サイエンスクリップ

船橋港の初代「しらせ」より、南極観測60周年

2016.03.08

 2016年は、日本の南極観測60周年にあたる。南極は、地球規模の気候変動や歴史を知る重要なポイントである。60年の観測の歴史の中でどのような実績やドラマがあったのだろうか。1月23日、船橋港に停泊している南極砕氷船初代「しらせ」で行なわれた、南極OB会による講演会「しらせの時代」に参加した。南極OB会は、南極観測隊や海上自衛隊、南極へ行った歴代のメンバーからなる。会場には元しらせ艦長や元国立極地研究所所長をはじめ、そうそうたるメンバーが集まった。全部で6つの講演があったが、今回はその中の2つから、日本の南極観測が達成した特に大きなトピックを紹介する。

写真 1. 講演が行われた初代「しらせ」。2代目しらせに任務を引き継ぎ、現在は船橋港に停泊している。船体は、極域の真っ白な海氷の中にいても目立つオレンジ色をしている。
写真 1. 講演が行われた初代「しらせ」。2代目しらせに任務を引き継ぎ、現在は船橋港に停泊している。船体は、極域の真っ白な海氷の中にいても目立つオレンジ色をしている。
写真 2. 船内に展示された写真より。南極に向かう船の観測隊員船室の様子。ときには50度以上も傾くことがあるため、荷物はひもでしっかりと固定されており、背後のベッドには、落ちないようにつかまるための黒いひもが設置されている。
写真 2. 船内に展示された写真より。南極に向かう船の観測隊員船室の様子。ときには50度以上も傾くことがあるため、荷物はひもでしっかりと固定されており、背後のベッドには、落ちないようにつかまるための黒いひもが設置されている。

オゾンホールの発見

 南極の春にあたる9月から10月頃に、南極大陸上空のオゾン量が減少し、オゾン層の一部が穴があくように薄くなる。これを「オゾンホール」と呼ぶ。オゾンホールでは、太陽からの紫外線を吸収するというオゾン層のバリアが十分に発揮されず、有害な紫外線がそのまま地上に届いてしまうため、生物への悪影響が懸念されている。

 第21、29、46次観測隊員として南極観測に参加し、気象観測を行った松原廣司(まつばら こうじ)氏は、日本の地道な観測がオゾンホールの発見に大きく貢献した、と話す。「オゾンホール」という名称がつけられ、その形成にフロンガスの寄与が疑われるようになったのは1985年、イギリスのジョセフ・ファーマン教授が南極での観測結果を発表して以降のことだった。一方で、日本のオゾン観測は、1955年に茨城県館野(現つくば市)にある高層気象台で始まり、南極では1960年に開始した。ドブソン分光光度計※1 による観測に加え、第7次の1965年からはオゾンゾンデ※2 での観測が導入され、今日まで絶えず継続されている。

※1 ドブソン分光光度計:大気中のオゾン全量を測定する機器。太陽光中の紫外線がオゾン層を通過して減衰する程度が、波長によって異なることを利用して観測する。

※2 オゾンゾンデ:オゾンの測定装置を搭載したゴム気球。これを揚げて上空のオゾン量を測定する。

写真 3. 話をする松原廣司氏。第21、29、46次隊として南極で大気観測を行った。
写真 3. 話をする松原廣司氏。第21、29、46次隊として南極で大気観測を行った。

 第23次隊の忠鉢 繁(ちゅうばち しげる)氏は、南極の春に、上空15?50キロメートルの成層圏において通常増えるはずのオゾン量が極端に減っていることを以前から発見していた。観測当初、忠鉢氏は、観測結果の異様さに機器の故障を疑い、何度も点検を行なったそうである。1984年にはギリシャでの国際オゾンシンポジウムで観測結果の発表もしている。今では70年代後半から成層圏のオゾン量が減っていたことが分かっているが、その期間に観測を続けたのは日本だけであったことを、松原氏は強調していた。オゾンホールが出現する前後のデータの比較のためにも、1960年代から絶え間なく観測を続けてきたことは大変有意義だったと言うべきだろう。

図 1. 日本の観測隊が1960年代後半から絶えずオゾンゾンデ観測を続けてきたことを示す表。(提供:松原氏)
図 1. 日本の観測隊が1960年代後半から絶えずオゾンゾンデ観測を続けてきたことを示す表。(提供:松原氏)

 松原氏の講演は、最後に、南極のオゾンホールの生成機構を世界で初めて明らかにし、ブループラネット賞を受賞したアメリカのスーザン・ソロモン氏が発した次のメッセージを引用して終了した。

 「昭和基地の科学者たちが、1960年以降、毎週毎週オゾンの測定を続けてきた事実に対し、私はとても感動しました。全ての年の10月の全データを見ると、一種の『知識の川(river of knowledge)』になっていたと言えます」(「地球環境研究センターニュース Vol.15 No.10」2005年1月より引用)

 地道に積み上げられたデータが地球環境保全にとって重要な発見につながった。観測する時点では、まだそのデータが何を示すのか分からなかっただろう。それでも堅実に観測を続けてきた、その全ての観測隊員に敬意を表したい。

