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イノベーションと研究者の流動化(樋口美雄 氏 / 慶應義塾大学 商学部長)

2010.05.12

樋口美雄 氏 / 慶應義塾大学 商学部長

政策・システムセミナー「人文社会科学との融合シリーズ」(2009年12月14日、科学技術振興機構 研究開発戦略センター主催)講演から

慶應義塾大学 商学部長 樋口美雄 氏
樋口美雄 氏

 イノベーションが日本の労働市場、特に企業における組織とどう関連しているかについて考えてみたい。

 専門的・技術的職業従事者の転職希望率を見ると平均よりは明らかに高いことが分かる。さらに詳しく調べるために、離職期間、つまり前の企業を辞めてから再就職するまでにどれくらいの期間がかかっているかを比較してみた。1991-2000年のデータを調べてみると事務従事者より短く、一般事務に比べるとやはり専門的・技術的職業従事者というのは短期間のうちに再就職できていることが分かる。転職した前後で賃金が下がることが少ないのも、専門的・技術的職業従事者の特徴だ。

 高度で専門的な知識というものに対する評価が日本では相対的に小さい。あるいは年功賃金が日本の特徴、などといわれながらも、専門的・技術的職業については転職による損失は小さいことが、転職希望率に反映していると言えそうだ。

 転職という問題を考えたときに、大きな問題となってくるのが、前の企業で研究した成果を転職先に持って行けるかどうかだ。特に研究者の労働市場を流動化させるときに重要な要素になってくるのではないかと思われる。

 これは最近、大学でも問題になってきている。知的財産の保護と、それを保護するために特許を認めるかどうか、ということだ。企業にとっては、特許が認められ会社に帰属することになれば、研究開発を一種の投資と考えることができるからその投資の回収期間がそれだけ延びることになる。企業の研究開発を促進する効果を持つことになる。

 ところが社会にとってはどうかと考えると、知的財産は企業の中に限定されるので、知識の普及や産業の発展を阻害することも予想される。同時に企業としては、この特許を取るために何をやっているかを具体的に公開していかなければならない。むしろ公開しない、特許を取らない方が企業戦略としては望ましいということも考えられる。特許戦略をどう考えるかは国にとっても非常に重要な問題だ。

 また転職との問題で考えるとジョン・マクミラン(注1)が書いているように州によって法律が異なる現実がある。米国マサチューセッツ州は転職した場合、競業避止(注2)の契約を認めている。次の企業に行ったときに前の企業で得た情報や知識を使ってはいけない、と法律で認めている。一方、カリフォルニア州の場合は、企業に対して競業避止を認めてないので、同業他社に転職したとしてもすぐに前の企業での知識や情報を活用することができる法体系になっている。

 マサチューセッツ州の方は企業の知的財産権の保護を考えているわけだ。確か3年間は同業他社で働くことができない。その結果として、新技術の普及や企業を越えた共同開発がこれによって阻止されてしまう問題が考えられる。「ルート128地域」(ボストン郊外のベンチャー企業集中地域)におけるIT産業の発展にブレーキを掛けているのではないか、ということだ。

 これに対してカリフォルニア州は、企業の財産は保護されないが、一方、競合企業の研究者同士がオープンな関係を保ち、労働市場も流動化している。その相乗効果もあって、業界全体としてはシリコンバレーの発展に寄与している、という結論をマクミランは出している。

 日本の場合は、研究者に限らず同業他社からの転職は少なくとも90年代まではほとんどなかった。法律ではなく紳士協定によってである。こうした日本的雇用慣行が研究発展にプラスになったのかマイナスになったのかについては、一概に言えないというのが私の結論だ。

 労働移動を抑制することによって企業は安心してその人に投資できた。もし、労働移動を頻繁にするということであれば、個別企業の投資には頼れないということになる。社会として見ると、どちらの方がよいのか。まさに政府による支援の問題が焦点になってくると思われる。

  • (注1)ジョン・マクミラン
    ニュージーランド出身の経済学者。カナダ・ウェスタンオンタリオ大学准教授、米カリフォルニア大学サンディエゴ校教授などを経てスタンフォード大学経営大学院教授在職中の2007年に死去。
  • (注2)競業避止
    競業関係にある会社・組織に就職する、あるいは競業関係にある事業を行うなどの競業行為を禁じること
慶應義塾大学 商学部長 樋口美雄 氏
樋口美雄 氏
(ひぐち よしお)

樋口美雄(ひぐち よしお)氏のプロフィール
1975年慶應義塾大学商学部卒、80年同大学博士課程商学研究科単位取得退学。慶應義塾大学商学部助教授、教授、計算センター三田計算室長、商学部長補佐などを経て2009年から現職。05- 08年国民生活金融公庫総合研究所長も。専門は労働経済学、計量経済学。著書に「雇用と失業の経済学」(日本経済新聞社)、「日本経済と就業構造」(東洋経済新報社)など。

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