深く掘り下げたい - 科学技術の最新情報サイト「サイエンスポータル」 https://scienceportal.jst.go.jp Thu, 08 Jan 2026 06:55:29 +0000 ja hourly 1 感じて考えて伝えて、ゲリラ豪雨に立ち向かう サイエンスアゴラ2025「ソラヨミ講座」から https://scienceportal.jst.go.jp/explore/reports/20260108_e01/ Thu, 08 Jan 2026 06:54:28 +0000 https://scienceportal.jst.go.jp/?post_type=explore&p=55977  ゲリラ豪雨に打たれ、洗濯物も自分の心もグショグショになったあの夕方。もしも「ソラヨミ」ができていたならば――東京・お台場で行われた科学フォーラム「サイエンスアゴラ2025」において、「異常気象へのレジリエンスを高めよう~ソラヨミ講座~」が昨年10月26日に開催された(主催=東京大学COI-NEXT「ClimCOREプロジェクト」、ウェザーニューズ)。気象情報提供サービスを運営するウェザーニューズ(千葉市)の気象予報士らが登壇。同社が提唱する「ソラヨミ」をキーワードに、気象災害から身を守るための考え方ならぬ「読み方」を、クイズなども交えながら解説した。

子どもから大人までさまざまな参加者がクイズにトライしながらソラヨミを学んだ
子どもから大人までさまざまな参加者がクイズにトライしながらソラヨミを学んだ

精度の高い予報は至難の業

 「ソラヨミ」とは、空を見て「感じる」こと。次にどうなるかを「考える」こと。そして「伝える」こと。「それが災害からみんなを守ることにもつながる」と教えてくれたのは、杉田雄輝さん(ウェザーニューズ予報センター気象予報士)だ。

普段は世界中から収集したデータの解析などを通じて天気予報を作成しているという杉田さん
普段は世界中から収集したデータの解析などを通じて天気予報を作成しているという杉田さん

 私たちが普段見る天気予報は、アメダスや気象レーダー、気象衛星から得られた観測データをもとに、スーパーコンピューターで分析することによって出ている。しかし異常気象の発生が毎年増加している中で、現在のシステムでは地域ごとに精度の高い情報を出すことは難しい。特にゲリラ豪雨は局所的・短時間に集中して雨が降るため、予報するのは至難の業である。しかし「ソラヨミ」をすることで、自ら天気急変の可能性を察知し対策をとることが可能だと杉田さんは言う。

天気の悪化を招く雲は? 2題に挑戦してみよう

 読者の皆さんにも実際にソラヨミクイズに挑戦してもらいたい。次のうちどちらの雲が近づくと、天気が悪化するだろうか。

会場で実際に出されたクイズの写真をお借りした(ウェザーニューズ提供)
会場で実際に出されたクイズの写真をお借りした(ウェザーニューズ提供)

 正解はモクモクとした形の左の雲で、夏場を中心によく見られる「積乱雲」だ。ゲリラ豪雨の前触れとされている。

 積乱雲は、地上の暖かい空気と上空の冷たい空気の気温差があるときに急激に発達する。近年増加傾向にある都市部のゲリラ豪雨は、アスファルトなどで空気が強烈に熱せられることで積乱雲が発達しやすくなっているためだと考えられている。

平均気温の上昇に加え、都市部ではビルからの排熱などによるヒートアイランド現象も積乱雲の発達に影響する(ウェザーニューズ提供)
平均気温の上昇に加え、都市部ではビルからの排熱などによるヒートアイランド現象も積乱雲の発達に影響する(ウェザーニューズ提供)

 では次のクイズに移ろう。いかにも天気が崩れそうな空模様だが、どちらの雲の下にいると危険だろうか。

いずれも暗雲立ち込める様子だが―(ウェザーニューズ提供)
いずれも暗雲立ち込める様子だが―(ウェザーニューズ提供)

 正解は右の写真の、つぶつぶとした小さな塊が集まっているように見える雲。「乳房雲」といい、ゲリラ豪雨直前に雲の中で激しい対流が起こっているため、丸みを帯びた形になるのだという。ニュースなどでよく耳にする「大気の状態が非常に不安定」なときには、この雲が見られることが多い。

乳房雲は積乱雲の中に発生しやすい(ウェザーニューズ提供)
乳房雲は積乱雲の中に発生しやすい(ウェザーニューズ提供)

 積乱雲の中では、重たい氷や雨の粒を含んだ下降流が、上昇気流と釣り合うことで渦を巻き乳房雲となる。やがて乳房雲が発達し、下降流の力が上回ると、対流の中から氷や雨の粒がゲリラ豪雨となって地上へ一気に落ちてくる。

アプリへの投稿が他者に快適や安全をもたらす

 このように、雲がくれるヒントをもとに変化の兆候を「感じる」ことができれば、洗濯物を取り込んだり、より安全な場所に移動したり、次の行動を「考える」ことができるようになる。

 さらに杉田さんは、「みんなに伝える」ことも重要だという。実はウェザーニューズのアプリにも、伝えるためのシステムがある。ユーザー同士で各地の天気に関するリポートを投稿し合える仕組みだ。

 ある日の天気予報レーダーとリポートをこちらに示す。

左の「雨/雪レーダー」は雨を青系色で、雪を赤系色で表している。右はユーザーのリポート情報。リポートがあった場所の天気をアイコンで示している。コメントがついているものもある(ウェザーニューズのアプリより)
左の「雨/雪レーダー」は雨を青系色で、雪を赤系色で表している。右はユーザーのリポート情報。リポートがあった場所の天気をアイコンで示している。コメントがついているものもある(ウェザーニューズのアプリより)

 雨/雪レーダーでは、札幌付近は青(雨)と赤(雪)が入り混じり実際の天気が見極めにくい。そこで右のリポートを見てみると、アイコンやコメントによって雨やひょうが降っていることがひと目で分かる。それを見たユーザーは、傘を持ったり外出を控えたりと、対策を打つことが可能だ。自分の気づきを「伝える」ことは、他のユーザーに快適さや安全をもたらすことにつながるため、ソラヨミにおいて重要なのだと杉田さんは語ってくれた。

球形モニターで国境を越える問題を体験

 最後に、会場に持ち込まれていた球形のモニターで、地球上の気温観測データや未来のシミュレーションデータを見せてもらった。

使い方をレクチャーする西祐一郎さん(ウェザーニューズテクニカルディレクター)。球形のモニターに地球上の観測データを映し出しており、手の温度に反応して見る場所を変えられる
使い方をレクチャーする西祐一郎さん(ウェザーニューズテクニカルディレクター)。球形のモニターに地球上の観測データを映し出しており、手の温度に反応して見る場所を変えられる

 筆者が体験させてもらうと、「エルニーニョ監視海域」(北緯5度から南緯5度、西経150度から西経90度)の矩形が目に付いた。ハワイ諸島のはるか南の赤道域からガラパゴス諸島に至る範囲だ。エルニーニョ現象との関連が深いとして気象庁が定義した海域で、そのデータは常に観測されている。

 エルニーニョ現象によって平年より海域が暑いと他の地域で上昇気流がうまく起きず、雨が降るべき場所に降らない、もしくは雨の降る場所がばらけるので、干ばつにつながる可能性がある。水不足は国境を越え、最悪の場合、食糧問題や紛争へと発展しかねない。そうした事態への予見可能性を高めるためにも、注視しながら観測をしているそうだ。

空を読む力が災害に強い社会を形作る

 参加した小学3年生の女児は「つぶつぶ(乳房雲)がゲリラ豪雨のサインだと初めて知って、心に残りました 」と話してくれた。子どもたちも空を見て考えるきっかけをもらえたようだ。

 「ソラヨミ」は天気を読み解くだけでなく、考えた結果、自分が逃げたり、他者へ伝えたりすることも含めての力だった。気象衛星、気象レーダー、スーパーコンピューターなど科学技術の発展によって天気の予測精度は高まっているが、全ての地域を予想するのは今も困難だ。対策を打つのは自分しかいない。空を読む力で、これから起こるかもしれない災害やそれに付随する問題を想定し、伝えていくことが、より災害に強い個人、そして社会を形作るのだと心に刻むことができた。

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「ひのえうま迷信」をデータから科学的に読み解く(吉川徹/大阪大学大学院人間科学研究科教授) https://scienceportal.jst.go.jp/explore/opinion/20260107_e01/ Wed, 07 Jan 2026 06:52:50 +0000 https://scienceportal.jst.go.jp/?post_type=explore&p=55961  丙午(ひのえうま)は、日本で最もよく知られている暦の迷信である。一般には、その年生まれの女性の気性や運勢についてよくない言い伝えがあるため、(女児)出生が避けられ、60年に1度出生数が減る現象として知られている。2026(令和8)年はその丙午年にあたる。年間出生数が約69万人という超少子化状況にあって、今回の「令和のひのえうま」では、一段の出生減があるのかどうかに注目が集まっている。科研費を得て進行中の、「ひのえうま人口減の社会科学的解明」も踏まえて、丙午の迷信をデータから科学的に読み解く研究の一端を紹介したい。

吉川徹氏
吉川徹氏

江戸の「フェイクニュース」拡散

 2026年、令和のひのえうまは、直前になるまで話題にされることはほとんどなく、出産を考える肝心の若い世代では、丙午を知らない人も少なくなかった。それでも昨年末から年明けにかけて、にわかにマスメディアでの報道が急増し、ソーシャルメディアでの言及も多くなった。

 そもそも十干十二支による暦法は古代中国に由来する。日本社会で流布している丙午をめぐる迷信俗言の事実上の始まりは、江戸初期であることがわかっている。よく知られているのは、八百屋お七という若い娘が好きな男を想うあまり引き起こした江戸の放火事件である。この恋愛悲劇は草紙や歌舞伎、浄瑠璃などの庶民文化を介して広く拡散した。

八百屋お七を題材にした人形浄瑠璃「伊達娘恋緋鹿子」の火の見櫓の段(淡路人形座提供)
八百屋お七を題材にした人形浄瑠璃「伊達娘恋緋鹿子」の火の見櫓の段(淡路人形座提供)

 お七の生まれ年は、「寛文のひのえうま」であったとされる。これすら真偽不明なのだが、丙午女は「気性が荒い」となり、やがて「夫を食い殺す」などともいわれ、婚姻が避けられるようになった。

 丙午の女性たちが実際に厄難に苛まれるようになると、この年に女児を産むことを避けるべきだとされて、子流し(中絶・堕胎)、間引き・子捨て(嬰児密殺)、祭り替え(届出操作)などにより、この年の出生を抑制する風習が広まった。「ひのえうま迷信」は、今でいうところの「フェイクニュース」の拡散により、意図せざる結果として成立したものなのだ。

科学による迷信の「ブレイクスルー」

 こうした「ひのえうま現象」は、社会学の研究対象として示唆に富んでいる。迷信とは道理に合わない言い伝えなどを信じることなのだが、さらに突き詰めると、その要件は以下となる。

 第1は悪弊や不利益、すなわち厄難を伴う、ちまたに言い伝えられてきたことわざである俚諺(りげん)であるということ。吉兆をもたらす、あるいは実益につながる縁起のよい迷信はそもそも少なく、その実効性も確実だとはみられていない。しかし厄難のほうは、過剰に怖れられ、避けられる。

 第2の要件は、科学的、論理的な根拠が明らかではないということ。言い換えれば、成立プロセスが無根拠、非合理、理解不能だということで、これにより言説はかえってミステリー性を帯び、人びとの恐怖と忌避は一段と高まる。

 第3の要件は社会的に共有されていること。つまりその言説をだれもが知り、信じられている、正確には広く信じられていると認識されている、ということである。特定の個人が信じているだけならば、ゲン担ぎや秘密のマジナイの類になる。社会的な共有知であることによって、ある言説が正否にかかわらず、人々の個々のミクロな行為がマクロな社会構造に影響する「ミクロ・マクロリンク」の過程を経て実体化する、いわゆる予言の自己成就という因果性を誘発する。

 そして第4に伝統や因習による権威付けによって、その信ぴょう性が保たれていること。全く新しく生起した言説の場合、昨今話題のデマや陰謀論の類になるだろう。伝統性に裏打ちされることにより、迷信言説は根強く継承されていくことになる。

 四つの要件を満たす迷信の本質とは、古くからの、悪い、謎の、広まりだということになる。だからこそ、迷信と近代科学の相性は悪い。これまで、丙午研究は、歴史人口学と民俗学の研究がわずかにあるのみだった。逆にいえば、謎とされる部分の科学的な解明は、迷信のブレイクスルーの糸口となりうる。過去の丙午における「ミステリー」が、エビデンスに基づいて暴かれてしまえば、この現象はもはや迷信の要件を満たさなくなる。

