レポート - 英国大学事情 -

2009年8月号「理工系博士課程学生向け訓練 - 工学・物理科学研究会議(EPSRC)による助成事例」

掲載日:2009年8月1日

英国在住30年以上のフリーランス・コンサルタント山田直氏が、新しい大学の生き方を求め、イノべーション創出、技術移転などに積極的に取り組む英国の大学と、大学を取り囲む英国社会の最新の動きをレポートします。(毎月初めに更新)

 

【1. はじめに 】

2008年12月、英国の科学・イノベーション担当大臣は、公的研究助成機関の一つである工学・物理科学研究会議(EPSRC)が気候変動、エネルギー、高齢化社会、ハイテク犯罪など、英国が直面する学際的な諸課題に取り組む人材育成のために、今後5年間で総額2億5,000万ポンド(400億円(注1))の予算で、各大学内に44カ所の理工系の博士課程学生訓練センター(EPSRC Centre for Doctoral Training)を新設すると表明した。今後5年間で、2,000人以上の理工系博士課程学生の訓練を行う計画である。今回発表された取り組みは、科学者やエンジニアを目指す博士課程学生向けの訓練助成プログラムとして、英国では過去最大規模となる。

EPSRC博士課程学生訓練センターは通常の理工系博士課程(PhD)コースとは異なり、各センターが採用する毎年10人ほどの学生が、例えばエネルギーや高齢化問題などの課題について、個人ごとの研究ではなくチーム・ワークによる学際的研究によって問題を解決する訓練を受ける点に特徴がある。EPSRCが助成する理工系博士課程学生の約半数が大学以外の企業などに就職すると予想され、これらの技能は企業でも幅広く活用できることが期待されている。

今月号では、このEPSRC博士課程学生訓練センターの中から、将来、産業界に就職を希望する理工系博士課程学生のための訓練センターである「Engineering Doctorate and Industrial Doctorate Training Centre」を中心としたその概要と個別事例としてサザンプトン大学の例を紹介する。

 

【2. EPSRC博士課程学生訓練センター 】

EPSRCの公募を経て大学内に新設される44カ所の各EPSRC博士課程学生訓練センターは、EPSRCから5年間で500万ポンド(8億円)から800万ポンド(約13億円)の助成金を受け、年間約10人の新規の学生を受け入れる予定である。この44センターのうち、17センターはアイデアを製品やサービスに転換するのに必要なビジネス・スキルを理工系博士課程の学生に身につけさせるための「Industrial Doctorate Training Centre」となる。

【訓練センターの種類】

EPSRC博士課程学生訓練センターには2種類あり、一つは通常の理工系博士課程(PhD)の学生を訓練するための博士課程学生訓練センターである「Doctoral Training Centre」であり、もう一つは企業への就職を望む理工系博士課程学生を訓練するための「Engineering Doctorate and Industrial Doctorate Centre」である。

訓練コース参加学生には、EPSRCからの所得税免除の15,000ポンド(240万円)程度(研究分野やコースによって多少異なる)の生活費補助金や大学からの授業料免除などの助成がある。Engineering Doctorate and Industrial Doctorate Centreの訓練コースの参加学生には、このほかにスポンサー企業からの補助金も支給される。

A. Doctoral Training Centre

  • 4年間の通常の理工系博士号(PhD)課程の学生を訓練するためのセンターであり、初年度は研究プロジェクトを決定するための予備期間であり、2年度目からチーム・ワークによるPhDレベルの学際的研究プロジェクトに取り掛かる。
  • 4年間のコースのうち、最大25%は技術的な学際知識と技能を広げるための講義形式の授業を受講し、75%はPhDレベルの研究プロジェクトに従事する。
  • 知識の幅を広げるための活動および市民参加活動(public engagement)を含む、企業などでも活用できる移転可能な汎用的技能の訓練を行う。

B. Engineering Doctorate and Industrial Doctorate Centre

  • 産業界に就職を希望する学生を対象とした4年間の博士課程コースであり、学生は技術および経営に関する訓練を受け、終了時には「工学博士:EngD」という特別な博士号が授与される。
  • 学生はコース全体の約75%の時間をスポンサー企業のために振り向け、大学とスポンサー企業の両方の指導を受けながら、スポンサー企業に貢献するためのPhDレベルの研究を行う。
  • 2009年度から新たに導入される「Industrial Doctorate」コースは、従来の「Engineering Doctorate」コースの名称を変更したものであり、EngDコースと同様に工学博士(EngD)の学位が授与される。

