レポート

研究開発戦略ローンチアウトー第4回「ライフサイエンス研究のこれまでとこれから」

2009.09.03

川口 哲 氏 / 科学技術振興機構 研究開発戦略センターフェロー

 人類の健康の維持、向上と疾病の治療は、世界的に重要なテーマと認識されている。2009年4月27日に行われた米科学アカデミーでのオバマ大統領の演説では、政府研究開発投資を対国内総生産(GDP)比3%以上にすること、理系・科学人材の育成支援とならんで、米国立衛生研究所(NIH)の予算増加やがん研究への投資が発表された。米国のみならず、英国においても医薬品、医療機器の開発に対して政府や企業は多くの投資をしており、その成果が期待されているところである。また、治療分野のみならず、健康の維持、ヘルスケアという価値もますます重要視されている。

 しかしながら、日本の医薬品・医療機器産業においては、日本の誇るすぐれた基盤技術が、牽(けん)引産業として昇華できていないということが懸念されている(イノベーション・エコシステムの乖離)。これは、決して基礎研究や医療従事者の能力や努力が欠如しているためではない。規制や制度のあり方が旧態依然としており国際的なイノベーション戦略になじまないということ、また、政策・行政研究、システム研究といった横断的な研究、提言が医療分野では不足してきたことが原因と考えられる。

日本の医薬品・医療機器産業の現状

 わが国においては、医薬品、医療機器企業を製造、販売・流通の面から規制する薬事法においては、新規の科学技術の成果を医薬品などに応用していくという道筋はなじまず、米国などのように臨床研究と治験とを一体化させたInvestigational New Drug (IND) 制度、Investigational Device Exemptions(IDE)制度が存在しないために、医療応用化は非常に困難である。このような規制環境と、また、保険制度による薬価等収載の必要性から、産業界にとっては新規のチャレンジや開発は複雑なものとなっている。ひいては、アカデミアと産業界が連携しての医療、健康分野におけるイノベーションが起きるチャンスが減ってしまうという大きな問題を抱えている。保険の点はさておき、少なくとも規制環境を改革していくことは最重要課題である。以下に、科学技術振興機構 研究開発戦略センター 臨床医学ユニットがこれまでの活動で提案した、2点の解決案を示す。

臨床研究司令塔の設置

 遺伝子組み換え技術の登場以来、ライフサイエンス分野では生命機能に重要な役割を担う遺伝子やタンパク質の構造や機能に関する研究が精力的に行われてきました。しかし21世紀に入り、急速な進展をみせるゲノム関連技術がこの分野の研究開発のあり方を大きく変えようとしています。この先、ライフサイエンス研究はどこに向かうのか? 本稿では科学技術振興機構研究開発戦略センター(CRDS)が行った最新の動向調査を基にライフサイエンスの来し方と今後を考えてみたいと思います。

免疫学の流れからみるライフサイエンス研究

 ここでは免疫学を例にライフサイエンス研究の動向をお示しします。

 図1は現在免疫分野で行われている研究開発を俯瞰(ふかん)的に示したものです。この図は当該分野の主要学会である日本免疫学会での発表内容を基に作成しております。このため基礎免疫学のほとんどの研究開発がこの図の中に投影されていると思います。ではこれを基に免疫研究の流れをたどってみたいと思います。

免疫分野俯瞰図
図1.免疫分野俯瞰図

 免疫に関する研究は、「感染症の2度なし原理」を科学的に解明したことに起源があるとされています。この原理の解明は1796年にエドワード・ジェンナーが人体において実験的に行った種痘を契機に始められました。その後ルイ・パスツールがこの現象の汎用性を確認し、ニワトリワクチンの予防接種を考案しています。そして19世紀には北里柴三郎らがこの免疫現象に血中のタンパク質である「抗体(抗毒素)」が関与していることを突き止め、これを機にさまざまな免疫反応に関係する細胞や分子が同定されました。さらに20世紀に入ると免疫学は分子生物学と融合します。これにより免疫関連分子の発現や制御に関する遺伝子レベルでの解析が盛んに行われるようになりました。

