レポート

シリーズ「日本の安全と科学技術」ー 「地震防災」第3回「文化遺産は灰になったら戻らない -」

2012.06.01

土岐憲三 氏 / 立命館大学教授 歴史都市防災研究センター長

土岐憲三 氏(立命館大学教授 歴史都市防災研究センター長)

 文化遺産は次世代の人々に遺(のこ)すべきものであり、自分たちのものではありません。自分たちの時代が先人から貰ったものだと思うのが間違いです。この文化遺産の防災対策については、非常に僭越な言い方ですが、私が阪神・淡路大震災(1995年)をきっかけに始めました。今では、多くの人が「文化遺産防災」の意義を認めてくれており、さらに昨年からは「明日の京都 文化遺産プラットホーム」事業を新たに、ワンステップ進んだものとして始めました。文化遺産の防災の何が問題なのか、何をしてきたか、将来のために何をするのか、などについてお話し致します。

 実は、「防災の問題」と「文化財の問題」というのは、お互いに関係のない別世界の話だったのです。私たち防災関係の人間が「文化財」と聞いても、あんなところに近寄ったらやばい、敬して遠ざかり、近寄らないでおこうという思いでした。一方の文化財関係の人たちも「防災」「災害」について、あんなことは運が悪かった。たまたま起こったのだから(防災なんて)要らないわ。台風で宮島が水についた、室生寺の五重塔に大木が倒れかかったといっても、たまたま起こったことなんだから、まぁ、ええじゃないかと、個別の話で終わっていたのです。

 しかし、私は神戸の地震火災を見て京都の文化財の多さを考えたとき、これは違うぞと感じ、それなら私が「防災と文化財の間にある“死の谷”を埋めてやろう。あるいは埋めることは難しいなら、せめて橋をかけてやろう」と思い始めたのです。

 きっかけは阪神・淡路大震災の地震後の火災でした。あの日は昼からテレビ局につかまって、ヘリコプターで現地に行って、スタジオに帰ってきて放送して、また現地に行くということを、1日半も繰り返していました。そして、地震による火災の何と怖いことよ、と思っていたのですが、当時はまだ文化財への意識はありませんでした。国宝というのが一切焼けなかったのです。なぜか? それは被災地域に国宝がなかったからです。なかったら焼けるわけがありません。姫路城はもっと西の方だし、立派なお寺もずっと西の方です。

 ところが、そのとき京都で何が起こっていたのかと言うと、仁和寺と醍醐寺という極めて由緒あるお寺で、地下のパイプなどの消防施設が壊れてしまったのです。50㎞以上も離れた神戸の地震で壊れたということは、京都の近いところで起こったら全壊です。立派なお寺やお宮さんほど古くからこうした対策をしておりますが、その頃には耐震工学は存在していないし、地震のときは土地も地中も一緒に動くのだから、地震のことなんかは考えなくて良いだろうと、地下パイプに土管すら使っているのです。

 「寺社の地震対策は不十分である、これではあかん、ほっとけんぞ」と思ったと同時に、京都は、東西12〜3㎞、南北14〜5㎞しかないのに、そこに国宝や国指定の重要文化財などが密集していることに気が付きました。ここで神戸の地震と同じようなことがあったら、みな丸焼けになってしまいます。これを災害の専門家として黙っているわけにはいかない。気が付きながら黙っているのは逃げているのと一緒ですから、格好よくいえば「防災屋の責務」として、文化遺産の防災問題に手を付けたわけです。

危機に面する京都の文化遺産

 問題は何かというと、京都盆地では、昔はそうした文化遺産の周辺に人家なんてなかったのですが、今では完全に取り囲まれています。昔はお寺さんが自分のところから火が出なければ安全だったのですが、今やお寺さんから火が出なくても、外から火事がやってきます。すなわち、延焼です。その違いがたった100年の間に起ったのです。

図3. 京都の都市構造は120年で激変した

 しかし、何故、京都が問題なのか。日本の国宝建造物の分布をみると、8割が近畿の2府4県にあるのです。80%というのは、まさに寡占状態です。ところが、その2府4県に文化庁の出先機関はゼロです。国土交通省や経産省、農林水産省などは、それぞれに極めて多数の出先機関をもっていますが、文化庁はゼロなのですよ。さらに国家予算に占める文化に関する費用は、日本は0.13%、フランスは8.6%です。この数字は、国民一人一人が痛みを伴いながらも文化を大事にする心をどれだけ持っているかを示しており、フランスと日本はこれだけ違うのです。これで「日本は文化国家だ」なんて、よく言えたものです。

 さらに、建造物や彫刻、絵画、工芸、考古遺物など含めた国宝の数を都道府県別にみると、御三家は京都府、奈良県、東京都です。このうち国宝建造物は、東京都では東村山市にある「正福寺地蔵堂」が唯一でしたが、2年前(2009年)に「旧東宮御所(迎賓館赤坂離宮)」が新しく指定されて2件となりました。奈良県の場合は62件、京都府は48件もあります。要するに「文化財の防災」問題としては、人口に対して国宝建造物の少ない東京都では博物館や美術館に収蔵されているのでむしろ安全なのです。奈良も県内各所に散らばっていて比較的安全と言えますが、京都だけは高密度に集積していて、とても危険な状態なのです。