人口減の隠れた機能とメカニズム

 過去および現在進行中のひのえうま現象について、人口動態統計、社会心理学、メディア報道、生殖科学、公衆衛生の制度史、近代家族・核家族論などの分野横断的なアプローチによって探究する研究として、2025(令和7)年度から3カ年の計画で、日本学術振興会の科研費挑戦的研究(萌芽)25K21919の支援で「ひのえうま人口減の社会科学的解明」を行っている。これにより、人びとに妄信され、畏怖されてきたひのえうま迷信は、理解可能な社会現象になっていく。

 資料が残っている弘化、明治、昭和のひのえうま周辺年の性生年別人口の統計をみると、180年前、120年前、60年前いずれも、この年に限って出生数や同年人口の落ち込みを確認できる。さらによく見ると、出生減の規模、前後年の人口変化のパターン、男女比が毎回少しずつ異なっていることにも気が付く。そして直近の1966(昭和41)年は、切り欠きが最も顕著であり、約50万人近い変動がみられる(前後年比約70%減)。これほどの規模の一時出生減は世界的にも例がない。

弘化、明治、昭和のひのえうま周辺年の性生年別の人口統計(各グラフの左が男性、右は女性)
弘化、明治、昭和のひのえうま周辺年の性生年別の人口統計(各グラフの左が男性、右は女性)

 ひのえうま迷信は、数十年を隔てた二つの社会現象で成り立っている。一つは出産回避および女児出生の忌避であり、もう一つは丙午年からおよそ20年後、当該女性たちが婚姻の適齢期に会う厄難である。つまり、出生と婚姻についての二つの現象が、繰り返されてきたのが丙午の歴史的経緯なのだ。

 この二つのひのえうま現象はともに、ある社会的機能を担っていたことを指摘できる。それは、家父長制の規範を逸脱するスケープゴートを無理やり作って折々に苛み、このイデオロギーの存在を強固にするというはたらきである。家父長制とは、男性主導の社会において、男性支配の家族・氏族システムに、女性が婚姻と子孫形成によって従属するという社会システムである。

 江戸期以降の日本では、慎ましく男性を立てる気性をもち、嫁ぎ先に望んで迎えられ、離縁されたり再婚を繰り返したりすることなく、世間に恥じない子を産み、夫唱婦随で平穏に結婚生活を送ることが、女性にとって望ましいこととされた。にもかかわらず、丙午の女性は、そうした人生を歩むことができないと、いわれなく決めつけられたというわけだ。

 人びとに明示的に意図されることはなかったが、60年に一度、女性だけという120分の1の確率でスケープゴートを作って、そこに社会からの圧力を加えることは、家父長制規範の望ましさを再確認し、明確化する作用をもっており、だからこそ江戸から昭和の日本に広く流布したのだと解釈することができる。そうであるならば、ひのえうま現象を指標とすれば、ジェンダーやイエ意識や生命倫理についての社会意識変容の趨勢を知ることができる。丙午をある種の自然実験だとみるこの考え方は、計量経済学者の石瀬寛和氏も実践し、研究成果を論文発表しているもので、丙午に生まれた集団は「Japanese Firehorse cohort」として海外の経済学や人口学の研究でも一定の関心が示されている。

昭和のひのえうまの出生秘話

 現代のわたしたちが広く知るひのえうま迷信現象は、この昭和の大出生減なのだが、科学性と合理性に基づく豊かさを求めて邁進した高度経済成長期の只中において、旧来の迷信がなぜこれほど大きな力を発揮したのだろうか。このときの実態について、実際の年次出生数を示す折れ線グラフを見ると、緩やかな出生増の趨勢のなかで、山―谷―山の変動があったことを捉えている。

 これは、丙午年に限って妊娠が回避されたわけではなく、前後3年ないし5年の期間で出産前倒し(約10万6000件)、出産先送り(約14万3000件)がなされていたということを示唆している。つまりこのときには、単なる出産断念ではなく、長期にわたる計画的な受胎調節(避妊によるバースコントロール)がなされていたのだ。

 約50万人の大出生減というのは、山―谷―山の3年の推移の差分をそのままみたものだが、1966年の出生数の純減は、じつは約16万4000件にすぎない。ちなみに、1966年だけ妊娠中絶数が増加したという事実もない。約280日の妊娠期間を考えれば、当事者たちにとっての「昭和のひのえうま」の始まりは1963(昭和38)年の下半期であり、丙午の余波の終わりは1968(昭和43)年だったという驚くべき事実が明らかになる。

緩やかな出生増だった傾向を踏まえて想定出生数を算出し、実際の出生数との差を求めた
緩やかな出生増だった傾向を踏まえて想定出生数を算出し、実際の出生数との差を求めた

 昨年にだした光文社新書「ひのえうま 江戸から令和の迷信と日本社会」に詳しいが、「ひのえうま騒動」を想定以上に拡大させたのは、このとき発達していた大衆メディアの報道であった。けれども、これに加えて生殖科学の知識、とくに第二子以降の受胎調節の公衆衛生としての伝播が、期間を正確に区切った出生減をこれほど大規模にした知られざる要因であったのだ。

どうなる令和のひのえうま

 このように、過去の丙午についてわざわざ調べ直して話題にすると、忘れかけていた迷信を蒸し返すな、という非難もあるかもしれない。しかし、正確なエビデンスに基づく総括的事実の周知こそが、この迷信を本当に終わらせる早道であるだろう。他方では、歴代の丙午の構造の解明によって、令和のひのえうままで何が起きるかということの予測も可能になり、日本社会が直面している少子化問題に知見を活かすこともできる。

 目下の結論は、昭和のひのえうまの大出生減は、いくつかの要因が重なった、史上まれにみる暴発的現象であったのであり、令和のひのえうまでは同様の現象は生じえないということである。そして、残念ながら昭和のひのえうまのメカニズムを逆の方向に作動させることで、少子化を食い止めることも容易にはなしえないといえる。

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2050年の「食」は世界に行き渡るか、90億人の笑顔を目指す ムーンショット目標5イベントから https://scienceportal.jst.go.jp/explore/reports/20260105_e01/ Mon, 05 Jan 2026 06:31:57 +0000 https://scienceportal.jst.go.jp/?post_type=explore&p=55935  2026年現在、約82億人といわれる世界人口は、40年頃に90億人を超えるとみられている。その結果、50年には穀物需要量が現在の1.7倍にまで増えると指摘されている。そのとき、食料は世界の隅々まで行き渡るだろうか。そうした問題意識を背景に、サイエンスアゴラ2025においてトークセッション「目指そう90億人の笑顔!“いただきます”を未来にも」が去年10月25日に開催された。化学農薬を使う代わりにレーザーで害虫を狙い撃ちして駆除する方法や、廃棄される食材を凍らせ粉末にしておいしくムダなく使う方法が紹介され、未来の農業と食料について参加者とともに考える機会となった。

会場の日本科学未来館に所属する科学コミュニケーター久保知瑛里さん(左)の進行により、ライブ中継も交えてセッションが行われた
会場の日本科学未来館に所属する科学コミュニケーター久保知瑛里さん(左)の進行により、ライブ中継も交えてセッションが行われた

取り組みは自然科学と社会科学の両側面から

 セッションは、内閣府のムーンショット型研究開発制度の目標5「2050年までに、未利用の生物機能等のフル活用により、地球規模でムリ・ムダのない持続的な食料供給産業を創出」の一環として、研究開発を推進する生物系特定産業技術研究支援センター(BRAIN)が主催した。ムーンショットは、破壊的イノベーションの創出を目指した大胆かつ挑戦的な研究開発を推進する制度で、10の目標が設定されている。

 冒頭、目標5プログラムディレクターの千葉一裕さん(東京農工大学学長)は、セッションに込めた思いとして研究開発の背景にある課題に触れた。世界の食料供給にはさまざまな課題がある。例えば、農業は環境にやさしいイメージがあるが、実際には化学肥料や化学農薬による土壌汚染、肥料の輸入時の温室効果ガス排出など環境に負荷をかけている面もある。また、世界では毎年、農作物生産量の3分の1ほどにあたる約25億トン分が廃棄されている。キズがあり販売できないこと、豊作で収穫しきれないことなどが理由だ。また、降水量の少ない地域では淡水の奪い合いも発生している。

目標5では「食料供給の拡大と地球環境保全を両立する食料生産システム」と「食品ロスゼロを目指す食料消費システム」の2本の柱を立て研究開発を推進している(内閣府提供)
目標5では「食料供給の拡大と地球環境保全を両立する食料生産システム」と「食品ロスゼロを目指す食料消費システム」の2本の柱を立て研究開発を推進している(内閣府提供)

 千葉さんは「歴史を振り返っても、農業の発祥と同時に人々の間で格差が生まれた。農業におけるさまざまな課題には、自然科学と社会科学の両側面から取り組む必要がある。人口が増え続ける一方で、農地面積はこれ以上増やせない。科学技術を活用し、環境負荷を抑えながらいかに効率良く食料を生産するかが重要だ」と話した。

ムーンショット目標5プログラムディレクターとして研究を総括する千葉さん
ムーンショット目標5プログラムディレクターとして研究を総括する千葉さん

蛾の飛行パターンを解析、狙撃精度は90%以上

 続いて、登壇者が2つのプロジェクトを紹介した。

 日本(ひのもと)典秀さん(京都大学大学院農学研究科教授)らが取り組むプロジェクトは「先端的な物理手法と未利用の生物機能を駆使した害虫被害ゼロ農業の実現」だ。驚くことに、農作物の総生産量のうち42%が、害虫と病気と雑草により失われている。そこでプロジェクトでは害虫による損失の軽減に、化学農薬に頼らない手法で取り組んでいる。

さまざまなアプローチを駆使し害虫被害ゼロを目指す日本さん
さまざまなアプローチを駆使し害虫被害ゼロを目指す日本さん

 取り組みのひとつは、幼虫期に農作物を食べてしまう蛾を1匹ずつ青色レーザー光線で撃ち落とす装置の開発だ。飛び回る蛾を単純に狙撃するのは難しいが、蛾の飛行パターンを解析し、次の瞬間に蛾がいる場所を予測することで、個体数ベースで90%以上の狙撃精度(100匹いたら90匹を撃てる)を実現した。

会場で行われた「レーザー害虫駆除システム」の実演。レーザーが自動で蛾(模擬)を捉えている
会場で行われた「レーザー害虫駆除システム」の実演。レーザーが自動で蛾(模擬)を捉えている

「すぐに諦めない」天敵で害虫被害ゼロを目指す

 天敵のタイリクヒメハナカメムシを放って、農作物の汁を吸う害虫のアザミウマを減らす手法も紹介された。農薬の散布は、夏場に防護服を着ての重労働である。それに比べて、天敵を放つほうが農家の負担が少ない。プロジェクトに参画する世古智一さん(農業・食品産業技術総合研究機構植物防疫研究部門上級研究員)は、捕食対象のアザミウマがすぐに見つからなくても農作物に留まって定着する、「すぐに諦めない」性質を持つ個体を選抜。何世代も交配を繰り返して捕食効果を高めることに成功した。

世古さんは茨城県つくば市の農研機構からのライブ中継で、「すぐに諦めない」タイリクヒメハナカメムシを実際に放つ様子を見せてくれた
世古さんは茨城県つくば市の農研機構からのライブ中継で、「すぐに諦めない」タイリクヒメハナカメムシを実際に放つ様子を見せてくれた

 また、「害虫ゼロ」ではなく「害虫被害ゼロ」を目指しているのも重要な点だ。害虫を絶滅させると生態系のバランスが崩れる可能性があるためだ。千葉さんが述べた「環境負荷を抑える」意味でも、人為的な介入の影響をできる限り抑える意欲が感じられた。

無駄になっていた食材とLNG冷熱を活用

 古川英光さん(山形大学大学院理工学研究科教授)らは、地元山形県の企業とともに「低温凍結粉砕含水ゲル粉末による食品の革新的長期保存技術の開発」に取り組んでいる。

「やわらかさ」をキーワードに研究やものづくりを続けている古川さん
「やわらかさ」をキーワードに研究やものづくりを続けている古川さん

 凍らせた後に水分を飛ばすフリーズドライではなく、食材の水分を保ったまま急冷して粉砕し、「凍結粉砕含水ゲル粉末」にする。これまでの凍結粉砕は、液体窒素を用いて零下196度で行われていたが、古川さんらは同80度でそれを可能にした点も大きな成果である。この手法では、野菜や果物はもとより、魚などの長期保存に向かない食材も粉末にして長く保存できる。

穀物や野菜などさまざまな食材の含水ゲル粉末(左)と、廃棄されるタコの皮から含水ゲル粉末をつくり、3Dフードプリンターで再成型したタコの寿司
穀物や野菜などさまざまな食材の含水ゲル粉末(左)と、廃棄されるタコの皮から含水ゲル粉末をつくり、3Dフードプリンターで再成型したタコの寿司

