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しんがり務める人多い社会に(鷲田清一 氏 / 前大阪大学 総長、大谷大学 文学部 教授)

2011.11.21

鷲田清一 氏 / 前大阪大学 総長、大谷大学 文学部 教授

サイエンスアゴラ2011開幕シンポジウム「私たちにとって科学技術とは何か - 震災からの再生をめざして」 (2011年11月18日、科学技術振興機構 主催)基調講演から

前大阪大学 総長、大谷大学 文学部 教授 鷲田 清一 氏
鷲田清一 氏

 東日本大震災によって、科学者、官僚、技術者など専門家といわれる人たちへの信頼というものが非常に大きなダメージを受けた。自分の専門以外のことについてはいい加減な発言はしない、その代わり自分の専門のことに対しては他の専門の人には口を出させない。このような専門主義をまるで専門家の美徳のように考え、そういう美徳があって信頼が生まれると考えてきたことが限界に来ているのではないか。今回の原発の事故などで明らかになったことは、実は復興に当たってどういう装置や技術開発が必要かについてだれが決定し、だれが責任をとるか、その仕組みについてこんな大事な場面でもなかったということだ。

 科学者は専門家同士の議論においても、私は電気の専門だから、システムの専門だからここまでしか言えない、ということで結構隙間があったのではないか。原子力を推進するか、あるいは廃炉までどのようなプロセスで持っていくかといった問題になると「政策的判断だから私は何も言えない」と科学者は言い、一方政治家、官僚の方は「専門のことは科学者が見解出してくれないとわれわれは何もできない」と言う。さらに一般の人は、「とにかく素人だから難しいことは専門家に任せるほかない」と言ってきた。それぞれ「自分はここまでしか判断できない、責任はとれない」と言って、トータルな問題に関しては人に判断を任せるという構造になっていたのではないだろうか。

 複合的な技術というものは、原発に限っても、安全性、コスト、環境への影響、経済的基盤の維持といったさまざまな問題を抱え込んでいる。トータルな価値判断、選択をしなければならないのに、専門家はトータルな判断、全体への目配りをそれぞれ放棄してきたのではないだろうか。社会の歴史的水準、歴史的脈絡など全体を見据えた上で、自分の専門として言えることをきっちり言う。それが真のプロフェッショナルだ、と私は思う。

 一方、専門家という人たちに対する失望、不信が高まったことは、市民が専門家に問題を預けてきたことの裏返しでもある。

 私たち市民も含め、科学者も技術者も政策決定をする役人も、部分的な知識、限られた視点しか持っていない。常にお互い議論することが必要で、自分が素人で相手が専門家の場合は、時にセカンドオピニオン、サードオピニオンも聞いていく機会と仕組みがこれからの社会では必要になってくると思う。原発のような科学技術を巡る複合的な問題が起きた時は、あちら立てればこちら立たず、といろいろな問題が起きてきて、正解を一つ取り出すことはできない。さらにコミュニケーション、対話をすることでますます問題の複雑さが増大してくる。しかし、それにきちっと耐えて、議論を通じ、現下の短期的ニーズにこたえるのではなく、私たちの将来にとって大切なこと、大事なことを議論の中からつかみ取ってゆく仕組みが必要ではないだろうか。

 今回の原発事故で、われわれの世代は次の世代に、放射能汚染というはずせない枠をはめてしまった。放射能汚染を抜きに次の世代の生活は考えられない。次世代の生活というものに対する想像力を、われわれはたくましくしないといけない。

 最近、書店に行くとリーダー論について書かれた本がたくさん並んでいる。しかし、リーダーがどういう人かは大事な問題ではない。むしろリーダー論がはやる時代は大変危ない。リーダーはほんのちょっといればよいのに、誰もが、自分がリーダーになりたいと思う社会はもろい。皆が部分的な知識しか持ってなく、皆が未知の作業に入っていこうという時に、リーダー論を読んで、その通りやろうという人がリーダーになれるわけはない。前例踏襲はできるが、新しい社会生活の知恵を切り開くリーダーになるはずがない。

 今大事なのはリーダーがどういう人かではなく、賢いフォロワー(随行者)がどれだけいるか、ということだ。全体を見渡し、何か見落としていないかという視点をリーダーではなく、フォロワーが持たなくてはならない。なぜかというと、市民生活の議論は政治家という職業専門家がやるのではなく、地域で、あるいは大きな都市計画の中でそれぞれ本業を持っている人が市民として登場し、本業の外で議論する必要があるからだ。

 リーダー、インストラクター(指導者)は、絶えず入れ替わらないといけない。フォロワーが、とりあえずやってほしいという人をリーダーに推戴し、支え、リーダーに無理がかかっていないか、見落としはないか、脱落者はいないかあるいは組織に無理がかかっていないかといった全体を見渡す目、責任は、フォロワーが握っている。つまり、そういう賢いフォロワーが一人でも多い社会が成熟した社会だ。

 こうしたフォロワーシップが大事だということは、昨年亡くなった梅棹忠夫先生の生前、最後のインタビューをまとめた本(注)の最終ページでも見かけた。先生は、これからの私たちが持つべき心がけとしてこんなことをおっしゃっている。

 「請われれば一差し舞える人物になれ」。人から頼まれたら全部やらなくともよいが、せめて一差舞えるくらいの人物になれ、ということだ。これはリーダーとフォロワーが絶えず入れ替わる市民社会の活動、議論の中で、「請われれば一差舞う」つまり短期間リーダーの役割を果たせるよう日ごろから努力しておけ、ということだと思う。

 梅棹先生の言葉から考えたのが、フォロワーシップであり、もう一つは「しんがり」という言葉だった。どう考えてもこれからの日本社会はある種の退却戦、後退戦を強いられる。これまでのような経済成長は絶対にありえない。そういう時、一番大事な役柄は、退却戦の先導役ではなく、しんがりを務める人だ。脱落者はいないか、皆、安全なところへ逃げたか、を確認してから自分も退却する。登山でも、脱落者がいないか、隊列が離れすぎていまいか、しっかり確認する最後尾が一番屈強な人が担うという。

 よきフォロワーになり、場合によっては自分がしんがりを務める。そういう人が1人でも多くなる社会をつくっていくことが、大事ではないだろうか。

 (注)「梅棹忠夫語る」(聞き手 小山修三、日経プレミアシリーズ)

前大阪大学 総長、大谷大学 文学部 教授 鷲田 清一 氏
鷲田清一 氏
(わしだ きよかず)

鷲田清一(わしだ きよかず)氏のプロフィール
京都教育大学付属高校卒。1972年京都大学文学部哲学科卒、77年京都大学大学院文学研究科哲学専攻博士課程単位取得満期退学、関西大学助教授、教授などを経て92年大阪大学文学部教授、96年同教授、2003年大阪大学文学研究科長、文学部長、04年理事・副学長、07-11年大阪大学総長。11年9月から現職。専門は臨床哲学、倫理学。著書に「分散する理性―現象学の視線」(勁草書房)、「モードの迷宮」(中央公論社、ちくま学芸文庫)、「『聴く』ことの力―臨床哲学試論」(TBSブリタニカ)、「『ぐずぐず』の理由」(角川選書)など多数。

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