販売にこぎつけた。この取り組みを手がけた研究者のひとりが、同大教授の沼田ゆかりさん。化学者として、主に石鹸のレシピ開発を担当した。

沼田さんと3種の榎本石鹸。左から復刻版、匂い付きのリニューアル改良版、リニューアル版(本人提供)
沼田さんと3種の榎本石鹸。左から復刻版、匂い付きのリニューアル改良版、リニューアル版(本人提供)

箱館戦争を戦った榎本武揚は化学者だった!

―「榎本石鹸」とは何ですか。

 榎本武揚が書き記した「石鹸製造法」を読み解き、そのなかの2つの製造法を再現し、石鹸を復刻しました。それが「榎本石鹸」です。

―榎本武揚は、石鹸の製造に詳しかったのですか。

 江戸末期、幕府の留学生としてオランダに渡り、化学を学びました。箱館戦争の終結後に投獄されますが、獄中で書いたのが「石鹸製造法」です。榎本武揚は有名ですが、化学者としての一面はほとんど知られていないのではないでしょうか。化学史や科学史でも榎本の評価はまだ定まってはいません。ただ、いまの化学の学会「日本化学会」の前身の一つ、「工業化学会」の初代会長だったことはわかっています。

「高商石鹸」の伝統を踏まえ、地域活性化も志向

―なぜ「榎本石鹸」を復刻することに?

 きっかけは、同僚で准教授の醍醐龍馬先生です。私と同じ一般教育の歴史学担当者で、日本政治外交史を専門とし、榎本武揚を研究されています。その醍醐先生から「榎本の『石鹸製造法』から石鹸を作れますか」と相談され、「作り方が書かれているなら作れますよ」とお答えしたことが、すべての始まりです。

国立国会図書館憲政資料室所蔵の榎本武揚「石鹸製造法」(写真は沼田さん提供)
国立国会図書館憲政資料室所蔵の榎本武揚「石鹸製造法」(写真は沼田さん提供)

 私の専門は高分子化学で、セルロースを研究対象としています。本格的に石鹸の合成を行ったことはありませんでした。ただ、学生時代にセルロース誘導体は合成していたので、石鹸も合成できるだろうと考えたのです。

―おふたりの会話から復刻が始まったのですね。

 2021年度から文理融合研究「榎本石鹸プロジェクト」として取り組むことにしました。実は、小樽商科大学と榎本武揚には深い関わりがあります。醍醐先生の研究によると、前身の小樽高等商業学校(小樽高商)を誘致する際、地元の名士だった榎本が寄付活動を先導しました。

 その榎本の「石鹸製造法」を読み解き、その手法で石鹸を復刻することで、榎本の化学者的特性を、歴史学と化学の双方から分析しようというのが、このプロジェクトの狙いです。というのも、榎本の化学志向は、化学史・科学史の立場から言及されていました。でも、表面的なエピソードとしての扱いにとどまり、同時代的な化学者として、最先端の水準を本当に持ち合わせていたのかは明らかではなかったからです。

 では、「榎本石鹸プロジェクト」をなぜ小樽商科大学で行うのか——。本学には、小樽高商時代に授業の一環として、学生たちが学内に設置された石鹸工場で「高商石鹸」を製造し、販売していた伝統があります。この伝統を踏まえ、実学重視の開学理念、それは教育倫理や商学倫理になりますが、それとの関係や自校史の中に、このプロジェクトを位置づけ、本学で実施する意義を見いだしました。そのうえで、石鹸の復刻によって得られた成果の一部を、「榎本石鹸」という形で、地域活性化のために生かそうと考えています。

小樽高等商業学校の「高商石鹸」。戦前までは製造・販売されていた(小樽高等商業学校卒業アルバム、1926年、写真は沼田さん提供)
小樽高等商業学校の「高商石鹸」。戦前までは製造・販売されていた(小樽高等商業学校卒業アルバム、1926年、写真は沼田さん提供)

化学・歴史学・倫理学、近くないから協業の意義がある

―なるほど、石鹸作りは小樽商科大学の伝統だったのですね。

 『小樽高商の人々』『小樽商科大学百年史 通史編』によると、小樽高商では、大正9(1920)年に石鹸工場を設け、「企業実践」という科目の中で石鹸を製造していました。大量生産に向く「釜だき製法」で生地を作り、「機械練り法」で成形していたようです。また、石鹸の原材料には油脂が欠かせませんが、牛脂と、小樽で豊漁だったニシンの油を混合して使っていたと考えられます。小林多喜二や伊藤整など、本学出身で知られる文豪たちもかつてこの授業を受けていました。

授業で「高商石鹸」について説明する沼田さん(本人提供)
授業で「高商石鹸」について説明する沼田さん(本人提供)

―化学と異分野が協業する意義は、どのようにお考えですか。

 まず、役割分担をご説明しますね。化学の役割は、「石鹸製造法」にできるだけ忠実に石鹸を復刻し、実験に基づいた内在的分析によって榎本武揚の化学の学問的水準を明らかにすること。歴史学の役割は、古文書である「石鹸製造法」を読み解くこと。さらに、それ以外の文献も網羅的に調査し、化学の内在的分析結果を踏まえたうえで、歴史的評価を行い、榎本の学問的志向や水準を明らかにすることです。

 もう一人の共同研究者、准教授の宮田賢人先生には、倫理学の専門家として、本学のような地域密着型大学における文理融合研究の成果を発信するため、開学の理念(教育倫理・商業倫理)の延長線上に本プロジェクトを意義づけるという役割を担ってもらいました。