 特徴は、液化天然ガス(LNG)の火力発電所と連携し、従来は無駄になっていたエネルギーを活用する点だ。火力発電の燃料であるLNGは零下160度に冷却された液体の状態で運搬・保管されている。発電時に熱を与えて気化させる仕組みだが、古川さんらはここで発生する冷熱を用いて食材を凍結粉砕する技術を確立。エネルギーを無駄なく活用できるというわけだ。

 さまざまなステークホルダーとの協働により、含水ゲル粉末の用途を広げることにも余念がない。後述する地元の菓子製造企業とのラスクの共同開発や、料理人とのレシピの考案に取り組んでいる。「長期保存に向かず無駄になっていた食材と、未利用エネルギーとして課題になっていたLNG冷熱。2つの『もったいない』を活用することでフードロスが削減され、しかもおいしい」と古川さんはアピールした。

密に連携する生産者と和気あいあいの交流

 両プロジェクトは、地域の生産者などと密に連携している。セッションにはそうした当事者らも招かれており、登壇者と和気あいあいとした雰囲気の中で交流した。日本さんと対談したのは茨城県で有機農業を手がける伏田直弘さん(ふしちゃん代表取締役社長)。

大手外食チェーンや金融業界を経て10年前に就農したという伏田さん
大手外食チェーンや金融業界を経て10年前に就農したという伏田さん

 伏田さんの農園には120棟ものビニールハウスがある。その全てに害虫がいないか目を光らせ、駆除するのは大変な作業だ。一度ハウスに入ってきてしまうと、蛾はどんどん増えてしまう。伏田さんは害虫対策に苦慮する様子を見せながら「レーザー害虫駆除システムを導入し、最初の1匹をハウスに入られる前に撃退したい」と期待を寄せた。

 古川さんは鈴木健太郎さん(大山製菓代表取締役社長)と対談した。大山製菓では、米の含水ゲル粉末から米粉ラスクを製造している。

大山製菓の4代目として山形の食文化を支えている鈴木さん
大山製菓の4代目として山形の食文化を支えている鈴木さん

 大山製菓は山形の正月を彩る伝統菓子「初飴」を製造する、現在唯一の企業だ。以前は飴だけに専念していたが、鈴木さんの代で飴以外の製品を初めて手がけた。その1つが、米の含水ゲル粉末から作った米粉ラスクだ。「古川さんとの連携は思い切った決断だったが、会社の未来を考えると必要な挑戦だった」と鈴木さんは話す。

会場で配布された大山製菓の米粉ラスク。パンから作る一般的なラスクとは全く異なり、ボーロのような食感だ。「飲み込みやすいので介護食にもなる」と鈴木さんは米粉ラスクに新たな価値を見出している
会場で配布された大山製菓の米粉ラスク。パンから作る一般的なラスクとは全く異なり、ボーロのような食感だ。「飲み込みやすいので介護食にもなる」と鈴木さんは米粉ラスクに新たな価値を見出している

 1日に3トンものマッシュルームを手作業で収穫しているという長澤大輔さん(舟形マッシュルーム社長)は、山形県舟形町からライブ中継で登場。マッシュルームの日持ちは通常2週間程度だが、含水ゲル粉末にすることで鮮度を保ったまま半年から1年ほど保存できるようになったという。また、「マッシュルームの風味も保たれるため、粉末を料理にかけるとトリュフの代わりにもなる」と古川さんとの連携により活用機会が広がったことにも触れた。

「マッシュルームは生でも食べられる」とその場で摘み採って実食してくれた長澤さん
「マッシュルームは生でも食べられる」とその場で摘み採って実食してくれた長澤さん

 ムーンショット目標5では他にも6つのプロジェクトが進行中だ。冒頭で千葉さんが語った「人口が増え続ける一方で、農地面積はこれ以上増やせない」という現実や、農業が抱えるさまざまな課題をシビアに認識しつつ、未来でも私たちが十分においしく食べられるように、農家や企業と協力しながら多角的に研究へ取り組んでいる様子が伝わったセッションだった。

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首都を襲う大地震に備え、ガス供給の安全と安心を確保する 東京ガスネットワークの24時間監視システム https://scienceportal.jst.go.jp/explore/reports/20251226_e01/ Fri, 26 Dec 2025 01:09:43 +0000 https://scienceportal.jst.go.jp/?post_type=explore&p=55860  首都直下地震は30年以内に70%という高い確率と甚大な被害が想定され、マグニチュード(M)7クラスの強大な揺れが電気やガスといった重要な社会インフラにも容赦なく襲いかかる。太いガス管が破損してガスが大量に漏れれば火災などの大きな被害を引き起こす危険性があるため、大地震が発生したら速やかにガス供給を停止して二次被害を未然に防ぐシステムが社会の災害対応力向上のためにも重要だ。

 首都圏1都6県の約1200万戸にガスを供給する東京ガスネットワーク(東京都港区、沢田聡社長)は、震災時の安全・安心の確保と社会インフラの早期復旧を担う。同社が運用する24時間遠隔監視の「SUPREME(シュープリーム)」は、世界でも例を見ないリアルタイム地震防災システムと言われる。SUPREMEを中核とする同社の地震防災・インフラ老朽化対策を取材した。

東京ガスネットワークが入った東京ガス本社ビル(東京都港区海岸1丁目、東京ガスネットワーク提供)
東京ガスネットワークが入った東京ガス本社ビル(東京都港区海岸1丁目、東京ガスネットワーク提供)

地震防災の中核担う「供給指令センター」

 東京ガスネットワークは、政府の方針に基づく導管事業の法的分離に伴い、2022年4月に東京ガスの導管事業を引き継ぐ形で分離・独立した。

 沢田社長は「24時間365日、都市ガスを安定的に供給し続けることが最大の使命で、設備の定期点検と維持管理、万が一のガス漏れの際の迅速な緊急対応、そして、地震などの自然災害への備えと被災時の早期復旧、さらに都市ガス普及を通じた快適な暮らしの実現を担っている」と説明する。

 安全にガスを供給し、安心して使ってもらうために、自然災害の甚大化やインフラの老朽化といった社会課題に対する対策強化を重点的に進めているという。地震防災の中核は、都市ガスの製造と供給設備の稼働状況を常時監視・コントロールする「供給指令センター」だ。

 供給指令センターはグループ各社が入る東京ガス本社ビル内の広いフロアにあり、独自の地震防災システムSUPREMEの司令塔となっている。センターを訪れると、その日の担当者が緊張感をもって監視を続けていた。

東京ガスネットワークの供給指令センター(東京ガスネットワーク提供)
東京ガスネットワークの供給指令センター(東京ガスネットワーク提供)

「二次被害防止」「早期復旧」の鍵はガス管網のブロック化

 都市ガスの地震対策の基本である「二次被害防止」と「早期復旧」の鍵は、ガス管網のブロック化だという。ブロック化の導入は早く、1995年の阪神・淡路大震災より前の80年代にさかのぼる。83年に東京ガスが国の災害対策基本法指定公共機関になったことを受け、各戸につながる低圧管網のブロック化が始まり、89年には広大な供給範囲が100ブロックに細分化された。

 その後、95年の大震災を受けて、同社は地震防災対策を拡充・強化した。2001年には地震防災システムSUPREMEを稼働させ、東日本大震災や熊本地震を経て液状化や水害対策などの機能も追加してきた。

 タンカーで輸入されたLNG(液化天然ガス)はLNG基地で気化させた後、「ガバナステーション」で高圧ガスから中圧に減圧し、さらに「地区ガバナ」と呼ばれる圧力調整器で低圧にする。 これらのガスを運ぶ導管は重要なライフラインで、総延長は6万4000キロにも及ぶ。その9割は各戸につながる低圧管だ。

 現在、低圧管網は300以上、中圧管網は25以上のブロックに分割され、万が一の際には、被害が大きく対策が必要な地域(ブロック)だけガス供給を停止し、それ以外の地域は供給を継続する仕組みになっている。一連の作業は供給指令センターで遠隔操作する。システム導入前は担当者が現地に行って作業するために40時間かかっていた停止操作が、わずか10分でできるようになったという。

 このシステムでは、ガス供給エリア内に約4000の地区ガバナが設置されている。その内部には、東京ガス(当時)が中心になって精密機器企業と共同で開発した「SIセンサー」という地震計が入っている。この地震計は「地震によって建物がどれだけ大きく揺れるか」を数値化した「SI値」を計測する。震度5強はSI値21~40、6強は同71~120相当で、地震発生に伴うSI値の情報は5分以内に供給指令センターに送信される。平均で約1キロの間隔の高密度地震計ネットワークは、地震防災の専門家も「世界に例を見ない」と指摘している。

地震防災システム「SUPREME」の概要図(東京ガスネットワーク提供)
地震防災システム「SUPREME」の概要図(東京ガスネットワーク提供)

耐震性の向上と老朽化対策は一体

 2025年1月に埼玉県八潮市内の交差点付近の道路が突然陥没してトラック運転手が死亡した事故は、老朽化した下水道管の破損が原因だった。高度経済成長期に作られて耐用年数を超えたインフラの老朽化対策は、その必要性が事故前から指摘されており、事故を受け一層大きな社会問題となった。

 東京ガスネットワーク取締役常務執行役員の今井朋男さんによると、最初の陥没が発生した直後に同社の緊急対応車が出動し、陥没孔の周辺でガス漏れがないことを確認したという。一方で、もしものガス漏れを防止するため、緊急に新たなバルブの設置工事をしてガスを止める範囲をできるだけ狭めた上で、130戸の供給を停止した。安全のためのガス管迂回ルートを確保して、事故後2日半で供給を再開したそうだ。

 都市ガスのインフラ老朽化対策は地震防災対策と一体で、ガス管をはじめとするさまざまな設備の強化が柱になる。例えば、以前の低圧管は黒鉛を含む「ねずみ鋳鉄(ちゅうてつ)管」で、強い力が加わると破損する恐れがあった。今井さんによると、1996年時点では4000キロ超にこの管が残存していたが、腐食せず破断しにくいポリエチレン管に順次取り替えており、2025年度中には全てのねずみ鋳鉄管の更新が完了する予定だ。

 このほか、高圧管や中圧管には、強度や柔軟性に優れ、阪神・淡路大震災や東日本大震災でも高い耐震性が確認された溶接接合鋼管が使われている。球形のガスタンクのガスホルダーにも耐震設計が施され、揺れの減衰装置などが導入されている。インフラ老朽化対策について今井さんは「高品質な導管の建設、設備の適切な維持管理、緊急時の迅速な措置が3本柱」だと言う。

埼玉県八潮市の道路陥没現場(東京ガスネットワーク提供)
埼玉県八潮市の道路陥没現場(東京ガスネットワーク提供)
ねずみ鋳鉄管とポリエチレン管(東京ガスネットワーク提供)
ねずみ鋳鉄管とポリエチレン管(東京ガスネットワーク提供)
低圧ガス管の老朽化対策の進ちょくを示すグラフ(東京ガスネットワーク提供)
低圧ガス管の老朽化対策の進捗を示すグラフ(東京ガスネットワーク提供)

東日本大震災では早期復旧のためガス各社が集結

 東日本大震災をもたらした東北地方太平洋沖地震では、東京ガスのガス供給対象地域も大きく揺れた。東京ガスネットワーク担当者の説明では、SUPREMEが地震発生直後から稼働したほか、震度5程度以上の揺れを感知した地域では、各戸に設置されたガスメーター(マイコンメーター)の安全装置が作動してガス供給を自動的に遮断し、対象地区で約300万戸の安全を確保できたという。

 筆者も大震災後の取材体験で、仙台市の素早いガス復旧を実感している。東京ガスネットワークによると、東京ガスグループなど全国の都市ガス事業者が宮城県仙台市や石巻市、福島県いわき市、茨城県土浦市などでガス供給の復旧作業に取り組んだ。このうち約36万戸のガス供給が停止した仙台市では、同社を中心に約50の事業者が集まって現地救援対策本部をつくり、4月16日にはガスの供給を完全に復旧させた。

 東京ガスネットワークの今井さんは、地震防災の基本について、設備の耐震化による「予防」、SUPREMEを活用した適切なエリアを対象にした迅速なガス供給停止の「緊急」、そして全国のガス事業者が相互に連携・協力する「復旧」の3つが柱だと説明する。

供給指令センターとは別に保安指令センター(左)が設置され、ガスに関する緊急の通報受け付けから緊急の出動指示(右)までのを担当する(東京ガスネットワーク提供)
供給指令センターとは別に保安指令センター(左)が設置され、ガスに関する緊急の通報受け付けから緊急の出動指示(右)までを担当する(東京ガスネットワーク提供)
ガスを貯蔵するガスホルダー。1日の需要に応じてガスが送り出される。ここも耐震対策が施されている。(東京ガスネットワーク提供)
ガスを貯蔵するガスホルダー。1日の需要に応じてガスが送り出される。ここも耐震対策が施されている(東京ガスネットワーク提供)

