インタビュー

第2回「見えてきた遺伝と環境の交互作用」(小泉英明 氏 / 日立製作所 役員待遇フェロー)

2010.06.30

小泉英明 氏 / 日立製作所 役員待遇フェロー

「脳科学で教育を変える」

小泉英明 氏

ゆとり教育からの脱却と評される小学校の新しい教科書が姿を表した。来年度から使われる。中には、これでゆとり教育が完成したのだと主張する人もいるが、ゆとり教育によってもたらされた基礎学力低下にようやく歯止めがかかる、と期待する向きが大方のようだ。なぜ、教育政策が揺れ動いてきたのだろう。脳科学の知見を教育手法に応用する意義をいち早く唱え、実際に意欲的な大規模研究プロジェクトを主導してきた小泉英明・日立製作所役員待遇フェローに意図はどこまで貫かれ、何が依然、未解明なままかを聞いた。

―3月いっぱいで9年に及ぶ公募型研究「脳科学と教育」と、さらに途中から並行して進められた計画型研究「日本の子どもの認知・行動発達に影響を与える要因の解明」が終了しました。成果をお聞かせ願います。

これらの研究を行ってきたのが「脳科学と社会」研究開発領域で、公募型研究の「脳科学と教育(タイプI)」(計12プロジェクト)と「脳科学と教育(タイプII)」(コホート型計6プロジェクト)、そして計画型研究の通称「すくすくコホート」(JCS:Japan Children’s Study)が含まれます。これらの個別のプロジェクトについては、それぞれ多くの報告書類が出版され、多くの新聞報道やテレビ番組でも取り上げられてきました。

全体から見ると、成果の一つは「脳科学と教育」(Brain-Science & Education)という日本発の新概念が世界に広まったことがあります。今では、国際学会IMBES(International Mind, Brain, and Education Society)が2004年に発足したり、学術誌MBE(Mind, Brain, and Education)が2007年に発刊されたりと、欧米、そして中国でもたいへん活発になってきています。また、人間を理解するには縦断研究(時間軸にそって取得したデータに基づく研究)が本質的に重要であること、特に誕生の前後から始めるコホート研究(前方視的集団追跡研究)に認知科学や行動科学、そして神経科学の研究手法を取り入れる方法を開発したことなどたくさんあります。

また、この領域関係から生まれて一般に使われつつある術語に、「脳科学と教育」だけでなく、例えば「脳科学と倫理」あるいは「脳神経倫理学」、「脳科学と社会」あるいは「脳と社会」、さらに「神経神話」、また、1,000カ所を超える高齢者介護施設に導入された「学習療法」(研究代表者:川島隆太東北大学教授、「脳科学と教育」タイプ(I)およびタイプ(II)(2001-2009年))もあります。個別プロジェクトを架橋・融合して見えてきたものもありますので、その一例をご紹介したいと思います。

例えば、進化が進むと神経系の役割が大きくなり、環境因子による広義のエピジェネティックな過程が重要になって来ると前に述べました。遺伝子を研究するだけでは不十分ということです。「脳科学と教育」の成果で大きなものというと、まず「遺伝と環境の動的交互作用」というものが分かってきたことが挙げられます。これは個別プロジェクトである双生児コホート研究(代表研究者:安藤寿康慶応義塾大学教授)、遺伝子チップによる準実時間遺伝子解析のコホート研究(成人)(代表研究者:六丹一仁徳島大学教授)、すくすくコホートによる地域研究(研究統括:山縣然太朗山梨大学教授)などの成果から、全体像が見えてきたものです。

落ち着きがなく注意を集中しにくい傾向が遺伝的に強いとみなされる子どもは、それに反応する親の冷たい態度や厳しいしつけなどが引き金となって、さらに問題行動を引き起こしがちです。一方、遺伝的にはこうした傾向が弱いはずの子でも、親の冷たい態度や厳しすぎるしつけといったネガティブな養育行動が顕著だと、子どもの問題行動を引き出してしまう傾向がみられます。

遺伝子チップによる医学部生を対象とした準実時間の遺伝子発現解析でも、環境による影響は大きく、さらに小さいころにさかのぼって養育環境を調査すると、大人になってからの遺伝子発現パターンにも影響が現れることが見えてきました。これは、うつ病の深い理解や予防にもつながるかもしれないと期待しています。

―誕生前後から始めたコホート研究(前方視的集団追跡研究)の結果からも貴重な成果が得られたということですね。

「すくすくコホート」研究からは、「1歳半以降の行動観察で、養育者(親など)によく褒められて育った幼児は、褒められなかった幼児に比較して、3歳半までに社会への適応能力(相手の目をしっかり見つめたり、一緒に歌ったりリズムをとったり等々)が高くなる」ことも見えてきました(安梅勅江・指標開発グループリーダー:筑波大学教授)。海外の研究ですが、虐待をされた子どもが親になると、また虐待をすることが多い事例も、環境による遺伝子発現への影響であることが動物実験からも見えてきています。

今回の研究では、遺伝と環境の影響は相互にかかわり合っており、かつそれが発達のステージによって、かかわり方が違うということが明らかになってきたのです。これまでは「環境か遺伝か」という二者択一で、あるいは「6分4分で遺伝の影響が強い」、「成長とともにさまざまな環境の影響が大きくなるはず」などということが、科学的な根拠があいまいなまま言われていました。われわれが明らかにしたことは、上記の数千人という世界でも最大規模といえる一卵性・二卵性双生児研究の結果や、遺伝子の準実時間の発現解析、さらに厳密な発達コホート研究から得られたものです。遺伝と環境の関連は複雑だということをはっきりと示した意義は大きく、今後、新たな研究分野を開くための突破口になったと思っています。

(続く)

小泉英明 氏
(こいずみ ひであき)
小泉英明 氏
(こいずみ ひであき)

小泉英明(こいずみ ひであき) 氏のプロフィール
東京都立日比谷高校卒、1971年東京大学教養学部基礎科学科卆、日立製作所入社。計測器事業部統括主任技師、中央研究所主管研究員、基礎研究所所長、研究開発本部技師長などを経て、2004年から現職。理学博士。専門は分析科学、脳科学、環境科学。生体や環境中に含まれる微量金属を高精度で分析できる「偏光ゼーマン原子吸光法」の原理を創出(1975年)したほか、国産初の超電導MRI(磁気共鳴描画)装置(1985年)、MRA(磁気共鳴血管撮像)法(1985年)、fMRI(機能的磁気共鳴描画)装置(1992年)、近赤外光トポグラフィ法(1995年)など脳科学の急速な発展を可能にする技術開発や製品化に多くの業績を持つ。2001年度から文部科学省・科学技術振興事業団(現・科学技術振興機構)「脳科学と教育」研究総括、2004年度から研究開発領域「脳科学と社会」領域総括。02年度から経済協力開発機構(OECD)「学習科学と脳研究」 国際諮問委員。国際心・脳・教育学会(IMBES)創立理事、MBE誌創刊副編集長。著書に「脳は出会いで育つ:『脳科学と教育』入門」(青灯社)、「脳図鑑21:育つ・学ぶ・癒す」(編著、工作舎)、『脳科学と学習・教育』(編著、明石書店)など。

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