 今回、化学の知見と歴史学の手法を本格的に組み合わせた文理融合研究によって、榎本の化学者的性格を内在的に明らかにできました。さらに、倫理学の立場から、小樽商科大学でプロジェクトを実施する意義づけを行うことで、文理融合研究の成果を市民に広く知ってもらうことにつながりました。化学・歴史学・倫理学という、近くはない分野の協業だから成し得たことであり、ここに協業の意義があると考えています。

榎本石鹸プロジェクトの「文理融合研究」概略図(沼田さん提供)
榎本石鹸プロジェクトの「文理融合研究」概略図(沼田さん提供)

3年がかりで製品化、12・13日にテスト販売

―「榎本石鹸」の復刻はどのように進めましたか。

 1年目は、古文書の解読と石鹸復刻の実験に挑みました。醍醐先生と歴史学ゼミの学生たちが、「石鹸製造法」のくずし字を判読し、現代の文字に置き換える「翻刻」を行いました。4種類の製造法のうち「マルセリヤンセセープ製法」「冷製石鹸ノ製法」を試すことに。現代の「釜だき製法」「コールドプロセス製法」にあたるので、復刻できる可能性が高いと考えたのです。

 そこで、私が石鹸復刻の実験を設計し、化学ゼミ・歴史学ゼミの学生たちの協力のもと、石鹸を作りました。印象深いのは、文系メンバーの「史実に沿った製造法」へのこだわり。「冷製石鹸ノ製法」を試したとき、歴史学ゼミの学生と醍醐先生、宮田先生が、電動の攪拌装置を一切使わず、手動で30分ほど攪拌してくれました。化学ゼミの学生は、普段の実験で手動の大変さがわかっているので敬遠していましたね。

 2年目は、完成した「榎本石鹸」を地域活性化に生かしたい、と商品化を目指すことに。化粧品OEM企業に「冷製石鹸ノ製法」による石鹸を製造してもらい、市内の企業の協力を得て、パッケージを制作しました。

2023年3月にシンポジウムを開催し、2年目の成果を発表した。(上)市民を前に講演する沼田さん(本人提供)、(下)講演中の会場の様子。左から宮田さん、醍醐さん、右奥に沼田さん(本人提供)
2023年3月にシンポジウムを開催し、2年目の成果を発表した。(上)市民を前に講演する沼田さん(本人提供)、(下)講演中の会場の様子。左から宮田さん、醍醐さん、右奥に沼田さん(本人提供)

 3年目の今年は、製造した石鹸の改良に取り組みました。製造上の課題だった変色は、原因と考えられる天然の添加物を入れないことで解決。小樽市内で12・13日にテスト販売します。

「史実に基づく」実験の困難を味わう

―「榎本石鹸」のこれからの目標は。

 かつての「高商石鹸」は、国内製品で一、二位を争うほどの人気ぶりだったようですから、「榎本石鹸」も人気商品に育てたいですね。小樽は歴史的なものを非常に大切にしている街で、研究にご協力くださる企業も多いので、やはり地域に貢献したいのです。いま、マーケティングの先生に参画してもらって、プロジェクトは4年目も続きます。

―文理融合研究ゆえの難しさと手応えは。

 苦戦の連続でした……。「石鹸製造法」に出てくるカタカナが、何を指しているのかわからない。オランダ語であろうと予測しても発音が若干異なるものもあり、オランダ語から日本語へと変換する連想ゲームのようでした。また、すべてオランダ語かと思えば、フランス語が混在している。手法が解読できても、細かい温度設定や時間設定は書いていない。「マルセリヤンセセープ製法」に至っては、手法に抜けている箇所がある。表に記載された材料の配合で作っても石鹸にならない。「史実に基づく」実験がいかに困難を極めるか。完成したときは、やっと形になった!と、ほっとしました。

「マルセリヤンセセープ製法」で石鹸作りに挑む学生たち(宮田さん提供)
「マルセリヤンセセープ製法」で石鹸作りに挑む学生たち(宮田さん提供)

 文理融合の難しさと面白さを感じたのは、石鹸に対する意識の違い。歴史学の立場からは、「史実に忠実な復刻」に意義があると主張する。でも、化学の立場から言わせてもらえば、いまの石鹸の性能に劣るものを商品化しても売れません。侃侃諤諤の議論の末、復刻版・リニューアル版・リニューアル改良版という3種類の石鹸ができたのです。

学問と実業の橋渡し、殖産興業を主導

―今回明らかになった、化学者・榎本武揚の実力は。

 つい最近、プロジェクトの成果をまとめた論文「榎本武揚の化学者的特性―石鹸製造への関心を中心に」が、化学史学会の会誌『化学史研究』にアクセプトされました。そこでは、榎本の化学に関する先進性・専門性を文書史料と実験結果を組み合わせて裏付けました。このような榎本の化学者的特性はオランダ留学時代に形成され、「石鹸製造法」を書いた獄中時代に成熟期を迎えたと考えられます。

 また、榎本の関心の主眼は学問と実業の橋渡し、すなわち工業化学にあったわけですが、それこそが榎本が旧幕臣でありながら明治政府の技官から大臣職にまでのぼり、殖産興業を主導できた背景といえるでしょう。

榎本武揚(えのもと・たけあき、1836~1908年)

榎本武揚(えのもと・たけあき、1836~1908年)

幕末・明治期の武士、海軍軍人、外交官、政治家。幕臣としてオランダに留学し、帰国後、幕府海軍の指揮官となる。戊辰戦争では旧幕府軍を率いて蝦夷地を占領したものの、箱館戦争で敗れて投降。投獄されたが助命され、明治政府に仕えた。駐露特命全権公使として樺太千島交換条約を結んだ。内閣制度開始後は逓信大臣、文部大臣、外務大臣、農商務大臣などを歴任し、子爵に叙せられた(画像は北海道大学附属図書館所蔵)。

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