電力、通信、水道とも連携して対策を強化

 供給指令センターには内閣府や東京都と情報を共有する専用端末やホットラインが設置され、相互に連携して被害の拡大を防止するための体制を構築している。また、電気、通信、上水道といった重要社会インフラを担う東京電力、NTT東日本、東京都水道局とも連携し、情報交換しながら対策の強化を進めている。

 「自然災害の激甚化などの環境変化や(インフラ老朽化対策などの)社会課題が顕在化している。これらに的確に対応しながら、お客さまの暮らしや産業活動を支えるための都市ガスを届け続ける都市ガス事業者として、使命と責任を果たすために日夜取り組んでいる。今後もデジタル技術なども活用しながら、都市ガスが将来にわたって不可欠なエネルギーとして選ばれ続けるように強固な事業基盤を確立していきたい」。沢田社長は首都直下地震なども想定しながら、そう語る。

 東京ガスネットワークの広報動画も、次のように強調している。「過去の地震の教訓から災害対策を進化させてきた。首都直下地震への備えも引き続き強化しなければならない。ライフラインを守るものとして、我々都市ガス事業者は地震防災と老朽化対策の強化について、これからも見えない場所で見える努力を続けていく。安心、安全と信頼は私たちの責任だ」

 甚大な被害が想定される首都直下地震に備えて事前防災を徹底し、もしもの際にも基幹エネルギーである都市ガスの安定供給を維持する――。公共性の極めて高い事業を展開する企業としての取り組みは続く。

供給指令センターの担当者は24時間交代で監視を続ける(東京ガスネットワーク提供)
供給指令センターの担当者は24時間交代で監視を続ける(東京ガスネットワーク提供)
東京ガスネットワークの沢田聡社長(12月11日、筆者撮影)
東京ガスネットワークの沢田聡社長(12月11日、筆者撮影)
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首都直下地震の新被害想定、死者1万8000人、経済被害82兆円超 12年前より減るも目標に届かず https://scienceportal.jst.go.jp/explore/review/20251225_e01/ Thu, 25 Dec 2025 08:08:21 +0000 https://scienceportal.jst.go.jp/?post_type=explore&p=55888  マグニチュード(M)7級の激しい揺れが襲う首都直下地震について、政府の作業部会は19日、新たな被害想定の報告書を公表した。最悪の場合、全壊・焼失建物は約40万棟、死者は約1万8000人に達し、工場損壊や流通網の壊滅などによる経済被害は総額82兆円を超えるという。「国難級」の甚大な被害規模が明らかになった。

 被害想定の見直しは、前回の2013年から12年ぶり。建物の耐震化や木造住宅密集地域での防火対策が進んだことから、死者数は前回想定の2万3000人から減ったものの、「首都直下地震緊急対策推進基本計画」で15年に定めた「10年間で死者数半減」との目標には届かなかった。政府は今後、同計画を改定し、26年度中に設置されることになっている防災庁を司令塔に首都機能の維持と被害軽減に向けた取り組みを強化する方針だ。

政府の作業部会の報告書の表紙(内閣府提供)
政府の作業部会の報告書の表紙(内閣府提供)
首都直下地震による被害イメージを紹介する内閣府の動画の一場面(内閣府提供)
首都直下地震による被害イメージを紹介する内閣府の動画の一場面(内閣府提供)

都心南部直下地震、国民生活や経済活動に深刻な影響

 政府の中央防災会議・首都直下地震対策検討作業部会は、2023年12月から被害想定の見直しと新たな防災対策の検討を開始。「30年以内に70%程度の確率」での発生が予想され、首都中枢への影響が極めて大きい「都心南部直下地震」のタイプで被害を想定した。

 今回まとまった報告書は、首都圏には政治、行政、経済といった中枢機能が集積し、都心南部で直下地震が起きれば、国全体の国民生活・経済活動のほか海外にも大きな影響が出ると指摘。人口や建物が密集していることから、揺れや火災によって多くの直接死が出ることが避けられないとした。

 1都4県で想定される死者は、M7.3の地震が冬の夕方に発生して風速8メートルの場合に最大になり、建物倒壊の約6000人と火災の約1万2000人を合せて約1万8000人になるという。このうち、東京都が約8000人で全体の4割を超えている。

 東京都以外で想定される最大死者数は、神奈川県5200人、埼玉県3200人、千葉県1500人、茨城県10人。建物の全壊は最大で約13万棟、焼失が約27万棟で、全壊・焼失の総計は40万棟余りとなった。

関東直下で過去に発生した大地震(内閣府提供)
関東直下で過去に発生した大地震(内閣府提供)
 都心南部直下地震の想定震度分布図(内閣府提供)
都心南部直下地震の想定震度分布図(内閣府提供)

災害関連死4万人超、帰宅困難者840万人、食料不足1300万食

 避難者数は地震発生直後から徐々に増え、想定では2週間後に480万人になり、帰宅困難者は平日正午に発生した場合は840万人になるという。これとは別に海外から観光や出張で訪れた65万~88万人も滞留する恐れがあると想定された。今回、避難生活に伴う体調悪化などで起きる災害関連死についても初めて推計し、最大1万6000~4万1000人との数字が出た。

 このほか、最悪の被害想定として停電が約1600万軒、断水で上水道が使えない人が約1400万人、下水道が使えない人が約200万人、エレベーター内に閉じ込められる人が約1万6000人、地震後1週間の食料不足は約1300万食にものぼるという。

 前回の最大の被害想定と比較すると、死者では約5000人が、全壊・焼失建物では約21万棟が、避難者数では240万人が、それぞれ減っている。また、経済的な被害は約13兆円も減った。2015年の対策が一定の効果を上げているとされたものの、首都直下地震緊急対策推進基本計画の目標には及ばなかった。

 作業部会の増田寛也主査(野村総合研究所顧問)は「(首都圏を襲う地震被害を)自分事として捉え、社会全体で態勢を構築することが重要だ」などと述べた。

阪神・淡路大震災では直下型地震により住宅密集地の建物が倒壊して多くの犠牲者を出した(神戸市/内閣府提供)
阪神・淡路大震災では直下型地震により住宅密集地の建物が倒壊して多くの犠牲者を出した(神戸市/内閣府提供)
首都圏で想定される地震には、さまざまなタイプがある(内閣府提供)
首都圏で想定される地震には、さまざまなタイプがある(内閣府提供)

「関東大震災型」では最悪2万3000人近くが死亡

 東京を含む関東地方は、北米プレートに向かって南側からフィリピン海プレートが、さらに東側から太平洋プレートがそれぞれ沈み込む極めて複雑な地下構造の上にある。このため、想定される地震のメカニズムも多様だ。

 作業部会は今回、都心南部直下地震のほか、相模トラフ沿いを震源とする「関東大震災型」のM8級地震についても想定被害を出した。海溝型の地震であるために津波による大きな被害が想定され、押し寄せる津波の規模は千葉県と神奈川県では最大10メートル、東京都の島しょ部と静岡県では8メートルになるという。

 冬の夕方に発生して風速8メートルの風が吹く場合の最悪の想定では、死者については津波の約3500人、火災の約1万3000人、建物崩壊の約6300人などを合せて2万3000人近くにのぼり、負傷者は約8万6000人に達する。災害関連死も最大で約3万3000人という想定だ。

 建物の全壊と焼失は約41万4000棟、半壊は約47万3000棟と想定された。停電は最大で約1600万軒と全体の約5割に及び、完全復旧には1カ月以上かかる。情報通信分野への被害も大きく、固定電話・インターネット回線は最大で約750万回線に支障が出て、震災後の通信や連絡への影響は避けられないという。

 一方で、経済被害については、東京に集中する企業の被災が比較的軽く、都心南部型より少ない60兆5000億円だという。内訳は経済活動への影響分が約20兆3000億円、民間、公共、準公共部門合せた資産への影響が約40兆2000億円と大きかった。

関東大震災型大地震の想定震度分布図(内閣府提供)
関東大震災型大地震の想定震度分布図(内閣府提供)

ネットのデマ・流言の拡散で被災地に混乱も

 東京という巨大過密都市を襲う人的被害や経済的被害の他の被害もまとめた。中でも情報発信の遅れは深刻で、適時適切な情報の伝達に支障をきたすほか、SNSなどによるデマや流言が大量に拡散して被災地の混乱を深刻化させることから、こうした分野での対策も必要であることを指摘した。

 政府が2014年3月に閣議決定した首都直下地震緊急対策基本計画に基づいて翌年に策定された減災目標は、その当時に想定されていた最大被害(死者約2万3000人、建物の全壊・焼失約61万棟)を概ね半減することを掲げた。しかし今回、前回の想定と同じ揺れが襲ってくる条件で出した結果、被害想定は死者で3割強、建物被害では約4割の軽減にとどまった。

 今後の対策の中でも特に重要なのは、死者数の3分の2を占める住宅密集地などの火災対策だ。現在、道路拡幅などの施策により東京都内の密集地域は減ったものの、依然として老朽化した住宅が密集した地域や、消防車などの緊急車両が通れない狭い道路も多い。

 火災対策の鍵は揺れを感知すると自動的に電気を止める「感震ブレーカー」だが、設置率は伸び悩んでおり、今後の具体的な課題の柱になる。民間企業なども本社・本部の代替機能を地方に置いたり、生産拠点を地方に移したりするなどの取り組みを進めているものの、まだ途上だ。SNSなどによるデマ・偽動画対策については、効果的な方法が見つかっていない。

 大地震は全国どこでも、いつでも起こり得る。被害を少なくするには、一人一人が命を守るために備えておくことが大切だ。

首都直下地震により火災が発生するイメージを紹介する内閣府の動画の一場面。想定死者数の約3分の2は火災による(内閣府提供)
首都直下地震により火災が発生するイメージを紹介する内閣府の動画の一場面。想定死者数の約3分の2は火災による(内閣府提供)
首都東京を襲う大地震による甚大被害を少しでも軽減する対策が急がれている(首都直下地震の想定被害を紹介する内閣府の動画の一場面、内閣府提供)
首都東京を襲う大地震による甚大被害を少しでも軽減する対策が急がれている(首都直下地震の想定被害を紹介する内閣府の動画の一場面、内閣府提供)
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「自分らしさ」とは? スポーツ、美学、生命科学で活躍する3人が対話 サイエンスアゴラin健都 https://scienceportal.jst.go.jp/explore/reports/20251217_e01/ Wed, 17 Dec 2025 06:31:08 +0000 https://scienceportal.jst.go.jp/?post_type=explore&p=55809  科学技術振興機構(JST)の社会技術研究開発センター(RISTEX)は、科学と社会をつなぐ対話の場「サイエンスアゴラin健都」を11月16日、大阪府摂津市のエア・ウォーター株式会社で開催した。健康・医療を核にまちづくりを進める北大阪健康医療都市(健都)における「健都フェス」の一環。元陸上選手の為末大さん、美学者の伊藤亜紗さん、バイオベンチャーCEOの福田真嗣さんが、それぞれスポーツ、美学、生命科学の視点から「自分らしさ」について対話を重ねた。

会場はほぼ満席で、立って3人の対話に耳を傾ける人たちも(11月16日大阪府摂津市)
会場はほぼ満席で、立って3人の対話に耳を傾ける人たちも(11月16日大阪府摂津市)

「守破離」の3段階で自分だけのトレーニングに 元陸上選手・為末大さん

 世界陸上選手権の400メートルハードルで銅メダルを獲得し、現在、スポーツ・教育事業を手がける株式会社Deportare Partners代表の為末大さんが「自分らしさ」について口火を切った。

 現役の時、8割がジャマイカ人のチームに参加したことがある。自分は日本の選手の中ではよくしゃべる方だったが、おしゃべり好きなジャマイカの選手からは「日本から無口なヤツが来た」とレッテルを貼られてしまった。自分らしさ、社会における自分の立ち位置は、住む場所や環境によって変わるものだ。

 陸上界では100メートルを10秒3で走る選手は「足が速くない」という。日本選手権に出られないから。でも、陸上界の外に出れば、とても足が速いといえる。離れてみることで、自分の違った姿が見えてくるのではないか。


陸上選手としての経験や現在の活動を話す為末大さん(11月16日大阪府摂津市)
陸上選手としての経験や現在の活動を話す為末大さん(11月16日大阪府摂津市)

 スポーツの世界では、自分らしさはとても大切なことだ。茶道や武道などの修行において「守破離(しゅはり)」という言葉があるように、スポーツでも最初は習った型を守り、だんだん上手になると工夫をして型を破り、「離」の段階になると周りの選手との違いを踏まえたトレーニングを考える。

