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3.11以前からの「フクシマ」の目撃者として(開沼 博 氏 / 東京大学大学院 学際情報学府博士課程在籍)

2011.09.29

開沼 博 氏 / 東京大学大学院 学際情報学府博士課程在籍

東京大学大学院 学際情報学府博士課程在籍 開沼 博 氏
開沼 博 氏

 3.11から半年がたつが、原発関係のニュースがテレビや新聞で報じられない日は無い。とはいえ、事故発生直後のように混乱する状況が日々明らかになる段階から、除染や補償、原発の再稼動の是非など事故の後処理に関する議論の進捗が報じられる段階へと進みつつあるのも事実だ。

 筆者は2006年から福島の原発立地地域を対象とした社会学的な研究を進めてきた。東海村や北陸地域と並ぶ日本最古の原発立地地域がいかなる社会であり、その社会がいかなる歴史を持っているのかを明らかにする。そのことによって、日本の戦後とはなんだったのか、という問いに迫れると考えたからだった。

 最後に現地に調査に行ったのは2010年12月のことだった。「東北電力浪江・小高原発」という、建設予定が40年間にわたって実現せずにいるあの地の「第3の原発」を見て、調査を終え、その成果を2011年1月に修士論文としてまとめた。ところが、予想できたわけも無いが、3.11以後の状況の中で拙論を刊行する機会に恵まれることとなり、その『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』(青土社)は発売から3カ月で8刷りとなっている。

 「原子力発電」という話題になってしまうと、どうしてもそれは科学技術論、「理系の話」に終始してしまいがちだ。しかし、実際には、言うまでもなく、「社会との結びつき」を見逃すことはできない。科学技術はただ科学技術として社会から独立して存在するわけではなく、社会の中の一要素として存在する。そのような視点をとりながら、原発とは、原発を1955年の原子力基本法以来抱え続けてきた日本の社会、地域の社会とは何かということを考えることが筆者の視座の独自性と考えている。

 3.11間際までの日本社会に原発を位置づけるならば、それは「原子力ルネサンス」という言葉に象徴されるとおり、ある面では極めて肯定的なものとしてあったといってよい。無論、それは国民が、原発という科学技術を意識的かつ積極的に受け入れたというよりは、「CO2削減に役立つエコなエネルギー」というようなエコロジー(環境主義)と、あるいは、菅直人政権が掲げた「新・成長戦略」における「原発インフラの新興国への輸出」、すなわち10年以上横ばいが続く日本の経済成長を復活させるための「切り札」といった形で受け入れられていた。政治的な勢力構造としても、それまで明確な反原発方針を掲げていた旧社会党やそこについていた諸組合・組織が弱体化、変容する中で、原発推進を掲げる自民党から民主党に政権交代がなされた後、民主党も労組を中心に原発を基本的には推進する立場で方針を集約するようになっていた。

 では、日本というナショナルのレベルでそのような受け入れがなされていた際に、福島の原発立地地域において原発はいかなる(科学技術としてではなく)社会的な意味を持っていたのか。

 筆者はそれを「原発を抱擁する社会」という言葉を用いながら分析した。「抱擁」とはピューリッツア賞の受賞暦もある米国人の日本研究者、ジョン・ダワーによる『敗北を抱きしめて』によっている。「敗北」という極めてネガティブなものを前にした日本人を、ただそれを嫌悪し打ちひしがれる姿としてではなく、ある面では積極的に、能動的に受け入れしがみついてすらいく姿として描くことによって歴史の重層性と社会の複雑さを複雑なままに理解することを可能にした。この「抱擁」という捉え方がまさに原発立地地域にもあったのではないかと考えたのだった。

 原発は「貧しい過疎地に悪い政治家が無理やり押し付けたもの」なのか。確かにそういう側面もあるが、必ずしもそうではない。立地町を回りながら聞く言葉はそんな「単純な理解」を吹き飛ばす。

 「原発ができるまでは田畑も狭い、他の仕事も無い。どうやって食っていけばいいのか困って、とりあえず海水を沸かして塩をとって東京に売りに行くことで食いしのいでいた」「大人は1年の半分以上、黒部ダムとか遠いところの工場に出稼ぎに行っていた。子どもは仕事を探して出て行ったきり帰ってこない」「原発が来れば仙台みたいになると言っていた人もいたんだ」

 民の口から出てくる、この地が原発と抱擁を始める「なれ初め」を聞くにつけ、3.11間際にまで残っていた、原発立地自治体における外から見ていたら見えにくいような「幸福感」とすら言えるような状況の理由が分かるような気がした。

