オピニオン

誰のための福島県民健康調査?(上 昌広 氏 / 東京大学医科学研究所 特任教授、医療ガバナンス学会 MRIC メールマガジン 編集長)

2012.10.26

上 昌広 氏 / 東京大学医科学研究所 特任教授、医療ガバナンス学会 MRIC メールマガジン 編集長

東京大学医科学研究所 特任教授、医療ガバナンス学会 MRIC メールマガジン 編集長 上 昌広 氏
上 昌広 氏

 福島県が実施している県民健康調査の在り方が話題を呼んでいる。

が主導して、事前に見解をすり合わせていたことを報じたからだ。他紙やテレビ局も追随し、多くの国民が「福島県の隠蔽体質」を認識した。

 筆者は震災以降、福島県浜通り地方で医療支援を継続しているが、福島県民、特に浜通り地方の住民は、福島県や政府のことを全く信用していない。福島県に協力している医師・研究者に対しても同じである。なぜ、このようになってしまったのだろうか。

 本稿では環境省、および福島県が計画中の県民ゲノム調査を例に考えてみたい。県民健康調査の一環として行われる事業である。

 この件が初めて公になったのは8月30日だ。細野豪志・環境大臣(当時)が「原発事故による被曝(ばく)が人の遺伝子に与える影響について調べるため、福島県民の全ゲノム情報の解析調査に着手する」と発表した。さらに、9月6日、環境省は、来年度から5年間、福島県内の親子500組(父母と子供で合計1,500人)のゲノム情報を解析するため、11億9,200万円を概算要求に計上することを明らかにした。

 この話、一見すると良さそうだ。少なくとも臨床医の私は、この計画の“ずさんさ”が分からなかった。ところが実情は違うようだ。筆者が中村祐輔・シカゴ大学教授(ゲノム医学)と宮野悟・東大医科学研究所教授(情報工学)に、このニュースを伝えたところ、強烈な回答が返ってきた。

 中村教授は「これが事実なら世界の笑いものになります。たとえ異常が起こったとしても、細胞ごとに変異は違いますし、普通にゲノムDNAをシークエンスしても異常は絶対に見つかりません。シークエンサーのエラー率を考えれば荒唐無稽な計画です。福島にお金を落とす口実としても、あまりにも、恥ずかしい発言です」とコメントした。

 さらに、別のメディアで宮野教授も「通常の変異が原発事故と結びつけられ、差別や偏見を生む恐れがある」と問題点を指摘した。いずれのコメントもマスコミやネットメディアが引用したため、ご存じの方も多いだろう。

 中村、宮野教授はわが国が誇るゲノム研究の世界的権威である。おそらく、彼らの指摘が正しく、環境省のプロジェクトは科学的に不適切なのだろう。

 なぜ、専門家なら一瞬で問題と分かる企画に、膨大な予算が注ぎ込まれるのだろうか。まっとうな研究者は関与していないのだろうか。

 知人の与党議員に聞いてみた。その議員は「政府内の調整会議で絶対反対と、環境省の事務方に伝えました。専門家に相談し、細野大臣にも報告しろと言いましたが、福島県および県立医大からの要望とのことでした。(党の)要望からは落としましたが、それ以上、福島対策で細野大臣のやることに口出せません」という。実態はそんなところだろう。現在、被災地から挙がってくる要望は、与党も政府も否定できない。

 一方、福島県で活動する細野大臣の側近にも、人づてで聞いてみた。「問題点は大臣にも伝えました。(先生がご指摘のように)問題は(細野大臣の)サポート体制にあると思います。細野大臣があれだけ熱意を持って福島復興をしているのに、申し訳ないと思っています」と言う。私も細野氏の真摯(しんし)な姿勢は高く評価している。ただ、彼の周りに、信頼するブレーンはいないように見える。若くして要職を務める政治家にはつきまとう問題だ。

 前出の与党議員は「政権をとった瞬間に業界団体や学会の幹部が陳情に来る。同じような問題点を言う。そして、その多くが我田引水だ。一致団結して、このようにやられると、おかしいと思ってもひっくり返せない。国民からみればわれわれは素人だからだ」と言う。大臣クラスの政治家が問題点を把握しても、容易には方向転換できない構造的限界が分かる。政治家が「正しい判断」を下すには、世論の後押しが欠かせない。