 どれだけ高密度か。京都にある国宝と国指定の重要文化財の数は、人口1000人に対して1.35の割合です。いわば密度です。これは他の政令指定都市に比べると、「文化財の密度」が12?13倍にもなります。政令都市ではないが文化財の多い奈良市でも、この密度は京都の4分の1ほどでしかありません。これが京都の特異性と重要性を示すもので、私が文化遺産の問題では常に京都の話をするのもそのためです。

 では、京都はどれだけ危険なのか。京都盆地の市街地の様子をみてみると、今や、隅から隅へと、べったり人が住んでいます。人が住めないところ以外はすべて人が住んでいます。ところが僅か120年ほど前、京都人の両親や祖父母の時代には、二条城より西側は全部田んぼでした。今の観光客が京都に来て最初に目にする国宝「東寺(教王護国寺)の五重塔」の周囲も田んぼでしたが、今やもう完全に人家に取り囲まれています。

 120年前には、外から火が来る延焼火災の心配はなかったのが、今やどこから火が出ても必ず巻き込まれてしまうような状況です。しかし、この危険性をだれも気がつかない、京都の人も。いくら話をしても「さよか」と言って聞く耳を持たないのです。今、多くの文化財が残っているのはすべて、延焼火災のない地域にあるから残ったのです。

京都市街の変遷と建造物の被災史

図4. 歴史的建造物の被災史
図4. 歴史的建造物の被災史
-市街化と文化遺産の消亡のアニメーション

もう少し歴史的に見てみましょう。実は京都盆地の市街地の変遷と歴史的建造物の被災の歴史の関連がビジュアルに理解できるようにと、年代に従って市街地図を次々と表示していく動画ソフトを作りました。

 ちょっと余談ですが、これが特許になったのです。大学の研究の一環としてやったものだし、私も取ろうと思ったわけではないのですが、ある情報処理関係の教授が「特許もんですよ」と勧めるから、弁理士に相談してみたら「3次元のGIS(地理情報システム)に時間軸を組み込んだ4次元の世界である」とか、うまいこと書類を作って、それが今年2月に特許になったのです。もう70歳を超えた人間がですよ。だから、若い人には「何やってるんだ」と檄(げき)を飛ばしているのです。

 このソフトで見るとよく分かるのですが、例えば「仁和寺」は西暦888年ごろに建立され、室町時代の「応仁の乱」(1467〜1477年)による大火災で焼失し、その後約160年間放っておかれて再建され、現在に至っていることが分かります。人々が住んでいる地域も西暦800年頃にはこの図示の範囲でしたが、時代を経るに従って東や北へと移っています。比較的安全な高台の場所へ移り住んでいるのですね。ところが戦国時代になると、京都からみんなが逃げ出しました。皆さんは平安時代から次第に人が増えて今の市街地へと広がったと思っているかもしれませんが、120年前までは平安京の東半分とその北半分にしか人々は住んでいませんでした。それが最近の100年程の間に爆発的に人が住み始めたのです。人が住み始めると京都盆地の周辺部に在るお寺さんにも火を運んできます。京都盆地内の寺社が火災で焼けた時期を赤で着色すると、1470年前後から赤色になる寺社が急に増えるのがわかります。これは「応仁の乱」によるもので、その頃から京都では大量に文化遺産を失っているのです。それと明治維新の「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」ですね。これは火災ではなく政治的混乱による破壊です。国家の宗教は神道だとして、後から入った仏教は「ぶっつぶせ」とばかりに、お寺さんを打ち壊したり領地を取り上げたりしました。京都では、この「応仁の乱」と「廃仏毀釈」の2回の出来事でたくさんの文化遺産が失われました。

 京都の文化遺産、国宝や国指定の重要文化財などは、皆さんは元から今のような姿で存在していたものと思っているらしいのですが、実は京都のものはほとんどが焼けた歴史を持っているのです。「法隆寺」はできてから十何年か経ってから焼けて、それから1300年ほど焼けていません。しかし、京都の東寺の五重塔は5回も焼けて、現存する塔は1644年に再建されたものを徳川家光が寄進しているのです。それから「内裏(御所)」も20回焼けています。「相国寺」も20回、「清水寺」も土砂崩れと合わせて20回ぐらいの自然災害を被っています。ほとんどのものがつぶれては造り替え、焼けては造り替えしているのです。

 再建したのは時の政治的権力者、あるいは宗教的権威が一般人からお金を集めて再建したのです。今は社会構造が変わり、復興を担える権力者がいませんし、国が宗教法人を支援することも日本国憲法で許されていません。所蔵している国宝級の美術工芸品は、国家が修復してもよいのかもしれませんが、要するに、文化遺産は灰になってはもう再建も修復もできませんから、失わないようにするしか手はないのです。

土岐憲三 氏
(とき けんぞう)

土岐憲三(とき けんぞう) 氏のプロフィール
1938年、香川県生まれ。1957年、愛媛県立新居浜西高校卒業。1961年、京都大学工学部土木工学科卒、1966年京都大学大学院工学研究科博士課程修了。同年京都大学工学部助教授、1976年同教授。1996年東京大学客員教授。1997年京都大学工学研究科長兼工学部長、総長補佐を経て2002年4月から現職。2003年から立命館大学教授 歴史都市防災研究センター長。2004年から総長顧問。2001年から内閣府中央防災会議「東南海、南海地震等に関する専門調査会」座長など。

関連記事

ページトップへ