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国の発展段階に合わせた診療を

腹腔鏡手術のパイオニア、2007年本田賞受賞者 フィリップ・ムレ 氏

掲載日:2007年11月22日

本田賞授与式(2007年11月19日、本田財団主催)受賞講演から

腹腔鏡手術のパイオニア、2007年本田賞受賞者 フィリップ・ムレ 氏

フィリップ・ムレ 氏

 

腹腔鏡を使った手術は、もっと人の心を思いやる手術を行うよう外科医たちに促す試みとも言える。外科手術は、人体という自然の一体性を侵すことなしに成立しない行為だ。腹腔鏡技術が普及したことで、医師たちは初めて自然の摂理に向き合い、それを尊重するエコロジックな態度をとりはじめた。

私は医者という仕事が好きだ。好きというより崇拝していると言った方がいいくらいだが、手術行為の攻撃性だけはどうしても好きになれなかった。手術とは患者の体内を戦場として、病理という敵と闘う戦争といえる。しかし戦争はあくまで手段であって目的ではない。戦争はしないことが先決で、どうしても避けられない場合は、戦闘はなるべく限定的に行う必要がある。そして勝つために最適化した手段を段階的に効率的に投入すべきだ。

私が外科医の姿勢で我慢ならない点が2つある。ひとつは手術の救命能力を疾病予防に応用しようとする姿勢だ。何らか疑わしい症状があればすぐ手術を行う予防的虫垂切除手術が典型的な例だ。もうひとつは主に緊急治療の場面で病状の診査に手術を利用する姿勢、いわゆる診査的腹腔鏡手術である。

私は腹腔鏡手術を全く新しい手術概念とは考えていない。むしろ従来の手術の侵襲性、というより攻撃性を緩和する補助的な手段と考えている。その目的は必要最小限の切開を行い、切開時間の苦痛を和らげることにある。このようなやり方で1983年に最初の腹腔鏡下虫垂切除手術を行い、87年に最初の腹腔鏡下胆のう摘出手術を行った。

世界最初の腹腔鏡下胆のう摘出手術が周知されて以来、腹腔鏡手術は爆発的に普及した。かつての拒絶の日々が何だったかと思うほど、信じられない勢いで受け入れられた。外科医界は何の制御も行わず、そしておそらくは十分な教育も施さぬまま、腹腔鏡下胆のう摘出手術が開いた道に殺到した。

その後の発展のスピードは驚嘆に値する。当初の私は胆のう摘出手術が最高に難しい手術だと考えていた。20年に及ぶ毎日の腹腔鏡利用で培った手技だからだ。しかし、4年足らずの間に、腹腔鏡手術の適用領域は胆のうから腹部のおもな器官全般に及び、しかも腹腔鏡のトレーニングを受けたての医師が施術する時代に入った。私の謙虚さの報いがこの有様というわけだ。

私個人は、最高度の手術よりも、もっと難易度の低い、通常の場面でこそ腹腔鏡手術のメリットが生かされるのではないかと考えている。最高度の治療には最高度の技量を持った医師が臨まなければ、本来のメリットが発揮されない。腹腔鏡手術は手品ではないので、結果は術者の技能レベルに大きく左右される。この点に関しては医療産業の利益が重要なかぎを握っている。

トレーニングの充実は、間違いなく医師全体の技能向上に役立つだろう。とはいえ産業主導のトレーニングは医師のスキル向上より、技術の改良や革新を指向するのも事実だ。技術改良は基本的な腹腔鏡技術の普及に結びつくよりは、機器メーカーの直接収入に結びつく傾向が強い。このままでは、技術の研究開発が腹腔鏡手術のコスト的敷居をどんどん引き上げ、開発途上国への普及を妨げることになる。現在私が懸念しているのはこの点だ。だから、発展段階の違う国で同じ開発戦略を採らぬよう強くメーカーに働きかけている。 自動車産業は、途上国では、なるべくシンプルでメンテナンスがしやすい旧型モデルの製造工程を導入し、安い価格設定をする戦略で成功を収めている。腹腔鏡診療の世界も同じようになることを願っている。

腹腔鏡手術のパイオニア、2007年本田賞受賞者 フィリップ・ムレ 氏
フィリップ・ムレ 氏
(Dr.Philippe Mouret)

フィリップ・ムレ(Dr.Philippe Mouret)氏プロフィール
1957年フランス・リヨン大学医学部卒業、リヨン病院勤務医試験合格、60年リヨン病院研修医試験合格、66~70年リヨン病院外科助手、68~2001年リヨンで開業医、81年からイタリア・トリノの個人病院勤務。2000~06年ベトナムのハノイ・フレンチホスピタルで嘱託勤務のほか、実践教育プロジェクト「Into The Field」の一環としてインドの「Krishna Hospital in Arnad」に出向。本田賞の授賞対象業績となった腹腔鏡下胆のう摘出手術(1987年)は、2年足らずのうちに米国で採用され、92年には米国立衛生研究所(NIH)が、胆石の標準治療法であるとの統一見解を公表した。

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