レポート - 英国大学事情 -

2011年6月号「2002年のロバーツ・レビュー提言への進捗状況 -博士課程学生・研究職員のキャリア開発-」

掲載日:2011年6月1日

英国在住30年以上のフリーランス・コンサルタント山田直氏が、新しい大学の生き方を求め、イノべーション創出、技術移転などに積極的に取り組む英国の大学と、大学を取り囲む英国社会の最新の動きをレポートします。(毎月初めに更新)

 

 

【1. はじめに】
  • 2001年、英国政府はシェフィールド大学学長などを歴任後、オックスフォード大学Wolfson College学長であった物理学者のSir Gareth Roberts教授に、英国における科学と工学の技能供給に関する調査報告を委嘱した。2002年には、そのレビュー報告書「SET(*1) for success」(通称ロバーツ・レビュー)が発表され、その後の英国の科学技術政策に大きな影響を与えた。この報告書では、科学、工学、技術、数学の技能の持つ人材の供給を増やすために、研究者のキャリア開発および一般社会や企業でも通用するような「転用可能な技能:transferable skills」への訓練の改善が強調された。
  • この提言を受けて、7つのリサーチ・カウンシルのまとめ役でもあるリサーチ・カウンシルUK(RCUK)は、過去7年間に研究者のキャリア開発のために総額1億2,000万ポンド(162億円(*2))の助成を行ってきた。この助成プログラムが2011年3月に終了するのを機会に、RCUKはこれまでの投資効果と進捗状況を検証するため、Alison Hodge教授を座長とする中立的立場のパネリスト・グループに調査報告を委嘱した。
  • 2011年1月、その見直し報告書「Review of progress in implementing the recommendations of Sir Gareth Roberts, regarding employability and career development of PhD students and research staff」、通称「ホッジ・レビューが公表された。
  • 英国では「ロバーツ・レビュー」以来、博士課程学生や研究スタッフに対するキャリア訓練が重要視されており、英国大学事情でもインペリアル・コレッジの事例など、たびたび取り上げてきたテーマではある。今月号ではこの50ページ近い「ホッジ・レビュー」報告書から、英国の博士課程学生や研究職に対するキャリア開発の現状と今後の課題を抜粋して紹介してみたい。

 

 

【2. キャリアと技能の開発メカニズムとアプローチ】
  • リサーチ・カウンシルUK(RCUK)は、2003年度から博士課程学生および研究スタッフのキャリア開発と一般社会でも通用するような転用可能な技能の訓練のために、大学やリサーチ・カウンシル所属の研究所などに対して年間2,000万ポンド(27億円)の助成を実施してきた。RCUKでは、常時15,000人の博士課程学生と10,000人の研究スタッフに助成してきたため、博士課程学生および研究スタッフの4分の1が、一人当たり年間約800ポンド(約11万円)の助成を受けたことになる。
  • その他の多くの博士課程学生や研究スタッフもチャリティ機関、国際機関または企業から助成を受けたり、場合によっては自己負担でキャリア開発訓練を受けている。
  • RCUKによるこれらの助成金は、通称「ロバーツ・マネー」と呼ばれ、博士課程学生と研究スタッフの数に基づき、各研究機関に配分されてきたため、研究機関によって助成額の大きなばらつきも生じていた。
  • 助成金は各研究グラントに含まれずに、別途に特別ファンドから配分されたため、重点的助成やコーディネートされた助成活動を可能にした。その後、研究機関の中には同様の助成制度を個別に導入したため、重複した助成も見受けられるようになった。
  • 助成開始時における各種の基準値が不明確であったため、定量的に進捗状況を把握するのが困難であった。
【提言1】
転用可能な技能やキャリア開発に対する今後の助成は、目標を明確に定めて実施すると共に、助成開始時の起点を明確にした上での進捗をモニターできるようにすべきである。
  • 汎用的な技能訓練とその必要性のプロファイルを高めるため、研究グラントに含めずに、独立した助成を実施することが重要であった。
【提言2】
RCUKは、大学や関係機関に有効なメカニズムを利用しながら、今後も転用可能な技能開発を促進し、研究者のキャリア開発を支援するために特別枠による独立した助成制度やその他のイニシアティブを継続していく必要がある。

