深く掘り下げたい - 科学技術の最新情報サイト「サイエンスポータル」 https://scienceportal.jst.go.jp Tue, 10 Jun 2025 06:38:18 +0000 ja hourly 1 「故人AI」の問題を哲学・倫理学の観点から考察し、社会受容への道筋をさぐる 佐藤啓介さん https://scienceportal.jst.go.jp/explore/interview/20250610_e01/ Tue, 10 Jun 2025 06:38:11 +0000 https://scienceportal.jst.go.jp/?post_type=explore&p=54257  AIの進化が「人」のあり方にも影響を及ぼしつつある。鬼籍に入ったはずの「美空ひばり」は新曲を披露し、「手塚治虫」も新作を発表した。AI技術による故人の復活は、死の概念を大きく変えかねない。ところが、法整備は追いつかず、明確なルールのないまま、すでに商業化にまで至っている。いま、私たちは死をめぐるAI技術とどのように向き合うべきなのか。哲学・倫理学の観点から故人AIの研究に取り組んでいる佐藤啓介さん(上智大学大学院実践宗教学研究科教授)にヒントを伺った。

インタビューは上智大学四谷キャンパスにある佐藤さんの研究室で行った
インタビューは上智大学四谷キャンパスにある佐藤さんの研究室で行った

死者倫理の研究がきっかけに

―「故人AI」とは何ですか。

 「死者AI」「デジタル故人」「死者のデジタルアバター」などとも呼ばれる、AI技術による故人のよみがえりです。故人が生前に残したテキストや画像、音声などのデータから、その行動や発言、思考のパターンをAIに学習させて、まるで生きているかのように再現できます。2019年の大晦日、AIを用いた歌声合成技術でよみがえった「美空ひばり」がNHK紅白歌合戦で新曲を歌い、翌年には、AIと人間のコラボレーションで「手塚治虫」の新作が発表され、話題になりました。

―新曲や新作は興味深いけれど、故人AIには故人の日記を勝手に読んでしまうような後ろめたさも感じます。

 故人AIに対して「故人への冒涜」と感じる人は少なくありません。日本では6割以上の人が、自分の死後にAIとして復活することに反対したという調査結果もあります。故人AIは倫理に反すると捉える人が多いものの、倫理学ではまだ研究が始まったばかりです。

―故人AIの研究を始めたきっかけをお聞かせください。

 私の専門は宗教哲学で、10年ほど前から「死者倫理」を研究しています。これは、亡くなった人の扱いについて、哲学の観点から考える学問です。大まかにいうと、なぜ故人を敬わなければいけないのか、どこまで敬えばいいのか、特に社会の中では故人を尊重するべきなのかといった問いを考察します。

 研究を進めるうちに、AI美空ひばりが登場して賛否両論が巻き起こりました。このとき、故人AIを巡る問題を考えていくと、「死者倫理とは何か」を明らかにしていけると思ったのです。2022年に米オープンAIの生成AI「ChatGPT」が公開されると、日本でもAIが一気に普及したため、「故人AIと死者倫理」は、急いで取り組まなければいけないテーマであると考えています。

佐藤さんの専門は宗教哲学。宗教が扱ってきた死と生、救いなどを哲学的に考える学問である
佐藤さんの専門は宗教哲学。宗教が扱ってきた死と生、救いなどを哲学的に考える学問である

言動を新たにつくりだすのは問題か

―佐藤さんは、故人AIの何が問題だと考えていますか。

 故人AIは、故人が生前には行わなかった言動を、新たにつくりだす可能性があります。実際にはそう言わないかもしれないし、そう振る舞わないかもしれないけれど、いかにもその人らしい言動をするというわけです。それが、故人AI固有の特徴であり、問題となりうると考えています。

―まるで本人のような故人AIが、やってもいない罪を告白するとか、ありえない事態が起こるかもしれないですね。

 故人AIではありませんが、ディープフェイク(生成AIを用いた合成技術)は問題になっていますよね。2023年には岸田文雄首相(当時)の偽動画が出回りました。この事例は、肖像権などの権利侵害となるため、「ディープフェイクは問題である」として議論できます。

 ところが、ターゲットが故人の場合、権利侵害には当たりません。故人には人権がなく、一部を除いて権利は保証されていないからです。いまのところ、直接の名誉棄損に当たらない限り、故人AIがありもしないことを語り出したとしても法的措置は取れません。

適用できる法はないが、何をしてもいいわけではない

―AIの悪用から故人の尊厳を守るにはどうしたらいいのでしょうか。

 まず、法に照らし合わせて考えなければいけません。しかし、調べれば調べるほど、故人に適用できる法はほとんどない。現行法では、故人は保護の対象ではないのです。だからといって、故人AIは何をしてもいいわけではないでしょう。

―故人AIの利用を、個々の良心に任せられますか。

 「法は倫理の最低限度」といいますが、法は倫理の一部と考えます。ただ、多様なバックグラウンドの人たちが共に暮らす現代において、倫理観を共有するのは難しい。なので、やはり最低限の法は必要でしょう。それさえ守れば、お互いに納得できないことも許容していくしかないと思います。

『いまを生きるための倫理学』には、佐藤さんが執筆の一部を担当した「生と死」のほか、「科学技術」「情報とマスコミ・映像」についても考察されている
『いまを生きるための倫理学』には、佐藤さんが執筆の一部を担当した「生と死」のほか、「科学技術」「情報とマスコミ・映像」についても考察されている

「グリーフケア」の役割を果たしうる

―故人AIにも法ができれば、規制をかけて故人を守れるのですね。

 そうですね。ただ、規制ばかりでいいのかという問題もあって。故人AIによる死後の復活を望まない人が多い反面、故人に会いたいと願っている遺族もまた多いです。故人AIのニーズは確実にあり、すでにビジネスとして展開されています。その是非はともかく、一つ言えるのは、故人AIは「グリーフケア」の役割を果たしうることです。

―グリーフケアとは?

 グリーフとは、誰かを亡くしたときの悲嘆のこと。悲しみに暮れている人に寄り添い、サポートすることをグリーフケアといいます。故人の音声を聞いて癒されたり、故人AIとちょっと会話をして、悲しみが和らいだりすると期待されているのです。

佐藤さんが兼務する上智大学グリーフケア研究所は、グリーフを抱える者「悲嘆者」がケアされる健全な社会を目指して設立された(同研究所提供)
佐藤さんが兼務する上智大学グリーフケア研究所は、グリーフを抱える者「悲嘆者」がケアされる健全な社会を目指して設立された(同研究所提供)

「故人を敬う」を定義し、議論のために交通整理

―故人AIの基準はどのあたりになりそうですか。

 おそらく、「過去を再現する」と「新たな言動をつくりだす」の間で線引きされるのではないでしょうか。過去を再現するだけなら、生前に撮影したビデオを見るのと変わりません。一方、生前にはない言動をさせるとなると、事情が異なります。このあたりを境目にして、「故人を冒涜している」「その一線を越えてはいけない気がする」と、拒絶反応が出てくるのではないでしょうか。ところが、容認できない理由を説明できる人は少ないです。

―確かに。無意識ながら判断基準はあるということでしょうか。

 その判断基準が「故人を敬う」ではないかと考えています。ただ、もう少し掘り下げていかなければなりません。「敬う」とは尊重することだとして、何を尊重するのか。故人の存在なのか、生前の姿や在り方、記憶に残っている印象なのか。それを突き詰めていくと、私たちが尊重しようと思っているのはきっと、故人の人格のようなものです。そうすると次は、「人格」とは何かという問いが出てきます。人格についても、文献や先行研究を参照しながら考察していくのです。

インタビューに応じる佐藤さん。哲学の手法について丁寧に教えてくれた
インタビューに応じる佐藤さん。哲学の手法について丁寧に教えてくれた

 このように、ある概念を取り出して、解きほぐして、整理して、分析していく。これが、哲学の基本的な手法です。正解を導き出すというよりは、議論のための交通整理をします。哲学では昔の思想家の主張をもとに議論していて、はたから見ると、この世にいない人の考えを話し合って何になるのかと思われそうですが、概念を整理するときの手がかりになるのです。そうしながら、理論を構築していきます。

 その理論を用いて、倫理学では「では、善や悪の基準とはどのようなものか」という一般的な問題や、さらに具体的な主題に引き寄せた個別の場面における判断基準や行動規範を考えていきます。

考えるべきことの連鎖は難しいが、やりがいでもある

―理論を構築できたらゴールと考えていいですか。

 もう一つ、手続きがあります。哲学の手法で重要なのは、構築した理論に反論してみること。例えば、「故人の人格を尊重する」を基準にして、故人AIで新たな言動をつくりだすのは認めないという理論を打ち立てました。この反論として考えられるのは、故人が生前に言わなかったことを言わせるのは、故人AIに始まったことではありません。これまでも小説やドラマ、ゲームなどでさんざんやってきました。

―そう反論されると、故人AIだけ規制する根拠が揺らぎます……。

 そうなんですよ。なので、著作権のような考え方ならどうでしょう。死後70年は保護期間として、新たな言動はつくらせない。あるいは、故人AIの公的利用は認めず、私的利用のみ認めるという線引きもありえると思います。つまり、遺族が故人AIに最新ヒット曲を歌わせて故人をしのぶのはいいけれど、上手に歌うからとYouTubeで公開するのは駄目という判断です。

―考えなければいけないことがどんどん広がりますね。

 故人AIの問題から出発して、ディープフェイクの問題や「故人を敬う」の定義など、考えるべきことがいろいろとありましたね。その連鎖が、故人AIを巡る倫理的問題の難しさであり、やりがいでもあります。

 故人AIに限らず、技術の発達によって新しい現象が起こり、それまでの概念を問い直さなくてはならない事態はたくさんあります。例えば、医療技術の進化で「脳死」という概念が生まれ、改めて「死とは何か」を議論したように。そこに倫理学、哲学が果たす役割は大きいと考えています。

講義中の佐藤さん(ご本人提供)
講義中の佐藤さん(ご本人提供)

―今後、故人AIはどのように社会に受容されていくとお考えですか。

 いまはまだ違和感がある技術かもしれないけれど、緩やかに受け入れられていくと思います。江戸後期に写真技術が伝来して、いつの間にか慣れていったように、故人AIにも慣れるのではないかと。あくまでも予測ですが、故人AIは故人ではなく、一種のフェイクであり、故人とは別人格であるという受け入れられ方をされていくような気がしています。

※佐藤さんは論文などで「死者AI」の呼称を用いていますが、本記事では同義として「故人AI」を採用しています。

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健やかな睡眠は健康に極めて重要―柳沢正史・筑波大学国際統合睡眠医科学研究機構長・教授 https://scienceportal.jst.go.jp/explore/highlight/20250527_e01/ Tue, 27 May 2025 05:13:34 +0000 https://scienceportal.jst.go.jp/?post_type=explore&p=54155 「本田財団(石田寛人理事長)」主催講演会・懇談会「睡眠の謎に挑む~健やかな睡眠から始まるウェルネス~」(2025年4月16日)からー

 お集まりいただきありがとうございます。今日は(私たちの体と心の健康に欠かせない)睡眠についてお話ししたいと思います。私が所属する「WPI-IIIS」は筑波大学の睡眠の研究所(国際統合睡眠医科学研究機構)で、大学院生を含めると240人ぐらいで研究しています。睡眠の基礎研究に特化した研究所としては世界最大規模で、(この分野の)最先端の一翼を担っていると自負しています。大学発ベンチャーとして、(脳波測定ウエアラブルデバイスとAIを駆使した自動解析による睡眠測定サービスを行う)株式会社「S’UIMIN」を立ち上げました。

講演中の柳沢正史氏
講演中の柳沢正史氏

脳が発達する前からの根源的行動

 我々人間を含めて哺乳動物はすべての種が眠ることはご存じだと思います。2000年前後に睡眠を行動学的に定義したのですが、脊椎動物は魚も眠るし、無脊椎動物の昆虫や線虫といった我々から離れた種も眠ることが分かりました。その時点では脳を持つ動物はすべて眠るということになったのですが、2017年にクラゲも眠るという衝撃的な論文が出ました。

 クラゲは神経細胞が全身にあって、そのネットワークがあるのですが脳はありません。睡眠は脳が発達する前からの(生物に備わった)根源的な行動ということです。神経系を持つ生物はすべて眠ることが分かっています。

 眠っている間は意識が薄れた状態で、外界に対して鈍い状態でこうしたリスクを伴う行動がどうしてずっと保存されているか、という問いに明快な答えはありません。脳は生物学的なコンピューターですが、一定期間オフラインのメンテナンスをしなければならないということです。睡眠中も実は脳の神経は休んでいないのです。コンピューターに例えると、オフラインでメンテナンスをしている状態です。

 眠気をとるには眠るしかないというのは当たり前のことですが、そのメカニズム、そもそも眠気とは何かについては実はよく分かっていません。ただ哺乳動物については覚醒、レム睡眠、ノンレム睡眠という3つの状態に分けることができます。

柳沢正史氏が「眠くなる仕組み」の説明に使ったパワーポイント(柳沢正史氏提供)
柳沢正史氏が「眠くなる仕組み」の説明に使ったパワーポイント(柳沢正史氏提供)

ノンレム、レムを繰り返して朝になる

 レム睡眠ということばを聞いたことがあると思います。「ラピッド・アイ・ムーブメント(Rapid Eye Movement)」の略ですが、まぶたの下で目がきょろきょろ動くのでこう呼ばれています。きょろきょろ動くのは、実は鮮明な夢を、視覚的な夢を見ている時にその夢の内容に合わせて目が動くとされています。

 レム睡眠はある意味ちぐはぐな睡眠です。鮮明な夢を見ていて大脳の一部は覚醒に近い状態なのに、脳はオフライン化されています。音を聞かせて睡眠の深さを測ると、ノンレム睡眠並みに深いのです。レム睡眠中は運動に関して、体は完全に力が抜けています。ただ、心拍や呼吸が不規則になるということも起きます。

 一方、ノンレム睡眠は脳波が大きな波になるのが最大の特徴で、人間では3段階の深さで表示します。健康な若い人の睡眠だと、覚醒から最初ノンレム睡眠に入り、3段階を経てレム睡眠に切り替わります。レム睡眠は夢を見るから浅い睡眠と思われがちですが、決して浅い睡眠ではありません。

 寝るとノンレム、レムを繰り返して朝になるわけですが、前半はノンレムが多く、眠りが深いですが、次第にノンレムは浅くなっていってその代わりレムが増えるのです。レム睡眠は心身の健康を保つ上で極めて重要であることが、ここ15年ぐらいの間で分かってきました。