 図2は、このような免疫研究の流れを俯瞰図上に示したものです。この図から、免疫分野が対象とする生命体の構造が『個体』→『細胞』・『分子』→『組織』・『器官』→『個体』と変遷しているのが確認できると思います。すなわち18世紀に人の『個体』を対象に行われていたジェンナーらの研究が19世紀に入り免疫反応を担う『細胞』・『分子』の研究に移行し、20世紀は胸腺やリンパといった免疫に深く関係する『器官』に関する研究への取り組みがなされます。そして近年になると、それぞれの要素(分子や細胞、器官など)の関係性から免疫細胞や免疫システムの『個体』における統合的な理解に関する研究が行われるようになりました。このように、これまでブラックボックスとされていた「2度なし」を担う役者が次々と明らかになり、現在は免疫機構の全体像が徐々に明らかになりつつあります。

免疫研究の流れ
図2.免疫研究の流れ

 ではここで最近の研究動向をCRDSの「科学技術・研究開発の国際比較2008(ライフサイエンス分野)」報告書から確認したいと思います。

 近年の統合的な研究の流れは、例えば「システム免疫学」という概念提唱からも見て取れます。これは免疫細胞に内在する個々の分子の関係性を統合的に解析する研究や、免疫細胞同士の関係性から免疫システムの全容を明らかにする研究と定義できるでしょう。

 また免疫と他の分野との融合研究も統合の一つの流れと言えます。例えば、「神経・免疫・内分泌」の統合研究は、これまでそれぞれの関係性は認識されつつも、研究開発はほとんど実施されていませんでした。ところが近年は、それぞれの系を介在する因子が発見されたことなどから、これら3つの系の統合機構が分子レベルで徐々に明らかになりつつあります。

ライフサイエンス研究の流れ

 さて、これまで免疫研究の流れを簡単に紹介してきましたが、実は他のライフサイエンス研究にも同様の流れがみられます。すなわち、「発生」や「がん」、「脳」などの研究分野も、分子レベルで解明された個々の知見を統合し、ある現象を総合的に理解しようとする研究の流れが生まれつつあるのです。これは20世紀後半に提唱された「システムバイオロジー」の概念がライフサイエンス全体に浸透しているものと考えられます。

 では今後のライフサイエンス研究はどこへ向かうのでしょうか? その先の時間軸の設定が難しいところですが、CRDSではしばらくはこの統合的な研究の流れが続くと考えています。その理由は、生命現象があまりにも複雑であるために、そう簡単にはヒトの生命機能の全体像を理解することはできないと思うからです。このことは、これまでの精力的な研究開発にもかかわらず、ただ1つの細胞機能の全貌(ぜんぼう)すら明らかになっていないことからも容易に類推できます。

技術革新によって変貌するライフサイエンス研究

 ただ新たな技術革新がこの分野の研究の方向性を変える可能性は考えられます。CRDSが実施した動向調査の「注目される研究動向」の項には、可視化・計測技術、高速シークエンサー、ゲノム合成など多くの新技術が登場しています。これらの技術の進展によっては、生体内で起こっているあらゆる分子の反応を可視化したり、DNA合成により生命現象を再現したりするなど、新たな研究の潮流が生まれることはあり得るでしょう。

 またこのような新しい潮流を生むような研究開発には、情報科学や材料化学といった異分野の研究者の参画が必須となります。蓄積された膨大な生物情報から有用な情報を抽出するためには、計算機による解析技術が欠かせません。また生体分子の設計や機能評価には化学者の力が必要です。このようにライフサイエンス研究は、新技術の登場や異分野の研究者との融合によって従来にない新しい分野へと変貌(へんぼう)する可能性を秘めた魅力的な学問領域なのです。

参考文献)
科学技術振興機構研究開発戦略センター(CRDS)報告書「科学技術・研究開発の国際比較2008(ライフサイエンス分野)」

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