 では、マスコミは、この問題をどう扱っただろうか。私の知る限り、ゲノム調査の問題点を指摘したのは毎日新聞だけだ。別の全国紙の科学を専門とする編集委員にメールしたところ、「その通りだと思う」と問題点は認識しているようだったが、結局、紙面では取り上げなかった。業界誌に関しては、概算要求の補助金事業に一喜一憂するばかりだ。問題点を報じたところはない。

 この計画の素案を考えたのは、官僚でも政治家でもない。学界の重鎮たちだ。震災後、彼らの多くは、震災関連の膨大な仕事に携わってきた。この研究はその中の一つで、概算要求の時期にあわせて、見切り発車で始まったのだろう。しかしながら、この手の計画は話が進むにつれ、大型タンカーのごとく、誰も止められなくなる。そして、最終的には「誰が絵を描いたか」分からない。その結果、責任を問われることもない。

 ただ、こんなことを続けていると、学界はやがて社会の信頼を失う。浜通りの住民は「こんな調査を進めると、福島県に風評被害をまき散らかすだけですね。われわれはモルモットのような存在です」と嘆く。

 県民健康調査が奇異に映るのは、疫学研究に終始していることだ。これは、被災地の状況を知るものにとって異様だ。それは、福島の浜通りの医療が崩壊しているからだ。震災後、人口当たりの医師数は全国平均の4分の1に過ぎない。放射線の長期影響を議論する前に、やるべきことがある。

 ところが、現地では「県民調査の先生なんか、このあたりで見たことはないよ」(浜通りの病院に勤務する医師)と言われる始末だ。県民健康調査には、医師免許を持つ多くの研究者が参加しているが、誰も被災地で継続的な診療にあたることなく、ただひたすら疫学研究の推進に尽力している。

 なぜ、こんなに民意に鈍感なのか。それは、被曝研究のひな形が、広島・長崎を舞台とした米国の原爆傷害調査委員会(ABCC)の疫学研究に起源をもつことと無関係ではなかろう。

 広島・長崎の被曝者がABCCに対して「調査するだけで、診療しない」と批判したのは有名だ。敗戦国民の世論など考慮する必要がなかった米国にとって、当然の振る舞いだったろう。

 むしろ、米国が注意しなければならなかったのは、戦後の国際世論だった。東西冷戦の中、日本への原爆の必要性は問題視され、米国はできるだけ健康被害を少なく見せたかっただろう。広島・長崎の研究結果を解釈する際には、このような歴史的背景を考慮に入れるべきであり、バイアスの存在を疑うべきだ。

 その後、ABCCは広島・長崎の放射線影響研究所へと引き継がれ、現在、福島で被曝調査に当たっている広島・長崎大学の研究者たちは、この系譜に属する。県民健康調査とABCCの研究がうり二つなのも納得がいく。

 ちなみに、県民健康調査へ資金を供給しているのは、原発政策を推進してきた政府だ。研究者たちは「100ミリシーベルト以下では健康被害が出るというエビデンスはない」という政府擁護を貫いている。ABCCと米国政府の関係とそっくりで、福島県民が嫌悪するのも当然である。

 いい加減、こんなやり方はやめようではないか。福島県民が学界に求めているのは、住民視点に立った正しい情報だ。具体的には、放射能との具体的な付きあい方だ。疫学的なエビデンスではない。放射線への付きあい方は、病気の家族歴、価値観、住所、職業、経済力などによって、一人一人微妙に異なる。このような情報は、被災地に入って、直接、住民と接しなければ分からない。

 福島県の県民健康調査は誰のためのものだろうか。答えは自明だ。いま、研究者の自律が問われている。

東京大学医科学研究所 特任教授、医療ガバナンス学会 MRIC メールマガジン 編集長 上 昌広 氏
上 昌広 氏
(かみ まさひろ)

上 昌広 (かみ まさひろ)氏のプロフィール
兵庫県出身。灘高校卒。1993年東京大学医学部医学科卒、99年東京大学大学院医学系研究科修了、虎の門病院血液科医員。2001年国立がんセンター中央病院薬物療法部医員、05年に東京医科学研究所に異動。現在、先端医療社会コミュニケーションシステム 社会連携研究部門特任教授として、医療ガバナンス研究を主宰。

関連記事

ページトップへ