ハイライト

情報工学で躍進する21世紀の生物学(下澤楯夫 氏 / 北海道大学 名誉教授)

2012.04.04

下澤楯夫 氏 / 北海道大学 名誉教授

バイオミメティクス・市民セミナー「コオロギに学ぶ:センサーの設計図」(2012年2月19日、北海道大学総合博物館・バイオミメティクス研究会 共催)から

北海道大学 名誉教授 下澤楯夫 氏
下澤楯夫 氏

 コンピュータには、「シュミット・トリガー回路」と呼ばれる電子回路が少なくとも1台につき数100個ある。もし何かの影響で世界中のこの回路の100万分の1でも動作不良を起こせば、世界経済は崩壊する。発明したのは米国の神経生理学者オットー・シュミットで、1938年特許を取った。

 シュミットは元々生物機能の工学的な応用を探究していた。後にBio(生物)とMime(まねる)を基にバイオミメティクス(biomimetics)という語と概念を創唱している。トリガー回路の原理はイカの巨大神経軸索の神経パルス(瞬間的な電圧波形、電流)の研究から生まれた。この神経軸索は、ある刺激に対して一定の大きさ(閾値(いきち))まで何も反応せず、少しでも超えると神経パルスを一発だけ出す。その後しばらくは無反応という、全か無かの振る舞いを示す。

 このような特徴を電子回路に備えると過去の動作がメモリのように作用して、スイッチのオンオフの切り替え時に避けることのできないチャタリング(カチャカチャと繰り返すオンオフ)による誤作動を防止できる。バイオミメティクスは未来の話ではなく、現実であり、既にわれわれの生活を支えてくれている。

 しかしわれわれは、いろいろな生物が「常温常圧で」さまざまな構造や機能を産生するメカニズムを習得したわけではない。もしその技術や工程を真似(まね)できれば、人間が「高温高圧で」人工物を生産するのに使うエネルギーの量を10分の1にはできるだろう。ちなみに2008年の全世界の総発電量は 20,261 TWh(テラワット時)で、供給された一次エネルギーの36%が電力で賄われている。同年の日本の電力源の約30%は原子力である。原子力発電の容認・盲従は電気・電力への過剰な依存からだろうか。

 今日の科学技術は18世紀の数学、19世紀の化学、20世紀の物理学の発展が基盤になっている。科学技術とは積極的に人工物を作り出して、自然界と相互作用をする人間活動である。ところが現在の工学は、ファジー理論や遺伝的アルゴリズム、コンビナトリアル化学など、どれも条件を少しずつ変えて、あらゆる場合を試行錯誤して、うまくいった結果を拾っているだけだ。その膨大なコストにいつまで耐えられるのか。工学および産業技術全体にも閉塞感がある。技術者は自然界における生物の「生きる仕組みの設計」を学ばざるを得なくなってきた。

 私は早くから生物規範工学(バイオミメティクス)を掲げて、北海道大学の工学部に生物学の強化を提唱していたが、聞き入れられることはなかった。結果的に1992年、電子科学研究所を改組するとき文部科学省が「20年後には必要だ」と理解してくれた。米国のマサチューセッツ工科大学(MIT)は1993年、専攻に関わらず生物学の単位を必修にした。ただ日本では「縦流れの社会」が正しいとされ、私のように電子工学科を卒業して生物学者をしていると「何かあったのか」と憶測される(笑い)。生物学から工学に移るのは数学の素養が違うので難しいが、逆に工学の演算や処理能力はどんな分野に行ってもつぶしが利く。

 例えばコオロギの感覚細胞の研究でも工学の経験が大いに役立つ。コオロギの腹部の先端には「尾葉」という左右一対の突起がある。直径1-10、長さ30-500マイクロメートルのさまざまな毛が片方だけで400本から500本生えている。それを「気流感覚毛」と呼び、視覚によらず動きを検出(認識)すると考えられている。空気の流れから粘性力を受けて感覚毛が傾くと、その根元の感覚細胞が中枢神経系に向けて神経パルスを送る。

 この感覚毛の感度はレーザードップラー速度計で調べる。どのくらいの気流で何度傾き、神経パルスが1個出るか。刺激の速さに応じた毛の動きが明らかになる。感覚細胞は気流を神経パルス列に符号化し、周波数の高低によって動きが変化する。この神経パルス列が中枢に運ぶ情報量は、米国の電気工学者クロード・シャノンの定理によると信号対雑音比で決まる。シャノンは携帯電話やコンピュータの情報技術の基礎を作った。情報量は刺激と反応のコヒーレンス(coherence 一貫性)の値を測ることでも解析できる。数年前、「情報とは何か?」を端緒に「比較生理生化学」誌に解説を連載した(注)。参考にしていただきたい。

