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2011年5月18日編集だより

小岩井忠道

親しい後輩を通じて頼まれた話なので断れず、茨城県で開かれた原子力研修というものに参加したことがある。年休を取り1泊2日で出掛けたのだが、やることは最後に10分くらいコメントするだけと現地で知り、驚いた。こういう研修を丸ごと請け負う業者にとって、マスコミ経験者を一人くらい入れておくと、次に同じような仕事を受注すにもなにがしかの実績になるのだろう。そう思って納得したが、「次の北海道もよろしく。2泊3日になりますが」という依頼は無論、断った。そこまで無償で協力するほど人はよくないし、疑似記者会見など研修の内容があまりにばかばかしくて2度と付き合う気がしなくなったからだ。

深刻な事故ほど、原因が単純か、複雑かにかかわらず、対応は難しいに違いない。経験のない事故が起きた時の対応に、マニュアルなどあるはずない。実際にそう思っている人が普通ではないだろうか。研修を請け負う業者も、おそらく順番で研修に参加した側も、真剣にやれと言っても無理というものだろう。参加した研修会もどこかしらけた雰囲気が感じられたものだ。

福島第一原子力発電所の苦境を毎日、政府や東京電力の公表資料で追い続けていると、ほとんど忘れかけていた昔の取材経験が思い出される。関係の官庁、独立行政法人(当時は特殊法人と呼ばれていた)、電力会社どこもかしこも、原子力のことについてはよけいなことは言わない、という姿勢が徹底していた時代だ。とにかくちょっとした事実関係を聞き出す、あるいは確認するだけでもおそろしく時間がかかる。政官の利害が一致しているから、官僚は自民党ににらまれたらえらいことになるけれど、報道機関に嫌われたところで何も困ることはない。重要課の課長なのに、記者クラブのレクチャーは課長補佐に任せて一度も記者クラブの会見場に顔を出したことがない。そんなことが許された時代である。

国内に原子力発電所ができた当初、事故時の周辺住民対策はどう考えられていただろうか。何もなかったのである。1979年に米スリーマイルアイランド原発事故が起き、科学技術庁(当時)も「日本では起こらない」と強調しつつ、何の用意もないのはまずいとなったらしい。原子力安全委員会の下に原子力防災専門部会をつくり、検討を開始した。検討の途中経過を説明するなどという気は役所にはまるでないから、ほかの社より早く内容を報道したいと思えば、何か手を打たないとならない。

ある日の夕刻、そろそろこの日の専門部会会合で事実上内容が決まるとみて、科学技術庁の玄関で待っていると、委員の東海村村長が出てきた。重そうなかばんを提げているので「お持ちします」と言って、地下鉄で上野駅まで送り、そのまま常磐線のグリーン車に乗り込み、車中で内容を教えてもらった。

「避難計画を義務づけられるのは実に迷惑。避難訓練もしなければならなくなるが、年寄りが訓練で転んでけがでもしたら、村で補償しなければならない」。村長の言葉に一々相づちを打ちながら、最後までもめたのが、防災計画の策定を義務づける区域をどのくらいの広さにするかだったことを知る。原子力発電所によっては立地条件がさまざまで、市街地との距離が短い原発ほど対象となる住民の数も多くなり、それだけ自治体の負担も大きくなるからだ。結局、原発から約8-10キロという幅を持たせた数字で決着した、ということだった。

東海村で下車した村長と別れ、日立の祖母宅に一泊した。パソコンどころかファクスすら珍しい時代だから、記事は翌日、帰京してから書いたことを思い出す。

さて、どうしてこんな取材が可能だったか。川崎東海村村長(当時、故人)は、編集者の高校の運動部の33年先輩だったのだ。編集者が高校3年の時、バスケットボールの県大会で優勝し7年ぶりでインターハイに出場となった。マネージャーが寄付をもらいに村役場まで出掛け、大枚5,000円の寄付をいただいたことがある。無論、そんなことはとっくに大先輩は忘れていたが、思わぬところで丁重にお礼を言われ、観念したのだと思う。「報告書の中身を教えないわけにもいかんだろう」と。

この編集だよりを書くため、あらためて原子力安全委員会の指針「原子力施設等の防災対策についてを読み返してみた。1980年6月に決められて以来、10回にわたって改訂されているが「防災対策を重点的に充実すべき地域の範囲」については、「原子炉施設から半径約8-10キロ」を目安とするという数字は31年前と変わっていない。今、福島県で起きている事態をみれば、この数字がどの程度の意味を持っていたか、よく分かるというものだろう。

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