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2011年7月2日編集だより

小岩井忠道

今の高校生、大学生やその親たちの多くはきょとんとするかもしれないが、「理工系志望の高校生は、おおむね成績もよい」とみられていた時代があった。昨年、ノーベル化学賞を受賞された鈴木章・北海道大学名誉教授が、理学部化学科の助手から工学部に新設された合成化学科の助教授になったのは1961年だそうだ。「朝鮮戦争が終わった後で、重化学工業時代が日本にやってくるから化学を重視しなければならない、と文部省(当時)が各大学に新しい化学系の学科をつくった。その一つが北大工学部にできた合成化学科だった」という(2010年11月10日ハイライト・鈴木章氏「化学の世界はまだまだ広い」第1回「有機化学の道選ばせた2冊の本」参照)。

美輪明宏が自ら作詞作曲して歌った「ヨイトマケの歌」が大ヒットしたのは、1964-65年のこと。この中に「高校も出たし大学も出た 今じゃ機械の世の中で おまけにぼくはエンジニア 苦労苦労で死んでった 母ちゃん見てくれこの姿」という歌詞がある。

編集者が高校生だったのは61-64年だから、鈴木氏が合成科学科の助教授になり、「ヨイトマケの唄」が生まれた時期に重なる。理工系卒がもてはやされ、理工学部への進学が格好良く見えた時代で、比較的成績のよい高校生に理工系志望が多かった、ということだろう。無論、それでその後の人生が恵まれたものだったかどうかは別問題だ。理工系学部に進学したものの、すぐに何をしたいのか分からなくなった。そんな編集者に、どちらがどうだとか言える資格はない。ただ社会人になってすぐに驚いたものだ。マスコミ業界どころか日本社会全体がおそろしく文科系卒が優位であることを知って。

青少年たちにそうした実態も知らせないと、文科系に相応の質と量の人材が配置されない恐れはないだろうか。そんなことを思ったものだ。理系離れ、科学離れなんてことが言われ出すのに時間はかからなかったから、それも無用の心配でしかなかった、ということだろうが。

初夏になると高校3年の時の同級生たちと国立新美術館で顔を合わせるのが、この数年の習慣になった。エレクトロニクス企業を定年退職したのを境にエネルギーを絵画制作に注ぐ同級生の作品を鑑賞するためだ(それだけで解散となるわけはないが)。毎年展覧会で入選を重ね、今年晴れて所属する美術団体(日洋会)の会員になった。「絵の実力で上がれるのはここまでだね。理事とか評議員になるには相当なお金を使わないと駄目だろうから」。お祝いメールを送ったが、会員の上にはさらに委員という階級もあると知り、ピント外れの冗談だったと恥じ入った。

編集者が卒業した高校は、3年になる時に理工系志望者と文系志望者にクラス分けされていた。年に一度の展覧会に集まるのは、同じ理工系志望者クラスだった同級生が大半である。あらためて考えてみたら今年の顔ぶれ8人のうち、実に5人がエレクトロニクス企業を勤め上げた元技術者ばかりだった。今や電気、電子関係の学科は、理工系学部学生に最も不人気ということだから、世の流れを思い知る。

数年前から別の同級生グループが毎年、7月の第一土曜日に開いている会にも呼ばれて参加するようになった。こちらは文系志望者のクラスだ。同じ同級生でもだいぶ違う。まず理工系志望クラスの同級生は、大半が典型的な会社人間といってよい。郷里を離れ、一時の海外勤務なども経験して結局、首都圏で暮らすデラシネのようなものだ。しかし、文系志望者のクラスとなると仕事もさまざまだし、郷里に根を張って仕事をしている人間が何人もいる。飛び交う話もまたいろいろで面白い。今回の地震では、郷里勢はそれぞれ相当な被害を受けているから、その経験談もニュースで見聞きしているのとは違って、それぞれ真に迫っている。

東京にたまたま仕事で来ていて地震に遭った同級生の話も面白かった。その日は都心の娘のマンションに泊まったが、翌日はどうしても茨城の自宅に帰らなければならない用件がある。電車は松戸までしか動いていないので、そこから先は歩くほかない。柏だか我孫子まで来て警察署に電話を借りに入る。親切な警察官があちこち電話を掛けて自転車が買えそうな店を探してくれたが既に売り切れという返事ばかり。ところが、たまたまトイレで話しかけた人が、何と自宅近くまで車で帰る同郷者。「どうぞ乗ってください」となったそうだ。

東京が大地震の直撃を受けた場合、果たして助け合いの精神というのはどの程度、発揮できるものだろうか。編集者自身に関して言うと、はなはだ心許ない。どうも日本は、首都圏に恐ろしく多くの人、もの、機能を集中しすぎてしまった、ということだろうか。

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