 

【3. Engineering Doctorate(EngD)の概要 】
  • 将来的には企業への就職を希望し、PhDレベルの資格を目指しながら企業での研究もしたいという学生を支援するために、EPSRCは1992年に「EngD」という工学博士号の資格を導入し、そのための訓練支援活動を開始した。その主目的は、有能な理工系の人材を、そのキャリアの早期段階で企業のシニア・マネージメントの職に就かせることにある。
  • 通常のPhDコースの学生は「研究学生」とは呼ばれるが、EngDコースに参加する学生は「リサーチ・エンジニア」と呼ばれ、大学およびスポンサー企業の両方のスーパーバイザーによって指導される。
  • 1992年の発足以来、2007年までに14大学に22のEngD訓練センターが設置され、合計1,230人のEngD学生(リサーチ・エンジニア)が参加した。また今までに、510社以上の企業がスポンサーとなっている。
  • EngDコースは企業と学生双方のニーズによって生まれたものであるが、大学にとっても利益は大きい。
  • 通常の博士号のPhDコースと異なる点は、EngDコースの学生(リサーチ・エンジニア)にはスポンサー企業がつき、コース全体の約75%の時間をスポンサー企業が抱える問題を解決する研究プロジェクトに従事する点にある。残りの25%は大学で、エンジニアリング・デザイン、環境関連法制度、財務管理、リーダーシップなどの特別な技術科目や専門能力開発科目を受講する。
  • EngDコースの学生には、EPSRCからの所得税免税の生活費補助金や授業料免除などの支援と共に、スポンサー企業からの補助金も支給される。

【産業界からのコメント】

  • BAE Systems社・技術プログラム責任者
    「当社は工学的な理解、ビジネス・スキルや市場への認識を持つ優れたシニア・マネージャーを必要とする。EngDプログラムはこのようなニーズを満たす」。大手航空宇宙企業であるBAE Systems社はクランフィールド大学、ウォリック大学、サザンプトン大学などの訓練センターのEngD学生をスポンサーしている。
  • Arup社・研究担当ディレクター
    「当社のような企業には、持続可能な環境デザインにさらなるイノベーションをもたらす技能を持ち、高度な資格を有する多くの科学者が必要である。また、われわれが必要とする科学者は、企業がどのように機能しているのか、最良のアイデアをいかにして事業として成り立たせるのかなどを理解する必要がある」。世界的コンサルティング・エンジニアリング企業であるArup社がスポンサーとなっている訓練センターはレディング大学に設置され、「ゼロ・カーボン・ビルディング」をテーマとしている。

【2009年度新設又は更新予定の44カ所のEPSRC博士課程学生訓練センター】

設置大学 研究分野
バース DTC:持続可能な化学技術
IDC:デジタルメディア・特殊効果・アニメーション
バーミンガム DTC:水素・燃料電池
IDC:フォーミュレーション・エンジニアリング
ブリストル DTC:化学合成、先端複合材料、機能性ナノ材料
IDC:システムズ
ケンブリッジ DTC:ナノサイエンス
IDC:機能性ナノ材料・ナノデバイスの組み立て
クランフィールド IDC:英国の水資源産業
ヘリオット・ワット IDC:フォトニクス技術
インペリアル・コレッジ DTC:量子力学、材料の理論とシミュレーション、プラスティック電子材料
ランカスター DTC:デジタル・エコノミー
リーズ DTC:低炭素技術
ラフバラ IDC :建築エンジニアリング
マンチェスター DTC:核分裂研究、ナノサイエンス
IDC:原子力工学
ニューキャッスル IDC:バイオ医薬品プロセス
ノッティンガム DTC:デジタル・エコノミー、化石エネルギー効率的発電および炭素捕捉技術
オックスフォード DTC : バイオメディカル・エンジニアリング、システム・バイオロジー
IDC:バイオメディカル・サイエンス
クウィーン・メリー DTC:デジタル音楽・メディア
レディング DTC:持続可能な建築環境技術
シェフィールド DTC:先端的金属システム、学際的エネルギー研究
サザンプトン DTC:複雑なシステム・シミュレーション、ウェブ・サイエンス
IDC:輸送と環境
セイント・アンドリュース DTC:凝縮系物理学
ストラスクライド DTC:風力エネルギー・システム
サリー IDC : マイクロ・ナノ材料、工学とエネルギー・システムの持続性
UCL DTC:財務へのコンピューターの利用、フォトニクス・システム、セキュリティー・サイエンス
IDC:バイオプロセッシング・エンジニアリング、分子モデリング・材料科学、バーチャル環境・イメージ、都市の持続性

