インタビュー

「日米はもっと人材交流を」 第2回「国民への説明責任は共通」(マチ・ディルワース 氏 / 沖縄科学技術大学院大学副学長)

2016.03.08

マチ・ディルワース 氏 / 沖縄科学技術大学院大学副学長

マチ・ディルワース 氏
マチ・ディルワース 氏

急速な少子高齢社会の進展で、人材育成や男女共同参画の推進が喫緊の課題とされている。国際化への対応も待ったなしといわれてだいぶたつ。大学卒業後、米国の大学院に留学、大学院修了後も米国で研究生活を送った後、政府機関で研究助成の仕事に関わり、日本の男女共同参画推進を側面から支援し、現在は、沖縄科学技術大学院大学で副学長の重責をこなす―。こうした日米の橋渡しも含めた多彩な活動歴を持つマチ・ディルワースさんに、日米両国での体験に基づく、科学技術・学術政策のあるべき姿などを聞いた。

―ワシントンのNSF時代の話に戻ります。日本でプログラムオフィサー(PO)の役割が重要視されるようになったのは、最近のことかと思います。2002年3月に日本の農林水産技術会議の評価専門委員会に招かれ、NSFについて詳しい説明をされていますね。(評価専門委員会議事要旨参照)

 あのころは農林水産省ばかりでなく文部省(当時)など競争的研究助成金プログラムを持っていた省庁で、NSFやNIHのシステムを勉強する動きが始まっていました。特に皆さんが興味をお持ちになっていたのがPOシステムです。米国の科学研究費を扱うPO(省庁によって多少呼び方は異なります)は、Ph.Dレベルの科学の専門家です。主な仕事はプログラムディベロップメント (例えば新しいプログラムの立ち上げ)、プロポーザルマネジメント(応募受理から審査、採択決定まで全ての過程を管理)、アワードマネジメント(研究助成金の年次報告書の審査、場合によっては研究室訪問、追加研究助成金要請の対応など)です。NSFの場合、POがこれらの三つの仕事を全て担っています。PO はプリンシパルインベスティゲーター(PI:研究責任者)の相談にのるのも大きな仕事の一つです。特に、採択されなかった応募者に審査で難点とされたことを説明し、次回の応募に役立つアドバイスをするのは大切なPOの仕事です。

 米国の政府の予算決定のプロセスの違いの説明もしました。米国では大統領が議会に提出する予算案を、行政予算管理局(OMB)が作成します。その前に各省庁とOMBとの協議があるのは、日本でも財務省と各省庁が協議するのと同じかと思います。違いは大統領の予算案が提出されてからです。

 日本の場合は財務省が作った内閣の予算案が特に研究費のような費目が国会了承の段階で大きく変わることはありませんが、米国の場合は、大統領の提出した予算案は上院、下院がそれぞれ細かいところまで議論します。それぞれ可決された後、上院、下院案の違いをさらに上下両院が協議して最終的な予算額を決定し、大統領がそれを適当と認めて署名して初めて確定となります。ですから大統領の署名があるまで、翌年度の予算は各省庁とも全く分かりません。

―日本とは役所と議会の関係が、だいぶ違うようですね。また、研究開発予算を最初に練る役所に米国の方が研究内容・現場をよく知る人が多いのも大きな違いのように見えますが。

 NSFでは予算確定により新たな方向性と優先分野を実行するに当たっては、7部門に配属されていた約400人(当時、現在は500人強)のPOが研究開発課題の公募要領と当該分野の管理計画を作成します。具体的には、必要性、目標と目的、必要な予算額、NSFのスタッフの数、期間などです。その後、NSF上層部の承認、大きなプロジェクトの場合はさらに全米科学評議会の承認も経て、公募開始となります。応募してきた課題について、ピアレビュー(研究者、専門家による評価作業)の結果を踏まえてNSFの担当部長に採択すべき課題を推薦するわけですが、一つ重要なことがあります。

 ピアレビューというのは、透明性が原則で、明確なルールを定め、評価者には守秘義務を課しています。評価者の選定は、担当分野の専門家のうち利害関係者を排除し、公正な判断力を持つ者としています。一方、保守的つまり挑戦的でない課題を選びがちという現実があるのが問題です。ですから、ピアレビューの結果をうのみにせず、PO自身の判断も入れて推薦する課題を選ばなければなりません。とまあこのようなことを日本の農林水産技術会議の委員会で報告した記憶があります。

―NSFに長く勤めていた間にいろいろな変化があったと思いますが、一番の変化はどのようなものでしたか?