 70歳、80歳になると深い睡眠が減り、レム睡眠も残念ながら減ってしまいます。睡眠は不安定になって途中で起きることが増え、続けてぐっすり眠る能力がなくなっていきます。ただこういう変化は30歳、40歳ぐらいから徐々に起きています。

日本は睡眠時間が短い特異な国

 睡眠不足と不眠はよく混同されますが、全く違うコンセプトです。睡眠不足は十分な睡眠時間を確保しない生活習慣を続けている状態。不眠は思うように眠れない状態です。日本人の平均睡眠時間は世界一短いことが多くの調査で示されています。

 国民1人当たりのGDPと睡眠時間には強い相関関係があるという調査があります。豊かな国の人ほどよく眠る傾向があります。「寝る間を惜しんで頑張る」とか「24時間戦えますか」(のメッセ-ジ)は(今や)ナンセンスです。

 日本は(国民1人当たりのGDPは低くないが)平均睡眠時間が短く、データサイエンス的には「外れ値」で、睡眠に関しては特異な国と言えます。

 生物学的には女性の方が少し長く眠るようにできていますが、日本は女性も育児、介護など社会的な問題が反映されて睡眠時間は短いです。1960年ごろは日本人も今より1時間ほど長く眠っていました。その後2010年あたりまでに直線的に睡眠時間が短くなり、その後そのレベルが続き、睡眠に関して日本は特異な歴史があります。

メタボの最大の敵は寝不足

 眠ることの「御利益」についてですが、まず記憶が整理される。あと洞察力、気づきの能力が上がるという研究があります。逆に寝ないとどうなるかに関する有名な論文があります。徹夜明けのパフォーマンス状態は、血中アルコール濃度0.1%程度相当でかなり酔った状態と同じ。「徹夜して頑張った」という人がいますが、酔っ払って仕事するようなものです。慢性的な睡眠不足は怖くて、いつの間にかパフォーマンスが落ちるだけでなく、感情コントロールもしにくくなるのです。

 感情、情動に関係する扁桃体がうまく制御できなくなります。パワハラをする人間はもしかしたら寝不足なのかもしれません。寝不足だと利他的な行為が抑制されるという論文も出ています。米国で冬時間から夏時間に切り替わる日は夜が1時間短くなるわけですが、寄付額が3~4%減る一方、冬時間に戻る日は変わらないというデータがあります。

 また、慶應大学の研究者の論文で平均睡眠時間が長い企業ほど業績がいいという調査結果もあります。

 健康面では、睡眠不足が続くと免疫系が落ちて風邪をひきやすくなります。ある種のがんのリスクも高まるという研究もあります。「メタボ」については、1日4時間しか寝ない「睡眠制限」をたった2週間続けた研究結果でも、摂取カロリーが増えて体重や内臓脂肪が増えたという研究があります。

 「寝る子は育つ」と言いますが、寝ない大人は横に育つ(太る)のです。メタボの最大の敵は寝不足です。一方、睡眠時間を増やすと摂取カロリーが減って体重や脂肪が減ったという研究結果もあります。このほか、寝不足気味の人はアルツハイマー病の原因物質とされるアミロイドベータが多いという恐ろしい研究の論文もあります。

天井の白っぽい明るい光が有害

 65歳以上の高齢者数千人を平均12年追跡した大規模調査で、睡眠全体の20%ほどあるレム睡眠の量が1%減るごとに12年の間に認知症を発症するリスクが9%増えるという論文も出ています。レム睡眠は夜の後半に増えてきますが、一晩きちんと眠ることが非常に重要です。

 「夢ばっかり見ていたのでよく眠れなかった」という人がいますが、むしろレム睡眠が十分取れたと喜んでもらいたいですね。レム睡眠によってストレス耐性が作られるという研究もあります。悪い夢を見ることで、現実に起こり得る嫌なことに対する予行演習をして、ストレス耐性が高まるということです。

 時差ぼけは体内時計による制御が原因ですが、脳の奥深くの「視床下部」に「視交叉上核」という米粒程度の小さな構造があって、そこに集積している神経細胞が体内時計の「ご本尊」です。

 明るさや暗さを感じる細胞は「ブルーライト」という短波長の可視光線にチューニングされていて、例えば、朝から午前中にかけて強いブルーライトが目に入ると体内時計の針がリセットされて時計は朝というシグナルになります。「朝は光を浴びましょう」と言われるのはそうしたことからです。

 逆に深夜に強い光が目に入ると体内時計の針が遅れるので、夜のスマホのブルーライトは避けてくださいと言いますが、実は天井の白っぽい明るい光の方が(健康な睡眠には)有害なのです。(脳から分泌される睡眠・覚醒を調節する)メラトニンも夜、目に強い光が入ると抑制されます。

 (寝る前)光以上に気にしてほしいのはスマホのコンテンツで、ゲームやSNSの書き込みやショート動画などの双方的コンテンツは、ドーパミンがたくさん出て睡眠に良くないです。リラックスできる自分の入眠儀式として習慣化できるコンテンツを見つけてください。

睡眠の質を高めるノウハウを説明する柳沢正史氏
睡眠の質を高めるノウハウを説明する柳沢正史氏

「癖にならない」オレキシン受容体拮抗薬

 子どものころは朝型ですが、思春期から20代ぐらいの若者は夜型、そして加齢によりだんだん朝型に戻って60歳ぐらいは朝型になり、後期高齢者になると超朝型になりますが、これは社会的な(要因による)ものではなくて生物学的変化です。なので、中高生や大学生、若い社員を含めた若者を朝たたき起こすのは非生産的と言えます。

 この後、私の研究について触れます。25年から30年近く前に「オレキシン」という(睡眠と覚醒を制御するために重要な役割を果たしている神経ペプチド)物質を発見しました。その経緯は今回お話しませんが、純粋な生化学的手法で発見しました。

 オレキシンは脳内の覚醒系の親玉みたいな立場で、その作用を薬理学的にブロックすると眠くなるわけです。このアイデアは既に実用化されていて、処方睡眠薬として3種類の薬が使われています。これらはオレキシン(受容体)拮抗薬という全く新しいタイプの睡眠薬です。自分でいうのは何ですが、オレキシン拮抗薬は本当にいい薬です。耐性や依存性、さらに長い間使っていて急に服用を止めるともっと眠れなくなる性質などそういうことがありません。長年睡眠薬を使っている人がいるかもしれませんが、そのように「癖にならない」といった顕著な特徴があります。

オレキシンの説明をする柳沢正史氏
オレキシンの説明をする柳沢正史氏

怖い睡眠時無呼吸症候群

 自覚している睡眠の時間や質はあてになりません。(柳沢教授らが開発した脳波計測などによる客観的な睡眠の質検査法を使った)日本人を対象にした調査では、自分は十分睡眠を取れていますと言う4割5分は睡眠不足で、逆に不眠を訴える人の3分の2は客観的にはよく眠れていました。本当に眠れていない人は3分の1でした。これを「睡眠誤認」と言います。これが不眠症の(訴えの)実態です。

 また、自分の睡眠に問題ありませんという人の4割は(睡眠に良くない)睡眠時無呼吸症候群が見つかっています。睡眠時無呼吸症候群は若い間は圧倒的に男の病気です。女性ホルモンの作用が関係しているらしい。ところが女性も中高年、高齢になると割合が増えて最終的には1対1になります。

 睡眠学的にはお酒は良くなくて、寝付けはしますが睡眠の質は悪くなります。深睡眠もレム睡眠もなくなります。無呼吸も誘導される。私もお酒は好きで「飲むな」とは言いませんが、お酒を寝るために飲む、睡眠薬代わりに飲むのはやめください。睡眠学的な理想では就寝時間の3時間前、できれば4時間前までに、量は少ないですが「1ポーション」(1ドリンク)でしたら問題ないです。

 無呼吸症候群の人でも夜間、CPAP療法(経鼻的持続陽圧呼吸療法)をやっていると理想的な睡眠が取れています。しかしやっていないで放置して重症になると怖いです。重症の無呼吸症候群を放置すると、12年間の調査で心筋梗塞や大動脈解離とか脳卒中といった致命的な心血管障害で(重症患者の)2割近くが亡くなっています。しかし治療をすればそのリスクは抑えられます。

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野生動物にとってメディアは諸刃の剣―情報の「裏側」への意識を(安家叶子/ROOTs代表・国際自然保護連合日本委員会副会長) https://scienceportal.jst.go.jp/explore/opinion/20250521_e01/ Wed, 21 May 2025 07:12:02 +0000 https://scienceportal.jst.go.jp/?post_type=explore&p=54107  皆さんは、テレビやインターネットで野生動物のコンテンツを見て、心が動かされた経験はないだろうか。画面の向こう側に映る力強さ、繊細さ、時にはかなく見える姿。メディアを通して知った、厳しい野生の世界で生きるさまに心を奪われ、彼らのことをもっと知りたくなって研究者を目指すことになった。しかしメディアは、野生動物にとって好ましくない状況を生むこともある。私たち一人ひとりにできることは何かを考えたい。

安家叶子氏
安家叶子氏

増えるよりも速い取引が野生動物を絶滅に追いやる

 テレビには、時に人生を変えるほどの力がある。最近も、ボツワナの野生動物を扱ったドキュメンタリー番組をきっかけにリカオン(アフリカに生息するイヌ科の動物)の研究者を目指す高校生から連絡があり、メディアが夢や希望を与える力を改めて感じた。しかし、私たちが目にする野生生物の描かれ方が、知らず知らずのうちに彼らを危険な状況に追いやることもある。

筆者の研究対象種のリカオン。アフリカで最も絶滅に近い哺乳類の一種と言われる
筆者の研究対象種のリカオン。アフリカで最も絶滅に近い哺乳類の一種と言われる

 「持続可能ではない野生生物取引」という言葉を聞いたことがあるだろうか。簡単に言うと、野生の生き物たちが自然の中で子どもを産み増えるスピードよりも速く、人間が彼らを採取したり捕まえたりして、取引されることだ。

 この取引は、ペット飼育はもちろん、飾り物、食べ物、薬の材料など、いろいろな目的で行われている。爬虫類、鳥、ほ乳類、魚、昆虫など、対象はさまざまだ。

 何かのきっかけで人気が出ただけで、あっという間に自然の中から姿を消してしまう動物もいる。SNSやテレビで人気が急上昇したコツメカワウソはその典型で、ペットとしての需要から密輸が横行し、国際取引が原則禁止されるほど野生での数が減ってしまった。また、動画サイトなどで見られる愛らしい姿によって生態が誤解されたまま人気となった霊長類のスローロリスも、ペット目的の違法な捕獲や取引によって、野生での生存が脅かされている。

 こうした捕りすぎが、多くの野生生物を絶滅の危機に追いやる大きな原因になっているのだ。自然界のバランスを崩し、外来生物の問題や、新しい感染症が広がる危険までも大きくする。

アフリカでの研究風景。この広大な大地で多種多様な生き物が関わり合いながら暮らす
アフリカでの研究風景。この広大な大地で多種多様な生き物が関わり合いながら暮らす

光が当たりにくい違法取引の「需要側」

 特に問題なのが、違法な野生生物取引だ。薬物や武器の密輸にも匹敵すると指摘されるほど巨大な違法市場を形成しており、象牙を目的としたアフリカゾウの密猟のように、組織化された犯罪グループが関与しているケースも少なくない。

 インターポール(国際刑事警察機構)が2023年に133カ国と連携して行った野生生物の違法取引に対する一斉摘発では約500人が検挙され、絶滅の恐れがある種を含む2100件以上の動植物が押収された。インターポールの事務総長は、これらの犯罪の多くが「暴力、汚職、金融犯罪などの国際組織犯罪グループと強いつながりがある」と指摘しており、その根深さを物語っている。海外では「アルバイト」感覚で勧誘された若い日本人が希少動物の運び屋として利用され逮捕される事例も報告されている。その背景には、日本を含む先進国など、買う側の国々からの強い需要があることが分かっている。

2024年の生物多様性条約締約国会議(COP16、開催地コロンビア)にて、消費国の需要が供給国の密猟問題に繋がる現状について、アフリカ諸国の参加者から話を聞き、議論
2024年の生物多様性条約締約国会議(COP16、開催地コロンビア)にて、消費国の需要が供給国の密猟問題に繋がる現状について、アフリカ諸国の参加者から話を聞き、議論

 ワシントン条約などの国際ルールや各国の法律による取引規制は存在するが、密輸や法の抜け穴を突く取引は後を絶たない。また、規制はどうしても「供給側」(捕獲や密輸をする人)への対策が中心になりがちで、その根本にある「需要側」、つまり、欲しがる人や利用する人の問題には、なかなか光が当たりにくいのが現状だ。

需要を刺激するメディアの影響力と責任

 では、野生生物を「欲しい」「買いたい」という気持ち(需要)は、どこから生まれてくるのだろう。 その背景には、私たちの日常に深く入り込んでいる「メディア」の影響があることが、研究や専門家によって指摘されている。

 これは「メディア・フレーミング」とも呼ばれ、メディアが特定の情報(例えば、動物のかわいらしさや珍しさ)を強調したり、逆に一部の情報(飼育の難しさや生態系への影響など)を伝えなかったりすることで、私たちの生き物に対する印象や認識が無意識のうちに形作られていく現象を指す。

 テレビ番組、映画、インターネット動画、SNS、広告などで珍しい動物が愛らしく描かれたり、簡単に手に入るかのように紹介されたりするのも、その一例と言えるだろう。結果として、「触ってみたい」「飼ってみたい」という気持ちが刺激されることがあるのだ。

 もちろん、情報を受け取る私たち自身の知識や判断力(メディアリテラシー)を高めていくことも非常に大切だ。しかし、それと同時に、情報の発信源であるメディアが持つ大きな影響力と、その発信に伴う責任も忘れてはいけない。メディアでの動物の扱いが時に視聴者から批判を受け、いわゆる「炎上」につながるケースも少なくない。

 例えば、希少動物をペットのように見せる演出が「安易な飼育を助長する」として視聴者や専門家が強く批判し、番組に協力していた動物園からも抗議の声が上がった事例がある。ある人気番組が生態系に関する誤った情報を発信したとして専門家から指摘を受けたり、特定の地域で実施した希少種捕獲のロケ企画の内容が問題視され、地元議会が放送局へ公式な抗議文を送付したりしたケースも報じられている。タレントが動物園の飼育エリアに落下し、動物への配慮や安全管理のあり方が厳しく問われたことも記憶に新しい。