 100メートル走の世界記録を持つウサイン・ボルト氏を取材したことがある。小学6年生の時に身長が186センチあったという。手の長さが私の1.5倍あり、足の長さも違う。足の制御のしやすさに関わる肩幅も広く、少し肩を回転させるだけで足が前に出る。一方で、骨盤に比べて肩幅の狭い女子選手は、腕を伸ばして左右に大きく振るフォームの方が足を前に出しやすい。周りの選手との違いに気づくようになれば、トレーニングがパーソナライズされ、「自分にだけ通用する練習」になる。

 そして今、人に教える場合には、「自分には通用しないけれど、多くのみんなに通用する技術」を切り分けていく作業を悩みながらしている。

自分の心身に向き合い、「私らしい健康」を 美学者・伊藤亜紗さん

 人間の感性や美的判断の原理を探求する文学博士で美学者である東京科学大学教授の伊藤亜紗さんは、身体感覚や感性といった視点で考える自分らしさを「感性と自分らしさ」と題して紹介した。

 病気の名前は無数にある。同じように健康にもいろいろあって、それぞれに名前が付いていてもいいのに、細分化されておらず「健康」でひとくくり。しかし本来、病気と健康は単純な対立概念ではないはずだ。自分自身の体や心などに向き合いながら、「私らしい健康」を探索することができる。

 そもそも「自分らしさ」には二つの種類があるのではないか。一つは、基準としての私らしさだ。たとえば、自分に似合う洋服を選ぶというように、何かを選択する場合である。もう一つは、出会いとしての自分らしさだ。「これもまた自分らしい」と発見する感覚は、特に病気から回復する過程においては重要となる。なぜなら、回復する過程は、病気になる前の自分に戻ることではなく、病気を経験した新しい自分のあり方に出会うことに他ならないからだ。

 感性が関わるのは、二つ目の「出会いとしての自分らしさ」である。感性は、初めて出会う時のように、ものを経験する力だ。過剰なダイエットによって摂食障害に陥ってしまった人が回復へと向かう過程では、食べ物を「美味しい」と感じられる感性の役割が不可欠になる。それは、自分の体の声を聞くということにつながる。

 体の声という意味では、欲望に気づくというのも、新しい自分との出会いになる。障害や病気とともに生きる人の欲望は抑圧されがちだ。ケアを受けていると、「こんなことを要求したら嫌がられるのではないか」と忖度してしまい、どうしても「適切な欲望」と「不適切な欲望」ができてしまう。こうした抑圧的な力をいかに丁寧に取り除いていくかも、「自分らしさ」を考えるうえでは重要だろう。

「感性と自分らしさ」について語る伊藤亜紗さん(11月16日大阪府摂津市)
「感性と自分らしさ」について語る伊藤亜紗さん(11月16日大阪府摂津市)

腸内細菌の個性に合わせ食事を最適化 バイオベンチャーCEO・福田真嗣さん

 生命科学の分野からは、バイオベンチャーの株式会社メタジェン代表取締役社長CEOで慶應義塾大学・先端生命科学研究所特任教授の福田真嗣さんが、腸内細菌から考える「自分らしさ」を話した。

 腸内細菌は人体の細胞の総数より多く、腸内で得た栄養から様々な物質を作る。その成分は腸にとどまらず、全身の健康にも関わっている。たとえば、大学駅伝でトップレベルの青山学院大学陸上競技部の選手の便を調べたところ、ある細菌が腸内にたくさんいて短鎖脂肪酸を産生していた。そのおかげで持久力がアップしていることが、動物実験や臨床試験で明らかとなった。また、腸内細菌が作る代謝物質によって脳内で神経伝達物質ドーパミンの分解が抑制され、やる気を持続させられることも分かってきている。便は、そんな腸内細菌を含む有用なもの。「茶色い宝石」と言える。

 腸内細菌の集団である腸内フローラは個人差が大きい。それを逆手に取り、腸内環境タイプという「自分らしさ」を考慮した食事をすれば、短鎖脂肪酸が効率的に産生されて健康につながる。2023年ごろから、シリアルやドリンクで個別最適化した商品が出てきている。

最新の研究成果などを紹介する福田真嗣さん(11月16日大阪府摂津市)
最新の研究成果などを紹介する福田真嗣さん(11月16日大阪府摂津市)

 健康な人の便が、病気の人を救う可能性もある。潰瘍性大腸炎という難病の患者に、健康な人の便に含まれる腸内フローラを移植する「便移植」だ。これまで先進医療Bとして37人を治療し、症状がほとんど治まった状態(寛解)になる率が45.9%になっている。

 腸内環境に基づく個別最適化された健康を手に入れるほか、健康な人の便を提供してもらう「献便」が広がることで、自分の健康が誰かの健康につながるかもしれないという新たな医療・ヘルスケアの創出になる。

「なりたい自分」になるための努力と工夫

 講演が終わると、登壇者3人の対談が始まった。「“わたし”とは(何者か)?」という問いが投げかけられた。

 検便ならぬ「献便」に興味をもった為末さんが「病気が治るとはいえ、他の人の便を自分の体内に入れるというと『えっ』という意識が芽生えてしまう」と切り出すと、福田さんは「健康な人の便でも、移植できるかどうかの基準に照らし合わせると、現状では5%程度しかパスしない。また患者を救うだけでなく、健康な人が病気にならないように気をつけて生活してもらうためにも、献便には意味がある」と応じた。

 伊藤さんは「吐いたつばを再び飲むのはためらわれるのと同じで、『けがれ』の考え方が関わっていると思う」と、自他の境界をどうとらえるかという文化面から考察。「科学的にいくら有効であっても、便はトイレではすぐ流すべきもの。みんなが便を『茶色い宝石』と認識する世界というのは、文化の何かを根本的に変えることになる」と述べた。

 文化を変えずとも、腸内細菌を自分で変えることはできるのか。遺伝的要因と環境要因とどちらが関係するかについて福田さんは「遺伝より環境によって変わる。住んでいる国ごとに腸内フローラの違いを調べると、米国と和食文化が残る日本には違いがある。日常的な食事で腸内フローラは大きくは変わらないが、ベジタリアンの人が肉を食べると腸内フローラの構成は大きく変わるなど、食生活にあった細菌が腸にいるようだ」と語った。

 伊藤さんは「人って、型から外れるのは難しい。なりたい自分になるために、食生活をはじめとしたルーティンを変えるには、かなりの努力がいる」という。為末さんは「スポーツで成長する場合、最初は『ああいう選手になりたい』という理想の型から入るが、ある一つの理想をずっと見ていると、収束して想定内になってしまう。ルーティンを真面目に守るのではなく、遊びというか、毎日ちょっと違った工夫をすることも必要だ」。福田さんは、衛生環境が悪いとされるインドの方が日本よりも人間の腸内に大腸菌の仲間が多くいることを例に挙げ、「腸内フローラにも多様性があることで、その生態系を維持する頑健さが増す。はずれ値もその多様性に寄与している」と応じた。

自分らしさについて笑顔で語り合う為末さん、伊藤さん、福田さん(11月16日大阪府摂津市)
自分らしさについて笑顔で語り合う為末さん、伊藤さん、福田さん(11月16日大阪府摂津市)

多様性の時代、自分を最適化して他者と対話を

 それぞれが持つ自分らしさと多様性については、会場から「他者の自分らしさを尊重するにはどうすればよいか」という質問が出た。為末さんはパラリンピアンと関わる経験から、「障害によって、自分は何ができるか、何ができないか、という自己紹介を提示してもらうとうまくいく」と答えた。

 伊藤さんは「多様性の時代と言われ、『自分』というものが言語化できて、プロファイルで整理するものとして単純化されすぎている。自分とは複雑なもので、記述できないところがあることを認識することも大切では」と述べた。

 福田さんは、腸内フローラの多様性が外的要因への強さになることを挙げ、「多様であるということは、ある人とある人が違うということ。共感しなくてもお互いに理解をすることで尊重できると思う」。

 自分の置かれた環境の中で個別最適化を進めながら、パーソナライズした他者と理解し合うためには対話が大切。対話こそが、それぞれのウェルビーイングにつながる――。3人の対談は、そんな結論でまとまった。

 運動・哲学・食・感性といった分野を横断した「自分らしさ」と、健やかな暮らしの未来について語り合うトークセッションと聞き、「その道の専門家が話す哲学なんて難しいのでは」と構えて参加したが、講演も対談も具体例が満載で、楽しく「自分らしい取材」ができたと思う。

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気候危機回避へ各国結束して前進を COP30は国際協調の困難さ浮き彫り https://scienceportal.jst.go.jp/explore/review/20251212_e01/ Fri, 12 Dec 2025 06:47:55 +0000 https://scienceportal.jst.go.jp/?post_type=explore&p=55786  世界各地で熱波や干ばつ、豪雨といった極端な気象による被害が頻発し、その原因とされる地球温暖化・気候変動対策は待ったなしとされている。そうした中で国連気候変動枠組み条約(UNFCCC)第30回締約国会議(COP30)が11月10日から22日までブラジル・ベレンで開かれた。今回のCOPは第1回から30年。産業革命以降の平均気温上昇を1.5度に抑えることを目指した国際枠組み「パリ協定」採択から10年の節目で、大きな被害を出した各国の危機感も高まっていてその成果が注目されていた。

 だが、大きな争点だった「化石燃料からの脱却」の合意に失敗するなど、「気候危機」を回避するための明確な道筋を示すことができないまま終わった。国際協調で対策を進める難しさが改めて浮き彫りになった。

 COP30では気候変動による災害に備えるための「適応資金」を増やす約束などの成果もあり、対策強化の機運はまだ失われていない。各国はこれまで対策を積み上げてきた。そうした気候変動を克服するための歩みを止めてはならない。気候変動に対する危機感を背景に結束して前進するしか道はない。

ブラジル・ベレンのCOP30の会場(国連気候変動枠組み条約(UNFCCC)事務局提供)
ブラジル・ベレンのCOP30の会場(国連気候変動枠組み条約(UNFCCC)事務局提供)

「適応」のための資金を35年までに3倍で合意

 COP30の合意文書を巡る議論は最後まで紛糾し、日程を1日延長してかろうじて採択にこぎ付けた。交渉が難航した最大の要因は温室効果ガスの排出削減策の根幹となる脱化石燃料の位置付けについて意見が対立したことだった。会議参加者によると、議長国ブラジルのルラ大統領は「化石燃料なしに生きる方法を考える必要がある」などと主張して会議の当初から脱化石燃料の工程表作成に積極的だったという。

 会議の終盤、議長国ブラジルは合意文書案に石炭や石油などの化石燃料からの脱却を具体化する工程表作成を盛り込むことを提案した。欧州連合(EU)や太平洋の島嶼(しょ)国など約80カ国は賛成した。しかし、産油国のサウジアラビアやロシアなどが強硬に反対し、議長は合意案からこの項目を外した。日本は賛成国に加わっていない。

 最大の争点で合意できず、賛成した国々や各国の環境団体を落胆させたが、成果もあった。その一つは「気候変動による被害に備えるための『適応』資金を2035年までに少なくとも3倍にする努力を求める」ことが合意文書に盛り込まれたことだ。

 このほか、具体的な道筋は示されなかったものの「気温上昇を産業革命前から1.5度に抑えるパリ協定の目標達成に向けて対策の加速を促す」ことや「発展途上国向けの資金援助の具体化を目指して2年間の作業計画を策定する」ことなどで合意した。前回COP29で、2035年までに先進国を中心に年3000億ドル、世界全体で年1兆3000億ドルを対策に充てる目標を決定しており、これを受けての措置だった。合意文書はブラジル先住民の「共同作業」を意味する言葉から「グローバル・ムチラン」と名付けられた。

COP30会期中の様子。手前の演壇に立つのはUNFCCCのスティール事務局長(UNFCCC事務局提供)
COP30会期中の様子。手前の演壇に立つのはUNFCCCのスティール事務局長(UNFCCC事務局提供)
COP30の記者会見の様子(UNFCCC事務局提供)
COP30の記者会見の様子(UNFCCC事務局提供)

影響大きかった米トランプ政権の「離反」

 今回の会議に大きな影響を与えたのは中国に次いで温室効果ガス排出量が多い米国の欠席だった。トランプ米大統領は今年1月の大統領就任初日にパリ協定から再び離脱する大統領令に署名した。離脱発効は来年1月だが、トランプ政権は政府代表団を派遣せず「欠席」を決め込んだ。パリ協定への「離反」の姿勢をあからさまにした。

 COPという国際協調を前提とした枠組みができて以来、米国の政権は民主党、共和党が入れ替わり、資金提供などの対策に温度差はあったものの、2017年に第1期トランプ政権がパリ協定離脱を表明するまで基本的には協定に基づく各国の対策に歩調を合わせてきた。