 政府からのNSFに求められる国民への説明責任が、ある時期から厳しくなったことでしょうか。それに伴って、POの仕事が増えました。現在、NSFの予算は75億ドルほどになっています。しかし、私がNSFに入った1979年ころは10億ドルに達していませんでした。応募や審査に関する規則を書いた書類も、5ページくらいの薄っぺらなものがあるだけです。他の政府機関、例えばNIHと同じテーマで応募するデュアルサブミッション(二重提出)も許されるなどおおらかなものでした。

 公募受付は年に3回あり、審査する応募もそのたびに百何件かはありました。しかし、審査してファンディング(研究助成額)を決めて、それぞれ採択課題のプリンシパルインベスティゲーター(PI、研究責任者)と打ち合わせをする。それ以外の仕事はほとんどなかったのです。

 NSFの年間の予算が10億ドルという大台に近くなった時期に、米議会からのNSFへの具体的な要求が出てくるようになりました。基礎研究だけでなく、国益に直接つながる研究にも資金をつけるようという要求に応えるために、1972年にはResearch Applied to National Needs(RANN:国民のニーズへの応用研究)という事業が始まりました。RANNは事業としては1979年に終了し、RANNで行われていた研究活動は1981年にはNSF全体に盛り込まれた形で存続しました。2000年から2005年ごろ米国の科学助成予算全体が増えて、NSFの予算も1999年の37億ドルから2005年は55億ドルと増えましたが、この時期に国家としての戦略的優先分野(例えば情報科学、ナノテクノロジー)が各資金提供機関の予算に組み込まれるようになりました。

 もう一つの大きな動きは、科学研究が学際的になってきたことでしょうか。私の専門分野である生物学だけで収まらないプログラムも多く、コンピューターサイエンス、工学、物理、化学などの部門とのPOの行き来が盛んになりました。大きな新しいプログラムを作るときは、いろいろなところから代表が集まって応募要項を作成したり、レビューの仕方を議論するなどNSF内部での交流も活発になり、とにかく仕事が増えたものです。かつてはデスクに座って応募提案を審査するという単純な作業から、仕事が急に複雑になったわけです。「どうしてこうも忙しくなったのか」と同僚たちとよく話したものです。

―1981年といえば、米国で産業、特に製造業の国際競争力が低下したことに対する危機感が高まり始めた時期ですね。前年の80年には、米国特許商標法修正条項である「バイドール法」が制定されています。バイドール法がNSF、その他のファンディング機関に与えた影響はいかがでしたか。

 バイドール法は米国の技術移転の制度を根本的に変えました。国からの研究助成金の結果得られた知的所有権が研究助成金を受け取った大学などの機関に属することになったので、政府には研究機関や大学で国の研究費を使って生まれた特許権を扱う業務がなくなりました。大学や研究機関が有する特許が急速に増え、またそれに基づいた企業を大学の研究者が立ち上げる例がどんどん出てきたのは、バイドール法ができてからです。遺伝子組み換えのメカニズムという基礎研究の発見が、バイオテクノロジー産業の爆発的な進展につながったのもバイドール法の恩恵といえるのではないかと思います。

 一方で、NSFには新たな責任が課されることになりました。国からの研究費で得た研究結果は速やかに公表するという基本理念と、研究者・研究機関に属する知的財産の保護の必要性に矛盾がないことをはっきりさせ、研究者が国からの研究費で行っている研究と自分の企業の利益となる研究の間に、利益相反の可能性がないことを確認するといったことです。

―バイドール法ができたのと、日本の製造業に対する警戒感が高まった時期は重なっていますね。日本に対し、米国の基礎研究成果を活用して製造業の国際競争力を高めているという「基礎研究ただ乗り」批判も聞かれましたが。

 そういう時代もありましたね。この批判に対応してできた一つが、ヒューマン・フロンティア・サイエンス・プログラム(HFSP)です。1987年にベネチアで開かれた先進国首脳会議(G7)のとき日本が提案してできた真に国際的な競争的研究資金プログラムです。1989年にはHFSP本部がフランスのストラスブールに設置され、1990年に最初のグラントが下りました。NSFも米国を代表して設立に関わりました。その後メンバー国も増えてHFSPは今日では、国際研究資金プログラムの模範とされています。

 NSFの国際協力のあり方も変わりました。NSFが国際協力に関わるようになった発端は、1958-59年の国際地球観測年(IGY1958-59)にあるといわれています。その後、国と国の間で科学に関する協定ができるとNSFがその実践を任されるようになりました。IGYの活動の一環としてできた南極条約に基づいた南極での国際協力プロジェクトの一部として設立されたUS南極プログラムの運営をNSFに任されたことや、NSFの東京事務所が1960年に日米の科学研究教育協約に基づいて設置されたことなどが良い例です。