 

 

【4. Industrial Doctorate Centreの概要 】

サザンプトン大学の事例によって、Industrial Doctorate Centreの説明を補足する。

  • 1999年から、サザンプトン大学は「輸送インフラの知識とシステム」をテーマに、EngD課程学生(リサーチ・エンジニア)を訓練するEngineering Doctorate Centreを運営しているが、2009年からはより学際的な「輸送と環境」というテーマでIndustrial Doctorate Centreを運営することになった。2009年10月から、毎年10人の新たなリサーチ・エンジニアを5年間にわたり公募する。
  • リサーチ・エンジニアは、英国企業または英国に研究拠点をもつ外国企業をスポンサー企業とし、4年間のコースのうち約75%(3年間)はスポンサー企業の直接的利益となる研究活動に従事し、残りの25%は大学でPhDコース・レベルの工学モジュールの講義を受ける。
  • 通常、リサーチ・エンジニアは最初の2年間は大学を拠点として活動し、残りの2年間はスポンサー企業内で研究活動を継続するが、スポンサー企業の希望によっては柔軟な対応が可能である。
  • 各リサーチ・エンジニアには、大学のスパーバイザー・チームとスポンサー企業の担当指導者(mentor)がつく。大学のスーパーバイザーと企業の担当指導者が協議の上、研究テーマを決定する。
  • リサーチ・エンジニアには、EPSRCから所得税免除の生活費補助金(stipend)として年間14,400ポンド(約230万円)が最低額として支給されるほか、スポンサー企業からの補助金の支給や大学からの授業料免除などの支援も加わる。

【スポンサー企業】

  • スポンサー企業はリサーチ・エンジニアに対して、企業環境の中で研究する機会を提供するという、訓練に重要な役割を果たす。企業にとっても、優秀な大学院生が事業に直結した研究に従事し、大学の研究施設にもアクセスできるなどのメリットがある。その上、企業が将来のマネージャーやリーダーになる可能性のある有能な人材を早期に見つけ出す機会ともなる。
  • スポンサー企業からの補助金の額は、研究分野や企業によって異なる。2008・09年度のスポンサーシップの最低条件は、年間8,500ポンド(136万円)を4年間継続して支給することであるが、需要の多い研究分野ではこれ以上の額が支給される。一般的に企業のスポンサーシップの額はリサーチ・エンジニア1人あたりの合計訓練費用の25%であり、残りの75%はEPSRCからの生活費補助金や大学からの授業料補助金などによって賄われる。なお、リサーチ・エンジニアが企業に出向している期間中は、リサーチ・エンジニアの出張費や手当てなどはスポンサー企業の従業員と同等に扱われる。
  • 民間企業がスポンサーとなるため、プロジェクトの定義と研究活動の範囲を規定する早期の段階において、知的財産権に関する取り決めをしておくことが重要となる。

 

【5. 筆者コメント 】

今回のEPSRCによる大型の博士課程学生訓練プロジェクトには、90以上のショートリストの中から44テーマが採択された。全国各地の20以上の大学のテーマが幅広く採択されており、いわゆるトップ大学だけに集中していないのが特徴である。

スポンサー企業探しは、多くの場合、学部やアカデミックスが持っている既存のコンタクトを通じて行われるが、リサーチ・エンジニアを希望する学生自身がスポンサー企業を探し出し、独自で研究テーマの提案ができることが望ましいとされている。学生の自立心とリーダーシップを訓練コースに参加する前から養うことを目的としていると思われる。英国では働きながら大学や大学院に学ぶ学生が多く、現在勤務している企業がスポンサー企業になる場合もある。

EPSRCが助成する博士課程学生の半数以上が大学以外の企業などに就職すると予想されている。EPSRC博士課程学生訓練センターはチーム・ワークによる学際的研究によって問題を解決する訓練を受けるため、その訓練成果はアカデミックスとして大学に残る場合にも、また企業に就職する場合にも幅広く活用できると思われる。「英国大学事情2008年12月号」でも紹介したように、英国の大学の博士課程コースでは、このような「汎用的な移転可能な技能」の訓練にも力を入れている。

 

注釈)

  • *1 ポンド: 当レポートでは、1ポンドを160円にて換算した。
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