インタビュー

「『地域のリスクを常に意識した防災計画を~速やかな復興には財源や人材確保の事前準備も必要』―東日本大震災復興計画を先導した岸井氏に聞く」(岸井隆幸 氏 / 日本大学理工学部 土木工学科 教授)

2016.07.08

岸井隆幸 氏 / 日本大学理工学部 土木工学科 教授

岸井隆幸 氏
岸井隆幸 氏

 東日本大震災から5年と4カ月近くが経過した。亡くなった方、行方不明の方、そして津波の惨禍は免れながらも避難中などに亡くなった「関連死」の方を合わせると2万1千人を超え、依然約17万人が避難生活を余儀なくされている。家族や友人、知人や故郷の暮らしを失った被災者の悲しみは時の経過で癒されることはない。それでも被災地では被災者に寄り添う多くの人が必死の復興作業を続けている。「復興に向け少しでも前へ」「大震災を風化させてはいけない」。東北の被災地現地では今日も被災者、関係者が「確実な歩み」を続けている。4月には震度7を記録した熊本地震が発生し、49人が亡くなった。崩壊建物は7万7千棟に達し、避難住民は一時20万人を超えた。熊本地震は活断層型で東日本大震災を起こした海溝型とは地震のタイプは異なったが、日本が「地震列島」であることを改めて強く印象付けた。東日本大震災当時日本都市計画学会会長として、いち早く関連学会をまとめて現地入りし、その後の復興計画づくりや作業に先導的役割を担ってきた岸井隆幸(きしい たかゆき)日本大学理工学部土木工学科教授に大震災復興のこれまでの歩みや今後の課題などについて聞いた。

―たいへんな経験と尽力をされたと思いますが、今後の防災対策を考えるためにも「経験の記録と継承」が大切だと思います。東日本大震災の復興に携わった経緯と大震災当初の対応などについて改めてお聞かせください。

 2011年3月11日当時日本都市計画学会の会長をしていました。たいへんなことが起きたと思い、自分の学会だけでなく関連学会が協力しながら対応する必要があると判断しました。すぐに土木学会など関連学会の関係者と協議して「第一次合同調査団」を組織し、同年3月下旬に被災地に入りました。4月末には「第二次合同調査団」の団長として再び被災地現地を調べました。その結果、被災地は広域に及び、被災した地方自治体もたいへん多かったことから、復興に向けては「被災状態をまず同一の基準で調査すること」が重要と判断しました。そのことを政府や国土交通省に提言し、必要な予算を確保することができました。

―被災地現地を見てどのように感じましたか。

 国内外のさまざまな自然災害現場を見てきましたが壊滅的な惨状を前に言葉もありませんでした。津波の破壊力のすさまじさを肌で感じました。それでも極力冷静に見てみると、大津波が押し寄せたところは壊滅的被害だった一方、高台ではかなり古い建物でも壊れていないところが多く、大津波被害の特徴を見せつけられた思いでした。襲った津波の高さは高いところでは、チリ津波の3〜4倍に達していました。(注:チリ地震による津波は日本の太平洋沿岸の三陸海岸では4〜6メートル超の波高を記録)

―亡くなった方もほとんどが津波による犠牲でしたね。「第二次合同調査団」団長として政府などに提言された後はどうなりましたか。

 6月に国土交通省の予算で「直轄調査」が始まりました。この調査は、被災状況の実態を同一基準で調査するとともに、被災した自治体にそれぞれ複数の担当者を割り振り、自治体ごとの事情や状況を確認しながら継続して確実に復興計画づくりを進めることが目的でした。対象とした自治体は30を超え、担当者は延べ50人前後いました。派遣された担当者を「作業監理委員」と呼び、私のような大学関係者と阪神淡路大震災や中越地震などを経験した自治体関係者が任命され、直轄調査を請け負ったコンサルタントの人たちと一緒に作業を始めました。私は宮城県石巻市を担当し、同時に全体を見る「直轄調査とりまとめ委員会」の委員長となりました。私が担当した石巻市では6月14日から、東北大学・弘前大学の先生と一緒に石巻市・宮城県・国土交通省・コンサルタントの担当者と一つのテーブルを囲んで、被災地の図面を広げながら作業をしました。こうした作業の方法はどの市町村も基本同じであったと思います。ちなみに石巻市は住戸の約4分の3が被災し、(当時)死亡及び行方不明のままの方は3千7百人を超えていました。