表現内容や動物への配慮の監修、リテラシー研修を実施

 こうした現状から、私は「需要」に影響を与えるメディアの役割に着目した。本来メディアには、人々の価値観を動かす素晴らしい可能性がある。そこで作り手であるメディア企業やクリエイターの方々と連携し、表現を通じて自然への敬意や共感を育むことができれば、社会を良い方向に動かせると信じ、「ROOTs(Rooting Our Own Tomorrows)」を立ち上げた。メンバーには動物福祉に詳しい法獣医の専門家、生き物の研究に情熱を燃やす学生、ビジネスの視点を持つコンサルタントなどが名を連ね、それぞれの知見を共有しながら活動している。

 ROOTsでは主に二つの取り組みを行っている。一つは「クリエイティブ・サポート」だ。テレビ局や制作会社、広告会社などに対して、野生生物に関する専門的な情報を提供したり、表現内容が誤解を招かないか、動物への配慮がなされているかなどをチェックする監修サービスを行ったりするほか、社員全体のリテラシーを上げるための社内研修やガイドライン導入を実施している。

 例えば、私はTBS系列のドラマ『Eye Love You』で、ラッコをはじめとする登場動物に関する監修を実施した。主な役割は、研究室の雰囲気、研究対象となる動物種の選定、彼らが置かれる状況設定など、リアリティを高めるため物語の土台となる設定段階からアドバイスをすること。さらに台本においては、動物の描写が生態学的に正確であるか、そして誤解を招いたり不適切だったりする表現が含まれていないかを細かくチェックした。

作品の向こう側にある「命」への想像を

 もう一つが「クリエイター・パートナーシップ」。クリエイターの中には野生生物や自然に対し、深い敬意と忍耐を持って向き合い、対話を重ねながら創作活動をされている方もいる。

 しかし、誰もが発信者になれる今の時代では、丁寧な創作活動よりも、一瞬の注目を集める内容の方が評価されやすい面もある。私たちは、本来評価されるべきクリエイターたちの情熱や、作品に込められた思いがより多くの人に届くよう、作品の「向こう側」を発信し、応援していきたいと考えている。

 その一つが『クリエイターインタビュー』だ。作品の「向こう側」にある制作プロセスや自然との向き合い方、そして作品に込められた思いや願いを取材し、発信していく。動物絵本作家の高岡昌江さんは、丁寧な取材と生き物への深い敬意から、安易な「かわいい」という言葉だけに頼ることなく、思いを込めた真摯な言葉を一つひとつ紡ぎ出してくれた。

 また、元昆虫研究者のイラストレーター、横山拓彦さんは、研究者ならではの鋭い観察眼をもって、見る者を圧倒する細密画を描き、生き物の世界の奥深さや驚きを伝えてくれる。クリエイターたちが示すこうした自然への敬意、創作への情熱、作品に託された思いや願い、そして彼らのまなざしを通して改めて発見する“生き物たちのわくわくするような魅力”を伝えるインタビューを、順次公開していきたい。

クリエイターとの協力を通じて、子どもたちに自然の大切さを伝えたイベント(TBS「地球を笑顔にする広場」)展示より
クリエイターとの協力を通じて、子どもたちに自然の大切さを伝えたイベント(TBS「地球を笑顔にする広場」)展示より

 メディアが持つ力は、野生動物にとって「両刃の剣」だ。大切なのは、私たち一人ひとりがメディアの情報にどう向き合うか。一つ一つの映像や写真の裏にある影響を想像し、画面の向こう側にいる「命」を思うこと。そうした意識の変化こそが、「野生生物を守りやすい社会」を築くための、確かな一歩になると信じている。

筆者が描いたリカオンのイラスト
筆者が描いたリカオンのイラスト
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超早期に疾患を予測・予防できる社会へ ムーンショット研究者たちが公開対話 https://scienceportal.jst.go.jp/explore/reports/20250512_e01/ Mon, 12 May 2025 06:51:56 +0000 https://scienceportal.jst.go.jp/?post_type=explore&p=54032  健康で長生きしたい―大小あれど、ほとんどの人が抱く願いと言って良いだろう。そんな願望に一歩でも近付こうと、国が推進する研究開発プロジェクトがある。ムーンショット型研究開発事業の目標2「2050年までに、超早期に疾患の予測・予防をすることができる社会を実現」(以下「目標2」)だ。研究開始から約4年半が経過した3月29日、東京・お台場の日本科学未来館で「公開フォーラム2025―治すから防ぐ医療へ(主催:科学技術振興機構=JST)」が開かれた。

目標2全体を統括するプログラムディレクター(PD)を筆頭に、5つのプロジェクトでリーダーを務めるプロジェクトマネージャー(PM)が勢ぞろい。現地・オンライン合わせて170人超が参加した。
目標2全体を統括するプログラムディレクター(PD)を筆頭に、5つのプロジェクトでリーダーを務めるプロジェクトマネージャー(PM)が勢ぞろい。現地・オンライン合わせて170人超が参加した。

「未病」段階で積極介入、健康な状態に引き戻す

 かの楊貴妃が不老不死を追い求めた時代から1300年が経った今も、健康や長寿は人類にとって不変のテーマであり続けている。むしろその願望は、個人の域を超えたといって良い。ひっ迫する医療リソースや膨らみ続ける社会保障費が、私たちの将来に暗い影を落としているからだ。

 加えて、ひとたび重大疾患を患うと、生命の危機はもとよりQOL(生活の質)までもが著しく低下する。10のプロジェクトを傘下に置くムーンショット事業共通のミッションである「ウェルビーイング(心身の健康)」を成し遂げるためにも、「治すから防ぐ医療へ」の実現は悲願といえるだろう。

目標2のPDと、5人のPMが担当するプロジェクト(PJ)名(イベントのフライヤーより)
目標2のPDと、5人のPMが担当するプロジェクト(PJ)名(イベントのフライヤーより)

 ところで、現在の「医療」が既に病気へ罹患した人に対処する行為であるのは言うまでもない。しかし目標2が目指すのは、発病に至る前の「未病」段階を予測し、健康な状態に引き戻すべく積極的な介入を行うことで、重大疾患への移行や重症化を未然に防ぐというもの。だが、未病の定義がややこしく難しい。

膨大なデータを数理モデルで分析、定量的な特定へ

 この難しさの定義付けに挑んだのが、1人目の登壇者の合原一幸さん(東京大学 特別教授/名誉教授)。数理工学の専門家である合原さんは未病の定義について「従来は定性的に幅広く捉えられており、『ここが未病の状態だ』と特定するのが難しかった。しかし膨大な生体データを数理解析することにより、定量的な特定が可能になった」と研究の成果を強調した。

合原一幸さん
合原一幸さん

 健康な人は、多少体調を崩しかけても休息をとれば回復することが大半だ。他方、未病状態にある人は、そのまま放置すると状態が大きく悪化して発病してしまう傾向にあるという。こうした人のさまざまな生体指標を数理解析すると、発病の直前に遺伝子発現のゆらぎが異常に増えるなどの変化が起こることが分かり、合原さんはこの変化をもとに介入すべき未病状態の人を特定するに至った。

健康状態から未病状態を経て、病気状態へと至るイメージを描いた図。合原さんは未病状態の人に発現する生体指標の変化を「ゆらぎ」と表現している(合原さん提供)
健康状態から未病状態を経て、病気状態へと至るイメージを描いた図。合原さんは未病状態の人に発現する生体指標の変化を「ゆらぎ」と表現している(合原さん提供)

 非常に興味深かったのは、こうした予兆検出の方法論は電力網の安定性や経済動向、交通渋滞などの場面とも共通するという合原さんの弁。目標2では多くのプロジェクトが合原さんらと組み、数理モデルや数理解析を取り入れた分野横断型の研究で成果を上げている。医療分野へデータサイエンティストが盛んに参画するようになれば、さらに研究が加速されるのではと期待を抱かせる内容だった。

がん抑制メカニズムを解明、社会制度改革の機運醸成

 ここからは疾患別の事例が紹介され、初めに登壇したのは大野茂男さん(順天堂大学大学院医学研究科 特任教授)。大野さんの研究は、がん化する前の症例を集め、そこで何が起きているのかを調べるもの。こうした症例の収集は従来あまり行われてこなかった。

大野茂男さん
大野茂男さん

 既知のとおり、がんは細胞の遺伝子変異が蓄積されることによって引き起こされる。しかし最近の研究では、正常な細胞でも遺伝子変異が起きていることが分かってきた。そこで大野さんらの研究チームは、人間には本来、遺伝子が変異してもがん化には至らないよう抑制するメカニズムが備わっているはずだと仮説を立て、がん発症プロセスの解明などを推進している。

 課題もある。従来行われていなかった取り組みであるが故に、普及には社会制度改革や臨床試験の迅速化などが求められることだ。そのために大野さんは、国民と産業界を巻き込んだムーブメントが必要だと考えており、「研究成果が機運醸成の引き金となれば」と意気込んでいた。

糖尿病を予測、スマートウォッチや顔画像も活用

 続いて登壇した片桐秀樹さん(東北大学大学院医学系研究科 教授)は、糖尿病を研究対象としている。厚生労働省の最新調査によると、国内で糖尿病の治療を受けている人の数は550万人超。がんや脳卒中と並び、国の5疾病に数えられる国民病だ。

片桐秀樹さん
片桐秀樹さん

 糖尿病の厄介なところは、症状が現れないうちに進行するところにある。そこで、採尿や採血といった患者に負担がかかる従来型の手段ではなく、簡便な方法で日常的なモニタリングを促進することで「早く知って、早く防ごう」というのが片桐さんのチームの主な取り組みだ。

 チームの研究では、スマートウォッチを活用した方法はもちろんのこと、顔の静止画像から糖尿病の超早期予備軍であることを予測する技術にも見通しが立ったという。いずれも特許出願できるところまで研究が進んでおり、実用化が期待される。

 片桐さんは「医者には患者の生活を制限する権利などない。患者が追求する幸せをできる限りサポートしたい」と患者に寄り添う姿勢を示し、話題提供を結んだ。

認知症の兆候をつかむ、脳と臓器の相互関係から

 休憩をはさんだ後半のトップバッターは高橋良輔さん(京都大学大学院医学研究科 特命教授)。高橋さんは認知症の原因として指摘される、脳に異常たんぱく質がたまるメカニズムを解明するとともに、脳との「相互関係」によって臓器へ出現する兆候をつかみ、発症を未然に防ごうとしている。

高橋良輔さん
高橋良輔さん

 この相互関係として興味深いのが、異常たんぱく質は脳へ蓄積する前に腸管にたまるケースが多いことで、認知症の1つであるパーキンソン病の発症前には便秘を訴える人も多いという。ただし、便秘だけを理由に認知症を疑うことは当然不可能であり、研究によって因果関係をさらに証明していくことが必要だと高橋さんは考えている。

 高橋さんは未病期に適切な介入をするための具体策として「バイオマーカーや発症予防法の開発が最終目標」と意欲を語った。

ウイルス感染時の身体反応、パターンごとに予防策を開発

 最後の登壇者である松浦善治さん(大阪大学微生物病研究所 特任教授)は、やや趣が異なる感染症の未病期介入に取り組んでいる。感染症は先の話題提供にあった疾病と違い未病期が短い場合が多く、その兆候も捉えづらい。そこで松浦さんは、重症化に至るメカニズムなどの解明を目指している。

松浦善治さん
松浦善治さん

 研究チームはウイルスへ感染したときの身体反応を、免疫学と数理科学の連携によって分類。パターンごとの特徴に応じた予防策を開発することで、未知の感染症に対する超早期治療を可能にし、まん延を防ごうとしている。

実験で得た膨大なデータを数理科学チームに託し、自然界にあまたある感染症のパターン分類を目指している(松浦さん提供)
実験で得た膨大なデータを数理科学チームに託し、自然界にあまたある感染症のパターン分類を目指している(松浦さん提供)

 新型コロナウイルス感染症やエボラ出血熱など、近年人類を不安に陥れた感染症の多くは動物が感染源とされる人獣共通感染症だ。ただ、これ自体は驚くことではなく、新興感染症の実に75%が人獣共通であると松浦さんは指摘。人為的要因で生態系の健全性を損なうことがパンデミックを招くとして、「ワンヘルス(人間、動物、環境の一体的な健全状態を目指す考え方)」の重要性を訴えた。

外れるかもしれない治療をするか、患者側の姿勢も問われる

 最後のパートでは全登壇者によるパネルディスカッションが行われた。この日ファシリテーターを務めた科学コミュニケーターの本田隆行さんは、10代学生が事前に寄せた「『予防する医療』では、特定する条件が限られていても病気だと診断するのか」という質問を紹介。

本田隆行さん
本田隆行さん

 この問いに反応した目標2プログラムディレクターの祖父江元さん(愛知医科大学 理事長・学長)は「簡単なようで、本質的な難しい質問だ」と頭をかいた。「患者へリスクとして伝え、予防する努力を促すことはできる。しかしいつ頃、何%の確率で発症するのかを問われると容易ではない」と、今の医療における「診断」との違いを指摘。膨大なデータに基づいて多角的に確度を高めることが肝要だとした上で、「天気予報のような確率論なので、利用価値を高めるための仕組みも目標2で試行する必要があるだろう」と考えを述べた。

祖父江元さん
祖父江元さん

 これに対し高橋さんが「降水確率30%だと、傘を持っていく人といかない人に分かれるだろう。外れるかもしれない可能性を許容して、それでも治療するか否か、患者は選択を迫られることになる」と課題を上げると、「患者側の姿勢も問われてくる」と本田さんも合いの手を入れた。

7割が容認の姿勢を見せる、課題はルールづくり

 パネルディスカッションの後半は、ELSI(倫理的・法的・社会的課題)についての話題が展開された。従来にない概念ともいえる未病期への介入は、先の議論にもあったとおり患者側も無関心ではいられない。目標2の一環として日本科学未来館で行った調査では、予防のために生体データが使われることに7割が容認する態度を見せたというが、比較的高関心層が集まる場で行われた部分は割り引いて捉える必要があるだろう。

 そもそも詳細な生体データは個人情報に限りなく近い、慎重に利用されるべき情報だ。このことは目標2の面々も課題として捉えており、ルールづくりを急ぐ発言が度々見られたのも印象的だった。

