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食文化と景観の魅力(ジャン‐ロベール・ピット 氏 / フランス地理学会 会長、前パリ・ソルボンヌ大学 総長)

2010.03.22

ジャン‐ロベール・ピット 氏 / フランス地理学会 会長、前パリ・ソルボンヌ大学 総長

オホーツク地方自然公園構想国際シンポジウム2010(2010年2月24日、同シンポジウム実行委員会 主催)記念講演から

フランス地理学会 会長、前パリ・ソルボンヌ大学 総長 ジャン‐ロベール・ピット 氏
ジャン‐ロベール・ピット 氏

 フランスの有名な思想家C・レヴィ=ストロースいわく。「食物は身体を養い、精神にも効用がある」

一般的に、食事のカロリーやビタミンなどの栄養バランスに気をつけることが健康的である、ということに関心が行きがちです。ところがバランスの取れた食事とは、喜びや楽しさ、つまり感動を呼び起こす味覚が伴うべきものです。それは人間が本来持つ欲求です。例えば私は、農産物は人間にとって大切な心の糧でもあると考えています。残念ながら、このような考え方はまだ少数派です。

 今日、地球上で約8億人の人々が飢餓にあると言われており、食物の味や文化、質について論じることは一見ばかげているように思われます。しかし貧しい人々にも品質を求める権利があります。世界の貧しい地域には、地元の産物を主にした食料、地域ならではの優れた食生活が実際に存在していることを忘れてはなりません。

 もし米国や他の国々で多くの人々が肥満で苦しんでいるとすれば、栄養豊富で脂肪分が多く、甘い食品のとりこになったと言えます。その種の食品は、画一化をやめない食品工業に由来しており、産地ごとの微妙な違い、季節や旬のにおいが消し去られています。

 例えばハンバーガーは同じ材料とレシピで、世界中どこで食べても基本的には同じ味がするようにできています。このような食品産業は規格品を大規模生産という経済原則に従っており、同じことが生活にかかわる全般に起こっています。消費者もこのわなに自らを委ねているのです。たとえ食べ過ぎにつながるとしても、舌ざわりのよい食料を無意識に機械的に食べることが、安らぎを与えてくれるものになっています。解凍ピザやナゲットなど、子どものころから規格化された食生活を続けていたら、食品分野のオートメーション化の促進は明白です。

 フランスにはテロワール(terroir)という言葉があり、「土壌、風土」の意味を持ちます。ワインに例えますと、製法や土壌、品種など一切を含めてテロワールが成り立っています。フランスでは既に1930年代、各地の特産品が目録化され、地図に表示されていました。今では畑の風景を瓶のラベルに印刷したシャンパンも登場しています。

 食料というものは、景観、環境、気象、土地の歴史、生産者などによって個性、文化的価値、メッセージ性を持ち得ます。ですが米国や豪州などのチーズは、非常に似通った味になる場合があります。

いま世界に必要なのは、「唯一の味を持つ、独自性のある地域」ではないでしょうか。単なるユートピア、夢や願望ではありません。いつもいつも携帯用ヘッドホンで同じCDを聴いて、人は平常心でいられるでしょうか。テロワールを基盤に良質の品を作ることは、経済的なメリットを生むことにもなり得るのです。

 皆が同じものを作ったとしたら、低価格競争により品質を下げるしかないという悪循環が懸念されます。その結果、最も悪影響をこうむるのは消費者です。決して豪華な食材を求めようということではありません。普段の生活の食べ物の品質を少し意識するだけでもよいのです。

 この美的なアプローチ、快い感動の希求、これがRaison de vivre 私たちが生きていく理由になります。

 人間は定住を必要とし、かつ移動する民でもあり、文化的交流は必然です。そして多様性に価値を見いだすことによって、幾世紀にもわたり広範囲に愛好されている食べ物や飲み物が生まれました。

