レポート

研究開発戦略ローンチアウトー第12回「ライフサイエンス潮流に向き合うファンディング機関の視座」

2010.05.28

髙野 守 氏 / 科学技術振興機構 研究開発戦略センター フェロー

髙野 守(科学技術振興機構 研究開発戦略センター フェロー)

 科学技術振興機構 研究開発戦略センターは、今後わが国が取り組むべき重要な研究開発領域・課題、研究開発システムなどについて調査・分析を行い、さまざまな分野の研究開発戦略を提案しています。筆者はフェローとして2009年4月から現職に就き、ライフサイエンス分野における研究開発動向の分析に基づいたファンディング戦略立案に携わっています。

生命科学のパラダイムシフトは起こるか

 近年の分子生物学の進展により、生体分子に関する情報や分子間のネットワークの仕組みがかなり分かってきました。また、コンピューティング技術の進展により、関連データベースの充実も質、量ともに目覚しく発展し、さらに人工的な核酸やタンパク質合成の効率化が進んだ結果、今、合成生物学(あるいは構成生物学)と呼ばれる新たな学問分野が注目されています。 ライフサイエンスのゲノム・機能分子研究は、これまで生命活動の観察をもとに遺伝子やタンパク質などの要素に分解して理解する、要素還元的なアプローチ(解析的アプローチ)を主流として進められてきました。その中から従来とは異なる発想として、これまで解析的なアプローチで得られた知見を最大限活用し、遺伝子やタンパク質などの要素から生命システムの再構成を通じたアプローチ(合成的アプローチ)によって生命を理解し、またその技術を応用して新たな研究シーズを生み出そうという試みがなされています(図1)。(注1)

従来の解析的な研究アプローチと新たな合成的研究アプローチの関係
図1. 従来の解析的な研究アプローチと新たな合成的研究アプローチの関係
従来の研究方向は解析的アプローチ(図中右向矢印)が中心であったが、解析知見の蓄積、物質の解明が進むことで合成的アプローチ(図中左向き矢印)の推進が可能になりつつある。

 簡単に言えば設計図と部品が分かってきたので、それを組み立てるという手段を私たちが持ち始めているということです。実際に米国クレイグベンター研究所(The J. Craig Venter Institute)が中心となって行った実験では、マイコプラズマと呼ばれる一種の細菌のゲノムを合成し別の種のマイコプラズマ内に移植することで、生命活動を維持しながら人工ゲノムがタンパク生成などの機能を発揮することを確認しています。

 さらに機能に特化した研究も進んでおり、米国カリフォルニア大学バークレー校のJ.Keasling博士らは、ヨモギ科植物が生産するアルテミシニン(マラリヤの治療薬の原料)の産出機能を酵母菌内にデザインして構築し、アルテミシニンの製造コストを100分の1に低減させることに成功しています。一説には微生物は約6千種類、植物は約2万種類の物質を生産すると言われていますが、微生物に比べ植物は生長が遅く、植物を使った物質生産は必ずしも工業化に向いていないというデメリットがありました。本研究はその問題を解決し、植物のアルテミシ二ン生産機能を微生物で再現させることに成功しました。

 また同じ米国、カルフォルニア工科大学のElowitz博士らは遺伝子発振回路というシステムに注目し、これを設計して機能として振動回路を組み込んだ細菌を用いて細胞の中のゆらぎの役割を明らかにしています。これはJ.Keasling博士らが目指した工業的利用としての期待とは異なり、生命活動の理解のために合成生物学的なアプローチをうまく活用した例といえます。

 このように従来のシステムズバイオロジーと呼ばれる知見や分子生物学の蓄積を活かし、人工細菌、人工細胞の創出も視野に入れた研究に取り組む研究者は成功事例の報告と共に世界的に増加しつつあります。わが国においても先駆的な研究が出始めており、代表的な研究例として名古屋大学の近藤孝男教授による概日時計(生物が持つ24時間周期の体内時計)の再構成などが挙げられます。本分野は現在、さまざまなバックグラウンドを持つ研究者が自発的に研究会を組織しており、国内においても有望な若手研修者が積極的にリードしています。(注2)

 今後、生命倫理上の観点からも課題の進展には慎重な議論が必要になってくると考えられますが、議論を通じて参加者が切磋琢磨(せっさたくま)しながら新しい学際的研究領域を築くための骨格が見えつつあるといえ、これからの新たなライフサイエンス研究の動きとなる可能性を秘めています。