 祖父江さんは目標2の進捗について「いくつかの光が見えてきた」と手応えを語るとともに、「次の世代に大きなインパクトを残せる」と研究の価値に触れた。その「価値」を示すかのように、ムーンショット事業には巨額の国費が投入されている。だからこそ国民へ成果や課題を包み隠さずに伝えていく場は、今後も必ず続けていくべきだろう。

 そして、国民をしっかりと巻き込んだ議論により、今の医療では定義できない「未病期介入」のあり方が形づくられていくことに期待したい。

イベント後には日本科学未来館の科学コミュニケーター加藤昂英さんによる館内ツアーも催された
イベント後には日本科学未来館の科学コミュニケーター加藤昂英さんによる館内ツアーも催された
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「柔軟な心を育てる教育」「考え続けること」の大切さ共有 ハラリ氏囲み東大で公開イベント https://scienceportal.jst.go.jp/explore/reports/20250507_e01/ Wed, 07 May 2025 04:53:39 +0000 https://scienceportal.jst.go.jp/?post_type=explore&p=53975  世界各国で出版された「サピエンス全史」などの著者でイスラエルの歴史学者・哲学者、ユヴァル・ノア・ハラリ氏が来日した。その言動が注目されている同氏を囲んだ公開イベント「デジタル時代の教育と科学の役割」が3月17日に東京大学安田講堂(東京都文京区)で開かれた。 議論や意見交換を通じてハラリ氏は「加速化する時代の変化に対応できる『柔軟な心』を育てる教育の重要性」を強調した。

 ハラリ氏は斬新な視点で人類史を考察し、「世界経済フォーラム年次総会(ダボス会議)」などの国際会議や各国での講演の場を通じ、人工知能(AI)に代表される先端テクノロジーの進歩が人間社会に与える影響について積極的に発言している。この中で、過去の技術が人間の手にあった道具であったのに対し、AIは自ら決定する能力を持ち得るため、人間の対応力が問われるなどと問題提起してきた。

 東大安田講堂で行われた公開イベントは東京大学国際高等研究所東京カレッジ、ドイツ日本研究所、河出書房新社が共催した。科学と社会の関係に詳しい林香里・東京大学理事・副学長・教授と江間有沙・東京大学東京カレッジ准教授も参加。江間氏はどんなにAIが進歩しても「世界の問題を考え続けること」の大切さを指摘した。AIの進歩は予測不可能だが、利便性とリスクをしっかり認識しながら開発と規制のバランスを取ること、そして人間しか持たない感情や共感力、創造性の可能性に期待する視点が印象的だった。

 約1時間半にわたる、ハラリ氏を中心とした貴重なやり取りの中からテーマに即したポイント部分をレポートする。

「デジタル時代の教育と科学の役割」案内図の一部(東京大学国際高等研究所東京カレッジ提供)
「デジタル時代の教育と科学の役割」案内図の一部(東京大学国際高等研究所東京カレッジ提供)
ユヴァル・ノア・ハラリ氏
ユヴァル・ノア・ハラリ氏

生成AIの能力を評価しつつリスクを警鐘

 公開イベントのやり取りやハラリ氏の発言の真意を理解するために同氏のプロフィールを改めて紹介する。

 ハラリ氏は1976年、イスラエル北部のキリヤトアタ生まれの49歳だ。同国のヘブライ大学、英国のオックスフォード大学で中世史、軍事史を学び、2002年に博士号取得。現在、ヘブライ大学教授、英ケンブリッジ大学特別研究員を務めている。

 「サピエンス全史」は世界60カ国以上で出版されたとされる。このほか「ホモ・デウス」などの著書の累計は全世界で4500万部を超え、邦訳も多い。近著に情報ネットワークの歴史と今直面する危機の関係に焦点を当てた「NEXUS 情報の人類史」(河出書房新社)がある。

 2018年のダボス会議では基調講演を行い、AIやバイオテクノロジーの発展により人間の身体や心、社会構造にどのような影響を与えるかの課題をいち早く指摘。20年のダボス会議でも講演し、AIにより個人データが収集、解析される危険性を強調している。

 ダボス会議での発言は出席した各国の指導者に大きなインパクトを与えた。報道内容や公開された講演内容から判断される2回の会議での共通した問題意識のポイントは、テクノロジーの進歩が人間の自由や社会構造に与える影響と、個人・プライバシー保護の重要性、さらに地球規模の課題に対処するための国際協力・連携の重要性だ。

 最近では、ここ数年世界的に普及している生成AIの利便性と課題についての言及も注目されている。AIの発展を否定せず、その潜在能力を評価しつつ無規制、無制限に使用するリスクへの警鐘だ。こうした危機感がこの日の公開イベントでの発言の背景にある。

ユヴァル・ノア・ハラリ氏
ユヴァル・ノア・ハラリ氏

AIアルゴリズムが人間に代わる時代に

 公開イベント「デジタル時代の教育と科学の役割」はドイツ日本研究所所長のフランツ・ヴァルデンベルガー氏がモデレーターを務めた。近著「NEXUS 情報の人類史」を引き合いに「この本の中で情報は『ストーリー(物語)』を作るために使われていると書いているが」とその意味をハラリ氏にたずねた。

 ハラリ氏は「ストーリーを語れる人は力がある。今やそうした力を持てるのは人間だけでなく、AIも新しいストーリーを開発できる存在だ」と述べた。ストーリーを使って情報を伝えたり、印象付けたりする手法「ストーリーテリング」が注目されており、最近ビジネスやマーケティングなど広い分野で活用されているこの手法を念頭に置いた発言とみられる。

 東京大学副学長を務めながら社会情報学担当の教授で、同大学Beyond AI研究推進機構「AIと社会」創設ディレクターも務める林氏は、メディアのデジタル化が進んで誰もが発信でき、ジャーナリストになれる現象を指摘した。そして「誰でも社会のどこにいても自分自身のストーリーを作り出している」とAI時代、SNS時代の新たなメディアやジャーナリズムをめぐる課題を指摘し、「事実確認(ファクトチェック)は今のジャーナリストの世界では難しいが、デジタル化が進んでいる時代ではしなければならない」と述べた。

 「これまで人間が担ってきた編集の仕事を(AI)アルゴリズムが行うようになった。フェイスブックも旧ツイッター(X)もアルゴリズムが編集の仕事を人間から奪っている。AIが単に人間の書いた記事を編集するだけでなく自分でストーリーをつくる時代が来ている」。ハラリ氏はこう強調している。

「情報ネットワーク」の歴史と今直面する危機の関係に焦点を当てた「NEXUS 情報の人類史」(上・下)の表紙(河出書房新社提供)
「情報ネットワーク」の歴史と今直面する危機の関係に焦点を当てた「NEXUS 情報の人類史」(上・下)の表紙(河出書房新社提供)

求められる「AIガバナンス」

 東京大学東京カレッジの江間氏は科学技術社会論が専門で、AIやロボットを含む情報技術と社会の関係について研究し、特にAIガバナンスの問題に詳しい。

 江間氏は「AIアルゴリズムは我々の世界や認知的考え、ソーシャルメディアといったものに影響を及ぼしている。ただ、ファクトチェックとかAIガバナンスとか(人間による)メカニズムが良い方で機能するならば悲惨な、カオスのような状況にはならないのではないか」と述べ、AIによる製品やサービスに対して人間が責任を持つことの重要性を強調した。

 ハラリ氏は「AIは行為主体として大きなパワーを持っていて、今や金融の世界でも軍事の世界でも行為の主体になっている」としながらも、「究極的な責任はやはり人間にある」と江間氏と認識を共有していた。そして、AIアルゴリズムのガバナンスはSNSを運営する事業者が担うことから「事業者の責任」を指摘。「AIが関係していることが開示されなければならない」と語り、必要に応じて法律による規制も必要との考え方を示している。

 討論、議論はAIと教育の問題に移った。「社会のデジタルトランスフォーメーション(DX)化が進んで教育が果たすべき役割は何か」はこの日の公開イベントの重要テーマだ。

 「世界は10年後どのようになるか分からない。このため我々教育者の責任はより大きくなっている」「人間は生きている間はずっと(時代、社会の)変化を学習し続ける。今、最も重要なのは教育が、加速化する(時代の)変化に若者が対応できる『柔軟な心』を育てることができるかどうかだ」。イスラエルのヘブライ大学の教壇にも立つハラリ氏のこの指摘は重い。

左からヴァルデンベルガー、ハラリ、林、江間の各氏
左からヴァルデンベルガー、ハラリ、林、江間の各氏

AIが進歩するだけに「批判的思考」が重要

 そしてハラリ氏は、AIが持つことができない、人間特有のものが感情であり、意識だという。大学の教育でも「身体と感情を(上手に)つなげなくてはならない」と言う。「身体」が何を指すのか抽象的だが、DX化の中で生じるさまざまな感情を自分(身体)がうまくバランスを取る大切さを説いた発言とみられる。

 今の時代の教育の役割について江間氏はこう述べている。「世界に対し、社会に対して好奇心を追求し、継続して考え続けることがよいことであると教えることが教育の役割だと思う。生成AIに質問すると良い答えもあるが間違った情報も含め何らかの答えが戻ってくる。このため自分で考えることをやめてしまうリスクがある。私たちは社会的、政治的、環境的な問題、世界に関する問題について考え続けなければならない。継続して考え続けることがクリティカルシンキング(批判的思考)につながるかもしれない」。

 生成AIは教育の現場でも普及している。AIによる社会の利便性が注目されるだけに批判的思考がますます重要になってくるのだという。

 東京大学の副学長でもある林氏はAI時代に対応するために学内で進めている学際的取り組みの具体例を紹介した。続いてモデレーターのヴァルデンベルガー氏が、「大学は(基本的に)マス教育、大衆教育だがAIを使うことによって教育をパーソナライズ(個別化)できるのではないか。そうすると危険もあるのではないか」と述べ、ハラリ氏に教育の個人化について考えをたずねた。

 ハラリ氏は「教育の個別化はAIのポジティブな可能性の一つだ」としつつ、AIと「親密な関係」をつくってしまうと人間同士の双方向の親密性が阻害される恐れがあるとの見方を示した。

江間有沙氏
江間有沙氏
林香里氏
林香里氏

自分を見失わないように「情報ダイエット」が必要

 公開イベントの終盤で議論のポイントは「AI規制に関して日本が果たせる役割」に移った。

 江間氏は2023年5月に広島で開かれた先進7カ国首脳会議(G7広島サミット)で決まったAI規制の国際枠組み策定のための「広島AIプロセス」を紹介。「日本は米国のようなAI技術は持っていないが、開発競争が激化する中で米国、欧州、中国とも異なる日本は仲介者になれるのではないか」と述べた。また開発と規制は車の両輪で両者のバランスの重要性も指摘した。

 ハラリ氏は「AIが人間のコントロールを外れてしまわないように全ての国が協力すべきだ」と国際協調の重要性を訴えた。林氏は「日本社会はお互いの信頼があり、安心感がある、安定していると感じられる社会だ。相手を思いやる、共感するという視点から日本は(AIの開発と規制について)何か貢献できるのではないか」と語っていた。

 公開イベントの最後に会場からの質疑が行われた。「友人が陰謀論を信じ始めている。どうしたらいいか」との質問に対するハラリ氏の回答は「多くの人が陰謀論に陥るのは彼らが社会に対する信頼を失い、阻害されていると感じ孤独感を持っているからで、まずは彼らと事実に基づいて議論することで、鍵は互いに共感を持つことだ」。

 また高校生の「SNSの投稿で『いいね』を期待するあまり自分の個性が失われつつあると感じる」との問いに対しては「ジャンクフードばかり食べていると健康を害するようにジャンク情報しか入らないと不健康な精神状態になる。(ネット上にあふれる)情報のダイエットをする必要がある」とアドバイスしていた。

 ハラリ氏を中心とした4人の議論、討論は「AI技術の進歩に対して人間ができること、人間がすべきこと」を考える上で示唆に富んでいた。

進行役のヴァルデンベルガー氏(一番左)の問いかけを聞くハラリ、林、江間の各氏
進行役のヴァルデンベルガー氏(一番左)の問いかけを聞くハラリ、林、江間の各氏
ユヴァル・ノア・ハラリ氏
ユヴァル・ノア・ハラリ氏
公開イベント会場になった東京大学安田講堂
公開イベント会場になった東京大学安田講堂
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ノーベル賞受賞者が語る生命の未来~先端技術 「ノーベル・プライズ・ダイアログ東京2025」開催 https://scienceportal.jst.go.jp/explore/reports/20250423_e01/ Wed, 23 Apr 2025 06:14:57 +0000 https://scienceportal.jst.go.jp/?post_type=explore&p=53903  ノーベル賞歴代受賞者が集い、自身の研究の講演や、これからの科学について議論を交わすイベント「ノーベル・プライズ・ダイアログ東京2025」が3月9日、横浜市で開催された。今回の副題は「生命の未来~先端技術とわたしたちのこれから~」。人間らしさと科学のかかわり、遺伝子に関する技術の進歩、コンピューターや生成AI(人工知能)など多岐に渡るテーマについて研究者たちが話し合った。(カッコ内はノーベル賞受賞年と分野)

ノーベル・プライズ・ダイアログ東京2025では、ノーベル賞受賞者らがAIとヒトとの違いなどについて討論した(2025年3月、横浜市のパシフィコ横浜)
ノーベル・プライズ・ダイアログ東京2025では、ノーベル賞受賞者らがAIとヒトとの違いなどについて討論した(2025年3月、横浜市のパシフィコ横浜)

 イベントはスウェーデンのノーベル財団組織と日本学術振興会の共催で行われた。

ヒトとロボットは何が違うのか

 まず、ヒトの歴史をたどるために、スバンテ・ペーボ氏(2022年、生理学・医学)がネアンデルタール人はなぜ滅んだのか、また、現生人類とどのように違うのかについて、自身の研究内容を踏まえて講演した。ペーボ氏は4万~5万年前の骨をゲノム解析し、ネアンデルタール人固有のDNAを調べている。

 ペーボ氏によると、ネアンデルタール人のゲノムの中には現生人類に受け継がれているものがあるという。しかし、現生人類が世界各地に広がり、人口が増え、文化や技術の進化があって、ネアンデルタール人は滅んだ。

今の人の祖先はアフリカ大陸から広まったと語るペーボ氏(2025年3月、横浜市のパシフィコ横浜)
今の人の祖先はアフリカ大陸から広まったと語るペーボ氏(2025年3月、横浜市のパシフィコ横浜)