 原発を持つ、そのことによって自分らの共同体に「子や孫が残ってくれる」。「原発が危ないと思わないんですか」と聞けば「そんなの外を歩いていて交通事故に遭う確率より低いんだから大丈夫だ」と返ってくる。それは原子力という、少なくともある時期までは疑われることの無い「夢」の科学技術とされてきていたものを、過疎化や財政の逼迫(ひっぱく)が進行する中でなおさら、3.11間際に至るまで抱え続けていた現代の地域社会の姿だった。

 そして、そんな原発を抱擁する、抱擁せざるをえない地域社会を、無意識的にではあるにせよ多くの日本の人々が取り残したまま来た中で3.11とその後の事態へと至ったのだった。

 科学技術は「社会」に受け入れられることによって広く実現され普及する。しかし、少なくとも原発について言えば、ここで言う「社会」とは「日本」とイコールではない。

 上で述べたとおり、一方に、原発を置かれる側・置かれたい側である原発立地地域、もう一方に原発を置く側・置きたい側である国の原子力行政や原子力業界、あるいはそれを支える組合・組織という、2つのアクターが原発の実現にとって大きな意味を持つ。筆者は拙著において、これらの「社会」について(前者を)「地方の原子力ムラ」と(後者を)「中央の原子力ムラ」の「2つの原子力ムラ」モデルとして提示した。この2つの原子力ムラが日本における原子力政策の実現においては極めて強い決定権と保守性を持ち、逆に、この2つの「社会」の外にある「社会」、つまり普段は原発に興味・関心を持たない人々は原発の未来に関与できないような状況があると言える。

 3.11以前から原発を推進してきた人々には、科学技術や経済成長策としての「原発推進」をしてきた者もいれば、地域振興策としての「原発推進」をしてきた者もいる。そのいずれも、3.11以後に立場を変えたのかというと必ずしもそうではない。先日の山口県上関町の選挙で原発推進派が対立候補に大差をつけて勝ったことをはじめ、原発立地(予定)自治体の多くは今も原発に「希望」を見いだす。一方で、さすがに「脱原発」世論の突き上げの中で、原発に関する制度・政策におけるマイナーチェンジはなされようとしているが、その中でも科学技術としての「原発推進」への「夢」が180度転換しているようには見えない。

 その根底に、彼らがそれ以外の「夢」を見ることができない状況があるということはもちろんあるが、それ以上に、両者とも「脱原発」の世論や運動の気まぐれさを、リアリスティックに見据えているという側面がある。

 これまでも、1979年のスリーマイルアイランド、86年のチェルノブイリ、99年のJCOと私たちの社会は幾度も原発に関する重い事故を経験し、その都度、一時的にであれ「脱原発の機運」は高まった。しかし、一定程度の時間が過ぎ、「2つの原子力ムラ」の外にいる、一般の人々による「社会」の興味・関心がそれてしまうにつれて、「やはり原発は常時においてはそれほど危険ではないんだ」「経済的な効率や発展を考えれば一定程度原発に頼るしかない」といった議論が多数派を占めることになる。そして、ある面では、そういった「原発の無意識化」の上にこそこれまでの社会が存在してきたということも覆しようのない事実だ。

 私たちの社会は、いまやその時の意識をよみがえらせることは不可能かもしれないが、少なくとも3.11の昼過ぎまでは「原発ある幸福」を選んできた。「原発ある幸福」への反省を怠り、ただ悪者を探してたたきのめし、醜聞の消費にまい進する先には決して「原発なき幸福」を実現する社会の再構築はありえない。3.11以後も原発に魅了される「2つの原子力ムラ」への安易などう喝をする前に、なぜ科学技術としての、あるいは地域振興策としての原発が「魅力的」なのか見る必要もある。現下の状況の先には、かつて愚かにも私たちの社会が繰り返してきた「忘却」がある。今はまだ、それぞれの手の中に未来がある。

東京大学大学院 学際情報学府博士課程在籍 開沼 博 氏
開沼 博 氏
(かいぬま ひろし)

開沼 博(かいぬま ひろし)氏のプロフィール
1984年福島県いわき市生まれ。福島県立磐城高校、東京大学文学部卒。現在、同大学院学際情報学府博士課程在籍。専攻は社会学。東日本大震災後に出版された修士論文を基にした著書『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』(青土社)が、これまでにない視点で原子力発電をとらえた書として大きな関心を呼んだ。文藝春秋、AERAなどにも執筆。

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