インタビュー

第4回「本やデータ以前に大事なことが」(澄川喜一 氏 / 東京スカイツリーデザイン監修者、元東京芸術大学 学長)

2011.03.04

澄川喜一 氏 / 東京スカイツリーデザイン監修者、元東京芸術大学 学長

「ものづくり国のシンボル東京スカイツリーの魅力とは」

澄川喜一 氏
澄川喜一 氏

高さ634メートルという世界一の電波塔、東京スカイツリーの建設が着々と進んでいる。設計・監理を日建設計、施工を大林組というタワーや高層ビル建築で十分な実績を持つ企業が担う一方、名高い彫刻家で元東京芸術大学学長の澄川喜一氏がデザイン監修者としてかかわっていることが注目される。監修を任された理由や東京スカイツリーに込められた造形的魅力は何かを澄川喜一氏に聞いた。

―先生は彫刻家として以外にも、いろいろなことにかかわってこられたのに驚きます。芸術と技術、あるいは芸術と自然科学との関係についてどのようにお考えでしょうか。

日本だけではなくて、欧州でもエジプトでもトルコでもそうですけど、例えば、彫刻家にしても画家にしても、植物などを観察して勉強しています。きれいな形は幾何学的です。桜の花にしても、五弁が精巧な五角形になっています。動物も同じですが、生きているものは美しいのです。それは航空機のようなものについても言えることで、飛ぶために必要最小限の実によい形になっているわけです。

私はよく言うのですが、明治の教育体制ができた時に工部省管轄の工部大学がつくられ、その3年後に明治の偉い人たちは工部大学の付属機関として工部美術学校をつくったのです。工部大学は後に東京大学工学部となり、工部美術学校は、東京芸術大学の前身である東京美術学校になりました。

工部大学と工部美術学校をつくった中心人物が、山尾庸三という人です。長州藩士でしたが伊藤博文らと脱藩して密出国し、ロンドンに渡ります。伊藤博文らが帰国した後も1人だけ残り、グラスゴーに行っています。そこで造船の勉強をするわけです。それで帰国してから工部大学をつくり、続いて工部美術学校をつくり感性教育を始めたのです。工部美術学校は教員にイタリア人を呼んで、美術を直輸入しようとしました。6年後に、日本の美術も入れないのはおかしいということで、工部美術学校は廃校となり、岡倉天心らが新しい東京美術学校を創立したのです。

要するに当初は技芸を磨けということだったのです。レオナルド・ダ・ビンチにしても、科学者でもあり、工学的な考え方を持っていたでしょう。

―日本の大企業は芸大出身の方たちを十分、活用しているのでしょうか。

例えば資生堂が伸びたのは、デザイナーがいいからではないでしょうか。東京芸大で私のちょっと先輩になる榮久庵憲司さんは、キッコーマンのしょうゆ卓上瓶を創った人です。あの赤いキャップの卓上瓶のおかげで、しょうゆは国際的な商品になったのです。キリンビールのキリンの模様も美術学校の大先輩の作品です。

そもそも東京スカイツリーが建っている場所は、浮世絵師、葛飾北斎が活躍していたところです。ゴッホは北斎らの浮世絵に刺激され、それで欧州の絵画が変わりました。ガラスの江戸切子をはじめ、江戸時代にはものすごい文化があったところです。砂時計のガラスの器は手づくりですが、今でもそれを作っている人がたくさんいます。日本にはよいものがたくさんあるということです。

―学長をされた東京芸大は、誕生時の思想といいますか、考え方は今にいたるまで脈々と続いているのでしょうか。

続いていると思います。ただ、今は大学生全体がちょっと楽をしすぎていますね。高学歴なのに実力は低学力、と新聞に書かれていましたが、確かに教育は問題があります。東京芸術大学は、東京美術学校と東京音楽学校という5年制の専門学校が合併してできました。私が入学試験を受けるときは5教科7科目でしたから当然、数学もあります。私は工業学校だったので、サイン、コサイン、タンジェントを覚えていたら、それが試験に出ました。三角関数なんて、今の高校生知らない人がいるのではないでしょうか。

私が東京芸大学長の時に親しかった方に、東京医科歯科大学の学長を長く務められた鈴木章夫先生がおられます。昨年10月に亡くなられましたが、東京医科歯科大学を随分、よくされた方です。お互いに勉強する学生を増やそうとよく話し合ったものです。

鈴木先生の専門は心臓外科でしたが、先生がおっしゃっていました。患者も見ないで、データばかりを見ていては駄目だ、と。まず肌に触れてみなさい。かさかさしているかどうかで分かることがある。それから患者の体にメスを入れて開いた時に、においがするだろう、と。私、血糖値が高かったのである病院にずっと行っていたことあるのですが、医者がデータばかり見て薬を出すのです。ちょっと体にも触ってほしかったですね。

それから神話を教育からはずしているのは問題だと思います。神話というのはそれぞれの国ができたいわれを知り、自然を学び、礼節を知る物語を夢みたいに語っているわけです。そいう意味では、キリスト教も神話です。ところがその中に教育的なエッセンスがいっぱいあるのです。神話を教育から取ってしまっているのは日本くらいではないでしょうか。

鈴木先生以外のいろいろな自然科学者や技術者と話をしたことがありますが、勘がよい人が多かったですね。ものづくりに必要なことは、やはり感性です。本を見たり、データがこうだからという前にあるもの。それを重視しないといけない、ということです。

(完)

澄川喜一 氏
(すみかわ きいち)
澄川喜一 氏
(すみかわ きいち)

澄川喜一(すみかわ きいち) 氏のプロフィール
島根県生まれ。山口県立岩国工業高校機械科卒。1956年東京芸術大学彫刻科卒、58年東京芸術大学専攻科修了、同大学彫刻科副手、61年彫刻家として独立し、作品を数々の展覧会に出品。67年彫刻科講師として東京芸術大学に戻る。助教授、教授、美術学部長を経て95年学長。2003年同名誉教授。08年文化功労者に。日本芸術院会員。島根県芸術文化センター長、石見美術館館長、横浜市芸術文化振興財団理事長、山口県文化振興財団理事長も。そりを生かした木彫作品で注目され、御影石やステンレスなどの野外彫刻、さらに大きな環境造形作品と表現法は幅広く、注目される作品も数多い。代表作は、環境造形「風の塔」(東京湾アクアライン浮島人口島)、同「カッターフェイス」(東京湾アクアライン海ほたる)、野外彫刻「鷺舞の譜」(山口県庁前庭)、同「光庭」(三井住友海上火災保険ビル)同「そりのあるかたち」(札幌芸術の森野外美術館)、木彫「翔」(京都迎賓館)、同「そりのあるかたち02」(日本芸術院)、御影石彫「安芸の翼」(広島市現代美術館)、同「TO THE SKY」(岐阜県民ふれあい会館)、金属彫「光る風」(JR釧路駅)、同「TO THE SKY」(国立科学博物館)など多数。

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