 このように、人間も「絶滅」する可能性があるというプロローグ講演の後、人間とロボットの関係性について研究者が語り合った。

 リチャード・ロバーツ氏(1993年、生理学・医学賞)は、ヒト発祥の地であるアフリカには動物も多く住んでいるが、これら動物と人間を分けているものは「脳」であると指摘した。そして、今回のシンポジウムのテーマである先端技術に絡め、ロボットは「洞察や問いを立てることができるのか。好奇心を持っているのか」と問題提起した。

 これに乗じ、元京都大学総長で霊長類学者の山極壽一氏が「ゴリラと(人が)話すとき、態度や表情でお互い理解できる。ロボットは曖昧(あいまい)さを伝えたり、感情的な会話をしたりすることはできるのか」と尋ねた。ゴリラは、時として我々を驚かせるような高い知能を示すとされる。

「現生人類は知識に基づき知性が生じ、複雑な情報の統合化ができるようになった」と解説する山極壽一氏(スクリーン内、一番右の椅子、2025年3月、横浜市のパシフィコ横浜)
「現生人類は知識に基づき知性が生じ、複雑な情報の統合化ができるようになった」と解説する山極壽一氏(スクリーン内、一番右の椅子、2025年3月、横浜市のパシフィコ横浜)

 これに応じたのは、ロボット学者で、2025年大阪・関西万博でアンドロイドのパビリオンを出している大阪大学大学院基礎工学研究科教授の石黒浩氏だ。石黒氏は、両氏が指摘するような難解な対応は現時点では難しいとした。また、「ロボットかどうかは、会話で判別できる。短い会話ならロボットとできるが、長くなればヒトでないと分かる」とした上で、「あと20~30年で自然な会話ができるようになるはずだ」と展望を語った。

会場の一角に設けられた石黒浩氏のアンドロイド。話しかけると会話ができる(2025年3月、横浜市のパシフィコ横浜)
会場の一角に設けられた石黒浩氏のアンドロイド。話しかけると会話ができる(2025年3月、横浜市のパシフィコ横浜)

 だが、ロバーツ氏は「ヒトが賢くなるに従いクリエイティブになった。実を採るだけでなく、農業をやるようになった。ロボットは農業ができますか」とより踏み込んで問うた。そして、「誰がロボットをコントロールするのか。ロボットは我々を助けるのか。例えば科学者同士は意見が一致しなくても、殺さないで話ができる。AIは間違った方向で使わないようにしなければならない。プログラムに独裁主義が入っているなら取り除かないと。誤情報を入れないことが大切で、正しい問いをすることが必要だ」と、科学技術の使用に際し、警鐘を鳴らした。

 この後のセッションでも、AIや量子コンピューターには、プライバシーに注意した事項や正しい研究データ、人権に配慮した情報を入れるべきだという指摘が各研究者から相次いだ。

教育への期待 SNSにとらわれず真実見抜け

会場には様々な立場の研究者や市民が集まり、立ち見が出るほど盛況だった(2025年3月、横浜市のパシフィコ横浜)
会場には様々な立場の研究者や市民が集まり、立ち見が出るほど盛況だった(2025年3月、横浜市のパシフィコ横浜)

 続いて、「未来」をテーマに、近年横行しているフェイクニュースや疑似科学との向き合い方を討議した。

 まず、ロバーツ氏が過去にあった話として、「GMO(遺伝子組み換え作物)は収量・栄養を改善していけるが、ヨーロッパで米モンサント社(当時、独バイエルが買収)がGMOを展開しようとすると、グリーンピースという(環境保護)団体が『危険だ』と言い出した。反対すると(団体に)寄付が入ってきて、ハリウッドでもプロパガンダが流れた」という事例を挙げた。米ソーク研究所教授のジョセフ・エッカー氏は「テクノロジーのメリットが伝えられていない」とため息をつき、同調した。グリーンピースは、GMOは危険が多いとして、なくすよう活動している。

 この解決策として、科学とは少し異なる立場からも意見が出た。経済学者で九州大学主幹教授の馬奈木俊介氏は「ある物事についてリスクと考える人は、知識が増えても考え方を変えない。フェイクは真のニュースより早く広まることが知られるようになってきた。行動科学からいえるのは、(正しい情報の)出発点が重要だ」と述べた。

 ロバーツ氏は「人々は教育を渇望しているのに、教育をSNSが乗っ取ろうとしている。科学は(反対運動に)対抗したくても金を持っていない。ノーベル賞受賞者197人はGMOが良い技術であると署名している」と口にすると、馬奈木氏が「科学者がソーシャルメディアに届ける能力を持っていなくても、国連などの力を借りてやっていくべきだ」と進言した。

 エッカー氏は「子どもが救われるならそれを支持する。例えばインスリン注射が、『遺伝子組み替えだから与えない』とは言わないだろう」としつつ、「科学的に素晴らしいと言うだけでなく、相手の意見も受け入れる必要がある」と歩み寄る姿勢をみせた。

5歳の精神を忘れず、恐れず挑戦を

今回のイベントに登場したノーベル賞受賞者一覧
今回のイベントに登場したノーベル賞受賞者一覧

 最後のセッションでは、ノーベル賞受賞者のベルナルト·フェリンハ氏(2016年、化学)、アダ·ヨナット氏(09年、化学)、アンドリュー·ファイアー氏(06年、生理学・医学)、ウィリアム·D·フィリップス氏(1997年、物理学)、リチャード·ロバーツ氏、の5人が一堂に会し、当日の感想や、来場した研究者らへ伝えたいことを述べた。

 まずフェリンハ氏が「若い研究者と話して、エネルギーをもらえた。キャリアをどうするかといった話ができ、大学に身を置く理由がはっきりした。新鮮な気持ちになった」と切り出すと、ファイアー氏も「研究をすることは、コミュニティに貢献するリーダーになれると思う。誰かに言われて研究しているわけではない。若い研究者にはより良い世界を作っていただけると思うので、先に感謝しておく」と頭を下げて謝意を示した。

 続いて、フィリップス氏は「ノーベル賞受賞者は特別な科学者と思っているかもしれません。それは違う。確かにそういう人もいる。例えばシュレディンガー、アインシュタイン、ハイゼンベルクのように……そうならなくていい。クリエイティブはどんな環境でも生まれる。新しいことを学べば、価値がある」とあらゆる研究者にもチャンスがあると説いた。

 研究を続けるアドバイスとして、ロバーツ氏は「なんで失敗したのかな、と考えることができるから、成功しなくてもいい。学生が私のところに来て『うまくいきませんでした』と言うとき、私にとってはとても幸せな瞬間だ。私自身もこうしろ、ああしろと言われるのはいやだった。間違っていると思ったら、正しい方向を考えること」とした。ヨナット氏も「若い頃、なぜ、いかに自然はこのように働くのかと思った。なぜそうなのか、なぜこっちの方向に働くのかを考えてください」とゆっくりとした口調で呼びかけた。

今年86歳になるヨナット氏(左から2人目)は、娘に付き添われて会場に姿を見せた(2025年3月、横浜市のパシフィコ横浜)
今年86歳になるヨナット氏(左から2人目)は、娘に付き添われて会場に姿を見せた(2025年3月、横浜市のパシフィコ横浜)

 するとおもむろにフィリップス氏が立ち上がり、「私が液体窒素を幼稚園に持って行き、こぼすと、煙が出てすごく驚く」とわっと驚くジェスチャーをし、「その5歳の精神を忘れないこと」と締めくくると、会場からは盛大な拍手が沸き起こった。

フィリップス氏が席を立って会場の研究者に力強いエールを送ると、割れんばかりの拍手が起きた(2025年3月、横浜市のパシフィコ横浜)
フィリップス氏が席を立って会場の研究者に力強いエールを送ると、割れんばかりの拍手が起きた(2025年3月、横浜市のパシフィコ横浜)

 「わたしたちのこれから」は、AIがフェイクをさも本物かのように見せる一方で、恩恵を受けるという、いわば毒にも薬にもなるAIをどう取り扱うか、が大切になってくるだろう。現に、2024年のノーベル賞はAI関連が受賞している。

 ノーベル賞科学者というと恐れ多く、生真面目な方々のように思えるが、実は非常にユーモラスで、チャーミングな側面を持ち合わせていることが分かり、温かい気持ちで会場を後にした。

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【文理融合】「社会工学」〜データサイエンスを駆使して分野横断的な解決策を考える 讃井知さん https://scienceportal.jst.go.jp/explore/interview/20250421_e01/ Mon, 21 Apr 2025 09:31:05 +0000 https://scienceportal.jst.go.jp/?post_type=explore&p=53884  【文理融合】の第5回は「社会工学」。社会学と工学が融合した学問であり、その歴史は意外と古い。ところが、研究対象の社会問題は文化やインフラ、街の治安など多岐に渡り、分野横断的な解決策が求められるため、その全容は見えづらい。今回は、社会心理学をバックグラウンドに、データサイエンスを駆使して社会工学のアプローチで防犯や防災に取り組む、筑波大学システム情報系助教の讃井知(さない・さと)さんに話を伺った。

今年3月に筑波大学へ戻った讃井さん。インタビューは取材当時の所属先である上智大学で行った
今年3月に筑波大学へ戻った讃井さん。インタビューは取材当時の所属先である上智大学で行った

開学当時に定義を巡って侃侃諤諤の議論

―社会工学はどんな学問ですか。

 私が卒業した筑波大学理工学群社会工学類、いわゆる「つくばの社工」では、「社会問題のメカニズムを科学的・客観的に理解し、新たなよりよい社会システムを提案」する学問と定義しています。

 私が大学院在学中の2018年、つくばの社工の歴史を記録するためのプロジェクトが立ち上がり、私も参加させていただきました。そもそも自分たちが社会工学を深く理解していないのではないかと思ったからです。開学当時の教職員をインタビューする中で、社会工学の定義を巡る侃侃諤諤(かんかんがくがく)の議論があったことを知りました。端的に言うと、研究手法としては科学を用いない「社会学」に、科学と数学を応用する「工学」を取り入れた学際的な学問なので、定義しづらいのです。

 実は、社会工学の学会はなくて、私が所属しているのは心理学の学会です。従って社会工学は、さまざまな分野の研究者が社会問題にアプローチする学問といえます。共通しているのは、あくまでも「科学」であること。社会問題を科学的に分析して、因果関係を特定しなければいけません。

在学中の2013〜15年には「つくば観光大使」に就任。ラジオのパーソナリティやセグウェイツアーのガイドなどを務め、つくば市の魅力を伝えてきた(ご本人提供)
在学中の2013〜15年には「つくば観光大使」に就任。ラジオのパーソナリティやセグウェイツアーのガイドなどを務め、つくば市の魅力を伝えてきた(ご本人提供)

客観的指標として有効な心理学の知見

―讃井さんの専門は心理学になりますか。

 はい、専門は心理学のなかの「社会心理学」です。個人の内面だけではなく、一人ひとりの感情や行動が、他者や周りの環境によってどのように影響を受けるのか、どのように相互作用するのかを研究しています。

―人間の感情や行動を扱う心理学は、科学的な分析が難しそうです。

 ところが、心理学は問いの立て方から観察、実験、調査、データの扱い方、分析、研究成果の発表に至るまで、科学の研究手法を取り入れて、進化してきました。近年ではさまざまな場面でデータ分析によるエビデンスが求められていますが、公共政策の現場も例外ではありません。税金を使うからこそ、客観的な指標が必要とされます。そのときに有効なのが、心理学の知見。個々の人たちの考えは、そのままでは主観ですが、科学的な手続きでデータにすると議論の俎上に上げられます。

 データは人間の対極にあるように思えるかもしれませんが、生身の人間の集まりといえます。データサイエンスに基づく心理学では、データは自分以外の多様な人の集まりと考えるのです。

 社会心理学の父といわれているクルト・レヴィンが「アクションリサーチ」を提唱しました。これは研究と実践のサイクルを回し続ける研究方法です。つまり、社会問題に直面している地域に研究者が入って、当事者の声を拾い上げ、実務家と連携しながら解決策を探っていきます。政策に当事者の声を反映させるのに有効な方法であり、人に寄り添った社会システムをつくる礎になるのではないでしょうか。いま、日本でも少しずつ浸透しはじめていますから。

政策立案に関心を持ったきっかけは東日本大震災

―社会工学や社会心理学に関心を持ったきっかけは?

 きっかけは、2011年3月11日に発生した東日本大震災です。岩手県に住んでいた母方の祖父母が被災しました。幸いなことに2人とも無事でしたが、古くから慣れ親しんでいた風景は変わり果てていて、こんなにも簡単に壊れてしまうんだなって……。

 その一方、地域のコミュニティの強さや公的支援制度の要件で支給の可否が決まるという実態を目の当たりにして、まちづくりや政策立案に興味を持ちました。その年の4月、大学に入学していろいろと経験するうちに、政策をつくる人になりたいという思いが強くなっていったのです。

讃井さんの研究の原点ともなった岩手県一関駅前の風景(左)と、そこで飲食店や不動産を経営していた祖父母(讃井さん提供)
讃井さんの研究の原点ともなった岩手県一関駅前の風景(左)と、そこで飲食店や不動産を経営していた祖父母(讃井さん提供)

―どのような経験をされましたか。

 政策立案を学ぶ学生団体に所属して、官公庁の方々の支援を受けながらフィールドワークに参加しました。そこで実感したのが、政策をつくる人と困りごとのある人の考えがすごく乖離していること。生い立ちや経歴の違いから問題にずれがあって、同じ日本語を話しているのに話がかみ合わず、お互いの思いが全然伝わっていないのです。そのせいで政策がうまく機能しないのはもったいないと思いました。

 ちょうどその頃、心理学の講義で消費者心理学を学びます。消費者の心理や行動、意思決定のメカニズムは、政策立案に応用できるのではないかと考えました。当時、エビデンス・ベースト・ポリシー・メイキング(EBPM)と呼ばれる、科学に基づいた政策立案と効果検証が日本でも注目されたこともあり、私の中で政策と科学が結びついて、社会工学や社会心理学にたどり着いたのです。

終始にこやかにインタビューに応えてくれた讃井さん
終始にこやかにインタビューに応えてくれた讃井さん

専門家と非専門家の壁はないほうがいい

―「話がかみ合わない」を解決する方法はありますか。

 専門家と非専門家のコミュニケーションでいうと、お互いに学び合うことでしょうか。専門家の土台となる学問には、長い伝統に裏打ちされた研究手法と知見がありますが、人間に対する包括的な理解は不足していると感じます。例えば、心理学では実験室での被験者に関する知識は蓄積されていますが、それは人間の一面です。でも、社会問題は全て人間が生み出しているから、もっと多面的な人間を知らなければいけません。

