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特集:『限界』を科学する

掲載日:2012年12月10日

『限界』を科学する
  • 私たち人間は限界を突破したいという衝動を持っているようだ。わかりやすい事例はスポーツ。今夏のロンドンオリンピックでは数多くの世界記録が更新され、「人類最速の男」ウサイン・ボルト選手らメダリストの活躍に人々は熱狂した。そのオリンピックが始まる少し前、万物に質量を与えるヒッグス粒子とみられる新粒子が発見された。知の限界を打ち破る画期的な研究成果で、それ故に、このニュースは物理学者はもちろん一般の人々の高い関心を集めた。ヒッグス発見のため人類は一周約30kmもある巨大なリング状加速器を建設、1万人近くの研究者が実験に加わっている。ノーベル賞が世界的ニュースとなるのは知の限界への挑戦に、私たちが高い価値を見いだしている証しだ。(文中敬称略)

    今号の特集「『限界』を科学する」では様々な壁に挑む研究の最前線を紹介する。プロローグ「人間は限界に挑む」では、そのタイトル通り、進化の観点から「限界に挑み続ける人類」を考察している。私たちは科学をツールとして限界に挑んでいるが、生物学と神経科学を研究する著者のR.M.サポルスキー(米スタンフォード大学)によれば、科学は「常に向上したいと願う人間に特有の衝動が表れた究極の形」。そして科学の登場によって人間は「目に見えない小さなもの」や「呼吸もしなければ動きもしないもの」「空間的にも時間的にもかけ離れたところにあるもの」について強い関心を持つようになったと説く。

    このうち究極の微小世界への挑戦を扱っているのが「量子の限界を覆す」だ。量子の世界での物質の奇妙な振る舞いを説明する量子論はかつて、知の限界を語る理論だと思われていた。しかし、量子論を用いて情報科学のフロンティアを開拓するD.ドイチュ、A.エカート(ともに英オックスフォード大学)によれば、そうした認識はまったくの誤り。量子世界は豊穣かつ複雑で、計算機の能力を飛躍的に引き上げる新技術ををもたらすだけでなく、抽象世界における新たな知識をも生み出しているという。

    その抽象世界の象徴である数学分野の難問中の難問を紹介するのが「P対NP問題と知の限界」。P対NP問題は、20世紀が生んだ2人の数学の天才、K.ゲーデルとフォン・ノイマンの間の手紙のやり取りから始まった。その後、数十年に及ぶ研究でも証明できていないが、この問題は生物の進化や物理法則、知識の本質に基本的な限界があることを示唆しているという。

    P対NP問題もそうだが、科学の世界には数十年では到底、解決が難しいとみられる研究テーマがゴロゴロある。では時間の限界を設定せず、好きなだけ時間をかけることができるとすればどうか? 「100万年かければわかること」では、各分野の第一線の科学者に、人生が数千年、さらには1万年以上あったらどんな観測や実験ができるかを尋ね、そのコメントをまとめて紹介している。生命の誕生や自然定数の変化、巨大地震の発生頻度、種の進化、陽子の寿命などバラエティーに富んでいる。

    こうした知の限界への挑戦では、もっぱら私たちの脳が活躍することになるが、脳自体も謎に包まれた内的世界だ。私たちは目覚めている時は意識があり、眠っている時は意識がないと思っているが、実はそうした明確な線引きはできないことが「睡眠者の殺人 意識と無意識の境界を問う」を読むとわかる。

    一方、技術開発に目を転じれば進歩のスピードは文字通りの日進月歩だ。「フロンティアを開く10の技術」ではテクノロジーの限界を押し広げる代表的なプロジェクトをイラストで紹介している。ここ10年で発展が著しいのは情報技術だが、この分野の中で近い将来、大きく育ちそうなのが人間の脳と外部の情報システムとの融合、いわゆるブレイン・マシン・インターフェースだ。「脳で動かすパワースーツ」では、歩行が困難な人が全身を覆う人工装具「エクソスケルトン」を自身の脳波で制御して、自由に歩き回れるようになる技術を紹介している。神経科学者の著者、M.A.L.ニコレリス(米デューク大学)らは2014年に開かれるサッカー・ワールドカップ・ブラジル大会で、エクソスケルトンを装着した10代の障害者に記念すべきファーストキックを蹴ってもらうプロジェクトを進めている。

    しかし、技術文明により限界に挑戦し続ける人類の活動は今や地球全体に大きな影響を及ぼし始めている。「気候変動の果て」では、地中から掘り出せなくなる時まで化石燃料を加速度的に燃やし続けた先の世界を描き出す。最終的には恐竜が闊歩していた中生代白亜紀の気候が再来することになるが、その過程で最初に深刻な影響を受ける生物は我々、人類だと著者のK.カルデイラ(米カーネギー研究所の気候学者)はみる。そうした世界になるのを防ぐのも人類にとっての大きな挑戦だ。

    特集の最後では、人間の進化の限界に挑む話題を2つ取り上げる。「知能は伸び続けるか」では知能指数(IQ)のスコアが過去100年にわたって着実に上昇を続けている状況を紹介、抽象的な思考を必要とする現代の社会生活がその背景にあると指摘する。先進的な知性は技術を生み出し、それがさらに知性を高めるフィードバックが起きているという。

    「人生100年時代」によれば、平均寿命を100年以上に延ばすための長寿研究には2つのアプローチがある。1つは病気を治癒し、傷んだ身体のパーツを幹細胞によって置き換える戦略、もう1つは細胞レベルや分子レベルで進む老化のプロセスを減速させる戦略だ。今から100年後の人々は、現在の私たちの平均寿命を「気の毒なほど短かかった」と考えるようになるかもしれないという。

 

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