  • 感覚細胞は常温の分子1個の運動エネルギーを検出できるほど高感度なので、感覚細胞自身の分子の動きにまで反応してしまう。この高感度は進化による「適応」ではなく、生命の起源にさかのぼる一種の「拘束」と考えられる。
  • なぜならこの世界では全ての分子が動いており、感度が良すぎることはとめどない雑音の海に飛び込んでいるようなものだ。けれども周囲の信号に対する応答は生命体の本質(条件)だから、その本質を否定する向きに少しずつ感度を上げたとは考えられない。
  • 感覚細胞は認識すべき信号よりも大きな内部雑音に邪魔され、情報伝送性能が低い。それでも多数が繊維状に並んで束になれば、その本数が多いほど情報伝達能力(ビット/秒)が向上する。

 生物が多細胞に進化した必然性がここにあるようだ。神経系が並列構造(束)で、細胞の表面に多数のレセプター分子が並ぶメリットは何か。粗悪品のニューロンでも、多数を束にして並べて、統計学でいう加算平均原理によって雑音のハンディを乗り越えようとしていると考えざるを得ない。つまり厳しい環境において「淘汰圧」への適応がなされているのだと思う。

 脊椎・無脊椎動物を問わず、生物進化の最高傑作は可視光のフォトン1個を検出できる視細胞だといわれてきた。しかしコオロギの気流感覚細胞はその100倍のエネルギー感度を持ち、熱雑音に直面しながら働いている。いま日本製の原子間力顕微鏡では、絶対零度(セ氏マイナス273.15度)近くまで冷やして何とか原子が見えるようになった。コオロギは常温で分子の動きと同じくらいのエネルギーを認識できる。

 またコオロギの中枢神経は、秒速0.03ミリメートルの空気の動きを感知する。捕まえたいときは素早く手を動かさないと察知されてしまう。ゴキブリも新聞紙などを幅広く折ってたたこうとするよりも、細いムチのようなものでピシッと打つと良い。

 ファーブルの昆虫記にコオロギと天敵のアナバチの話がある。アナバチはコオロギを見つけると、なぜか15センチメートルくらい離れたところでホバリングしてふうっと止まり、地面を走って背後から攻撃して毒針を刺す。動かなくなったら自分の巣穴に引っ張って行き卵を産みつける。ホバリングするときにコオロギも黙っていない。何かを感じるらしくて尾葉を高く持ち上げて浮かせ、後ろ足を縮めて待ち構え、触ったとたんにパーンと蹴り返す。成功率は大体5割らしい。尾葉を切ってしまうとアナバチに狩られる一方になる。

 ハエや蚊などは重力感覚器がなくても飛ぶ。明らかに何かを転用している不思議な性能だ。ハエの祖先はジュラ紀に振動ジャイロセンサーを開発し、視覚情報によってそのジャイロセンサーを遠心性に制御して、3次元曲芸飛行をしてきた。人間は遅れること約1億4千万年、やっと振動ジャイロ自立航行機能付のカーナビを作った(笑い)。2008年に「昆虫ミメティックス-昆虫の設計に学ぶ-」という書籍を出版、私は共同監修した。執筆は国内外の研究者155人。工学系の方々にとっても研究開発のヒントが得られると思う。

 生物学は職人芸的(多重入れ子状、多重依存的)に複雑に入り組んでいるが、ようやく21世紀に開花を迎えている。生命現象の本質は自己複製(情報のコピー)であることを忘れてはならない。情報を手に入れるにはエネルギーが必要だ。エネルギーは保存されるのでコピーできない。しかし、情報(構造)に変換すれば何度でもコピーできることを生物が示している。生物の科学には情報の科学(情報論)が必須である。

 日本はなかなか境界領域が発達しない。昔は知識偏重だったのがインターネットの普及で暗記すら無意味になった。これからの教育カリキュラムはどうあるべきだろう。

 科学者は自分の興味だけで満足することなく、一般の人にどこまでフィードバックできるか、何らかの形で世の中を変える力を意識していきたい。

北海道大学 名誉教授 下澤楯夫 氏
下澤楯夫 氏
(しもざわ たてお)

下澤楯夫(しもざわ たてお)氏のプロフィール
北海道立室蘭清水丘高校卒。1966年北海道大学工学部電子工学科卒、68年同大学大学院工学研究科修士課程修了、北海道大学理学部文部技官、同理学部助教授を経て、88年同大学応用電気研究所教授、92年同大学電子科学研究所教授、2001-03年同研究所長、03-04年北海道大学総長補佐、04-05年同大学役員補佐、05-07年同大学副理事、07年定年退職(名誉教授)。理学博士。専門分野は比較神経生理学、神経行動学、サイバネティクス、電子情報通信工学。著書は「昆虫ミメティックス-昆虫の設計に学ぶ-」(監修、NTS社)、「スケーリング:動物設計論」(監訳、コロナ社)、「生物と機械」(共立出版)など

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