 あと、専門家としての信頼を得るためには、研究者なら研究の、政策立案者なら立案の過程を公開する。そして、その時点での「わかる/わからない」「できる/できない」を明確にしておく。信頼は、「能力」「共感性」「誠実性」の3要素で構成されますから。専門家への信頼はEBPMにも欠かせません。

 一方、非専門家は、自分で調べる習慣をつけておく。そして、専門家が論拠とする「科学的」とは何かも知っておきたいですね。

 いまは社会の変化が著しく、それに追いつくのは専門家でも非専門家でも簡単ではありません。だからこそ、みんなが常に学び続けられる仕組みが必要だと考えています。

―専門家と非専門家がお互いを知って、学び合うイメージでしょうか。

 専門家と非専門家の壁はないほうがいいですね。学問は開かれているべきだと考え、大学院在学中に「みんなの学会」というイベントを開催しました。学問分野も専門/非専門も関係なく、誰でも参加できて学び合える場です。

 社会心理学の観点でいうと「共有現実」が重要になります。独国の心理学者ジェラルド・エヒターホフは、人には潜在的に他者と情報を共有しておきたい動機があり、その結果どれだけ他者と情報を共有できたかを共有現実という感覚として定義しています。

 この共有現実を、身近な他者との間でつくろうとする傾向が人にはあって、その共有された現実感は思考や行動の動機づけとなるのです。それを通じて自分と自分のコミュニティを愛し、よりよくしたいと思う気持ちを育てる。そのためには、心のよりどころとして米国の心理学者メアリー・エインスワースが提唱した「安全基地」が必要です。

2020年に開催された「みんなの学会」をPR中の讃井さん(写真左、ご本人提供)
2020年に開催された「みんなの学会」をPR中の讃井さん(写真左、ご本人提供)

「家庭=安全基地」から広がる視野

―コミュニティは安全基地の上にしか成り立たないのでしょうか。

 そうですね。私は、被災後の祖父母と地域の人たちとの関係性を見て、個人・集団・社会の相互作用をすごく感じました。祖母はとにかく家庭的で家族を大事にしていて、祖父は地域のつながりを大事にしながら民生委員や保護司として活動している。一見すると正反対な二人を見ていて、家族の周りに地域があって、その外側に社会があるのだと改めて実感しました。そして、安全基地として家族という安定した基盤があるから、その外へと出ていけるのだと思ったのです。

―社会心理学者から見て「家族」とは。

 心理学では、乳幼児が養育者との関係のなかで築く絆を「愛着」といい、心の発達には欠かせません。愛着がしっかり形成されると、家族は心の拠りどころとなり、家庭は安全基地となります。絶対的な安心感からくる「余裕」がないと、周りには目が向きません。人は無条件に受け入れられたり、何かに挑戦して褒められたりする経験を重ねると、視野が広がっていって、「学びたい」「社会のためになりたい」という意識が芽生えるのです。

 例えば、犯罪を行った人の中には加害者なのに自分は被害者だと思っている人もいます。相手が悪く、自分は罰を与えてやったのだという理屈です。では、なぜそのような思考に至るのか。心理学的に考えると、適切な愛着が形成されていないことが大きな原因として考えられます。

 心理学者は公判において情状鑑定人として加害者に寄り添い、誕生から現在に至るまでの生育歴や家庭環境を聞きながら、その時々の思考や言動の理由を一緒に考えることがあります。信頼関係ができて、彼らが「受け入れてもらえた」と感じるようになると、少しずつ外にも目が向いていって、自分の起こした犯罪や被害者に思いが至るようになりますね。

講演中の讃井さん(ご本人提供)
講演中の讃井さん(ご本人提供)

防犯・防災は相互作用を探ることから

―被害者にならない、もっと言うと犯罪はなくす方法はありませんか。

 社会心理学の立場からは、犯罪は個人だけの問題ではなく、社会構造が生み出すものと捉えます。人と人との関係性や相互作用の中で、本人が無意識のうちに犯罪が起きている。それを裏返せば、犯罪は相互作用で解決できる。そう、私は考えています。

―犯罪の原因を「個」だけではなく、相互作用を探って策を講じればいいというのは希望があります。

 犯罪は、「潜在的加害者」「潜在的被害者」「場所」の3条件がそろうと発生すると考えられています。なので、それぞれに対応する「保護監督者」「防御者」「管理者」、例えば家族や地域住民、防犯団体などが協力しながら関わることで、犯罪の芽はかなり摘めるはずです。

「問題解決の三角形」(讃井さん提供)
「問題解決の三角形」(讃井さん提供)

 この考え方は防災にも応用できます。自然災害の発生自体は止められないことを前提に、個人の防災対策など「自助」と、地域との関わりで育む「助け合い」を平時から準備して、被害を最小限に抑え込むのです。

 防犯でも防災でも、もしものときの備えをデフォルト化することがポイントと考えられます。例えば、「震度5の地震が発生したら電車を止める」「川の水位が上がったら避難の準備をする」「外出するときは家の鍵をかける」と決めておくのです。

 人は、想定していない事態に直面すると、「正常性バイアス」が強く働いて現状維持を選択しがち。そのせいで危険にさらされることもあります。ただ、自分が体験していないことを我がことにするのはやはり難しいので、あらかじめ予防策や有事のときの行動計画を日常に組み込んでおくといいですね。

「診断する学問」と「総合診療」の礎

―社会工学の魅力とは?

 データに基づいた議論ができることです。数字が持つ説得力とロジックの美しさは魅力といえます。データに基づきながらも現場主義で、専門家と非専門家、研究者と実務者などの立場に関係なく、人と社会問題に向き合いたいです。

 つくばの社工の川島宏一教授が仰っていたのですが、社会工学は社会問題の総合診療を行うようなことができるとよいと。例えば、同じ防犯を考えるにあたっても、ネックになっている部分次第で有効なアプローチの仕方が変わります。

 人の行動を変えた方がよい場合は心理学、まちのハード面を変えた方がよい場合は建築や、都市計画学につなぐことで、科学的な知見に基づいて計画することができます。問題解決の糸口となる部分はどこなのか、どの分野の知見に基づいて解決策を考えるのが良いかを「診断する学問」はあったほうがいいと思います。

 そして、その「総合診療」の礎になりうるのが、筑波大学が運営する「データサイエンス・ケースバンク」と考えています。これはPBL(Project Based Learning/問題解決型学習)の研究成果を公開する場です。学生が主体となってパートナー企業・行政と一緒に社会問題の解決に取り組み、その一連の過程を「使用データ」「データ分析」と共に発表することで、研究の再現性やオープンサイエンスにも貢献しています。一つひとつの取り組みを追体験することは、EBPMにも役立つのではないでしょうか。

 また、研究者や企業・行政の担当者が集まって情報交換や議論ができる機会を設けています。データサイエンスをハブとして、いろいろな分野の人たちが集うコミュニケーションの場は広がっていくかもしれませんね。

「データサイエンス・ケースバンク」は、筑波大学の学生と研究者がデータサイエンスに基づき探索した社会課題の解き方を提案している。1つの答えを提供せず、解決に至らなかった方法も共有しているのが特徴だ(筑波大学提供)
「データサイエンス・ケースバンク」は、筑波大学の学生と研究者がデータサイエンスに基づき探索した社会課題の解き方を提案している。1つの答えを提供せず、解決に至らなかった方法も共有しているのが特徴だ(筑波大学提供)

誰もが「生きていてよかった」と思えるように

―讃井さんの考える理想の社会についてお聞かせください。

 残念ながら社会問題がなくなることはないでしょう。犯罪や災害などのリスク事象を完全になくすのは不可能です。人の死も避けられません。でも、誰もが「生きていてよかった」と思える出来事がたくさんあるといいですよね。そのためには、人間は一人ではないほうが絶対にいい。それぞれが望むコミュニティを自由に選択して、共感と信頼に基づくコミュニティをつくっていく。それを支援できるような研究を続けていきたいですね。

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今を生きる地球科学者が挑む「あの日」の深い海の底~地球深部探査船「ちきゅう」乗船記 https://scienceportal.jst.go.jp/explore/reports/20250415_e01/ Tue, 15 Apr 2025 08:01:51 +0000 https://scienceportal.jst.go.jp/?post_type=explore&p=53836  2011年3月11日。東日本大震災のあの日、深い海の底では一体何が起きていたのか。13年あまりが経過した2024年の約3カ月間、大震災を引き起こした東北地方太平洋沖地震を調査する大規模な国際プロジェクトが宮城県沖で行われていた。海底掘削のために研究航海していたのは、地球深部探査船「ちきゅう」。筆者は11月16日から12月2日までの17日間、海洋研究開発機構(JAMSTEC)の一員として乗船させてもらった。研究の最前線をこの目で見て、現場で感じた一部をお伝えしたい。

研究航海中の「ちきゅう」。12月20日に静岡県清水港へ帰港した(2024年11月16日撮影/JAMSTEC提供)
研究航海中の「ちきゅう」。12月20日に静岡県清水港へ帰港した(2024年11月16日撮影/JAMSTEC提供)

震源は今どれぐらいの力をためているのか

 ちきゅうは、JAMSTECが運用する科学調査船だ。洋上から海底に穴を掘り、その下にある地層から泥や岩石などの試料(コアサンプル)を採取する。それを分析することで、地震メカニズムの解明のほか、地球の環境や海洋変動の仕組み、海底下に広がる生命圏を探ることが目的だ。

 昨年9月6日から12月20日までの間、JAMSTECを中心としたチームがちきゅうで行っていたプロジェクトは、「日本海溝巨大地震・津波発生過程の時空間変化の追跡(国際深海科学掘削計画第405次研究航海、通称:JTRACK=ジェイトラック)」における掘削作業。地震発生から13年経った今(調査時)、東北地方太平洋沖地震の震源断層のひずみがどれくらいの力をためているのか。断層やその周辺環境はどのような構造なのかを調査・研究することが狙いだった。私はJTRACKのアウトリーチオフィサー(情報発信担当)として参加した。

船の巨大さと「やぐら」の高さに圧倒される

 約3カ月の航海中、私のように途中で乗船するメンバーはヘリコプターでちきゅうへ向かうことになる。今回の調査は同じ場所を深く掘り続ける必要があるため、掘削作業やその準備が24時間体制で行われており、航海中に陸へ寄港することができないからだ。

 乗船日の早朝、天気は良好。少しの緊張と不安感、そして多くの高揚感を胸に、宮城県のヘリポートからちきゅうへと向かった。ヘリコプターは、飛行機よりも機体の揺れや傾きが身体へダイレクトに伝わる。離陸すると陸地はあっという間に見えなくなった。それから約1時間後、宮城県沖約200キロメートルの日本海溝付近に停泊するちきゅうへと到着した。

ヘリコプターから見たちきゅう。1つ1つの設備が巨大で圧倒される(2024年11月16日撮影/JAMSTEC提供)
ヘリコプターから見たちきゅう。1つ1つの設備が巨大で圧倒される(2024年11月16日撮影/JAMSTEC提供)

 乗船すると、まずは全長250メートルに及ぶ船の巨大さに圧倒された。ちきゅうの特徴の1つである青い掘削やぐらも船底から約130メートルの高さがあり、30階建てのビルに相当する。デッキから見上げると首が痛くなるくらいだ。

 そんなちきゅうの船内は国際色豊か。米国、英国、フランス、ドイツ、イタリア、オーストラリア、フィリピン、中国、インドなどさまざまな国の人々が乗船しており、船の大きさと相まって小さな島国に来たような気分になった。JTRACKはそれだけ大規模な国際プロジェクトなのだ。

ヘリデッキから見上げた掘削やぐら(2024年11月16日撮影/JAMSTEC提供)
ヘリデッキから見上げた掘削やぐら(2024年11月16日撮影/JAMSTEC提供)

ドリルパイプで深さ7900メートルを目指す

 作業を大まかに説明すると、船上から海底に向けて管(ドリルパイプ)を下ろすことから始まる。ドリルパイプの先端には中心に穴が開いた「コアビット」というツールが付いており、コアビットは中心部分の岩石を円柱状に残しながら、地層を削る。この残された円柱状の岩石がコアサンプルだ。コアサンプルは、ドリルパイプの中に通した「コアバレル」というツールに収められて、船上まで引き揚げられる。

 今回の研究航海のある局面では、水深6897.5メートルの海底から、さらに980メートルの深さまで掘削。ドリルパイプの長さは世界最高記録の7906メートルにも及んだ。

 日本海溝付近では、海側のプレート(太平洋プレート)が陸側のプレートの下へ毎年8.2センチメートルほど沈み込んでいる。これが約100年に一度、三陸沿岸に大きな被害を及ぼしてきた巨大地震や津波の原因だ。

硬い層と戦った“同志”を労る

 陸側のプレートに沈み込む前の太平洋プレートを掘削していた11月下旬のこと。「チャート層」と呼ばれる非常に硬い層に挑戦していたところ、ある深度から下に進まなくなってしまった。コアビットを引き揚げて原因を確認すると、先端がえぐれるように削れてしまっていたのだ。

JTRACKで掘削したのはJTCT-01Aと02Aの2カ所。前述のチャート層は右図02Aの「SU3」の地層(JTRACK科学計画書より)
JTRACKで掘削したのはJTCT-01Aと02Aの2カ所。前述のチャート層は右図02Aの「SU3」の地層(JTRACK科学計画書より)

 甲板にコアビットが引き揚げられると、周囲に多くの乗船者が集まってきた。「こんなのは見たことがない」と、長年ちきゅうの研究航海に携わっている関係者でさえも驚きを隠せないようだった。ただ、あまり悲観している様子はない。「よくやった!」と声をかけ、長時間硬い層と戦ったコアビットを労っていた。たとえ道具であっても、スタッフにとってはともに未知の存在へと挑む“同志”のような存在なのだろう。

 コアビットは鋼鉄などで作られており、非常に硬い。しかし、地球深部はそれ以上に硬く、経験豊富な関係者の想定すらも悠々と超えてくる存在なのだ。地球という惑星の巨大さ、奥深さを改めて感じる出来事であった。

引き揚げられたコアビット。中心部分がえぐれている(2024年11月23日撮影/JAMSTEC提供)
引き揚げられたコアビット。中心部分がえぐれている(2024年11月23日撮影/JAMSTEC提供)

