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2011年7月16日編集だより

小岩井忠道

名前は知っているけれど歴史などはさっぱり…。神田明神もそうした場所の一つだった。その中の施設、明神会館内で開かれた「江戸唄と落語を楽しむ~江戸夏粋賑噺~」で、しばし忘れかけている昔の日本人の心意気に触れる。

邦楽家、西松布咏さんの江戸唄をたっぷり一時間、続いて春風亭正朝さんの落語「唐茄子屋政談」も割愛なしに約1時間じっくり楽しむ、というぜいたくな催しだ。布咏さんの演奏にはこれまで何度も触れる機会があり、芸域の広さだけでなく、さまざまな分野の芸術家とも積極的に競演する果敢な精神に感服してきた。芸に確たる自信があるからに違いないが、さらに新しいものをという強固な向上心に、怠け者としてはただ驚くばかりだ。

わが方の心がけは変わりようもなく、毎回予習復習一切なしで観賞するから、いつまでたっても初心者でしかない。今日のような小唄、端唄とよばれる領域は、何とかついていけるかもという気に、というところだろうか。「鐘の中にもいらないかねは かねがね気兼ねに あの明けの鐘」「…うちのひと …他所のひと どちらでもない あなたとあたし せめてしるしの 対浴衣」などという詞に、にんまりする。

4月に開かれた布咏さんのお弟子さんたちの発表会「美紗の会一門演奏会」で、女優のかたせ梨乃さんが唄った詞にも愉快なのがあった。「あまり辛気臭さに 棚の大だるまをちょいと下ろし 鉢巻させたり まま蹴飛ばしてもみたり…」

小唄も端唄も三味線と一体だから、詞は面白さの一面でしかないはずだ。全体として感じ取るべき魅力とは何か。残念ながら実はよく分からない。

端唄、小唄、新内小唄ばかりの演奏を聞くうちに、ふと思い出したことがある。藤山一郎氏が健在だったころのNHKのテレビ番組だったと思う。氏のヒット曲「影を慕いて」(古賀政夫作詞・作曲、1932年発売)の1番と2番を、五木ひろしと森進一が歌い継ぐというぜいたくな場面があった。藤山氏を知る人なら先刻承知だろうが、テンポは結構早く、どちらかというと軽やかとも思えるように歌っている。これに対して、五木ひろしと森進一はそれぞれ思い入れたっぷりという歌い方だった。

「2人の歌を聞かれていかがですか」。司会者の問いに対する藤山氏の答えが面白い。「私たちのころは、レコード1面の録音時間は○分○秒しかない。とにかく時間内に3番まで歌い終わらなければならなかった」。要するに2人のようにゆっくり歌うなんて最初から許されなかった、ということだ。

演奏時間が時代とともに長くなる傾向は、西洋のクラシック音楽にも言える、と昔何かで読んだことがある。確か歴代の指揮者による演奏時間をレコードで比較するとそういう傾向が見られるということだった。じっくりと聞かせたいと思う結果、演奏時間も自然に長くなってしまう。そんな誘惑に高名な指揮者たちも抗(あらが)えなかった、ということだろうか。

布咏さんの唄い方で具体的に勉強になることがある。「もうちょっとまともな所を聴きとって」と言われそうだから、ご本人に話したことはない。最近、他人のカラオケを聴いて時々感じることと関係がある。場数を踏んでいる人が多いからだろうが、昔に比べると素人でもうまい人は増えた。しかし、まれにそうでない人もいる。例えば最初から最後まで目いっぱい声を出し続けたり、語尾を延ばしがちに歌う人たちだ。語尾をぎりぎり延ばすのもたまにはよいが、たびたびだと気になる。むしろ、最後の音をスーッと短く、かつ静かに吐き出すように終わる時もあった方が快い…。今回も布咏さんの唄を聴いて、なるほど、と思える時がしばしばあった。

事実を伝えるだけの文章でも平板なのはよくない、とあらためて自戒するとしよう。

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