氷床掘削のドラマ

 南極大陸は氷の大陸で、標高800メートルほどの岩盤の上に厚さ3,000メートルの氷が乗ってできている。その最高地点に「ドームふじ基地」はある。標高3,810メートル、最低気温はセ氏マイナス79.7℃にもなる、南極の中でも特に過酷な環境だ。ここでは「氷床ドーム深層掘削計画」として、氷床を掘り進め、コア※3を採取する作業が行われており、2007年には3,035メートルの掘削に成功し、世界最古の氷が取り出せたのではないか、と期待されている。では、なぜ氷床を掘るのだろうか。

※3 コア/研究の試料として掘削で掘り出される筒状の柱。南極の氷床掘削で得られるコアを「氷床コア」と呼ぶ。

 南極の氷床は、温暖な低緯度の大気が極地まで運ばれ、その大気中に含まれる水分が凍ってできたものだ。氷床の中には、かつて大気中にあったさまざまな物質が冷凍保存されている。例えば、氷になる前の時代の二酸化炭素(CO2)濃度の変化や大規模な噴火が起きた年代、気温が低い氷期と高い間氷期の移り変わりなど、他の地域では残されていない過去の環境変化を知ることができるのだ。

 第30、36次隊として「氷床ドーム深層掘削計画」に参加した東 信彦(あずま のぶひこ) 現長岡技術科学大学学長は、2007年の最深掘削の成功までの道のりについて話してくれた。日本が開発した深層掘削ドリルは長さ約8.5メートルの円筒形で、不凍液を掘削孔に入れながら掘り進める。このドリルが世界的に評価され、ヨーロッパでも技術が取り入れられているという。現在は、改良された全長12.2メートルのドリルが使用されており、掘削能力やスピードは世界でも最高レベルを誇る。しかし、これらのドリルが作られるまでには大変な苦労があったようだ。

写真 4. 話をする東 信彦氏。第30、36次隊員として掘削計画に関わった。
写真 4. 話をする東 信彦氏。第30、36次隊員として掘削計画に関わった。
写真 5. 数千メートルの掘削を可能にした日本の深層掘削ドリル。全長8.5メートル。(提供:東氏)
写真 5. 数千メートルの掘削を可能にした日本の深層掘削ドリル。全長8.5メートル。(提供:東氏)

 日本チームは深層ドリルの開発を1988年にスタートし、翌年に初めて掘削テストを行なった。しかし、数センチメートル掘ると氷がドリルにつまり、その都度解体して氷を取り除く作業を余儀なくされ、掘削目標100メートルだったのが、その年は結局10センチメートルほどしか掘れなかった。周囲からは、「掘削計画はこのままうまくいくのか」「どうしてこんなのが掘れないんだ」と責められたそうだ。

写真 6. 計画初期の掘削テストの様子。南極大陸沿岸の「あすか基地」にて行なわれた。(提供:東氏)
写真 6. 計画初期の掘削テストの様子。南極大陸沿岸の「あすか基地」にて行なわれた。(提供:東氏)

 これを受けて、1991年にはグリーンランドにあるアメリカとヨーロッパのチームの基地のキャンプに参加し、ドリルの技術開発を行なった。欧米の技術を勉強するためと、南極よりもアクセスしやすい環境で訓練するためだ。当時掘削技術が進んでいたスイスやデンマークのメンバーは、自国と全く違う設計のドリルをよく見学に来たという。ドリルの技術開発を進めながら、ドームふじ基地の建設もほぼ同時に行なわれた。1996年には2,500メートルの掘削に成功している。計画初期に10センチメートルしか掘削できなかったことを振り返れば、たった7年でとてつもない技術の飛躍が起こったことになる。

 独自のドリル開発と基地建設を経て、今、日本は氷床掘削の最前線にいる。過去の環境変動を知るだけでなく、極限環境でも生きられる生命を探るなど、氷床に関わる研究は多岐にわたる。今まで掘削された最古の氷は、イタリア・フランス共同チームによる80万年前のものだそうだが、日本が掘削して手に入れた3,035メートルの氷は、もしかしたらそれ以前の地球環境を知る手がかりになるかもしれない。

南極観測の今昔

 今後の注目すべきトピックとして、「パンジー計画(南極昭和基地大型大気レーダー計画:Program of the Antarctic Showa MST/IS radar)」がある。温暖化予測やオゾンホールの規模の予測などに役立てるため、上空500キロメートルまでの大気をレーダーから発射する電波で丸ごと観測する。南極に、甲子園球場ほどの規模で1,000本のアンテナを立て、極域の急激な温度上昇などいまだ解明されていない大気循環を捉えるこのプロジェクトは、2015年に本格的な観測を開始した。パンジー計画は、南極と世界中の大気観測地点とを連携しながら、今後の地球環境の変化をモニタリングしていく重要なプロジェクトになっていくだろう。この他にも日本は、南極で地球規模の気候変動や生物、隕石などを研究・観測するトップランナーといえる。南極観測事業は1956年、まだ日本が先進国の仲間入りをしていなかった時代にスタートした。日本の今の地位は、技術も物資も十分でなかったにもかかわらず、絶えず南極での観測を続けてきた人びとのおかげにほかならない。今後、地球環境を知る上でますます重要度を増していくであろう南極観測の研究結果に期待しながら、過去の偉大な先人たちの苦労や成功にもぜひ思いを馳せてほしい。

サイエンスライター 田端萌子

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