「コア・オン・デッキ!」 ここが研究の最前線

 数日後、コアビットを取り換えて、再度コアサンプル採取に挑戦した。掘削作業を続けることさらに数日。ついに、皆が待ちわびたアナウンスが船内をこだまする。

「コア・オン・デッキ!」

7850メートルまで伸ばしたドリルパイプを通じて、海底からコアサンプルが船上に上がってきた合図だ。

コアサンプルが内包されているコアバレルを運ぶ掘削作業員ら(2024年12月1日撮影/JAMSTEC提供)
コアサンプルが内包されているコアバレルを運ぶ掘削作業員ら(2024年12月1日撮影/JAMSTEC提供)

 引き揚げられる瞬間を見ようと、私は急いで作業着を着用し、掘削作業エリアに向かった。掘削作業員が泥まみれになりながら、海底から引き揚げられてきたコアバレルの処理を行う。中にコアサンプルは含まれているのか、現場責任者らが急いでパイプの中を覗き込む。緊張感のあった顔は、一瞬にして高揚した表情へと変わった。

コアサンプルが採取できていることを喜ぶプロジェクト関係者の面々。満面の笑みでハイタッチをしている(2024年12月1日撮影/JAMSTEC提供)
コアサンプルが採取できていることを喜ぶプロジェクト関係者の面々。満面の笑みでハイタッチをしている(2024年12月1日撮影/JAMSTEC提供)

 研究者やラボテクニシャンなどが、試料の処理をする甲板上のコアカッティングエリアに続々と集まってきた。そしてついに、コアサンプルが研究者たちの目の前に到着すると、「おお!」「すごい!」と次々に歓声が上がった。喜びを表現する人、試料に額が付きそうなほど観察する人、さっそく研究者同士で議論をしている人、さまざまだ。

「まさに、ここが研究の最前線だ」

沸き立つ船上と発熱する議論を聞きながら、私は高鳴る鼓動を感じていた。

 さまざまな困難を乗り越え、ようやく手に入れることができた地球のタイムカプセルであるコアサンプル。これを分析・研究することで、東北地方太平洋沖地震の詳細な発生状況が解明できるかもしれない。

 今の地震に関する通説では、太平洋プレートに強くくっついた陸側プレートが引きずり込まれてひずみ、そのひずみが限界に達すると起きるとされる。深い海のさらに奥深くから掘り出された泥や岩石は、その通説を塗り替える可能性を持つ、かけがえのない証拠となるのだ。

採取されたコアサンプルの一部。損傷や風化が少なく、地層を正確に調べる上で高品質な状態だったそう(2024年12月2日撮影/JAMSTEC提供)
採取されたコアサンプルの一部。損傷や風化が少なく、地層を正確に調べる上で高品質な状態だったそう(2024年12月2日撮影/JAMSTEC提供)

「人の力」が支える航海とミッション

 今回乗船して感じたことは、どんなに先端技術が用いられていても、それを動かし支えるのは「人の力」だということだ。掘削作業を行う人、船を動かす人、機器を整備する人、健康を支える看護師や毎日の食事を作る司厨員―船上はもちろん、陸上でも多くのメンバーがサポート体制に入っていた。

 ちきゅうの航海は、多くの人々の努力と協力によって支えられていた。それぞれが自分の専門性を最大限に生かしながら、目標を達成するため、全員が諦めず同じ方向に向かって進んでいる。この多職種の連携があるからこそ、複雑で壮大なミッションも実現可能になるのだ。航海に関わる全ての人たちの努力が、「地球科学」を未来へと進める原動力になっているのだと感じた。

引き揚げられたコアサンプルを観察する研究者たち(2024年12月2日撮影/JAMSTEC提供)
引き揚げられたコアサンプルを観察する研究者たち(2024年12月2日撮影/JAMSTEC提供)

1000年に一度のテーマ、調査は今後も続く

 今、私たちが知っている地震の常識は、そうした多くの人の積み重ねの上に成り立っている。そしてこれから先、深い海の底に刻まれたコアサンプルという「地球」と向き合うことで新たな発見が生まれ、今日の常識もまた塗り替えられていくだろう。

 JTRACK共同首席研究者を務める小平秀一さん(JAMSTEC理事)は、このプロジェクトを「1000年に一度と言われる変動現象に立ち会っている今に生きる地球科学者にしかできないテーマ」だと語っていた。

 時を経て再び訪れるであろう巨大地震に人類が立ち向かうため、コアサンプルの分析をはじめとした地震の調査は今後も続いていく。航海の成果が実を結び、私たちの生活を支えてくれるのはもう少し先の未来かもしれない。しかし、今を生きる皆さんも、後世に向けてJTRACKの活動を応援していただけたら、関わった一人として嬉しく思う。

同時期に乗船していた各国の研究者ら。写真右下が筆者(2024年12月2日撮影/JAMSTEC提供)
同時期に乗船していた各国の研究者ら。写真右下が筆者(2024年12月2日撮影/JAMSTEC提供)
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大阪・関西万博が開幕 「いのち」テーマに持続可能な未来社会目指す リング内外で没入体験型味わう https://scienceportal.jst.go.jp/explore/reports/20250414_e01/ Mon, 14 Apr 2025 05:27:37 +0000 https://scienceportal.jst.go.jp/?post_type=explore&p=53825  大阪・関西万博(2025年日本国際博覧会)が13日、大阪市此花区(このはなく)の人工島「夢洲(ゆめしま)」で開幕した。10月13日までの半年間、午前9時から午後10時まで様々な国や企業のパビリオンが楽しめる。テーマは「いのち輝く未来社会のデザイン」で、158の国や地域が参加する。日本での万博開催は2005年の愛知万博(愛・地球博)以来20年ぶり。12日の開会式で石破茂首相は「人類共通の課題をいかに克服するか、内外の英知を集め、その道を示していく場」と語った。

東京ドーム33個分の敷地に巨大リング

 今回の万博は東京ドーム約33個分のおよそ155ヘクタールの広大な敷地で開かれる。期間中の来場者数の想定は約2820万人で、会場と大阪市中心部は船、地下鉄、バスなどで往来できる。今回の目玉は1周2キロメートルほどの「大屋根リング」で、リングの高さは約12メートル。リングの製作に当たっては、神社や仏閣などの建築に用いられてきた「貫(ぬき)」工法を用いた。貫とは、柱と柱の間に木材を通し、くさびで固定する手法で、耐震性に優れるとされる。リングには「多様でありながら、ひとつ」というメッセージが込められている。

リングの下は休憩できるようにベンチが設置されている。内側には海外パビリオンが立ち並ぶ。赤い球状の建物はシンガポール共和国パビリオン(大阪市此花区)
リングの下は休憩できるようにベンチが設置されている。内側には海外パビリオンが立ち並ぶ。赤い球状の建物はシンガポール共和国パビリオン(大阪市此花区)

 このリングの上はエレベーターやエスカレーターで登ることができ、歩ける。夢洲は大阪湾に突き出すような形で建設されていて、リングの内側に世界各国のパビリオンが収まり、リングの外側には日本館や企業パビリオンが並ぶ。

 未来の社会や科学技術を体感する「未来社会ショーケース」のブースは、6つのテーマで構成される。スマートモビリティ、バーチャル、アート、デジタル、グリーン、フューチャーライフで、国内企業パビリオンがメイン。ペロブスカイト太陽電池や自動翻訳システムなど、ここ数年でめざましく発展した、持続可能な社会に寄与する技術が展示される。また、日本科学未来館(東京都江東区)が企業と研究開発した、視覚障害者をナビゲートするスーツケース型ロボット「AIスーツケース」の実証実験を体験できる。

海外パビリオン 旅行気分で外観にも驚き

「日本館」に展示された、使用後はバラバラにしてパーツを再利用できるサッカーボール(大阪市此花区)
「日本館」に展示された、使用後はバラバラにしてパーツを再利用できるサッカーボール(大阪市此花区)
藻類がチューブに入れられて「培養」される様を芸術的に見せた通路(左)と、藻類をモチーフにしたハローキティ。会場では藻類ハローキティグッズを販売する(大阪市此花区)
藻類がチューブに入れられて「培養」される様を芸術的に見せた通路(左)と、藻類をモチーフにしたハローキティ。会場では藻類ハローキティグッズを販売する(大阪市此花区)

 開幕に先立ち、9日にメディア関係者を招き先行公開した。「日本館」はハローキティやドラえもんといった日本発のアニメキャラクターが案内する。ハローキティは藻類に「変身」し、藻類は環境負荷が低く、可能性を秘めた生き物であることを可視化して示す。ドラえもんは風呂敷や神社の建材のようなリサイクル、リユースできる様々な物質を解説。日本が古くからエコな暮らしをしてきたことを提示する。脱プラ社会への一歩として生分解性プラスチックの分解の様子を時系列で並べた展示もある。

「日本館」に展示された、生分解性プラスチックが分解される様子(大阪市此花区)
「日本館」に展示された、生分解性プラスチックが分解される様子(大阪市此花区)

 海外パビリオンはまるで海外旅行に行った気分になれる。入口で案内するスタッフも、各国の伝統衣装をまとう。ブルガリアは白地に美しい刺しゅうを施したスカート、アラブ首長国連邦は「カンドーラ」という頭から足先まですっぽり隠れるユニフォームといった具合だ。

 そして、会場内の展示は科学の知識がなくても、見ているだけで楽しめる作りになっている。例えば、カナダパビリオンは、片手で持てるタブレットを手に、展示室内に置かれた何も書かれていない大小の岩の間を巡る。岩にタブレットをかざすと、カナダの雄大な自然やにぎやかな街並みが浮かぶ。

カナダパビリオンは、氷をイメージしている。タブレットを手にカナダの国立公園の風景などを楽しめる(大阪市此花区)
カナダパビリオンは、氷をイメージしている。タブレットを手にカナダの国立公園の風景などを楽しめる(大阪市此花区)

 オランダ王国パビリオンでは球体の「オーブ」というデバイスを手に進む。パネルの前の金属にオーブをかざすと、オーブが様々な色で光り、オランダは水の街として浸水被害に見舞われてきたことや、水害対策で水利の仕組みを確立した歴史が学べる。会場各所に隠されたミッフィーを探しながら進んでいく楽しみもある。そして、ヨルダンパビリオンは塩でできた壁に囲まれた小部屋で死海の塩を実際に触ることができ、有料の塩マッサージの施術を受けられる。

ヨルダンパビリオンの壁は丸いタブレットのような塩でつくられている。実際に死海の塩に触ることができる(大阪市此花区)
ヨルダンパビリオンの壁は丸いタブレットのような塩でつくられている。実際に死海の塩に触ることができる(大阪市此花区)

 オーストリアは音楽の都・ウィーンがある。そのため、外観は楽譜の五線譜がモチーフの、曲線美が美しい建物だ。他方で、科学の国でもあることに気付かされる展示となっている。例えば、有名な作曲家の人数よりもノーベル賞受賞者の方が多いこと、音楽大学が9つしかないのに対し、工科大学の数は17にのぼることなど、初めて知ることも多く、学びがあった。なお、オーストリア共和国パビリオン内の音楽はザルツブルク・モーツァルテウム音楽大学の学生が作曲している。

各パビリオンの建築物の美しさにも注目だ。こちらは五線譜をモチーフにしたオーストリア共和国パビリオン(大阪市此花区)
各パビリオンの建築物の美しさにも注目だ。こちらは五線譜をモチーフにしたオーストリア共和国パビリオン(大阪市此花区)

目の前に異国の景色 最新デバイスが可能にする未来

 今回の万博は総じて「実物」を目にするというよりも、「デバイスを用いて、遠く離れた場所の景色を体験できる」という没入体験型のパビリオンが多かった。動画に親和性が高い世代の台頭を示すように、どのパビリオンも映像の美しさにこだわっており、息をのんだ。次の数十年は人工知能(AI)や半導体などの進歩によって、「その場に行かなければ体験できない」という事態は解消されていくのだろう。

 筆者は初めての「万博」訪問だった。そのため、行く前は海水で浸食したリングの根元、メタンガスの検知や誤った情報が載った公式ガイドブックなどのニュースを目にして否定的に考えていたが、日が暮れる頃にはすっかりとりこになっていて、「えっ、もう6時!あと2時間で閉まるのか」(この日はメディアデーのため、通常の開場時間より短い)と、焦りを感じるほどだった。

 会場は寒暖差が激しく、リングの下は日陰といえども熱中症対策は必須だ。水分補給できるスタンドが準備されているので、水筒や帽子を持っていくと良いだろう。また、批判の大きかった大屋根リングのデッキの一部は木がめくれているところがあったので、車いすの来場者は気をつけて渡る必要があると感じた。会場内は現金が使えないので、クレジットカードやQRコード決済用端末は必須だ。また来ようと余韻をかみしめつつ、Osaka Metro(地下鉄)中央線に乗り込み、会場を後にした。1日が終わり、手元の歩数計を見ると、約12キロメートル歩いていた。

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【文理融合】「AIと歴史学」〜古文書の「くずし字」を高精度で読み、江戸時代の価値観に迫る 稲葉継陽さん https://scienceportal.jst.go.jp/explore/interview/20250409_e01/ Wed, 09 Apr 2025 06:50:19 +0000 https://scienceportal.jst.go.jp/?post_type=explore&p=53771  【文理融合】の第4回は「AIと歴史学」。2024年、熊本大学とTOPPAN(トッパン)は独自のAI技術を用いて、歴史資料「細川家文書」のうち約90年分の史料の解読とデータベース化に成功した。専門家でも解読が難しい「くずし字」を、高精度で読めるうえに検索機能を備えたAIは、歴史学をどのように変えていくのだろう。歴史学の側から共同研究を率いた稲葉継陽さん(熊本大学永青〈えいせい〉文庫研究センター長、教授)に、今回の研究成果とこれからの歴史学について現地で伺った。

熊本大学附属図書館の貴重書庫で史料整理する稲葉さん(ご本人提供)
熊本大学附属図書館の貴重書庫で史料整理する稲葉さん(ご本人提供)

熊本藩の歴史資料「細川家文書」が伝える歴史

―「細川家文書」とは何ですか。

 熊本藩を治めていた肥後細川家に伝わる歴史資料です。その量は膨大で、古文書や古典籍など約5万8000点にのぼります。同家が東京都文京区の下屋敷跡地に設立した美術館「永青文庫」の所蔵品ですが、1960年代に熊本大学に寄託されました。いまは熊本大学附属図書館で管理しています。

 「細川家文書」を専門に研究する機関が「熊本大学永青文庫研究センター」。2009年の設立に伴い、私がセンター長に就任しました。

「細川家文書」が保管されている熊本大学附属図書館「ひご未来図書館」
「細川家文書」が保管されている熊本大学附属図書館「ひご未来図書館」

―永青文庫といえば、新たに見つかった織田信長の手紙を公開していましたね。

 永青文庫には59通もの織田信長の手紙が残されていて、いずれも国の重要文化財に指定されています。2022年の調査で、所蔵品の中から60通目の手紙が見つかりました。室町幕府滅亡の前年にあたる元亀3(1572)年、信長が肥後細川家の初代藤孝(ふじたか)に宛てたものです。24年10月5日から12月1日まで、全60通の手紙を公開しました。

肥後細川家に伝来する「細川家文書」や美術工芸品を所蔵している永青文庫(東京都文京区)。来訪時は熊本大学永青文庫研究センター設立15周年記念の「信長の手紙 珠玉の60通大公開」展が開催されていた
肥後細川家に伝来する「細川家文書」や美術工芸品を所蔵している永青文庫(東京都文京区)。来訪時は熊本大学永青文庫研究センター設立15周年記念の「信長の手紙 珠玉の60通大公開」展が開催されていた

―その手紙からわかったことは?