【提言3】
すべての助成機関は、博士課程学生や研究スタッフの技能・キャリア開発に対して、直接的、間接的な資金面での貢献をすべきである。

  • 研究機関は、汎用的技能への訓練やキャリア開発を支援するための専門知識や経験を持つスペシャリストを任命することが肝要である。
【提言4】
将来的に助成制度の変化があっても、大学などの研究機関は転用可能な汎用的技能訓練や研究者のキャリア開発を維持・支援するという、特別な役割を担い続ける必要がある。
  • 各研究機関によって、支援へのアプローチやメカニズムが大きく異なっている。
【提言5】
研究機関は、研究者をより効果的に支援するためにベスト・プラクティスを共有し、重複を省く方法を見いだす努力をすべきである。
  • 当レビュー・パネルは、戦略の設定や技能訓練プログラムの開発の際に、研究機関や企業などとの間の継続的な連携がまだ十分に進展いないことに大きな懸念を抱く。大学や企業などへの雇用可能性(employability)は、「ロバーツ・レビュー」における各種提言の主要な動機であり、現在でも非常に重要な課題でもあることから、外部の企業や関連機関との連携の欠如はRCUKの助成活動の可能性を損なうことになる。
【提言6】
雇用者のニーズは転用可能な技能の訓練開発の原動力であるため、研究機関、企業、Vitaeなどの関係機関は、体系だった、より頻繁な交流関係を構築すべきである。また、そのためのメカニズムやそれに対する障害を見いだし、改善していく必要がある。

 

 

【3. 現在と将来におけるVitaeの役割】

【Vitae】

  • Vitaeは、大学およびその他の研究機関における博士課程学生や研究スタッフの専門知識やキャリアの開発・訓練などを支援するための公的な全国組織であり、RCUKが運営資金を助成している。なお、RCUK傘下の最大規模のリサーチ・カウンシルである工学・物理科学研究会議(EPSRC)が、他の6つのリサーチ・カウンシルのための関連業務を担当する。
  • Vitae本部の下に、ハートフォードシャー、キングス・コレッジ・ロンドン、ウォリック、マンチェスター、エディンバラ、サセックス、カーディフ、リーズの8大学内に地域ハブを設置している。
  • Vitaeは、特に以下の活動に対して重要な役割を果たしている。
    • 大学や研究機関間の研究者のキャリア開発連携活動の仲介役
    • キャリア開発事例のデータベースの構築とベスト・プラクティス共有化の促進
    • 研究者を訓練する専門家集団の構築
【提言7】
Vitaeは研究者のキャリア開発の進捗状況をモニターし、一般社会でも通用する汎用的技能の有益性を広めるための中立的な仲介役としての役割を今後も担っていくことになる。
研究機関と企業などの雇用者との連携があまり進んでいない現状を鑑み、Vitaeは高等教育機関と企業などの雇用者、リクルートメント事業者、スペシャリストの協会や業界団体との間の仲介役としての役割にも力を入れていくべきである。

 

 

【4. インパクト】

【研究機関へのインパクト】

  • 多くの研究機関では、転用可能な技能開発に対する意識が以前に比べて高まっている。現在では、多くの研究者が企業などの一般社会でも利用できる汎用的技能への訓練が、アカデミックの世界に残るか否かにかかわらず、自らのキャリアに非常に有益であると認識するようになった。

 

【博士課程学生へのインパクト】

  • 「ロバーツ・マネー」は、博士課程学生への訓練の性格に大きなインパクトを与えた。英国の大学などの研究機関において、雇用市場に博士課程修了者を送り出すための準備の一環として、キャリア開発や転用可能な技能訓練が博士課程修了者の持つべき重要な要件の一部として認識され始めた。もちろん博士号の主要な要素として、研究訓練や研究プロジェクトの重視という伝統的な要素を維持しつつ、このような成果を挙げることができた。

 

【研究スタッフへのインパクト】

  • 博士課程学生に比べて、研究スタッフへのインパクトは小さかったように思われるが、「ロバーツ・マネー」はキャリアとしての研究のプロフェッショナリズムを高めるのに大きなインパクトを与えた。研究スタッフに継続専門訓練への意識を高め、研究スタッフが得た汎用的な転用可能な技能が研究活動にも役立ったとの報告もあった。

