レポート

研究開発戦略ローンチアウトー第14回「政策形成における科学の健全性確保」

2010.07.26

佐藤 靖 氏 / 科学技術振興機構 研究開発戦略センター フェロー

佐藤 靖(科学技術振興機構 研究開発戦略センター フェロー)

 政府は、さまざまな政策分野において、科学的知見に基づいた政策決定を行う。例えば、食品安全に関する政策の策定には、化学、毒性学、微生物学などの分野の科学的知見が必要である。また、地球温暖化問題に関する政策の策定には、気象学、生態学、海洋学、工学などの分野の科学的知見が必要である。このため、政府は審議会などの場を通じて専門家から必要な科学的知見の提供を受けている。だが、政府と科学とが連携を深める際には、両者の関係の健全性が損なわれないよう、注意が払われる必要がある。実際、海外では近年、両者の関係を律する行動規範を定める動きがみられる。

行動規範が必要になってきた背景

 政府と科学とのかかわりは近年、特に密接なものになりつつある。その要因の一つは、長期的な傾向として、環境保全、安全・衛生、医薬品規制といった、科学的知見が特に求められる政策分野の比重が増してきていることである。一般にレギュラトリー・サイエンス(規制科学)と呼ばれるこれらの分野の科学的知見は、直接的に政策決定の基盤を提供する。二つめの要因は、政府が直面する政策的課題の複雑化・高度化である。現代の科学技術・経済社会複合システムとも呼ぶべきものにかかわる諸問題に対応するには、工学や医学を含む自然科学および経済学や政治学をはじめとする人文社会科学の知見を統合して適用していく必要がある。最後に、三つ目の要因として、科学的根拠(エビデンス)に基づく政策形成を求める声が高まっていることが挙げられる。特に保健医療政策、教育政策、科学技術・イノベーション政策の分野では科学的知見を動員することの必要性が強く指摘されている。

 このように政策形成において科学が大きな役割を果たすようになってくると、科学の健全性にかかわる微妙な問題が生じうる。例えば、政府が、自らの政策方針に合致する科学的知見のみを採用して政策決定を行うようなことが考えられる。これは、米国でブッシュ政権期(2001-09年)に実際に起きたことであるとされる。一方、科学者の方でも、政策担当者と近くなり、その意図を汲むようになると、政府の政策方針を正当化するために中立的でない科学的知見を提供するようになりかねない。その結果、誤った政策決定が導かれ、また科学に対する社会的信頼が損なわれてしまうことが考えられる。このような問題が起きるのを防ぐため、各国は行政と科学の行動規範を整備し始めているのである。

米国における行動規範

 米国では、昨年3月9日、バラク・オバマ大統領がジョン・ホルドレン大統領補佐官に対して「政府の政策決定における科学の健全性を回復する」ための勧告を120日以内に策定するよう指示した。オバマ大統領は、大統領選前の公約「米国の未来への投資(Investing in America’s Future)」(08年9月25日)において、すでに政府における科学の健全性の重要性を指摘していたが、大統領就任後、早速この公約の実現に向けて動いたのである。

 オバマ大統領は、ホルドレン補佐官に対する指示の中で、勧告に盛り込まれるべき内容の概略を示している。例えば、各行政機関はピア・レビューのような適切なプロセスを経た科学的・技術的知見を用いること、各行政機関において科学的知見の不公正な取扱いがあった場合の内部告発者の保護などに関する手続きを定めること、などである。勧告の策定は、政府部内の調整が難航し大幅に遅れているが、間もなく公表される見通しである。

 なお、米国には、ほかにも科学と政府の行動規範が既にいくつか存在する。04年には、連邦政府機関が用いる科学的知見に対するピア・レビューの実施に関する原則が大統領行政府管理予算局(OMB)によって定められている。また、1997年に改正された連邦審議会法においては、国家科学アカデミー(NAS)が政府に対して科学的助言を行う際の中立性・独立性を担保する規定が設けられている。この規定に基づいて、NASは科学的助言を作成する際の詳細な手順を定め、公表している。

英国における行動規範

 英国では、今年3月24日、ビジネス・イノベーション・技能省が「政府への科学的助言に関する原則」を公表した。これは、政府と科学的助言者(諮問委員会などの委員を含む)それぞれの役割と両者の間の関係について包括的に規定した画期的な文書である。その主なポイントは次のとおりである。

  • 政府は、科学的助言者の学問の自由、専門家としての立場および専門知識を尊重し、十分に評価しなくてはならない。
  • 助言者は、その作業において政治的介入を受けてはならない。
  • 助言者は、広範な要因に基づいて決定を下すという政府の民主主義的任務を尊重し、科学は政府が政策策定の際に考慮すべき根拠の一部にすぎないことを認識しなくてはならない。
  • 政府は、特にその政策決定が科学的助言と相反する場合には、その決定の理由について公式に説明し、その科学的根拠を正確に示さなくてはならない。

 英国では、ほかにも科学と政府の行動規範がいくつか存在する。05年に定められた「政策策定における科学的分析にかかわるガイドライン」では、政府が用いる科学的知見に対するピア・レビューの実施が規定され、また、科学的知見を提供する専門家の責任と助言を受けて行動する政策担当者の責任とを区別することの必要性などが指摘されている。また、科学的知見は不確実性を伴うものであり、それらは明確に評価・伝達・管理されるべきものであって、不確実性が残っている場合には政府機関は科学者に対して確固とした結論を出すよう圧力をかけてはならない、という点も強調されている。

国際機関における動き

 国際機関においても、政策形成に用いられる科学の健全性の確保に向けた動きがみられる。例えば、国連は今年3月10日、気候変動に関する政府間パネル(IPCC)に対して「手続きおよび作業過程に関する包括的な独立レビュー」を行うことを決定した。この決定に基づいて、現在、インターアカデミーカウンシル(IAC)がレビューを進めている。これは、気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の報告書に誤ったデータが含まれていたことや、関係者の不適切な行為を連想させる内容を含んだメールが流出したことなどをきっかけとして、気候変動に関する科学的知見に対する社会的信頼が揺らいでいることに対応したものである。このように、国際機関においても、科学の健全性の確保に向けたアクションがとられるようになっている。

日本における状況

 日本においては、現時点で科学と政府の行動規範が十分整備されているとはいえない。米国や英国で定められているような、政府部内における科学的知見の取り扱いに関する行動規範は存在しない。また、科学者共同体の側にも、政府に対する科学的助言のあり方を規定する明示的な行動規範は存在しない。例えば、日本学術会議法においては、同会議は「独立して」職務を行う旨が規定されてはいるが、同会議が政府に対して科学的助言を行う際の独立性・中立性を担保するための具体的な行動規範は存在しない。これまで日本では、政府と科学との関係は、明示的な規則やガイドラインによってではなく、政策担当者および科学者自身の規範意識に依存する形で維持されてきたといえよう。

 だが、政策形成への科学の関与がますます深まる中、政府と科学の行動規範の整備は世界的な流れになっている。世界の潮流に盲目的に追従する必要はないが、日本の政府と科学にとってふさわしい行動規範とはどのようなものか、今後関連機関が協力して検討を進めていくことが望まれる。

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