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2010年7月28日編集だより

小岩井忠道

米映画「エデンの東」の監督、エリア・カザンは、この作品の有名な主題曲を話題にされるのを嫌がった、という話を昔、何かで読んだことがある。最も有名な映画音楽の一つというのが大方の評価だろうに、なぜだろうか。映画作品の善し悪しは、何よりも演出(監督)の出来不出来で評価されるべきだ。そうカザン監督が信じていたから、と考えると分かるような気もする。

桜田門外ノ変」(佐藤純彌監督)の試写(7月25日)の感想を、しつこいようだがもう一度。幕藩体制から明治新体制への動きが、大儀や正義をめぐる争いであるとともに、すさまじい権力闘争にほかならなかった、と思えば監督の意図も分かるような気がする。「時代の波に否応なく巻き込まれていったものたちの悲劇ととらえながら描いていきたい」(同作品パンフレットから)という。

太平洋戦争以前にも、日本人が人を簡単に殺し、殺されてしまう時代があった、ということをあらためて考えさせられた。拷問や斬首など目を背けたくなるような場面も多い。吉村昭の原作にも井伊大老派と水戸藩改革派を初めとする尊王攘夷派、さらには水戸藩内の改革派と門閥派の対立の中で拷問が当たり前のように行われていたことを示す記述がよく出て来る。安政の大獄で「切腹」の刑に処せられたはずの水戸藩家老、安島帯刀は実はそうではなかったという。かごに乗せられ伝馬町牢屋敷の仕置場へ着くと、かごごと急に旋回させられ目を回したところを小役人にかごの外に引きずり出されて斬首されたというのだ。

にっくき尊皇攘夷派とはいえ、徳川御三家の家老に幕府の小役人がいささかの敬意も払わないとはなあ。暗い気分になったが、さらに安島の死体には拷問を受けたと推定される多くの打傷が額にあった、というのには滅入る。拷問を加えた上、さらに切腹を許さず首を切り落とすというのでは、大老暗殺とはまた別種の無法ではないだろうか。

「桜田門外ノ変」のついでに古い映画である「エデンの東」を思い出したのは、この日、岩波ホールでフランス映画「パリ20区、僕たちのクラス」を観たからだ。全く演技経験がない教師と生徒たちによる中学校の教室での出来事をドキュメンタリーのように描いた。プログラムのこうした説明を読むと、2008年のカンヌ国際映画祭で最高賞(パルムドール)に輝いたという評価も納得できないこともない。

だが、予備知識なく観たらどうだろうか。編集者のようにあれこれ悩む人間も多いのでは、という気がする。結局何を言いたかった作品か、何とか分かったとしても、しばらく、時間がかかりそうだ。

ドキュメンタリーと多くの人が思った作品というだけに、最後も静かなものだった。出演者の名前などが並ぶ字幕が下から上に流れる画面に、音楽はない。「桜田門外ノ変」は、中国人女性歌手alanが歌う「悲しみは雪に残る」(伊勢正三作詞、長岡成貢作曲・編曲)という主題歌が最後の字幕とともに流れていた。この歌手は、中国映画「レッドクリフ」パート1パート2主題歌も歌っていたそうだ。

音楽といえば、女主人公が歌う主題歌が作品の中で重要な役割を果たし、主題歌自体も大流行した。そんなヒチコック監督の映画があったが、作品の最後に流される主題歌の役割とは何なのだろう。最近の映画は、最後の字幕に恐ろしく大勢の協力者や協力団体の名前が表示されるのが普通だ。そこに、相当制作費用もかけた主題歌が流れるのは、観客サービスとしては理にかなっているようにも思える。

全く音楽なしの終わり方をした「パリ20区、僕たちのクラス」のスタイルを好むか、最近流行の方をとるかは、詰まるところ観客次第ということだろうが、気にかかるのは監督たちの真意である。作品全体の印象が最後、それもわずか数分の主題歌によって左右されかねないことに、本当に納得しているものだろうか。

歌詞の付いていない主題曲にすら不満だったらしいカザン監督のことを、ふと思い出したというわけだ。

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