 

【企業等へのインパクト】

  • 大学や研究機関以外の企業などの雇用者には、「ロバーツ・マネー」のインパクトがあまり見いだせない。特に大学に残らずに外部に就職した研究者の仕事への準備不足が指摘されている。この原因としては、「ロバーツ・マネー」によって訓練された博士号取得者が労働市場に出たのは最近の2-3年のことであるとともに、キャリア開発や転用可能技能訓練プログラムの開発に企業等の雇用者の参画が少ないことも考えられる。

 

【5. 国際比較】

  • 興味深いことに、英国における研究者のキャリア開発活動への高い評価は海外から寄せられている。各国またはEUレベルでの同様なイニシアティブは存在しているが、英国は国際的に見て、転用可能な技能訓練の開発やキャリア開発の主導的立場にあると認識されている。特に、研究者の技能開発を博士課程の重要な要素の一部として組み込む動きは、国際社会から大きな関心をもたれている。
  • 英国では、研究者のキャリア開発プログラムを「ポスドク」研究者にまで拡大しており、諸外国より一歩先んじた活動を実施している。しかしながら現在では、海外諸国も研究者の訓練活動に力を入れ始めており、英国のリードは脅かされている。英国は海外の動向も注視し、海外におけるベスト・プラクティスの事例からも学ぶことも必要である。

 

【EUの事例】

  • 2001年以来、ECはEuropean Research Area (ERA)の設定の要件の一部として、研究者のキャリア開発を重要視してきた。2008年には、欧州大学協会(European Universities Association)が、欧州内における博士課程プログラム内容の近年の大幅な変化を受けて、「Council for Doctorate Education」を設置した。同カウンシルの目指す方向は、2002年の「ロバーツ・レビュー」で提唱されたような、一般社会でも通用する汎用性があり、転用可能な技能の重視である。

 

【米国の事例】

  • 博士課程学生に比べて、研究スタッフへのインパクトは小さかったように思われるが、「ロバーツ・マネー」はキャリアとしての研究のプロフェッショナリズムを高めるのに大きなインパクトを与えた。研究スタッフに継続専門訓練への意識を高め、研究スタッフが得た汎用的な転用可能な技能が研究活動にも役立ったとの報告もあった。

 

【企業等へのインパクト】

  • 2010年に、The Commission on the Future of Graduate Education in the United Statesが発表した報告書「The Path Forward - The Future of Graduate Education in the United States」は、博士号取得者の人数と質を維持するために、博士課程教育の大幅な変更の必要性を説いている。この報告書は産業界の代表者と学者によって作成されているが、米国の博士課程教育の性格を、大学や研究機関以外の雇用者のニーズに対応するような形にしなければならないとしている。また、汎用的で転用可能な技能の必要性についても言及されている。
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  • この米国の報告書には、以下のような、英国の制度にも言及したコメントがある。
    • 米国の大学院教育の強みの多くは、博士課程レベルに相当する徹底した研究訓練と専門的能力の開発を含む強固な修士課程教育の提供からくるものである。しかしながら、米国の博士課程教育には十分な専門的能力の開発が含まれていないことが多い。世界各国も伝統的な博士課程教育において、これらの不足を認識し始めており、いくつかの国では、このギャップを埋めるために政府による助成を始めている。
    • 最良の事例は、英国のロバーツ・レビューの結果として誕生したVitaeプログラムであろう。現在、米国政府の助成プログラムには英国のような制度がないため、米国の大学院が英国で実施されているような機会を米国の博士課程学生に対して提供できるように努力すべきである。
    • 米国の大学や研究機関の中にはこの方向に動いている事例も見受けられるが、このような専門的能力開発がすべての博士課程学生向けの教育の一環となるべきである。
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  • また同米国報告書は、米国の世界競争力を維持するために、米国の大学などの研究機関は、以下を含む専門的能力開発プログラムを構築すべきであるとしている。
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  • この米国の報告書には、以下のような、英国の制度にも言及したコメントがある。
    • コアの専門的領域の研究に併せた「創造力」と「企業家精神」の開発の奨励
    • 自己組織化(self‐organization)やキャリア開発の技能を含む、個人的影響力(personal effectiveness)の改善
    • プロジェクト・マネージメント能力、財務の理解力および資金調達とリソース管理能力の開発
    • 高度な職業倫理と研究倫理のフレームワークの育成
    • コミュニケーション、チームワークおよび研究成果のより大きな集団や社会的な目的への応用などを含む、研究インパクトを高める技能の開発の奨励
【提言8】
英国の博士号取得者の価値を、国内外に広範囲に広めることが重要である。また、研究者の技能開発に関する国際的な活動を常にモニターし、そのモニター結果を研究機関、RCUKおよびVitaeの間で共有することも肝要である。