 しかし、バイデン民主党政権の後、再び大統領に選ばれたトランプ氏の「反気候変動・温暖化対策」姿勢は強固だ。9月の国連総会でトランプ氏は「気候変動は史上最大の詐欺」と言い放ち、国連環境計画(UNEP)や世界気象機関(WMO)などの国際機関の予測は「愚か者によるもの」「間違い」などとし、再生可能エネルギーは「グリーン詐欺」などと呼んで、多くの国の代表を驚かせた。

 COP30に出席した日本の関係者によると、世界最大の経済大国であり、気候変動対策関連の資金提供もしてきた米国不在の影響は大きかった。そして米国の「自国第一主義」は会議の雰囲気に影を落とし、脱化石燃料の工程表作成に反対した産油国を勢い付けた。米国不在の中で対応が注目された世界最大の排出国で、再生可能エネルギー普及を国策として進める中国も議論をけん引することはなかったという。

化石燃料排出のイメージ画像。トランプ米政権はバイデン前政権が進めた省エネ支援策などを撤廃して化石燃料開発を拡大している(国連提供)
化石燃料排出のイメージ画像。トランプ米政権はバイデン前政権が進めた省エネ支援策などを撤廃して化石燃料開発を拡大している(国連提供)

実現困難との見方強まる「1.5度目標」

 COP30での成果は物足りない結果になったと言わざるを得ない。そもそも会議の前から温室効果ガスの排出削減に向けた機運は必ずしも高くなかった。国連は2035年の温室効果ガスの排出削減目標を9月までに提出するよう求めていた。しかし、期限を守った国は締約国のわずか3割。COP30が始まって提出国は増えたがそれでも6割程度だ。

 UNEPは会議に先だち、既に提出された2035年までの削減目標(NDC)が達成されても今世紀末には2.3~2.5度上昇し、対策を強化しないで削減努力を怠れば最大2.8度も上昇すると予測する報告書を公表していた。1.5度目標のためには35年に19年比で55%程度の削減が必要とされるが、現在のNDCでは15%程度の減少にとどまると試算されている。

 気候の専門家らの間では、1.5度目標の実現は難しくなったとの見方が有力だ。焦点は「オーバーシュート」、つまり一時的に1.5度を超える状態になってもその期間をどれだけ短くして一定期間の気温上昇幅を極力小さくできるか、という課題に移っている。ただ、短期間のオーバーシュートでも人々の暮らしに大きな影響を与えるとされる。温室効果ガスの排出量を引き続き最大限減らす努力が求められることに変わりはない。

 国連のグテーレス事務総長は11月6日、COP30の首脳級会合で「科学の予測によれば遅くても2030年代初めには一時的に1.5度を超えることは避けられないが今、(世界が)迅速かつ大規模な行動をすればオーバーシュートは可能な限り小さく、短くできる。私たちはこの会議を転換点とする」と訴えた。しかし、その後に続いた会議の結果はグテーレス氏を満足させる内容にはならなかった。

江守正多氏がUNEPの報告書資料を基に作成した、現在の各国の排出削減策では「1.5度目標」は難しいことを示す図(江守正多氏提供)
江守正多氏がUNEPの報告書資料を基に作成した、現在の各国の排出削減策では「1.5度目標」は難しいことを示す図(江守正多氏提供)
COP30の首脳級会合で演説するグテーレス国連事務総長(UNFCCC事務局提供)
COP30の首脳級会合で演説するグテーレス国連事務総長(UNFCCC事務局提供)

「懐疑論は人類の運命に影響」と気候科学の専門家

 COP30閉幕を受けて気候科学が専門で世界の気候変動対策の動向に詳しい江守正多・東京大学未来ビジョン研究センター教授が12月2日、日本記者クラブで講演した。この中で江守氏は、トランプ政権の下で温暖化・気候変動に対する懐疑論が台頭している現状について「一部の産業界の利害を色濃く反映した政策が米国社会に構造変化をもたらし、人類の運命にも影響を与えようとしている」と危機感を示した。

 江守氏は気候科学分野の中でも気候変動シミュレーションが専門で、国立環境研究所に長く勤務。気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の第5次、第6次評価報告書の主執筆者でもあり、温暖化・気候変動対策の重要性について積極的に発言、発信している。

 江守氏はCOP30で採択された合意文書に産油国などの反対で「化石燃料からの脱却」が持ち込めなかったのは残念としながらも、「全会一致」での合意が前提ならば、産油国も参加するCOPの場で脱化石燃料を進めるのは無理があり、石油などの化石燃料の消費国が需要を減らすしかないとの見方を示した。

 また、COPに大きな影響を与えた米国のトランプ政権の問題については「パリ協定からの再離脱だけでなく、米海洋大気局(NOAA)などの気候関係の連邦機関の予算削減や人事監視、各種環境規制の弱体化や廃止などが起きている」と指摘した。そしてトランプ氏の国連総会での演説内容を紹介しながら、政権の「反温暖化・気候変動政策」の背景には、脱炭素化に伴う規制を回避しようとする石油業界やこれを支援する政治家、シンクタンクの連携のほか、一部メディアも拡散に寄与する「否定論エコシステム」の存在があると述べている。

江守正多氏(日本記者クラブ提供)
江守正多氏(日本記者クラブ提供)

「未来の世代」のためにも国際強調を

 江守氏によると、一般的に気候変動に脆弱な国ほど一人当たりの温室効果ガス排出量が少ないことがデータから明確になっている。つまり「気候変動による被害の原因に責任のない人たちが深刻な影響を受けている」(江守氏)。COP30の会期中、各国から集まった環境団体などがこうした問題に抗議し、対策の強化を訴えた。議長国ブラジルの先住民族のグループが対策の強化やアマゾンの熱帯雨林保護を訴えるデモ行進をして参加者の注目を集めている。

 国連広報によると、グテーレス氏は会期中、各国の若者代表団と会談し「過去の世代は気候危機の抑制に失敗した」と謝罪した上で、化石燃料から再生エネルギーへの移行は不可欠で、国際社会と地球の幸福よりも自分たちの利益を優先する強力なロビー団体と対峙する必要があり、そのためにも「未来の世代」の若者の力が必要だ、と強調した。これに対しブラジルの16歳の少年は「私たちは活動家になりたいのではなく普通の子どもであり若者でありたいだけです」と答えたという。

 IPCCは2021年に公表した報告書で「地球温暖化は人間の影響であることは疑う余地はない」と結論付けた。詳細なデータをコンピューター解析などで精緻に裏付けた結論だった。その段階でも見られた「温暖化懐疑論」を論破する内容だった。江守氏は「世界が協力して気候変動を止めるというビジョンとその必要性に対する認識は大部分の国で共有されている」とした上で「世界が(対策を)諦めたら人類は相当まずいことになる」と強調している。

 グテーレス氏は気候変動対策が厳しい局面であることを認めつつ、国際社会全体の利益を守るために引き続き多国間主義、国際協調による対策を進めることを求めている。経済発展に伴って温室効果ガスの排出を増やしてきたのは主に先進国や一部新興国のこれまでの世代だ。「未来の世代につけを残してはいけない」。何度も語られてきたこの言葉を改めて世界で共有したい。

COP30の会場の前では多くの環境団体や市民団体などが対策強化を訴えた(UNFCCC事務局提供)
COP30の会場の前では多くの環境団体や市民団体などが対策強化を訴えた(UNFCCC事務局提供)
江守正多氏がIPCCの資料を基に再掲した地球温暖化は人間の影響であることは疑う余地がないことを示すグラフ(江守正多氏提供)
江守正多氏がIPCCの資料を基に再掲した地球温暖化は人間の影響であることは疑う余地がないことを示すグラフ(江守正多氏提供)
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【特集:荒波の先に見る大学像】第5回 次世代半導体の“使い手”を育てる―150年目の「セカンド・アンビシャス・チャレンジ」、北海道大学理事・副学長 山口淳二さん https://scienceportal.jst.go.jp/explore/interview/20251211_e01/ Thu, 11 Dec 2025 06:14:27 +0000 https://scienceportal.jst.go.jp/?post_type=explore&p=55764  最先端半導体の開発競争が世界規模で激しさを増している。熊本は台湾積体電路製造(TSMC)が進出したのを契機に一大半導体拠点へと成長した。北海道でも千歳市へのラピダスの工場建設を追い風に、産官学連携による大規模プロジェクトが始動。次世代半導体を軸としたイノベーション基盤づくりが本格化する中、創基150周年を迎える北海道大学も「セカンド・アンビシャス・チャレンジ」のキャッチフレーズを旗印に、半導体産業への挑戦に名乗りを上げた。「2度目の野心的な挑戦」で北大が目指すものは何か。理事・副学長の山口淳二さんに伺った。

山口淳二さん
山口淳二さん

ラピダスとの連携は「まだ何もない」ところから

―ラピダスとの包括連携協定について、経緯や狙いを教えてください。

 ご存知のとおり、ラピダスは日本が国策として推進する最先端半導体(ロジック)の量産化を担う企業として、2022年に設立されました。国内外の大手企業や研究機関が参画し、国家プロジェクトとして世界最先端のナノ(ナノは10億分の1)メートル世代の半導体開発・製造を目指しています。

 その開発拠点「IIM(イーム)」を北海道千歳市に置くとラピダスが発表したのは、2023年2月末のことでした。北海道が選ばれたのは、広大な敷地と冷涼な気候、豊富な水と再生可能エネルギーといった地理的なポテンシャルに加え、「行ってみたい」「住んでみたい」と思わせる場所としての魅力が大きな理由です。

 北大とラピダスとの連携は、本当にゼロからのスタートでした。同社創業メンバー13人の中に北大の関係者はおらず、我々にとっても未知の存在だったんです。寶金(ほうきん)清博総長を中心にトップ同士での対話を重ねていく中で、大学内への評価・分析拠点設置や、不足が指摘される半導体人材の育成などの部分で少しずつ彼らの考えや期待が見えてきて、1年後の2024年6月には包括連携協定の締結に至りました。

 これは非常に珍しいケースで、本来大学と企業の連携は十分な協働実績に基づいて結ばれるものです。しかし当時のラピダスはまだ何も製品を生み出していない段階でした。これは本学の強みであるAIやデータサイエンス、そしてフィールド科学や医療を生かすことのできる建学以来有数の飛躍のチャンスと捉えた総長の英断であり、我々としてもラピダスとの特別な関係性を築くための大きなステップだったと思っています。

新千歳空港のすぐ南に位置するラピダスの半導体開発拠点IIM(イーム)。空港の窓や展望台からもその姿を伺うことができる(2025年8月撮影)
新千歳空港のすぐ南に位置するラピダスの半導体開発拠点IIM(イーム)。空港の窓や展望台からもその姿を伺うことができる(2025年8月撮影)

―そのラピダスとの連携をはじめ、北大の半導体プロジェクト推進の中核を担うのが「半導体フロンティア教育研究機構(IFERS、アイファース)」ですね。

 ラピダスの北海道進出を受け、我々は2023年10月に「半導体拠点形成推進本部」を設置し、半導体教育・研究を推進して参りました。そして25年4月、この組織を改組し、学内外の半導体に関する教育・研究・人材育成の司令塔となる新しい体制としてIFERSを立ち上げました。

 IFERSは、単一部局の取り組みではありません。工学研究院、理学研究院、情報科学研究院など、半導体に関連する複数の部局責任者が参画する運営委員会を設け、全学の方針決定や情報共有を行っているほか、各室・部門にも各部局の教員が参画しています。

IFERS組織体制図(北海道大学提供)
IFERS組織体制図(北海道大学提供)

―部局をまたいだ連携には困難も伴いそうです。

 大学って、どうしても「一国一城の主」の集まりなんですよ。皆さん、自分の専門や研究室を中心に活動されています。だからこそ、部局間の信頼関係を大事にして、兼務という形で先生方に関わってもらっています。

 現時点では半導体分野の教員が中心ですが、今後は文系や社会科学系の教員、まちづくりや環境整備に関わる分野にも広げる予定です。半導体をきっかけに、北海道全体の基盤づくりや多分野協働が進む可能性があります。

IFERSの機構長も務める山口さん
IFERSの機構長も務める山口さん

先端技術の「使い方」を開発できる人材を育成する

―民間企業との連携状況についてお聞かせください。

 ラピダスに関しては、北大内に同社の評価・分析拠点が設置され、社員常駐の解析体制で、試作された最先端半導体の評価が行われています。

 このほか、内閣府の地方大学・地域産業創生交付金事業に採択され民間企業との間で行っている12の研究プロジェクトは、企業と教員が主導し、学生にもリサーチアシスタント(RA)として積極的に参画してもらっています。学術研究と産業界のニーズを結び付ける現場経験を積むことを通じて、RA学生には単に研究開発の一翼を担うだけではなく、社会実装を意識した人材として育ってもらいたいと思っています。

