インタビュー

第6回「中国四川地震復興に学ぶこと」(石川幹子 氏 / 岩沼市震災復興会議 議長、東京大学大学院工学系研究科 教授)

2012.02.03

石川幹子 氏 / 岩沼市震災復興会議 議長、東京大学大学院工学系研究科 教授

「復興グランドデザインに愛と希望を」

石川幹子 氏
石川幹子 氏

津波で押し流される航空機! 東日本大震災による津波被害を伝える映像の中でも、仙台空港の様子に衝撃を受けた人は多かったのではないだろうか。滑走路の一部を含め、空港に接する宮城県岩沼市も津波で死者183人、家屋の全壊718戸、半壊1,310戸、被害のうち1,240ヘクタールという大きな被害を受けた。その岩沼市で「愛と希望」を掲げる復興計画が進んでいる。日本学術会議会員として、被災地に対する「ペアリング支援」をいち早く提言し、さらに岩沼市震災復興会議議長として「岩沼市震災復興計画グランドデザイン~愛と希望の復興~PDF」をまとめ、具体的な支援活動に取り組む石川幹子・東京大学大学院工学系研究科 教授に、郷里でもある岩沼市の復興状況について聞いた。

―岩沼市でこれほど迅速な対応が可能だったのは、中国政府からの支援要請に応じ、四川大地震での復興計画に関わられたという経験があったからと想像します。四川大地震が起きたのは2008年の5月12日ですね。

中国政府が賢明だったと感心するのは、すぐ国際的に支援を募ったことです。復興計画を造ってほしい、と呼び掛けたのです。最初は友人の中国人研究者とたった2人、Eメールで応募しました。その1週間後には被災地に入りました。

―中国政府の支援要請というのはどのようなものでしたか。

世界遺産都市になっている都江堰という市の復興計画をつくってほしい、という依頼です。人口が当時都市部で40万人、周辺に20万人、将来人口予測が80万人という都市です。四川というのは4つの川が集まる場所という意味で、その中の1つが岷江という暴れ川です。山を切り開いて網の目のように造った水路に岷河の水を流しています。諸葛孔明はこの場所を「沃野千里 天賦の地」と呼びました。諸葛孔明が沃野とたたえたということで、私たちの計画は「新天賦原計画、新しい天賦原をつくる計画です」と中国政府に説明しました。
由緒正しい都市の割には皆さん最初、あまり気にされていなかったのですけれども、歴史の大切さを、繰り返し強調しました。結局、復興計画は歴史的市街地を中核として再生し、環状道路で新市街地と分け、復興住宅は、中高層化し、環状道路沿いに建設することになりました。その周辺に続く風水林盤のある水田地帯は、グリーンベルトとして保全することになりました。

驚いたことは、中国側の徹底した都市改造の実行でした。特に中心市街地の歴史的地区は、1960年代の建物は、あえて壊し、歴史的市街地としています。映画のセットのような感さえあります。この評価は、さまざまと思いますが、とにかく復興のスピードの速さは、尋常ではありません。

―各国の研究者から提案されたいいアイデアを集めて復興モデルプランをつくったということでしょうか。

中国政府は、都江堰を事例として世界の知恵を集め、それをモデルとして被災地全体に展開していきました。被災地は500キロにも及ぶ広さです。例えば山岳地帯は撤退することが決まっており、モデルプランをつくっても意味ありません。小さな農村はゆっくり考えようということで、まず、非常に大事な都市のモデルプランをつくろうということになったわけです。

採用していただいた私たちのプランは、都市計画で有名な「田園都市」という考え方に沿っています。地域の生態系を重視したエコロジカルなシステムを基盤に据え、それを支える水、さらにこの2つによって培われた文化、この3つを基礎にして復興計画をつくることを提案しました。2,000年続いてきた古い都市ですから、その景観と文化を大事にしようと…。

20世紀型の田園都市ではなく、21世紀型の世界田園都市をつくるというのが私たちのプランでした。被災の7カ月後に、復興計画の展示会があり見に行ったのですが、驚いたことに、「日本に学ぶ」というスローガンが書いてありました。「緑」と「水」と「文化」、これは地域によって全部違いますから、地域によって原則は同じでも全部違うプランが出てくるわけです。私たちの考えが基本になって各地の復興計画がつくられたことを知り、感銘を受けました。そういう意味では中国は賢明で、機動力というのもまたすごいと感心しました。

7月に復興3周年ということで、感謝状をいただきました。私たちの復興プランと同じ考えで復興した村が100も200もできているのです。

―日本の復興の進め方とはだいぶ違うようですね。

日本は全体を見た議論が行われていません。被災した町だけでなく、周辺の町まで含めた広域的なことも考えて復興を考えなければならないのです。

―このような復興計画を進めるにあたって、費用負担はどうだったのでしょうか。

基本的な基盤、鉄道を復旧したりするのはもちろん国が全面的にサポートしました。さらに、都江堰は上海が市の税収の1%とかを復興につぎ込んで支援したわけです。中国国務院は地震の1カ月後に「対口支援」という方式を導入しました。支援する市と被災した市がペアを組んで復興に当たろうという方法方です。上海が都江堰を支援する市になったのです。