―復興作業、復興計画の基本的な考え方はどのようなものでしたか。

 復興には被災した現状が分かる正確な図面が必要でした。国土地理院が測量した図面が2011年の8月末にできたのでそれらの図面を基礎に作業を進めました。また、将来も起こると考えられる津波被害に対して、今回のような「5百年千年」の単位で起こり得る巨大津波と「百年単位」で起こり得る大津波をそれぞれ「L2」、「L1」と切り分ける考え方で進めました。例えば防潮堤をつくる計画にしても、L2対応では高さ20メートルを超える巨大な防潮堤となり広い地域が高い塀の中の世界になってしまう。また、コンクリート寿命自体が約百年ですから超巨大防潮堤は現実的でないので、L2に対しては被害を最小限にする「減災」の考え方、「防災」としてはL1を想定して対応しています。なお、石巻市では大震災の年の年末に「震災復興基本計画」が、年が変わって2012年3月に「震災復興整備計画」が公表されました。こうした復興事業の進捗を管理する「石巻市復興まちづくり推進会議」もできて私が座長を務めています。

図1 石巻市の復興・復旧の歩み(石巻市ホームページ関連サイトから 同市提供)
図1 石巻市の復興・復旧の歩み(石巻市ホームページ関連サイトから 同市提供)

―防潮堤の高さについてはさまざまな意見があったと思いますが。

 先にお話した「直轄調査」で被災地の全戸調査をしました。その結果、木造家屋は押し寄せた津波高が2メートルを超えると全壊率が一気に上がることが判明しました。これは2階で寝ていても危ないということです。そのため、市街地は内陸部でも2メートルの津波浸水域は危ない、との認識を自治体が共有するようになりました。2011年の9月ごろにはシミュレーションの結果が出て「ここは住める」、「ここは危険」などと、それぞれの地域の特性がはっきりしてきました。防潮堤についても沿岸だけでなく市街地の内陸の一部に高盛土道路などで第二の提を築くことが必要なことも分かりました。

―そうした「青写真」ができるまでに課題はありましたか。

 最大の課題は広い地域の復興に必要な財源をどう確保するかでした。復興計画を被災者の皆さん全員に説明するにしても財源についてきちんと説明した上で納得してもらう必要がありました。また、個人で家を再建する場合にどのように支援するのか、も決めなければ話ができません。震災の年の11月、国として復興予算を確保するための第三次補正予算が組めるようになって復興の財源的枠組み、支援の枠組みができました。被災自治体も「国が面倒を見てくれる」とやっと安心できたのです。

―復興作業が実際に動き始めてたいへんだったことは何でしたか。

 沿岸部や半島部の主に漁業関係の方々の場合は状況や条件などが共通している部分が多く「漁村集落」の移転先にしても比較的まとまりやすかったです。しかし内陸部の場合、多くの方はサービス業で、被災後の個々の生計再建の可能性、方向性も異なり「ずばりここに新しい拠点」をというプランを作るのが難しかったです。石巻市では比較的早い段階で中心街から少し離れたところに広い土地を確保できましたが、復興計画を考える際は、当然今後の高齢化の問題も意識しなければなりません。例えば、お年寄りのためには公共交通機関を使う利便性も考慮しなければなりません。そのため石巻では結局、仙石線に新しい駅を作ることとしました。「実現可能性」を考えながら、さまざまな要素をどう位置付けて、具体的な計画に盛り込むかは簡単なことではありませんでした。

図2 石巻市復興基本計画概略(石巻市ホームページ関連サイトから 同市提供)
図2 石巻市復興基本計画概略(石巻市ホームページ関連サイトから 同市提供)

―大震災から5年以上経過した現在はどこまで来ましたか。

 石巻市で見ると、被災した方の約半分は希望した移転先に移ることができました。住まいに関しては進捗「ほぼ半分」でしょう。防潮堤はじめ防災インフラの完成はまだです。防潮堤の高さは最終的に4〜7メートルになりますが、「石巻の顔」である川を新しいまちづくりにどう位置づけるかを常に考えながら進めてきました。復興後のまちづくりの姿はさまざまな議論、検討を経て当初案からは変わりましたが、川沿いに再開発ビルや新しい生鮮マーケットができます。「新しい石巻」中心部では「川とまちが一体」のプランが実現します。