ライフサイエンス事業の特性

 ライフサイエンス分野はこのような、新たな動きを柔軟に取り込む懐の深さがある学問領域です。しかし、社会につなぐルートが現時点では細く長いという特徴があります。例えば事業化につながる橋渡し、育成という面でも、いまだこの分野共通の課題があると言えます。実際に米国においても上記の合成生物学を活用したベンチャーがうまくいかなくなった例がすでに出ています。

 ライフサイエンス研究を事業へ橋渡しするため、その一翼を担うと期待されてきた、いわゆるバイオベンチャーは、その価値の定量化が大変困難であるという特性があります。初期の段階では投資がその推進に大きな役割を果たしますが、開発中の研究内容を正確に判断し、その価値を見極めるためには、相応の知識とそれを上回る経験が求められます。他社で先行している特許価値や投入製品の市場規模など、いくつかの投資判断基準はありますが、研究側もニーズ側も刻々と休むことなく変化する中で必ずしも従来の指標が常に的確とは言えません。財務諸表に現れない、見えない価値をどこまで見極められるかが、効果を生む投資に不可欠です。

 例えば、スタートアップバイオベンチャーの支出細目として大きい人件費が挙げられます。設立当初は主要なマネジメント陣や一般に給与の高い中心研究者を親会社が負担して差し入れているケースも多く、運営の実態や実働者の能力、権利が明確化された準備中の知財などもバランスシートに現れません。働く人の研究やマネジメント能力、会社が持つ知財のライセンス条件や株主との関係などは研究開発の進展にかかわる大切なポイントになるため、価値算出の際には、できれば関係者一人一人の正確な把握と詳細な実態を理解することが必要です。

 さらに収益の柱となる最終製品のイメージが、ステークホルダー間で共有されにくいのがこの業界です。資金を得るため設立時のビジネスモデルにバラ色の創薬開発の計画を描かざるを得なかったがゆえに、それに基づいて算出した企業価値が先行してしまい、その後の新規増資や既存株主の追加出資の際に資金を受ける方も、さらにはベンチャーキャピタルなど拠出する側までもが説明と対応に苦労するといったケースが後を絶ちません。近年、大企業を中心に環境経営、健康経営などCSR(企業の社会的責任)の観点で、会計上の新たな指標を作る動きが出つつありますが、ベンチャー企業においてもライフサイエンス事業全体を測る客観的な指標がもう少し必要なのかも知れません。

ファンディングエージェンシーの役割

 これまで多くのフェローがこの欄で述べてきたように、私たち科学技術振興機構のようなファンディングエージェンシーは、資金の投入によって有望な研究開発を活性化し、その成果がイノベーションにつながるよう戦略的に誘導することを目指しています。科学そのものが発展すれば良いという考えもこれまでにはありましたが、近年、文部科学省をはじめとする行政機関、また内閣府に設置されている総合科学技術会議などにおいても、成果をいかに国力につなげるかという視点が強まってきています。

 今回お話した、合成生物学(あるいは構成生物学)分野は、いまだ成熟しておらず、研究対象は萌芽的なフェーズという位置付けです。このような有望であるが、未知な分野の基礎研究をベンチャーに代表される事業化などの出口につなぐべく、資金面でしっかりと支援していきたいと考えています。そのためには研究、産業の両者の特性を理解し、俯瞰(ふかん)する必要があります。そこから慎重に戦略を立案し、それに基づき時として大胆な投資実務が必要となるでしょう。

 国民の税金による公的資金を科学研究に投資するためのデューデリジェンス(事業の実態、問題点把握などのための調査)には、まだ明確な指標や基準がありません。事業仕分けなどを通じ、今までにも増して限りある資源の有効な活用が求められています。今後もさまざまな分野の方々から知恵をお借りしながら議論を深め、その方法論を模索しながらより効果の高い投資戦略を実行しなければならない、と最近強く感じています。

(注1) 科学技術振興機構研究開発戦略センター 戦略イニシアティブ「生命機能のデザインと構築」(担当フェロー:野田正彦、高野守、中村亮二、沼田真也)から抜粋(一部改変)その他内容の一部は本稿の参考文献として参照
(注2) 細胞を創る会

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