インタビュー

第1回「効果ないトップダウンの復興計画」(上 昌広 氏 / 東京大学医科学研究所 特任教授)

2012.04.27

上 昌広 氏 / 東京大学医科学研究所 特任教授

「縁 - 被災地復興の起動力」

上 昌広 氏

福島原発事故で居住地から強制避難させられた人々の苦難を伝える報道が続いている。一方、住み慣れた地から逃れることを善しとしなかった、あるいは避難したくてもできなかった人々が多い地域の支援活動を震災直後から続けている人々の姿は、詳しく伝えられていない。心ある人たちといち早くネットワークを構築し、福島原発1号機の隣接地で地域と一体となった復旧、復興活動をけん引する上 昌広・東京大学医科学研究所特任教授(医療ガバナンス学会 MRICメールマガジン編集長)に、これまでの活動と復旧・復興活動で最も大事なことは何かを聞いた。

―東日本大震災直後から、事故を起こした福島第一原子力発電所1号機に近い南相馬、相馬両市を中心に復旧、復興支援にあたられていますが、支援活動で最も肝心なことは何かまず伺います。

大震災直後に、被災地以外の皆さんも「何かをしたい」と思ったでしょうが、私も「一国民として何か支援できないか」、考えました。ただ、だれかがグランドデザインを書いて、トップダウンでやるようなことはどうせうまくいかない。問題は多様だから、「自分ができることを皆がそれぞれやるほかない」と思ったわけです。

最初に、これまで信頼関係のあった方たちのメーリングリストを作りました。活動するには、何よりも人のつながり「ご縁」というものが大事との信念からです。リストの半数が医師、残り半分がメディア関係でした。震災直後、医療機関の被災により透析ができなくなった患者1,000人ほどをいわき市から東京、千葉、新潟へ運ぶ際にも、このネットワークが役に立ちました。

地震発生の3日後に仙谷由人・民主党政策調査会会長代行から「相馬市の立谷市長たちを手伝ってやってくれないか」と頼まれ、市長の立谷秀清氏に電話をしたのが、福島県相双地区とのかかわりのきっかけです。立谷市長は福島医科大学卒の内科医で、市長歴も10年と政治力も十分備えた方です。「復旧の最大の目的はさらなる死者を出さないことで、復興はいつもの生活ができるような状況にすること」と、明確な考え方を持たれているのにも感心しました。実際に、地震発生の当日の夜には避難場所だけでなく、仮設住宅の場所まで押さえ、東京や福島へ人を出して食料も確保しました。生き残った人に最も必要なものは衣食住という考えからです。その上、亡くなった方々のため棺おけの用意まで気を配っていました。

相双地区では、地震発生後、市内の病院の医師、看護師が大量に避難してしまいました。また、福島医大から来ていた非常勤医師が来なくなってしまいました。現地は医師不足で悩んでいたのです。

しかしながら、このころ、政府は「避難をどうするか」「指令系統をどう一本化するか」といった議論をもっぱらしていたわけです。これはばかな議論で、「被災地は危険だ」と思った人間は指示があろうとなかろうと逃げます。相馬市の南、福島第一原発により近い南相馬市でも、地震4日後の3月15日に原発から20-30キロ圏の屋内退避指示が出て、さらに18日には入院患者の避難指示が出たことから、同市で一番大きな南相馬市立総合病院(230病床、原発から23キロの距離)では入院患者全員を搬送しなければならなくなりました。

南相馬市、相馬市というのは、福島第一原子力発電所の真北に位置します。後で公表された「緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)」による放射性物質の拡散地図で明らかなように、これら両市の放射線量は風向きの関係で、原子力発電所からもっと離れている飯舘村などより少ないところが大半でした。

ところが「原子力発電所から一律20-30キロ圏内は屋内退避」という政府の指示が3月15日に出た結果、現実に多くの人々が残っている南相馬市には救急車やドクターヘリばかりか、水、商品、ガソリンさらには記者も入って来なくなったのです。厚生労働省の災害派遣医療チーム(DMAT)も、屋内退避指示と共に引き揚げてしまいました。南相馬市立総合病院の食品は3月15日に尽きてしまいます。震災前に12人いた医師も、一時4人にまで減ってしまいました。

病院の患者の中でも、元気な人は早々と避難しました。結局、病院に残った患者はお年寄りだけになったわけです。これは南相馬の病院や老健施設に共通の問題でした。この方たちの何人かが、病院から避難先に搬送される途中や搬送後に亡くなっています。後で高い放射線にさらされていたことが分かった飯舘村などは、むしろ避難しなかったために亡くならずに済んだお年寄りがいるはずですから、これは非常に微妙な問題をはらんでいるわけです。

とにかく、南相馬市で起きたことは、最も悲惨な状態に置かれたのはお年寄りなど自力では避難できなかった方々といえます。医師や記者が屋内退避指示以降、入って来なくなったのは、組織に属する人間として、例えば組合問題なども絡み動けなかったと思われます。しかし、放射線について分かるわれわれプロは、放射線の量はそれほど危険とは思っていませんでしたから、現地に入ることに逡巡しなかったわけです。

―先生方の活動について伺う前に、南相馬市や相馬市の置かれた特異な地理的状況のようなものはあれば、教えてください。

福島県というのは、会津藩が薩摩・長州藩主体の新政府軍と戦って以来、明治以降、痛めつけられて来た歴史があります。これが医師の数にまで表れています。福島県の人口1,000人当たりの医師数は1.7人で、メキシコやトルコと同程度。相馬市や南相馬市が含まれる「浜通り」と呼ばれる太平洋沿いの地域は、もともと1,000人当たり1.1人という少ない医師数が、地震後はさらに0.5人に減ってしまいました。この数字は東南アジア並です。医師の養成機関が東日本は少なく、戦前、東日本で医学部があった大学、医科大学は、東京都除けば、北海道、東北、千葉、新潟の4カ所にすぎません。このうち、北海道は薩摩が中心になって開発した地域です。これが医師数の差につながっています。社会的インフラがもともと貧弱なところで、医療の専門家が少ないことが、今回の地震でボトルネックとなったのです。そこを何とかしないことには日常が動きません。そこがわれわれの仕事となりました。

(続く)

上 昌広 氏
(かみ まさひろ)
上 昌広 氏
(かみ まさひろ)

上 昌広(かみ まさひろ)氏のプロフィール
兵庫県出身。灘高校卒。1993年東京大学医学部医学科卒、99年東京大学大学院医学系研究科修了、虎の門病院血液科医員。2001年国立がんセンター中央病院薬物療法部医員、05年に東京医科学研究所に異動。現在、先端医療社会コミュニケーションシステム 社会連携研究部門特任教授として、医療ガバナンス研究を主宰。

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