 

 

【6. 定着と持続に向けた進展】

  • 将来を考えた場合、研究者の技能の開発にはさまざまな形態があると同時に、熱心な研究者やグループもいれば、不熱心または支援をあまり受けられない研究者も出てくるであろう。したがって、今後も特に研究者の転用可能な技能の訓練への助成は継続していかねばならない。この継続には専門スタッフが必要であり、研究機関はたとえ助成制度が変化しても、それらの専門職を今後も維持し続けるべきである。
  • 特に、研究スタッフ向けのキャリア開発と技能訓練への支援が、いまだにスタッフ教育の一部として十分に定着していないため、将来的な継続が危惧される。研究機関はすべてのスタッフの専門的能力の開発を支援する責任を負っているため、スタッフ教育の実践と経営の品質は、表裏一体として、研究機関の通常の人材開発政策の一部であるべきである。
  • 結論として、当レビュー・パネルは博士課程学生およびポスドク段階における研究技能の開発に進捗があったことを認めるが、さらなる展開を期待する。特に、その成功と価値をより広めていく必要があると同時に、企業などの外部組織の参画をより促進すべきである。
【提言9】
研究者への汎用的技能訓練とキャリア開発教育を安定的に提供するため、すべての研究機関は博士課程学生への適切な指導、人材政策を通じたすべての研究スタッフへのキャリア開発教育などへの適切な行動を見いだしてそれらを奨励するとともに、それらの政策が持続するようにすべきである。

 

 

【7. 筆者コメント】

  • 2002年に発表された「ロバーツ・レビュー」の各種提言を受けて、英国政府はリサーチ・カウンシルUKを通じて過去7年間で約160億円の予算をつけ、博士課程学生やポスドク研究者向けに、一般社会でも通用するような汎用的で転用可能なリーダーシップやコミュニケーション能力などの技能訓練やキャリア開発への助成を実施してきた。
  • その助成プログラムがいったん2011年3月で終了することから、今回の「ホッジ・レビュー」による過去7年間の進捗状況の検証と今後への提言となった。なお、今後のRCUKによる技能訓練やキャリア開発への助成は政府の緊縮財政予算の影響を受けるため、従来のように長期にわたって助成額が保障される特別助成枠(ring-fenced)は廃止となるが、通常の研究助成予算による助成は継続される予定である。
  • この背景には、大部分の博士課程卒業生が大学に残らずに、民間企業などに就職していく現状を鑑み、博士課程卒の学生がアカデミックの世界の外でもその力を十分に発揮して、英国の総合的国力を高めるという国策がある。「英国大学事情2010年第8号」でも紹介したように、英国のCouncil for Industry and Higher Educationのアンケート調査やインタビュー調査に応じた多くの大手企業は、大学院卒業者の持つ深い専門知識を評価はするが、それだけでは企業ではあまり役に立たないという、厳しい注文も付けている。
  • このような博士課程学生を含む研究者向けの汎用的で転用可能な技能やキャリア開発への訓練の動きは海外でも出ており、EUでも公的助成による研究者の訓練活動に力を入れ始めている。米国においては政府レベルでの助成は存在しないようであるが、各大学ベースでの同様の活動が奨励されているのは興味深い。英国では、研究者のキャリア開発プログラムをポスドク研究者にまで拡大しており、海外諸国より一歩先んじた活動を実施している。

 

 

注釈)

  • *1 ここで言うSETとはScience, Engineering, Technologyを指すが、Mathematicsも含む。
  • *2 1ポンドを135円で換算
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