―人材育成の観点で、半導体分野における大学や北大の役割をどのように捉えていますか。

 半導体人材というと、どうしても「作る技術者」ばかりが注目されてしまいますが、日本の大学に求められているのは単なる即戦力の人材育成ではなく、「全体を俯瞰し、応用できる人材」をどう育てるかです。技術や知識は、進歩の著しい半導体業界では10年後には陳腐化するかもしれない。そこでこれからの学生には、変化に対応できる力、柔軟性、そして意欲こそが大事になります。

 また、私たちは「使う側の人材」を育てていくことも重視しています。特にラピダスのような企業が新たな最先端半導体を作るとなると、それをどう使いこなすかという“ユースケース(応用事例)の開拓”が非常に重要になります。

 そこで、北大がこれまでに培ってきた研究との融合を図り、例えばスマート農業や医療機器に最先端のチップを活用する。そうした「使い方」を開発することが、総合大学としての北大の強みを生かせるところだと思います。

 ラピダスもそこを理解して「文系でもいい」、つまり必ずしも即戦力でなくても良いと言ってくれているんです。実際に最先端半導体をどう使うか。将来を見据えても「これが正解だ」というものはありません。でも、今できる最善を積み重ねながら多様なユースケースを開拓していきたいです。

―「使う側」など多様な人材の育成に向け、どのように学外連携を進めているのでしょうか。

 2023年6月、北海道経済産業局を中心に「北海道半導体人材育成等推進協議会」を立ち上げました。普通ならばこういった組織づくりには1年くらいかかるところ、ラピダスの千歳市進出が発表された2月末からわずか数か月、異例のスピード感でした。2年前は30機関程度の参加だったのが一気に増え、25年6月には74機関まで輪が広がっています。

 特徴は教育機関の多さで、17機関が参画しています。これは北海道地区の特徴と言えます。こうした産学官の連携によって、北海道独自の半導体エコシステムをつくり出していこうとしています。

北海道半導体人材育成等推進協議会に参画する17教育機関
北海道半導体人材育成等推進協議会に参画する17教育機関

人材育成と拠点整備を一体的に推進

―ここまで大規模な人材育成の枠組みは異例だと感じます。具体的にどう推進していきますか。

 半導体人材の不足は深刻です。協議会内に設置した「人材育成・確保ワーキング」では、関連する道内企業とこれから進出予定の企業にアンケートを行い、採用需要を把握しました。2030年には道内企業の採用希望数が670人に達する見込みで、これは23年度の約3倍です。

山口さんは人材育成・確保ワーキンググループの座長も担う
山口さんは人材育成・確保ワーキンググループの座長も担う

 北大は高度な人材、特に大学院生を中心に育てていますが、学部生や高専卒業生も含め、質を保証した半導体人材を道内全体で育成していきます。そして、北海道だけでなく、全国・世界で活躍できる人材を送り出すことが、私たちの目標です。

 人材育成・確保ワーキングでは、学生にまずは企業を知ってもらうことを重視しています。実務家教員の派遣、工場見学、関連企業へのインターンシップなどを2年間で大きく充実させてきました。また半導体に関する北大の独自教育カリキュラムの開発だけでなく、協議会でも道内教育機関で共通プログラムをつくる構想が当初よりありました。最初の2年間は難しかったのですが、いよいよ3年目の今年から着手しはじめています。

―研究開発の側面でも学外連携を積極的に展開されているのでしょうか。

 2023年から24年にかけて、大学・研究機関・企業による技術開発拠点である技術研究組合最先端半導体技術センター(LSTC)への参画、東北大学との半導体に関する教育・研究での連携、ラピダスとの包括連携協定締結などを進めてきました。国際連携も積極的に進めています。台湾の陽明交通大学、米国のレンセラー工科大学、ベルギーの半導体研究機関imec(アイメック)と連携し、学生や研究者の交流も始まっています。

 また北海道が推進する「北海道半導体・デジタル関連産業振興ビジョン」、いわゆる「北海道デジタルパーク構想」の中核となる取り組みにも参画しました。地方大学・地域産業創生交付金の枠組みで道・千歳市・札幌市・公立千歳科学技術大学・企業と連携して、研究開発、半導体プロトタイピングラボの設置、人材育成を一体的に進めています。

北海道半導体・デジタル関連産業振興ビジョン(北海道提供)
北海道半導体・デジタル関連産業振興ビジョン(北海道提供)

目指すべき北海道の姿を実現する 「セカンド・アンビシャス・チャレンジ」

―北海道の中での役割を重視していることがよく伝わります。

 今、私たちが担うのは「デジタルパーク構想」による産業・雇用・教育のトランスフォーメーションです。これは北大だけの話ではありません。北海道全体の未来に向けたチャレンジです。全国、世界で活躍できる人材を北海道から育てていく。これが、私たちIFERSの使命であり、未来への責任だと考えています。

 同時に北大が目指しているのは「北海道に若者が定着する仕組み」を作ることです。これまで北大では約8割の卒業生が道外に就職していましたが、ものづくりの新しい基盤が北海道にできる今、ここに定着し活躍してもらえるような環境を整えていきたいと思っています。

 これは北大の決意表明なのですが、私たちの現在の挑戦を「Second Ambitious challenge(セカンド・アンビシャス・チャレンジ)」と呼んでいます。

―「セカンド」の意味するところは。

 2026年、北大は創基150周年を迎えます。1876年、本学の前身である札幌農学校の開校は、当時の明治政府の国策だった寒冷地農業の確立に挑んだ「ファースト・チャレンジ」を意味していました。そして150年後の今、新たな国策である「北海道デジタルパーク構想」の実現を我々は「セカンド・アンビシャス・チャレンジ」と設定しました。この挑戦は、北大とラピダスの二者だけで進める話ではありません。経済の底上げ、地域の活性化を視野に、道内すべての教育機関と協力して優秀な人材を育てる試みです。彼らが活躍することで、ラピダスを含むあらゆる半導体関連企業が集合した複合クラスター拠点の実現を目指したいと考えています。

創基150周年の節目を目前に半導体への取り組みを「セカンドチャレンジ」と位置付けた(北海道大学提供)
創基150周年の節目を目前に半導体への取り組みを「セカンドチャレンジ」と位置付けた(北海道大学提供)

 今、大学も産学連携のあり方そのものを問い直す時期に来ていると思います。その意味では、国の資金だけに頼るのではなく、企業が本当に欲しい技術・知見を育てていくことで、企業からも投資を呼び込みたいです。

―最後に、半導体を追い風に改革を進める意気込みを聞かせてください。

 大学は元来ボトムアップの組織。トップダウンで引っ張るのではなく、皆が同じ方向を向けるようにすることが大切です。ありがたいことに、今は教員も学生も、そして道民の皆さんも半導体に関心を持ってくれている。この流れをうまく生かして、全学で、そして地域と一体となって取り組みを進めていく。それが我々の目指す姿です。子どもたちへの出前授業なども含めて、北大は北海道の教育機関としての役割も果たしていきたい。そして北海道を、全国・世界から人々を呼び込む活力のある場所にしていきたいと思っています。

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研究者としての「用意された心」が、無用の金属イオンからMOFを生み出した(北川進氏/京都大学高等研究院特別教授) https://scienceportal.jst.go.jp/explore/highlight/20251208_e01/ Mon, 08 Dec 2025 05:22:33 +0000 https://scienceportal.jst.go.jp/?post_type=explore&p=55712 CSJ化学フェスタ2025公開企画「世界一早いノーベル化学賞受賞記念講演」(日本化学会主催、2025年10月22日)からー

講演する北川進氏

 10月8日に発表された今年のノーベル化学賞は、Metal-Organic Frameworks(MOF/金属有機構造体)の発展に貢献したということで、ロブソン教授(オーストラリア・メルボルン大学)とヤギー教授(米カリフォルニア大学)と私が受賞することになりました。

 MOFはPorous Coordination Polymer(PCP/多孔性配位高分子)とも呼ばれる多孔性材料です。金属イオンと有機分子を溶液中で混ぜると、「これとこれを結合しなさい」という事前に与えた情報を元にして自動的に構造体が組み上がるのです。

 今日は「MOF化学の開拓と展開―集合・空間・動性の用意された心での歩み―」と題して、3つのパートでお話しします。1つ目では、「私たちの世界」をちょっと眺めてみましょう。2つ目は、私の専門である「ナノ空間をつくる化学」。3つ目は、社会への貢献に少し触れます。

会場のタワーホール船堀(東京都江戸川区)では約260人、オンラインでは約1500人が聴講した

人類が気体をコントロールするには

 歴史を振り返ると、18世紀半ばから19世紀にかけての産業革命では、エネルギーとして石炭が使われ、20世紀には石油に変わります。では、21世紀はというと、気体だと私は考えています。

 酸素、二酸化炭素、窒素、水蒸気などの気体は、環境、資源、エネルギー、そして我々の生命にまで関わっていて、非常に重要なものですね。この気体をうまく取り出して、化学原料や肥料、燃料、食料、医薬品、日用品を作る。これが実現したら、非常に素晴らしい。地下資源は有限ですから、どこにでもある空気のようなものを資源にする科学技術が必要だと考えています。

 しかしながら、気体を操作するのは非常に大変なことです。技術は進化していますが、それでも人類はまだ気体をコントロールできていません。気体は、高速拡散していて、見えません。それから、寿命の短いもの、毒性のものがある。それらを判別する必要があり、そういうときに多孔性材料が役に立ちます。

 多孔性材料とは、多数の小さな穴の開いた材料です。混合している気体を分離し、貯蔵し、他の物質に変換することができます。ただ、高効率での分離や大容量の貯蔵には、従来の多孔性材料はまだ不完全で、新しい材料が必要です。

多孔性材料の歴史。活性炭やゼオライトは古くから使用されてきた(講演時のスライド)

「集合」「空間」「動性」がキーワード

 さて、私の科学の背景となる3つの概念、これが重要です。近代細菌学の開祖といわれるパスツールは「幸運は用意された心のみに宿る(Chance favors the prepared mind.)」と言っています。私にとっての「用意された心」は、Assembly(集合)・Space(空間)・Dynamicity(動性)の3つのキーワードです。

 まず、学部生のとき、ボルツマンの原理から集合の重要性を理解し、「構造機能は要素の集合から生まれる」という視点を得ました。次に、大学院生になってNMR(Nuclear Magnetic Resonance/核磁気共鳴)を勉強して、スピンダイナミクスと非平衡に興味をもちます。

 精神的には、高校時代の哲学の授業で、自然科学のルーツであるギリシャ哲学に非常に感銘を受けました。ヘラクレイトスは「同じ川に二度足を踏み入れることはできない(No one ever steps in the same river twice.)」と言っています。万物は流転するのだと。

 また、私の思考のルーツは、湯川秀樹先生の著書にあり、特に『続 天才の世界』に書いてある荘子の「無用の用」にいたく興味をもちました。荘子が言うには、「人は皆、有用の用を知るも、無用の用を知ることなきなり」。役に立たないことも実は役に立つというわけです。

京都大学からは10人のノーベル賞受賞者が輩出している。創立以来の「自由の学風」のなか、北川氏は物理化学と有機化学を学び、研究してきた(講演時のスライド)

サッカー場より大きいナノ空間を作る

 多孔性材料というのは、何もないところに仕切りを入れて、何の役にも立ちそうにない空間を作る—―そういう化学でもあります。

 例えば清水寺の舞台は、139本のケヤキで釘を1本も使わずに見事に作られています。では、分子のようなナノスケールの場合はどうでしょう。釘を使っていない清水の舞台と同じように、3次元に展開することができるでしょうか。実は、ナノスケールでもマグネット(磁石)になるものがあったのです。正電荷の金属イオンと負電荷の有機分子がくっつく「配位結合」です。

 金属イオンと有機分子を配位結合させると、非常に大きな空間を有する多孔性材料ができます。1グラム当たりの細孔表面積を比較すると、活性炭はサッカー場の半分くらい、ゼオライトでバスケットボールのコートくらい、我々のMOFはサッカー場まるまる1つか、それより大きいくらいです。

北川氏の開発した新しい多孔性材料は、1ミクロンの結晶に100万個の穴が開いている(講演時のスライド)

偶然の発見が多孔性材料への転換点

 私は近畿大学に就職したのがきっかけで、錯体化学と出会い、研究を続けてきました。この錯体化学は1価銅から始まったのですが、1価銅は無色で磁性をもたず、「無用の金属イオン」と考えられていました。ところが、これこそ「無用の用」で、球形の1価銅は無限ネットワークの結晶化に適していることがわかったのです。

 もともとは、穴の開いていない緻密な構造の材料を作ろうと考えていました。ところが、構造解析の過程で偶然にも、穴の中にアニオン(負電荷のイオン)と、アセトンという有機分子が入っているのが見つかりました。ここから、ナノ細孔をもつネットワーク構造、つまり多孔性材料へとつながる研究に方向転換します。