図3 石巻市の復興イメージ(石巻市ホームページ関連サイトから 同市提供)
図3 石巻市の復興イメージ(石巻市ホームページ関連サイトから 同市提供)

―復興計画完了に向けての今後の課題はありますか。

 一つは移転後の跡地利用です。現行制度上、防災集団移転といっても住宅用地以外の土地を市が買い上げることはできず、移転後も一部、私有地が残ってしまいます。これらを含めて津波が押し寄せた土地をどのように利用していくかについては、まだ必ずしも十分な将来図が描けていません。また、現在も「みなし仮設住宅」に住んでいる方の生活再建をどうするか、希望者が多い公営住宅をどの程度追加して建設するか、も課題です。

―東日本大震災から離れますが3月に東北から遠く離れた熊本で大きな地震があり、多くの方が被災しました。国内には2千以上の活断層があると言われて「いつでもどこでも大きな地震が起こり得る」ことを多くの人が再認識しました。東日本大震災の復興に携わった経験から今後の防災対策や制度面などで提言はありますか。

 東日本大震災のような広域の被害を想定すると、今回の経験から中小の都市や地方自治体が自力で復興計画を作り進めるのは困難であることがはっきりしました。国の復興交付金を主な財源にするにしても、震災の都度新しい法律をつくって復興交付金制度を立ち上げるのではなく、もしも広域被害が出た時は速やかに交付金を使えるような仕組みを用意しておくことができればと思います。被災者の個別保障にしても基本的な枠組みを事前に用意しておき、これもいざという時に速やかに活用できるようになればいい、と思います。

―熊本地震で感じたことはありますか。

 地震後に熊本現地に行きました。被災地は東日本大震災ほど広域ではありませんが、大きな建物被害がありました。こうした災害の場合、被害がなかったか、あっても小さかった近隣の自治体が速やかに協調して支援する体制を早くつくることが大切だと感じました。例えば被害市町村を超えて近隣自治体が「みなし仮設住宅」を積極的に確保し、被災者に早期に提供することも必要だと思います。

―一言では難しいと思いますが、自然災害への備えで重要なことは何でしょうか。

自然に恵まれた日本にはそれだけ多くの、さまざまな自然災害があります。「当たり前のこと」ではありますが自分たちの地域の特性を考え、それぞれの地域のリスクを常に意識することです。現在、国の主導のもと「コンパクトなまちづくり」を目的とした「立地適正化計画」の立案が全国の市町村で進められています。2014年の都市再生特措法改正で制度化され、一定区域に公共施設や住宅を集約してゆこうという計画です。将来確実に来る「高齢化社会」を念頭にしたこうした新たなまちづくりに必ず防災の仕組みを入れることが必要だと思います。また、個々の対策としては「耐震化の一層の徹底」です。過去の地震を受け東日本大震災の時点でもかなり耐震補強が進んでいました。そうしたところは大きな建物被害はありませんでした。住宅からさまざまな施設、インフラに至るまでの耐震補強は極めて重要です。そしてもうひとつ大切なのは人材確保の問題です。特に広域被害が起きてしまうと、復興計画をつくる人、住民とともに議論する人、必要資金を計算する人、個別の施設や住宅を設計する人などなど、さまざまな人材が必要です。東日本大震災では「UR都市機構」が400人ほど現地に派遣してくれて、尽力してくれました。各地でニュータウンづくりを経験していましたので復興事業に具体的に貢献することができたのです。将来も起こり得る広域災害被害に備えてすぐに活動できる技術者集団を確保する仕組みを用意しておくことが大切だと思います。

(内城喜貴)

岸井隆幸 氏
岸井隆幸 氏

岸井隆幸(きしい たかゆき)氏プロフィール
1975年東京大学工学部都市工学科卒業、77年東京大学大学院修士課程(都市工学専攻)修了。同年建設省(当時)入省。95年日本大学理工学部土木工学科助教授、98年同教授就任現在に至る。この間、日本都市計画学会会長、東京都景観審議会会長、神奈川県都市計画審議会会長などを歴任、東日本大震災復興支援を先導する重職で貢献した。

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