 60通目の手紙は、八朔(はっさく/8月1日)の祝儀の礼状であり、京都周辺の領主たちの組織化を依頼するものでした。他の手紙と合わせて読み解くと、信長が古い室町幕府を容赦なく切り捨てて新しい時代を切り開こうとしたのではなく、当時の常識のもとで幕府を立て直そうとしていたことが浮き彫りになってきます。歴史が大きく動いた要因を信長だけに求めず、あの時代をもっと大局的に捉え直すことにつながるといいですね。

独自のAI技術で解読精度は70%

―そもそもなぜ、「細川家文書」をAIに読ませたのでしょうか。

 きっかけは、TOPPANからのご相談でした。自社で開発した「くずし字AI-OCR」を使って「細川家文書」を解読したいと。TOPPANは、日本における凸版印刷のパイオニアであり、日本の印刷文化を牽引してきました。かつては印刷に欠かせなかった活字組版(金属の文字型を配列した印刷用の板)が、1990年代以降はデジタルデータに置き換わりました。

 無用の長物になりかけた活版印刷を後世に伝えていくため、光学文字認識(OCR)事業を始めたのだとか。その技術が発展してきて、「くずし字が読めるようになったらすごいよね」ということで、2015年から「くずし字AI-OCR」の開発に取り組み、23年にはスマートフォンの古文書解読アプリ「古文書カメラ®」を発表しました。

―AI-OCRとはどのような仕組みですか。

 AIを活用したOCR技術なのですが、おおまかに言うと、画像から文字を認識してテキストデータにしていきます。古文書に書かれた文字、いわゆる「くずし字」は、点や画を省略されているうえに文字が連なり、一つひとつの文字を判読するのは容易ではありません。TOPPANのくずし字AI-OCRでは、文字の塊を矩形として検出してから、文字と文字の区切り位置を見極め、最終的に一つずつの文字として認識します。

―AI-OCRは歴史学者と同じくらい古文書を読めるのですか。

 いまの解読レベルは大学院生ぐらいですね。文字認識精度は70%ほど。「細川家文書」は専門家でも解読が難しい史料ですから、上々の出来でしょう。しかも、当センターの後藤典子特別研究員が先生となって、AIに正しい読み方を再学習させていますから、精度はさらに上がるかもしれませんね。

スマホで撮影した古文書を解読できるアプリ「古文書カメラ®」の画面。一般の人がくずし字に親しむきっかけになりそうだ
スマホで撮影した古文書を解読できるアプリ「古文書カメラ®」の画面。一般の人がくずし字に親しむきっかけになりそうだ

約90年分の史料を延べ20日間で解読した

―今回、AIが読んだ史料について教えてください。

 「細川家文書」のうち、肥後細川家の奉行所の執務記録『奉行所日帳』約4万7000枚、初代藩主・細川忠利の口頭での命令をまとめた『奉書』約2500枚、参勤中の忠利が国元の家老らに発した書状の写しをまとめた『御国御書案文』約1200枚、小倉藩・熊本藩の惣奉行衆から各業務を担当する奉行らに発せられた書状の写しをまとめた『方々への状控』約1200枚の計5万1843枚です。これは江戸初期の約90年分の記録で、「細川家文書」全体の1.8%ほどに当たります。

―90年分!? AIはずいぶん膨大な史料を読みましたね。

 延べ日数わずか20日間で読みましたから、とんでもない速さですよね。人間が1枚1枚めくりながら読んでいくと、どれだけの年月がかかることか……。ただ、「くずし字AI-OCR」は、人間が史料を写真に撮って画像データにしてあげないと読めませんけれど。そして、文脈で読むのは苦手です。例えば、「跡目」ときたら「息子」と続くだろう、人名で「永」ときたら家臣の「永良」だろうと、私たちは予測して読んでいます。それがAIには難しいので、人間ではありえない読み間違いをすることも。

廃藩置県・空襲を切り抜け、奇跡的に残った記録

 では、永青文庫が所蔵する現物を見てみましょうか。この分厚い冊子が『奉行所日帳』です。毎日の記録を1年分まとめて1冊に綴じています。

『奉行所日帳』の原本を開く稲葉さん
『奉行所日帳』の原本を開く稲葉さん

 例えば、この日だと……日付の下に担当者の名前があって、「松平大隅守様江(へ) 御書箱壱つ…」なので、島津家に手紙箱を送った記録で、使者の印鑑まで押してありますね。これは、「七夕御礼付而御花畑御門内江(へ)供之者召連被申候覚」なので、七夕の行事があるから花畑屋敷(肥後細川家の屋敷)に家臣たちを連れて行ったと。恒例行事を先例どおりに執り行わなければいけないので、記録しておくわけです。

元禄6(1693)年の『奉行所日帳』。大名とのやり取りの記録(左)や行事の記録(右)のほか、家臣の人事、庶民の犯罪などいろいろな出来事が事細かに記されている
元禄6(1693)年の『奉行所日帳』。大名とのやり取りの記録(左)や行事の記録(右)のほか、家臣の人事、庶民の犯罪などいろいろな出来事が事細かに記されている

―これらの記録は、どの藩にも残っているのですか。

 どの藩もさまざまな記録を取っていたはず。でも、100年にわたる藩の記録がごっそり残っているところはあまりなくて、熊本藩と山口藩(長州藩)、岡山藩の3つですね。

 まず、廃藩置県。諸藩の記録は府県に引き継がれました。地図類や土地台帳は、新たな地方制度においても参照されることがあるから府県は手放しません。しかし、奉行所の記録はもう必要ないから処分する。だいたいは民間に払い下げられて散逸してしまいました。次に、第二次世界大戦。空襲で燃えてしまったものも少なくありません。

 ところが、肥後細川家の家臣たちは、藩の記録類を残したいと、県からの払い下げを受けた記録類を蔵に保管しました。それが戦火を免れ、奇跡的に残っているというわけです。

キーワードの「洪水」と「飢」に相関関係

―「細川家文書」のテキストデータ化による成果を教えてください。

 今回、「細川家文書」の一部とはいえ、テキストデータ化できたので、全文検索システムと連携させてキーワード検索ができるようになりました。検索ボックスにキーワードを入力してボタンを押すと、3秒ほどで検索結果が表示されます。年代順に、史料名と該当ページ、簡単な内容がリストで一覧できるうえに、閲覧したい史料をクリックすると、そのページを表示できる優れものです。

 今回の共同研究では「洪水」「飢」という2つのキーワードから、洪水と飢饉の関係を調査しました。予想どおり「洪水」と「飢」には相関関係がありました。洪水が起きて農作物と田畑が壊滅すると、その年あるいは翌年に飢饉が発生する。例えば、延宝4(1676)年は「洪水」が異常に多く、19件ヒットしました。一方の「飢」も同年に集中しています。

 その前後の年に注目してみると、「飢」は延宝8(1680)年・9(1681)年にまた急増しています。このタイムラグの原因はおそらく、延宝4年の大洪水以降も年貢米を大坂米市場で売り続けたこと。当時から肥後米は人気がありましたから。なかなか田畑と生産力が回復しないなか、洪水の4、5年後にいよいよ領内で食べるための米や備蓄米も底をついたと考えられます。熊本藩は豊かで飢饉はないと思われていたので、今回の調査は、知られざる「延宝の大飢饉」の発見につながりました。

 そこで、延宝9年の「奉行所日帳」を読んでみると、多くの百姓が百姓でいられなくなり、城下町にやってきたことがわかります。熊本藩は何をしたか。彼らに粥施行(かゆせぎょう)、つまり粥を施しました。領民たちを飢えから救い、生かすために、物的・人的資源を集めて、「役割所」を新設して役人を配し、さまざまな手を打っているのです。西欧からの輸入と思われていた「社会福祉」が、江戸前期には日本で芽生えていたのかなと。

 このような事態は熊本藩以外でもおそらく起こっていて、そのときの幕府や諸藩の対応が、「寛文・延宝期(1661〜1680年)に幕藩体制が確立した」という通説の正体ではないかと、考えています。

くずし字AI-OCRのパソコン画面。青い「洪水」の文字が右端に読み取れる
くずし字AI-OCRのパソコン画面。青い「洪水」の文字が右端に読み取れる

自然災害に着目したきっかけは熊本地震

―なぜ「洪水」と「飢」に着目したのでしょうか。

 古文書に残された「洪水」「地震」などの自然災害に着目したきっかけは、2016年の熊本地震です。それまで熊本は、日本列島にあって地震の少ない土地といわれていました。その神話が脆くも崩れたわけです。そのショックと余震の続くなかで、特別研究員の後藤さんが「細川家文書」の中の地震を調べ始めました。その調査で、江戸初期に頻発した地震によって熊本城が被災し、その修繕に苦心していたことが明らかになります。このとき、歴史資料というのは、それを見る者の関心によって見える情報が全く異なるのだと改めて実感しました。

 もう一つ、歴史学会の動向としても自然災害に注目が集まっています。1990年代にマルクス主義に立脚する発展史的な歴史学が揺らぎ、95年の阪神・淡路大震災を経験しました。その後も地震や大雨による被害が続くなか、2000年代になって歴史の中の自然災害が本格的に研究されるようになりました。

熊本城ミュージアムわくわく座で開催されたイベント「『細川家文書』から読み解く江戸時代の熊本城〜災害とくらし」に登壇した稲葉さんと後藤さん
熊本城ミュージアムわくわく座で開催されたイベント「『細川家文書』から読み解く江戸時代の熊本城〜災害とくらし」に登壇した稲葉さんと後藤さん

 そうした背景があって、江戸時代の統治権力あるいは社会が、自然災害にどう対応したのか、その情報を収集して明らかにしていくことが、歴史学で最優先されるべきテーマだろうと考えました。そこで、近年、全国的に被害の多い「洪水」を調べてみたのです。

歴史学の研究手法が変わる可能性

―AIが古文書を読み、膨大な史料がテキスト化され、キーワード検索ができるようになると、歴史学の通説が覆るかもしれないのですね。

 膨大な古文書が残されていても、人間が解読できる量には限界があって、これまではせいぜい数年という短いスパンの出来事しか見えていませんでした。これからは、「くずし字AI-OCR」と全文検索システムを用いて、長期にわたる社会の変化、「洪水」「地震」などの事象の集中と分散、それと関連する事象を丹念に見ていけば、新たな発見があるはずです。それは、通説の読み直しにもつながるでしょう。

くずし字AI-OCRと全文検索システムの連携により、歴史学の可能性が広がる(TOPPAN提供「くずし字文献資料の大規模調査のフロー図」)
くずし字AI-OCRと全文検索システムの連携により、歴史学の可能性が広がる(TOPPAN提供「くずし字文献資料の大規模調査のフロー図」)

 この全文検索システムは、面白いですよ。指1本で90年を通覧できますから、その情報をもとにいろいろな仮説を立てられます。それから、該当する史料を精査していけばいい。歴史学の研究手法はかなり変わっていくのではないかと思います。

 私たち歴史学者は、ますます精進しないといけませんね。この相棒に解読を任せて、仮説の立案と検証を重ね、日本の歴史に内在している伝統的な価値観を解き明かしていきたいです。

―いま注目しているキーワードはありますか。

 飢饉との関連では、「旱魃(かんばつ)」「日照り」を調べていくと、当時の事情がもっとわかるかもしれません。

 後藤さんは「地震」のほか、熊本銘菓「加勢以多(かせいた)」を検索していましたよ。『奉行所日帳』で35件ヒットしたらしく、それを読み解いたところ、ポルトガルから伝来したお菓子で、肥後細川家が贈答品としていたこと、のちに藩内で製造するようになり、原材料のマルメロの栽培まで手がけていたこと、そのマルメロがいつしかカリンに変わったらしいことなど、興味深い発見がありました。面白いですよね、たくさんの史料を網羅的に調査することで地元の食文化の起源までわかるのですから。

「加勢以多」は、もち粉のおぼろ種にカリンのジャムをはさんだお菓子。ポルトガル語のカイシャ・ダ・マルメラーダ(マルメロジャムの箱)が由来とされる。永青文庫には明治17(1884)年の現物が残っている
「加勢以多」は、もち粉のおぼろ種にカリンのジャムをはさんだお菓子。ポルトガル語のカイシャ・ダ・マルメラーダ(マルメロジャムの箱)が由来とされる。永青文庫には明治17(1884)年の現物が残っている

誰もがアクセスして自分で読めるように

―これからの目標をお聞かせください。

 世界中を見渡しても、日本の近世ほど多くの書類が作成された地域はないと言っていいでしょう。当時は為政者から庶民まで、くずし字の読み書きができたけれど、いまはほとんどの日本人が読めません。それでは歴史資料の価値がわかってもらえず、宝の持ち腐れになってしまいます。

 だからこそ、全文検索機能付きのくずし字AI-OCRは万人に開かれるべきものだと考えています。「細川家文書」は永青文庫の所有物ですが、やがて国の重要文化財に指定されますから、誰もがアクセスして自分で読めるようにしたいですね。その史料が大事なものだと多くの人が認識すれば、後世に伝えていこうと思えるはずです。また、昨今は根拠のない情報が氾濫しているので、根拠となる史料に基づいて意見を述べるという態度が養えるといいですね。

「細川家文書」の解読に取り組む学生たち。ここから学芸員が誕生し、全国各地で活躍している
「細川家文書」の解読に取り組む学生たち。ここから学芸員が誕生し、全国各地で活躍している
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