 1919年から35年にかけて、フランスは世界最初に原産地統制呼称(A.O.C)を制度化した国です。以来、この取り組みは徐々に世界に広がってきました。生産者や消費者の多くが、政府の後押しをしてきた賜物です。

 さらに農業観光(アグリツーリズム:試飲や直販、農家レストランと宿泊など)について。フランスでこの分野の売り上げは、現在約200億ユーロ(約2兆4,000億円)という膨大な金額に及んでいます。イタリアではスローフード運動を通じて、収入はもっと多いといわれています。

 南半球の一部の国々でも、コーヒーや紅茶、ラム酒などの生産に観光を組み入れた活動が始まっており、大きな可能性を秘めています。これからの観光客は、異文化と触れ合い未知の体験を求める人たちといえます。

 「地方自然公園」もフランス独特の手法です。農業者と住民全員が伝統を活かすような取り決めをします。従来の生産を維持しつつ、新しい仕組みを創造していくのです。数万人規模の大型リゾート施設ではなく、分散型といわれる緩やかな連携の下にもてなしの心が育まれます。固有の美味しさを持つ農畜産物は農業や農村の価値を高めています。将来的にはもっと増えることが望ましく、日本ならオホーツクが最初になるのではないでしょうか。

 実は日本にも江戸時代ころからテロワールの概念があったと思われ、現在も各地の名産品、旅の楽しみ、駅弁として続いています。お土産品は特に地方空港や鉄道の駅で旅行者に人気があり、地域の商業を支えています。

 日本人にとって、季節ごとに変化する自然景観と五感を通じて一体になり、あるいは月、雪、花を愛(め)でながら飲食を味わうことは格別のようです。この素晴らしい伝統や慣習を継承し、発展させていくことが日本のテロワールの核心になっていくかと思われます。

 今オホーツクの皆さんが北海道で進めている構想につきましては、地域の味をきちんと確立していく努力が必要になります。20世紀初頭の詩人、シャルル・ペギーはパリ盆地のボース地方に広がる大海原のような麦畑に深い感銘を受けました。味わいのなかに人間性(ユマニスム)のある風景が想起されることは大切な要素です。

 北海道は大きな潜在能力を持っています。問題はどのように価値づけ、活性化していくかです。雄大な自然には貴重な植物相、さまざまな野生動物が生息しています。周辺が整えられた近代的な居住地は訪れる人にとって異国情緒があり、ストレスから解放される場所になるはずです。景観全体と家屋との美しい調和に一層努めていただきたいものです。

 また、本州と異なる作物が可能ですし、評価の高い日本の米の品質を向上・発展させることで、風景も魅力を増し、十分収益を得られる方向性が見えてくると思われます。酪農・乳製品の生産も大いに有望で、ジャガイモやそのほか特産品の開発も重要です。

 そして北海道沿岸部の眺望は非常に複雑で変化に富み、豊かな漁業資源に恵まれています。たぐいまれな景観の中でそのような営みが行われていることも強みの一つです。

 テロワールという概念は日本人が本能的に感じることのできる、知覚できる実体であるといえるでしょう。北海道の未来に向けて、新たなパイオニア精神の発揮が期待されます。

(SciencePotal特派員 成田優美)

フランス地理学会 会長、前パリ・ソルボンヌ大学 総長 ジャン‐ロベール・ピット 氏
ジャン‐ロベール・ピット 氏
(Jean-Robert Pitte)

ジャン‐ロベール・ピット(Jean-Robert Pitte)氏のプロフィール
1949年フランス・パリ生まれ。地理学者。2003-08年パリ・ソルボンヌ大学学長、08年フランス学士院の一つ「倫理・政治学アカデミー」(l'Académie des sciences morales et politiques)会員。著書(邦訳)に「フランス文化と風景」(東洋書林)、「ボルドーvs.ブルゴーニュ せめぎあう情熱」(日本評論社)、「美食とフランス」(白水社)など。

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