インタビュー

第4回「無罪判決の難しさ」(押田茂實 氏 / 日本大学医学部(研究所) 教授)

2010.05.31

押田茂實 氏 / 日本大学医学部(研究所) 教授

「法医学の役割-安全で冤罪許さない社会目指し」

押田茂實 氏
押田茂實 氏

誤りだったDNA鑑定で、無実の菅家利和さんが長年、殺人犯の汚名を着せられ、自由を奪われていた足利事件が投げかけた問題は大きい。信頼性のないDNA鑑定を信じ込み、後から出された正確なDNA鑑定の意味をなかなか理解しようとしなかった裁判官の科学リテラシーに問題はないのだろうか。科学的な捜査、裁判に大きな役割を果たす法医学は司法の世界で十分、尊重されているのだろうか。長年、法医学の第一線で活躍、菅家さんに対するDNA鑑定の誤りを最初に指摘し、再審、無罪確定への道を開いた押田 茂實・日本大学医学部(研究所) 教授に、法医学の現状と司法界の問題点などを聴いた。

―宇都宮地裁の再審請求棄却の決定に対し、弁護団は即時抗告しました。あらためて先生には、弁護団から「証拠価値が乏しいといわれる毛髪が確かに菅家さんのものであることを証明してほしい」という再鑑定の依頼があったのですね。

菅家さんのお兄さんの協力を得て、お兄さんの血液と、保存してあった菅家さんの毛髪から採ったDNA型を比較しました。方法は菅家さんの有罪の根拠とされたDNA型鑑定法よりはるかに進歩したSTR(ショート・タンデム・リピート)を調べる方法です。15種類のSTR型のうち7種類が同じ型でした。また、Y染色体を調べたところ16種類すべてが同じです。Y染色体が同じというのは父親が同じ、STR15のうち7つが同じということは父親から受け継いだものだけが同じということです。つまり毛髪は兄弟である菅家さんのものに間違いないということが証明されたのです。

これを再意見書として2008年11月に東京高裁に提出しました。翌月の2008年12月24日に東京高裁はついにDNA型を再鑑定することを決定します。翌09年の5月に検察側、弁護側からそれぞれ鑑定を依頼された大阪医科大学、筑波大学の教授がいずれも「犯人と菅家さんのDNA型は一致しない」という鑑定結果を提出、ようやく菅家さんの無実が事実上、確定しました。

この足利事件の裁判の一番のポイントが何かといえば、結局、私が意見書を出した1997年にDNA型再鑑定をすれば、その段階で真っ白とすぐ分かったわけです。いい加減なDNA鑑定で捕まってしまった人が、裁判で時効の年月以上に延ばされ、17年後にようやく再DNA型鑑定が行われて、無実になるのです。1997年か98年に再鑑定をしていれば、真っ白とすぐ分かり「裁判ではやはり真実が究明されるんだ」と多くの人も評価したでしょう。それをさらに10年間も裁判所は時間を空費していたわけで、この時間は取り返しがつきません。

―裁判官あるいは、裁判所に相当な問題があるように思えますが。

ここまで引き延ばしたことに最も大きな責任がある最高裁の調査官と、再審請求から請求棄却までさらに5年余りも引き延ばしたあげく「押田は信用できない」とした宇都宮地裁の裁判官に対しては、「許さんぞ」という気持ちです。ただ、次のような見方もあります。最高裁調査官や東京高裁判事などの長い裁判官歴を持つ木谷明 氏(現・法政大学法科大学院教授)は、テレビ局の取材に対し「押田鑑定を最高裁は事実上見ているはずだ、と下級審の裁判官は思う。見ていながら最高裁は上告を棄却した。しかも、犯人であると認めた原判決に事実誤認はない、とまで言い切った。それが後々再審の審理をする裁判所に対してかなり大きなプレッシャーになったのではないか」と答えています。

有名な囲碁の木谷実九段の息子さんである木谷明 氏に言われたことがあります。「囲碁の石は生殺しにすると生き返ってくる。全部殺して碁笥(ごけ)に入れてしまえば、生き返ることはない。裁判では、控訴審に引き継ぐと思わぬことから死んだ石が生き返ることがあるから、下手な碁打ちと同じことをする必要がある。社会で無罪という判決を出せる権利を持っているのが唯一、裁判官だ。それが分からない人は裁判官として不適格」。この言葉の意味するところは、「では裁判官の楽しみは何か」という私の問いに対する次の答から分かってもらえるでしょう。

「『無罪』と言った時、『ありがとうございました』と言って被告が頭を下げてくれたときが一番うれしい」。有罪を求刑された人を無罪にできるのもまた、裁判官だけという意味です。

木谷明 氏は、30以上の無罪判決を出し控訴されたのはたったの1件だけ。それも数年後に無罪の判決が出たから自分の判決が覆ったことはない、という人です。「これが裁判官冥利(みょうり)に尽きる」ということで、また「控訴できないように判決を書くのが裁判官というものだ」とも言っています。裁判官が「無罪判決」を簡単に出せると思ったら間違いで、事実認定をしっかりできる木谷明 氏のような方だから、自信を持ってそういうことが言えるのだ、と思うのです。

私自身が今まで再鑑定で書いた書類はほぼ20件ありますが、2年前の時点で4勝16敗。私が言ったとおりの判決が出たのは4つだけです。足利事件で5勝15敗になりました。しかし、今後まだ東電OL殺人事件、福井中学生殺人事件、飯塚事件、袴田事件と続々と私の鑑定書がポイされているものがあります。

東電OL殺人事件では、精液に関して二度とできないほどの実験をやりました。それをちょっとした実験しかやってない某大学の臨床の講師クラスの人の鑑定に依拠して無期懲役の判決を書いているのです。われわれは日本にはほとんどいないネパール人を5人、日本中から集めて精液を提供してもらったのです。ネパール人だけでは「人種が違うから」と言われたら終わりですから、一緒に来た日本人たちからも提供を受けて実験しているのです。この実験だけで1月以上かかりました。

日本の裁判はどうしてこうも科学というものを正確に理解できないのかな、と思いつつ、ここ2,3年であと15勝しないと年だから法医学の仕事をやめるなんて言っていられない。そんな心境です。

(続く)

押田茂實 氏
(おしだ しげみ)
押田茂實 氏
(おしだ しげみ)

押田茂實(おしだ しげみ) 氏のプロフィール
埼玉県立熊谷高校卒、1967年東北大学医学部卒、68年同大学医学部助手、78年同医学部助教授、85年日本大学医学部教授(法医学)、2007年日本大学医学部次長、08年から現職。数多くの犯罪事件にかかわる法医解剖、DNA型鑑定、薬毒物分析のほか、日航機御巣鷹山墜落事故、中華航空機墜落事故、阪神・淡路大震災など大事故・大災害現場での遺体身元確認作業などで重要な役割を果たす。編著書に「Q&A見てわかるDNA型鑑定(DVD付)(GENJIN刑事弁護シリーズ13)」(押田茂實・岡部保男編著、現代人文社)、「法医学現場の真相-今だから語れる『事件・事故』の裏側」(祥伝社新書)、「医療事故:知っておきたい実情と問題点」(祥伝社新書)など。医療事故の解析もライフワークとしており、「実例に学ぶ-医療事故」(ビデオパックニッポン)などのビデオシリーズやDVDもある。

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