 NSFを立ち上げた1950年の法律には国際協力については何も書かれていませんが、1968年の修正法には国際協定に基づいた国際共同研究を支持するということが明記されています。ちなみに科学技術振興機構とNSFの国際協力の歴史も長く、現在、日本学術振興会とNSFの共同プログラムであるサマー・プログラムは、1993年に科学技術振興機構とNSFの間で"Summer Institute Program"として始まったものです。

写真.2009年のSummer Institute閉会式であいさつするディルワース氏
写真.2009年のSummer Institute閉会式であいさつするディルワース氏

 ゲノム解析については、NIHがヒトゲノム解析計画を立ち上げたときに線虫などモデル生物は対象にするけれど、植物は入れないことを決めました。農務省もモデル生物のゲノムより穀物、作物のゲノム解析に関心があり、それなら植物分野では実績のあるNSFがやろうとなったわけです。多額の研究資金も付き、植物のモデルとしてシロイヌナズナをやろうということが決まりました。私がその担当者になりました。

 このプログラムを進めるため、欧州連合(EU)の研究助成機関、英国のバイオテクノロジー・生物科学研究会議(BBSRC)、ドイツ研究振興協会(DFG)など世界各国の担当者たちとも交流しました。国際プロジェクトの非公式事務局長のような役割を担っていたものです。研究者たちに集まってもらって会議を開いたとき、オーストラリアの研究者に言われました。「自分の国の研究助成機関の人より、あなたのことをよく知っている」と(笑い)。

 ゲノム解析というのは当時、いくらお金があっても足りないような大型プロジェクトだったということです。国際協力で進めるには、各国のやることが重複しないよう緊密な協力が必要です。得られたデータは共有するなど基本的なことを決めておかないとうまくいきません。だれかがまとめ役をしなければならないわけで、それをたまたま私がやることになったということです。

 また、国内は国内で、エネルギー省、NIH、農務省もモデル植物のゲノム解析に資金は出せないが一緒に研究はやりたいということで、国内の調整も任されました。最も心を砕いたのは、皆で協力して進めるプロジェクトなのだから多くの資金を出した機関にクレジット(成果の見返り)を独占させるようなことをせず共有する、ということを最初から確認して進めたことです。大きな植物ゲノムプロジェクトができ、引き続き国際的プロジェクトに発展したことは、とても楽しいことでした。

写真.国際共同ゲノム解析プロジェクト会議で岡田清孝 京都大学教授〈当時〉と話すディルワース氏(2010年NSFで)=ディルワース氏提供
写真.国際共同ゲノム解析プロジェクト会議で岡田清孝 京都大学教授〈当時〉と話すディルワース氏(2010年NSFで)=ディルワース氏提供

―NSF東京事務所長兼在日米国大使館科学技術アタッシェとして東京勤務となったのは、NSFで生物基盤部長を務められた後でしたね。男女共同参画以外で印象に残る仕事はどのようなものでしたか。

 東京事務所はNSF全体を代表しますから、生物学と全く関係のなかった分野の日米共同プロジェクトと関わるようになったのが印象に残っています。例えば、国際深海科学掘削計画(IODP)や、スバル天文台とジェミニ天文台の共同研究で、海洋研究開発機構や国立天文台などNSF本部にいたときは関係のなかった日本の研究機関の方々との交流ができました。最も印象に残っているのは日本の公的研究資金を扱う機関でNSFが大変高く評価されていたことで、その信頼を落とすようなことがあってはならないと、いつも自分に言い聞かせていたのを思い出します。

―日本の科学技術、学術政策について、科学技術、学術分野で日米は今後、どのような協力をしていったらよいでしょうか。

 人材の交流、特に若い人の交流を推進することに協力するのが、長い目で見てお互いに利益になると思います。日本から米国に留学したり、あるいは研究のために渡米する若い人が減っています。米国でも同じ現象があり、また外国に出ても欧州に行く人がほとんどです。日本のノーベル賞受賞者のほとんどが日本の外で学んだり研究したりした経験があることから分かるように、外国での経験は研究の視野を広げ、多くの研究者とも人脈ができ、研究者としての成長を促します。日米の若い人たちが、もっと相手国に留学することを願っています。

(小岩井忠道)

(完)

マチ・ディルワース 氏
マチ・ディルワース 氏

マチ・ディルワース(Machi.Dilworth)氏プロフィール
1979年NSF 生物学・行動科学局アシスタントプログラム・ディレクター、81年米国農務省競争的研究資金課、準プログラム・マネージャーから-副課長、97-2010年NSF 生物基盤部長、07-10年NSF 東京事務所長 兼 在日米国大使館科学技術アタッシェ、10年NSF数学・理化学局副局長(代理)、11年NSF国際科学技術室長、12年ハワイ大学ヒロ校総長室上級顧問、15年4月沖縄科学技術大学院大学 男女共同参画担当副学長。

関連記事

ページトップへ