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2010年7月17日編集だより

小岩井忠道

3連休は不義理のおわびにあてよう、とまず山形県酒田市に出かけた。庄内地方を拠点にユニークなジャーナリスト活動を続けた水戸部浩子さんの遺影が飾られた仏壇に手を合わせる。

「いまだに大津波に襲われた後のような気持ちのままで…」。夫の医師、勝幸さんの言葉が胸に響く。水戸部さんと知り合ったのは、20数年前、山形市出身の著名な免疫学者、石坂照子さんを介してだった。全国紙の山形版に「山形の女」という記事を連載していた水戸部さんが、帰国中の石坂さんに取材した際にいい写真を取り損ねたらしい。石坂さんは夫の公成氏共々、当時、米ジョンズ・ホプキンズ大学の医学部教授だった。米国に戻ってしまった石坂さんに相談したら、編集者の名前を挙げて「前に取材を受けた時に写真をたくさん撮っていったから何枚かもらったら」と言われたので、ということだった。

それを機に東京で何度も会ったほか、酒田や山形市へ呼ばれたりして「つかず離れずの関係」(ご当人の弁)が続いた。勝幸氏も同様だが、金銭欲や権力欲といったものにはまるで無頓着な人だ。「こんな催しあるからぜひ来てよ」と誘われて出かけ、ホテルに泊まると事前に支払いが済んでいる。いつもそれで困った。最近しばらく会っていないなあ、と気になっていたら、この2月、亡くなったという勝幸氏からの手紙である。

東京に帰るというお嬢さんを庄内空港まで送った後、勝幸氏行きつけという居酒屋に案内された。氏は故人とは正反対で全くの下戸だ。ところが面白いことに、日本酒の味はよく分かるという。酒田の銘酒「上喜元」についての話が傑作だ。ある時、一口含んで「これはうまい」と分かり、100本注文する。奥方と相談し、世話になった人たちに送ろうとなったから、という。ところが届いた酒を一口飲んでみて「これは注文した酒と違う」とたちどころに気づく。蔵元に連絡したら、まさにその通りだった。社長が恐れ入って正しい酒を100本ただで送ってきたため、一時、部屋中「上喜元」だらけになってしまったそうだ。

さて、この話の続きがさらに面白い。勝幸氏が札幌医科大学生だったころ、教授の知人で世界各国の人々の味覚を研究しているオーストラリア人が訪れた。学生たちからデータを得るためだ。勝幸氏だけが、酸味に際だって敏感という特異なパターンを示し、家族も調べさせてほしいとなる。その結果、家族の半数が氏と同様の特徴を持ち、それは母親から伝わったものだと判定される。日本では10万人に1人くらいにしか見られず、イルクーツク付近の人々に多く見られる特徴ということだったという。

「言われてみると母親の顔つきは、確かにイルクーツク辺りがルーツかと思わせる特徴がある」。勝幸氏の言葉から、話はなぜイルクーツク付近の人々が酸っぱい味に敏感なのか、に発展する。「年中、食い物が豊富な地とは思えないので、保存品に頼る度合いが大きかったのではないか。となると動物の肉などが腐っているかどうかの目安になる酸味には特別敏感にならざるをえなかったのでは」。思いつきを口走ったら、「実は子どものころから、ご飯を食べると微妙な違いがすぐ分かった。炊いてからどのくらい時間がたっているかなどを言い当てて、母親に驚かれていた」。幼少時の興味深い話を披瀝された。

水戸部浩子さんが亡くなったのは2月3日だった。親しい友人、知人があまりに多いせいだろう。葬儀・告別式は1カ月後の3月8日に酒田市内で行われた。これにはどうにも都合が付かず失礼してしまった。当日、参列者に配ったという資料を勝幸氏からいただいて読むと、大勢の人たちからのお悔やみの言葉が掲載されていた。

最初に元国土交通相、冬柴鐵三氏の名前がある。故人は全国109水系のうち100水系を20年かけて歩いており、「名川紀行」上、中巻(日刊建設通信新聞社)にまとめているほか、大著「月山ダム物語」上下巻(みちのく書房)も著している。考えてみれば何の不思議もないが、国土交通省社会資本整備審議会河川分科会の委員を務めていた、と初めて知る。冬柴氏とはそれがきっかけで親しくなったようだ。

「河川分科会で、年をとると女性だって化粧がうまくいかないという例えを言った。それが川辺ダムを造るかどうか大問題になっている熊本県の人たちの反発を呼んだ。自宅に抗議の電話が何度もかかってくるなど、抗議行動を受けた。そのころから体調もどんどん悪くなった」。勝幸氏の淡々とした口調に無念の思いがにじむ。

告別式では、冬柴氏を初め、5人の親しい人たちが弔辞を述べたが、5人とも途中で涙をこらえられなくなったそうだ。

勝幸氏からいただいた資料には、水戸部さんと親類のような付き合いをされていた免疫学者、多田富雄氏の弔電も掲載されていた。

「浩子さん、僕は悲しいよ。あなたがこの世に居なくなるなんて。今度こそ作品を見せ合って、いい仕事をしたいと思っていたのに無情なものだ。僕も間もなく行くと思うから、そちらで待っててください。それまでバイバイ。その時は、ゆっくり語り明かそう。時間が無限だから。それまで夢を見て待っててください。さようなら」

多田氏が亡くなったのは、水戸部さんの2カ月半後だった。

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