ただ、理解していただくのはとても難しいのですが、支援は慈善事業でやっているわけではないのです。中国は国全体として「農地を減らさない」という大原則があります。14億の人を養わなければいけませんから…。一方、上海のような大都市では、農地にも家を建てたい住宅開発業者がいるわけです。農地を宅地にするためには、それと同じ面積の農地の権利をどこかから持ってこなければなりません。今度の地震で被災した農村に3階建ての住宅でも立てて人々を集めて住まわせると、それまで宅地だったところに家を建てる必要がなくなり、それを農地に変えることができます。農村の方はお金がないですから、上海の住宅開発業者に住宅を建ててもらう代わりに宅地の権利を譲渡し、宅地を農地にするわけです。

上海の住宅開発業者にしてみると、被災地の農村に3階建てを建てたとしても、上海で10階とか20階建てのビルを造れば、十分に利潤を得ることができます。農民の方たちは上海の宅地の価格がどれだけ高いものかというのを知りませんが、自分たちは素晴らしい家も建ててもらえるし、余った宅地を畑にできると基本的に満足しています。中国の農民は非常に貧しく、農村の近代化は中国政府にとっても非常に大きな問題です。地震を機会に、一瀉千里(いっしゃせんり)の勢いで、モデル農村づくりを進めた面もあります。

当時、私はそういう背景を知らずに農村の復興を提案したわけですが、結果としてその提案がポスターにもなり、モデル農村がどんどんできました。2,000年も続いてきたものは一生懸命残そうと主張しましたが、やはり残せなかったものもあります。例えば、水路をコンクリートで三面張りにしてしまうというようなことが行われました。かつて日本が犯した間違いを繰り返しているわけです。石積みや素掘りの、いい水路だったのですが。

―ところで、被害そのものはどのようでしたか。

壊滅状態です。簡単には説明できないほどのひどさでした。耐震という考え方、技術がほとんどありませんでしたから、8万5千人も亡くなられたのです。この点からみますと、今回の東日本大震災で、地震による人的被害がなかったことは、日本における耐震設計の水準の高さを立証しています。仮設住宅が造られたのですが、これがあっという間にできました。なぜ早くできるかというと、日本のように一式そろった住宅ではないのです。台所やお風呂は共同となっています。ですから、短期間に簡単にできたのです。このため、お風呂に入るときもご飯を食べる時も、皆と一緒のところに必ず出てこなければなりませんから、孤独死は起こりません。

面白いのは、日本の仮設住宅と違って、パソコンの部屋や卓球やヨガをする場所など、共用スペースがすごく充実しているのです。お店もあります。ちょっとした村が1カ月ぐらいのうちにできてしまい、朝ご飯など皆で作ってワイワイ、ガヤガヤ、もうにぎやかなものでした。日本の仮設住宅というのは、何かわびしいですよね。つらい時だからこそ、共同で支え合うという、こういうところは、学ぶべきだと思います。

―最後に中国の体験と比較して、日本の3.11後の状況について一言、お願いします。

復興計画をつくってほしいと世界に呼び掛けた中国に対し、日本はあまりにもクローズ(閉鎖的)だったと思います。放射能の問題も含めこれだけの大災害ですから、速やかに国際社会にSOSを発すべきだったのではないでしょうか。

今回中国が速やかに世界に助けを求めたことについては、実は私自身も不思議に感じました。中国の場合、リーダーの方が国家的レベルでものを言えるということだろうと思います。それがあったので、世界から知恵が集まったということです。中国のやり方にはいろいろ批判があるかもしれませんが、いずれにしろ3年で復興しているのです。一つ一つ見ていけば、決してバラ色ではありませんが、最低限の暮らしと、経済の活性化、農村の近代化という非常に大きな問題をクリアしながら復興をやっています。

日本は社会主義国のような強圧的なことは、もちろんできません。逆に、市場経済に乗るような復興方針も生み出し得ていません。両方ないので、復興が思うように進んでいないということだと思います。二律背反ではなく、これを超える、第三の規範が復興を契機とし、創造することができればと思います。

とにかく、中国が世界に知恵を求めたことは、重要だったと思いますし、日本もまだ遅くないという気もします。特に放射能の問題については。

(完)

石川幹子 氏
(いしかわ みきこ)
石川幹子 氏
(いしかわ みきこ)

石川幹子(いしかわ みきこ) 氏のプロフィール
宮城県岩沼市生まれ、宮城学院高校卒。1972年東京大学農学部農業生物学科卒、76年米ハーバード大学デザイン学部大学院ランドスケープ・アーキテクチュア学科修士課程修了、94年東京大学大学院農学系研究科農業生物学専攻緑地学博士課程修了。工学院大学建築学科特別専任教授、慶應義塾大学環境情報学部教授を経て2007年から東京大学大学院 工学系研究科都市工学専攻 教授。博士(農学)。日本学術会議会員。専門分野は都市環境計画、ランドスケープ計画。岩沼市震災復興会議議長のほか、宮城県震災復興会議委員も。03年欧州連合(EU)国際基金21世紀の公園国際競技設計1位、08年四川vl川大地震復興グランドデザイン栄誉賞受賞。主な著書に「都市と緑地」(岩波書店)、「流域圏プランニングの時代」(技報堂)、「21世紀の都市を考える」(東京大学出版会)など

関連記事

ページトップへ