 1価銅をやめてコバルト2価で研究を続け、私たちが第2世代と呼んでいる多孔性材料ができました。これは結合が強すぎず、でも壊れずに安定した構造をもっています。「活性炭やゼオライトがあるのに、わざわざ新しい材料が必要なのか」と、よく言われました。ですが、活性炭やゼオライトにはない機能をいろいろと付与できました。貯蔵や分離はもちろん、デリバリー、高分子合成、触媒、イオン伝導、磁性のセンシング等々です。

 さらに研究を続けて、Mo-Mo四重結合ユニットを作ることに成功します。これは、固体なのに動く、すなわち物理的な刺激によって構造が変化するのです。従来の材料とは異なり、しなやかな構造をもち、室温かつ常圧で物質の出し入れができます。この第3世代の多孔性材料は、「集合」「空間」「動性」のすべてが実現できたことになります。

Mo-Mo四重結合ユニットの回転(講演時のスライド)

応用への可能性と新たなチャレンジ

 最後に、MOFの将来的な使い道をお話しします。

 もうすでに世界でいろいろな使い道が考えられています。例えば、砂漠の空気から水を取り出すほか、キャパシタ(蓄電器)や熱交換器、コーティング、生物医学、センサー、空調、食品包装、抗菌剤など、あらゆる分野で応用できると思います。

 これからは、学術界だけではなく、もっと多くの人たちにMOFを知っていただきたいですね。そこからいろいろな展開がもっと出てくるはずなので、それに対して、私たちはまたチャレンジしていきます。

MOFの現状と将来(講演時のスライド)
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救急車の適正利用は「タクシー代わり」の回避だけではなく、多様なアプローチで サイエンスアゴラ in 福岡 https://scienceportal.jst.go.jp/explore/reports/20251202_e01/ Tue, 02 Dec 2025 08:00:50 +0000 https://scienceportal.jst.go.jp/?post_type=explore&p=55671  救急車の適正な利用について考える「サイエンスアゴラ in 福岡」が9月20日、福岡市南区の九州大学で開かれた。イベントの副題は「〜市民と大学の総合知でつくる 救急利用・救急行政への提言〜 みんなで九州大学と提言をつくろう!」。まず、福岡市消防局が持つ救急搬送データの内容を学生らが発表した上で、どこをどう工夫すれば増加する搬送数に対応できるかをワークショップ形式で話し合った。

 発表から見えてきたのは、よく言われる「タクシー代わり」の搬送だけではなく、「救急隊員が駆けつけても、様々な要因により出動先から病院に出発できない」ことによる搬送時間の長期化であることも浮き彫りになった。

福岡市の救急車は寄付によるものが多いという特徴がある。現在、常時稼働している市内の34台中25台が寄付されたものだという(福岡市消防局提供)
福岡市の救急車は寄付によるものが多いという特徴がある。現在、常時稼働している市内の34台中25台が寄付されたものだという(福岡市消防局提供)

実態把握のため、50万件のビッグデータを解析

 福岡市は人口約167万人(2025年10月現在)で、7つの区に分かれている。市の統計によると、昨年の救急出動件数は10万181件で、1日あたり平均273.7件の出動がある。この数値は毎年増加傾向にあり、持続可能な形で救急車を利用するための方策を考えることは、喫緊の課題だった。

福岡市の救急出動件数は年々増加しており、1日あたりの出動数も増加傾向にある(福岡市のデータを元に編集部作成)
福岡市の救急出動件数は年々増加しており、1日あたりの出動数も増加傾向にある(福岡市のデータを元に編集部作成)

 課題を解決するためにはまず、実態を正しく把握することが大切だ。そこで今回、同大学大学院の学生らが、福岡市消防局の過去の出動記録約50万件ものビッグデータを個人が特定できない形で譲り受け、「搬送にかかった時間」や「受診科別の搬送コスト」「軽症者が救急車を呼んだかどうか」などを詳しく解析した。なお、ここでの「軽症」は診断結果に基づく分類であり、「不適正利用」を直ちに意味するわけではない。

選定療養費徴収で「軽症」搬送数9%減の見通し

 まず、よく救急車適正利用の際、声高に指摘される「軽症なのに救急車を呼んだ」ケースについて見ていく。福岡市の場合、50万件中、約23%の11万3375件は「軽症」と判断できることが分かった。

 これを、茨城県が取り組む「緊急性が認められない救急車の利用は、一部病院で選定療養費を徴収する」「選定療養費が導入されたことで救急車を呼ぶ軽症者が減り、中等症以上の患者が増えた」という2つの事例に当てはめ、もし同様に選定療養費が導入されたら、市内でどれだけ軽症者を減らすことができるか試算した。なお、選定療養費とは診療報酬で認められた特別な料金で、紹介状がないのに大きな病院を受診した際などに徴収することができ、病院独自で額を決められる。

 茨城県では2024年12月~25年2月末の救急搬送のうち、4.2%が選定療養費の対象となり、救急搬送の総数も減っていた。同様の方法で福岡市内の救急病院で選定療養費(0円~1万1000円)を加算した場合、搬送数は11万3375件の約9%減となる約10万3000件に圧縮できる見通しという。

学生らは様々な手法を使い、ビッグデータを科学的に分析した(福岡市南区の九州大学大橋キャンパス)
学生らは様々な手法を使い、ビッグデータを科学的に分析した(福岡市南区の九州大学大橋キャンパス)

精神科系や歓楽街では「搬送コスト」高く

 次に、学生らは搬送時間の地域偏在を減らすことで、効率的に救急車を動かすことを考えてみた。福岡市の救急搬送にかかる時間は平均25.7分。この値を大きく上回っている搬送を「高コスト搬送」と定義し、7つの区における地域差や診療科の差を調べた。

 すると、呼吸器科・精神科系の診療科が高コストになっていた。呼吸器科は新型コロナウイルスによる影響が無視できないので影響は期間限定的だと仮定すると、課題となってくるのは、本人の救急要請に加え、家族も対応に苦慮して通報したケースもある精神科系の搬送だ。

 そして地域別で見ると、九州大学病院のお膝元である東区では搬送コストが抑えられていた。これは、国道3号線が縦断し、各病院までの動線が比較的確保されているためと考えられる。他方で、歓楽街の中洲や博多駅があることで有名な博多区は高コストだった。福岡空港がある博多区は、搬送が遠回りになるため、時間がかかっているのではないかと学生らは予想する。

 人口構成でみると、博多区は東区に比べ成人の割合が高く、高齢者の割合は低いという違いがあった。もし東区並みに博多区で搬送できれば、搬送数をあと55件増やせる。このような地域の特性に応じた対応も、ビッグデータを分析しないと分からない事実だ。

呼吸器系の「長時間化事例」が目立つ

 最後に、搬送がどこで長時間化するかを可視化した。搬送時間が短いものも、長いものも、通報から現場到着までの時間はさほど差がなかった。ということはつまり、救急車が患者宅に到着後、隊員が病院まで搬送するための時間に長短があると言うことを意味している。

 今回、学生らは上位1.7%を占める58.8分を超す搬送を「長時間化事例」と定義。その疾病名や発生時間帯を調べたところ、呼吸器系の長さが目立ち、消化器系は短い時間で搬送できていた。長時間化事例が生じたキーワードは、「精神・神経科」「中毒」といった症状で、時間帯は「深夜」が多かった。逆に短時間で済んだものは「乳幼児」や「心疾患」、「脳・循環器系」だった。曜日ごとの差は見られなかった。

救急現場では「受け入れられるベッドがない」

 では、これらの解析結果は、実際の救急医療の現場の「肌感覚」とどのくらい近いのだろうか。同大学病院救命救急センター長の赤星朋比古教授(救急医学)が登壇し、福岡の救急医療の現在地を語った。

心肺停止の場合、脳は5分以内に処置をしないと元に戻らないので、市民による救命処置と救急搬送時間の短縮が大切だと訴える赤星朋比古教授(福岡市南区の九州大学大橋キャンパス)
心肺停止の場合、脳は5分以内に処置をしないと元に戻らないので、市民による救命処置と救急搬送時間の短縮が大切だと訴える赤星朋比古教授(福岡市南区の九州大学大橋キャンパス)

 まず前提として、現在、政府は地域医療体制の見直しを進めており、全国的に病床数(ベッド数)を減らしている。大きな病院は近年、赤字経営解消のため、病床稼働率を上げる努力をしているが、救急車を受け入れられるベッド数は絶対的に不足している現状がある。これにより、救急搬送がすぐに受けられない現状もある。

 救急搬送の受け入れ拒否のニュースが流れると「病院が断った」「医者が足りないからだ」という過激な病院への批判意見が相次ぐ。しかし実際は、「受け入れられるベッドがない」という医療政策におけるハード面の問題である。

 この事実を踏まえ、赤星教授は、コロナ禍ではベッドをコロナ患者で埋めることになり、「普段九大で助けられる人が助からなかった」と振り返った。コロナ禍が落ち着いてきた今年は、熱中症による搬送者数の増加が予想されたが、「ファン付きベストなど、労働者への対策が進んだからか、意外と搬送は増えなかった」とした。

本人の搬送拒否と外国人の受け入れ拒否と

 そして、救急困難事例の実情は医師不足ではなく病床不足であることを前提に、スライドで、救急搬送数が年々増えていることを総務省のデータから示した。また、福岡市の50万件のデータから、「救急車の不搬送」が増加傾向にもなっていることも示した上で、「人口減少にもかかわらず、搬送数は減っていません。乳幼児の搬送数も減っていません。病院にはECMO(体外式膜型人工肺)で命をつなぐお子さんもいて、長期入院が続きます。ではなぜ出動件数や救急困難事例が減らないのでしょうか」と会場に疑問を投げかけた。

 赤星教授はその答えを「本人が『やっぱりいいです』と搬送を拒否するケースがあるから。救急車に医学部の5年生を乗せて実習を行うと、驚かれる。市民の皆さんの英知を結集して減らすのは、ここら辺かな、と思っている」と語った。

 救急外来では別の問題も起きているとして、外国人観光客の受診について触れた。「市にも伝えたが、観光に来たアジア圏の人が、医療費を払わずに帰国するということが起きている。保険に入らずに来ているので、外国人に関しては受け入れ拒否もある」と打ち明けた。

 他方で、福岡市は市民による心肺蘇生実施率が高く、通報段階で通報者に消防局が指示を出すと、「ほぼ100%」AEDや胸骨圧迫を行う助け合いの文化があり、生存率向上に一役買っているという明るい話題も提供された。

市民のアイデア「大人の保健室を」、世代間交流も成果

教員や学生を囲みながら、聴衆も参加してグループディスカッションを行った(福岡市南区の九州大学大橋キャンパス)
教員や学生を囲みながら、聴衆も参加してグループディスカッションを行った(福岡市南区の九州大学大橋キャンパス)

 最後に聴衆と学生や教員らを囲んでグループディスカッションが行われた。救急車やベッド数を増やすのではなく、「大人の保健室」を作るというアイデアが披露された。これは、精神的に苦しい本人が行ける、もしくは躁うつや統合失調症への対処で困り果てた家族からの通報の受け皿となる場を作り、高コスト搬送・長時間化事例となりやすい精神科の通報を救急車ではない方法で受け入れる案だ。他にも、119番通報を不安の解消のために使っているなら、通報にビデオ通話を導入してはどうかという提案もあった。

 元消防局員の男性は「何十年も救急車の有料化を議論してきたが、結論が出ない。現役の時にこのイベントがあれば良かった」と発言した。別の消防局に勤めている救急救命士の男性は「救急車はセーフティネットなので、個人的には(本人の)搬送拒否事案がダメとは思わない。精神疾患(の強い症状の現れ)の人の方が大変」と明かした。

 イベントを取りまとめた同大芸術工学研究院の尾方義人教授(デザイン学)は、「難しい問題に対し、様々なアプローチをするのは、高校に導入された“探究”の授業とすごく似ている。市民・行政・医療が協働し、福岡の課題を解決できれば全国モデルになる」とまとめた。

救急搬送の問題解決には、様々な分野からの知恵の結集である「総合知」が必要と語る尾方義人教授(福岡市南区の九州大学大橋キャンパス)
救急搬送の問題解決には、様々な分野からの知恵の結集である「総合知」が必要と語る尾方義人教授(福岡市南区の九州大学大橋キャンパス)

 参加者の60代の主婦の女性は「グループには高校生や、大学の先生といった普段話ができないような人と話せて良かった」といい、防災や消防に関するユーチューバーとしても活躍する30代男性は「防災のイベントは高齢者の参加が多いが、若い世代と話ができて斬新だった」と笑顔を見せた。

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